【完全解剖】ナポレオンの「第一次イタリア遠征(1796年~1797年)」


本記事ではカンポ・フォルミオの和約で幕を閉じる「第一次イタリア遠征」について時系列に沿って経過をまとめまています。

第一次イタリア遠征は「モンテノッテ戦役」、「ロディ戦役」、「マントヴァ要塞攻囲戦と第一次教皇領遠征」、「カスティリオーネ戦役(ガルダ湖畔の戦い)」、「バッサーノ戦役」、「アルコレ戦役」、「リヴォリ戦役」、「第二次教皇領遠征」、「最後の戦役」という数々の戦役を経て「レオーベン条約」で一時的に休戦し、その後も前線では一触即発の緊張状態が継続されながらも「カンポ・フォルミオ条約」の締結によって終了します。

レオーベン条約締結からカンポ・フォルミオ条約の締結までの間もフランス内部では共和派と王党派の対立(フリュクティドール18日のクーデター)などがあり、軍の足元も盤石なものではありませんでした。

ナポレオンがイタリアに派遣されて軽快に快進撃を続け、さらっとサルディーニャ王国とオーストリア帝国を下してイタリアを征服したと思われがちですが、ナポレオンは新婚ほやほやにも関わらず大好きな妻と離れ離れとなり、途中、政府の愚かな考えに総司令官を辞めようか悩み、オーストリア軍の勢いが凄すぎて弱気になって撤退すると言い出したりしていました。

そんなナポレオンがフランスの英雄に駆け上がるエピソードです。

フランス軍側だけではなく、オーストリア軍側の戦略、周辺国家の動向も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたので「第一次イタリア遠征」についてめちゃめちゃ詳しく知りたい人や戦略好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。

第一次イタリア遠征 01 モンテノッテ戦役

モンテノッテ戦役

1796年3月9日にジョゼフィーヌとの結婚式を挙げたナポレオンはすぐにイタリアに旅立ち、途中家族の元に寄りつつ、3月27日にイタリア方面軍の本部のあるニースに到着しました。

イタリア方面軍は武器、弾薬、服、靴、食糧が不足しており、給料も遅滞していました。

ナポレオンはこの飢えてボロボロの兵士達を導くには勝利して奪うしかないと考えました。

この時、ジェノヴァ共和国の北にはボーリュー将軍率いるオーストリア軍約32,000人、チェバからモンドヴィにはコッリ将軍率いるピエモンテ軍(サルディーニャ王国軍)約20,000人、プロベラ少将麾下の中間部隊約5,000人、ナポリ王国軽騎兵旅団約1,500人、合計約58,500人がいました。

対するナポレオンは約37,500人の兵力しか有しておらず圧倒的な数的劣勢であり、ピエモンテ軍の位置は把握していましたがオーストリア軍の正確な位置は不明という状況でした。

この状況を打破すべく、以前から温めていた戦略を実行に移そうと分散した軍を集結させるために動き出しました。

そこへボーリュー本体が4月10日夜にセルヴォニ旅団の駐留するヴォルトリを占領したという報告が入りました。(ヴォルトリの戦い

ボーリューの居場所が判明し、同時にオーストリア軍とピエモンテ軍の間には山地が広がっており、これらの軍の間の連絡線は山地を大きく迂回する80㎞以上の道程であることが同時に分かりました。

ナポレオンはこの機を逃さず、ピエモンテ軍とオーストリア軍の連絡が遮断できる地点であるカルカレとデゴに目標を定めて各師団を向かわせました。

この時、オーストリア軍右翼アルジャントー師団がサヴォナに向かって出発し、4月11日にモンテ・ネジーノの砦への攻撃を開始しました。

しかしアルジャントーは兵力を集中させたナポレオンに敗北し、師団は散り散りとなりました。(モンテノッテの戦い

ナポレオンは、その後ミッレージモとデゴに兵力を分散させ、ミッレージモ側ではオージュロー師団が中間部隊である4月13日にプロペラ旅団をコッセリア城で包囲・降伏させ、同時にミッレージモを流れるボルミダ川でピエモンテ軍と対峙し(ミッレージモの戦い)、デゴ側ではマッセナ師団が一度は取り返されたものの4月15日にデゴの占領に成功し(デゴの戦い)、ピエモンテ軍とオーストリア軍間の連絡線を遮断しました。

4月15日、ナポレオンはオージュロー師団をさらに前進させ、コッリが残していった少数のピエモンテ部隊を蹴散らしてモンテゼモロを占領し、チェバに向かいました。

4月16日、オージュローはチェバ要塞で防衛態勢を取っているピエモンテ軍を攻撃しましたが、すべての攻撃が撃退されました。(チェバの戦い

しかし、ピエモンテ軍右翼側からセリュリエ師団が接近し、退路を遮断する機動を見せたため、ピエモンテ軍はチェバ要塞に一部の兵を残し、夜の内にコルサリア川の背後まで後退しました。

コッリはタナロ川とコルサリア川に沿うように防衛態勢を取り、コルサリア川がタナロ川に流れ込む地点周辺を重点的に防衛しました。

4月18日、ナポレオンは最初の攻撃で渡河点を発見しました(サン・ミケーレの戦い)が、その攻撃は撃退され、背後では19日にオーストリア軍がピエモンテ軍と合流するために動き始めていました。

20日夜、コッリはコルサリア川の防衛線を手放し、モンドヴィへの後退を命じました。

しかし21日早朝、コッリの撤退を察知したナポレオンは即座に追撃し、モンドヴィの東側の山地で防衛態勢を築こうとしているピエモンテ軍を撃破し、モンドヴィを占領しました。(モンドヴィの戦い

山岳地帯を抜けたナポレオンはセリュリエ師団をクネオに向かわせてデモンテやタンド峠方面を防衛していたピエモンテ軍の後方を脅かしてこれを降伏させ、コッリを追って軍を北上させました。

ナポレオンの脅威に屈したサルディーニャ国王は和平を提案し、ケラスコまで進軍したナポレオンはこれを受け入れ、フランスとって圧倒的に有利な条約を締結しました。(ケラスコの休戦

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第一次イタリア遠征 02 ロディ戦役

ロディ戦役

1796年4月28日、サルディーニャ王国はケラスコの休戦協定により領土の多くを失い、同盟から脱落し中立国となりました。

これによりナポレオンはアルプス方面軍をイタリアに引き寄せ、オーストリア軍と対等に渡り合える状況を作り出しました。

ピエモンテ軍の支援を失ったボーリュー大将率いるオーストリア軍は、イタリア最長河川であるポー河で防衛線を構築するためにアレクサンドリアを放棄して後退しました。

5月6日ナポレオンはヴァレンツァでポー河を渡河すると見せかけてヴァレンツァから約90㎞東に位置するピアチェンツァに素早く移動し、渡河を開始しました。

しかし、渡河中リプタイ旅団が現れて渡河を妨害されましたが、次々とフランス軍が上陸してきたためリプタイ旅団はフォンビオに後退していきました(グアルダミーリオの戦い)。

1796年5月8日未明、ナポレオンはフォンビオにいるリプタイ旅団に夜襲を仕掛け、リプタイ旅団はコドーニョに撤退しました。

その後リプタイ旅団はコドーニョでも追撃を受け、アッダ川の要地をフランス軍に渡すまいとピッツィゲットーネ要塞へ撤退しました(フォンビオの戦い)。

1796年5月8日夜、リプタイの支援のために派遣されたシュビルツ旅団はコドーニョを取り戻してリプタイ旅団と合流するためにコドーニョに駐留しているラハープ師団へ攻撃を仕掛けました。

シュビルツ旅団をなんとか撃退したフランス軍でしたが、暗闇の中誤ってラハープ将軍を銃撃してしまい、ラハープ将軍が戦死してしまいました(コドーニョの戦い)。

リプタイとの連絡が断たれたボーリューは、危険を冒すことを選択せず、アッダ川を渡って後退するためにロディへ向かいました。

5月10日午前、ポー河の渡河を完了させたナポレオンはロディへ撤退していくオーストリア軍の縦隊を発見し、これを追跡しました。

この時、ボーリューは未だアッダ川を渡れていない部隊の回収のため、そしてフランス軍をアッダ川で食い止めるためにセボッテンドルフ師団を後衛としてロディの対岸に残していました。

ナポレオンはロディ市街に残るオーストリア部隊を蹴散らしつつロディ橋のたもとに大砲を並べて前線を築きました。

5月10日夕方、ロディ橋を渡るためにフランス軍の縦隊が駆け出しました。

しかし、オーストリア軍の攻撃は激しく、兵士達は橋を渡るのを躊躇しました。

そこへマッセナ、ダルマーニュ、ベルティエ、セルヴォニ、ランヌ等、上級将校達が先頭に躍り出て「共和国万歳!」の叫び声とともに躊躇していた兵士達を先導しました。

アッダ川の浅瀬が広かったこともあり、フランス軍はセボッテンドルフ師団を撤退に追い込みました(ロディの戦い)。

その後、セボッテンドルフ師団を追跡しつつ5月13日にミラノを占領し(ミラノ占領)、マントヴァ要塞とペスキエーラ要塞のあるミンチョ川で防衛線を構築しようとしているボーリューと戦うために再編成を行ないました。

5月19日、ナポレオンは約30,000人の軍を率い、ミンチョ川に向かいました。

対するボーリューも約30,000人でミンチョ川に防衛線を構築していました。

しかしボーリューはマントヴァ要塞に多くの兵力を配置し、ナポレオンの巧みな陽動により兵力を左右両翼に分散せざるを得ず、そのため中央が薄くなっていました。

ナポレオンはそこを突き、ミンチョ川の渡河を成功させてペスキエーラ要塞を占領し(ボルゲットの戦い)、6月4日にはマントヴァ要塞を完全に包囲しました。(マントヴァ要塞包囲

ボーリューはなんとか軍を統率しつつチロル方面へ撤退し、ロヴェレトで軍の立て直しを図りました。

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第一次イタリア遠征 03 マントヴァ要塞攻囲戦、第一次教皇領遠征

マントヴァ要塞攻囲戦

1796年6月初め、5月30日のボルゲットの戦いに敗北したボーリュー率いるオーストリア軍はミンチョ川流域からロヴェレトへ逃れ再起を図っていました。

一方、ナポレオンは対オーストリアの前線をマッセナ師団、マントヴァ要塞の包囲をセリュリエ師団、未だ一部のオーストリア兵が立て籠もるミラノのスフォルツェスコ城の攻略をデスピノイ旅団に任せ、自身は反乱の鎮圧を支援しつつ、ヴォーボワ将軍とともに教皇領への遠征に向かい、ボローニャでオージュロー師団と合流する予定でした。

6月5日、オーストリア軍の大敗北を知ったナポリ王国はフランスと休戦協定を締結し(ブレシアの休戦)、これにより第一次対仏大同盟から脱落することとなりました。

6月末、イタリア陸軍総司令官としてヴルムサー元帥が任命され、総勢約25,000人を率いボーリュー将軍の一時的な後任であるメラス中将と合流すべくトレントに向かいました。

ナポレオンがボローニャから進軍しイモラを占領すると、6月23日、教皇ピウス6世は戦うことなくフランス軍の圧力に屈し、休戦協定を締結しました。(第一次教皇領遠征

6月26日午前9時、準備を終えたデスピノイ将軍は遂にスフォルツェスコ城への攻撃を開始しました。

城に立て籠もるオーストリア軍は粘り強く抵抗しましたが、6月29日朝、降伏を余儀なくされました。(スフォルツェスコ城攻囲戦

7月に入り、マントヴァ要塞包囲から約1ヵ月が経過しましたが、マントヴァ要塞は降伏する気配を見せませんでした。

7月8日以降、ナポレオンはマントヴァ要塞を陥落させるべく攻撃を行いました。

要塞の前に設置された塹壕地帯で一進一退の攻防が繰り広げられましたが、攻撃は撃退されました。

ナポレオンは砲撃を継続しながら沈黙した砲台の再建を行ない、7月29日、ついにフランス軍のすべての砲台の発砲準備が整いました。

セリュリエが砲撃開始の命令を下すと一瞬にしてマントヴァ要塞全体が炎上し、教会も全焼しました。

翌30日、セリュリエ将軍の元にナポレオンから撤退準備をするよう命じる書簡が届きました。

マントヴァ要塞陥落まで後一歩でしたが、チロル方面ではヴルムサー率いるオーストリア軍がマッセナ師団を破り、大軍を率いて南下していました。

31日、セリュリエ将軍は撤退準備を整えると砲撃を継続しつつマントヴァ要塞駐屯軍に悟られないようマルカリアへ撤退しました。(マントヴァ要塞攻囲戦

翌朝、マントヴァ要塞駐屯軍は包囲していたフランス軍が忽然と消えたことを知ることになります。

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第一次イタリア遠征 04 カスティリオーネ戦役(ガルダ湖畔の戦い)

ガルダ湖畔の戦い

1796年7月中旬、第一次教皇領遠征を終えたナポレオンはヴォーボワ旅団をトスカーナ州リヴォルノに残して北イタリアに帰還すると、マントヴァ要塞の本格的な攻囲に取り掛かっていました。

しかし7月29日午前3時、ついにヴルムサー率いるオーストリア軍はガルダ湖西岸側と東岸側、そしてヴィチェンツァ方面からの3方向に別れて侵攻作戦を開始しました。

ガルダ湖西岸側の兵力は約18,000人、東岸側の兵力は約24,000人、ヴィチェンツァ方面の兵力は約5,000人、合計約47,000人でした。

ナポレオンの元に各前線での敗戦の報が入ると、オーストリア軍の本格的な侵攻が始まったことを確信し、即座に麾下の師団に撤退指示を出しました。

前線を維持して抵抗しつつイタリア最大河川であるポー河を越えて撤退し、ポー河を自然の障壁として防衛線を構築する計画でした。

7月30日午後9時頃、ナポレオンはロヴェルベッラに到着し、レニャーゴから撤退してきたばかりのオージュロー将軍の元に行きました。

オージュロー将軍は全軍撤退に反対し、オーストリア軍に立ち向かうべきであると主張しました。

ナポレオン、ベルティエ、オージュローは情報を共有し意見を言い合う中でオージュローが作戦を提案しました。

それは今すぐロヴェルベッラを立ってブレシアを取り戻してカスダノウィッチ師団打ち倒す。その後マッセナ師団と合流してヴルムサーと決戦を行うという計画でした。

オージュロー将軍の作戦にはいくつかの問題点がありました。

しかしナポレオンはそれを修正しオージュロー将軍の作戦案を採用しました。

その頃ガルダ湖西岸側では第一次ロナートの戦いでの前衛隊の敗北によりカスダノウィッチ師団は進軍を止め、連絡線を遮断されないためにガヴァルドへ後退しました。

翌31日夜、オージュロー師団はヴルムサーに気付かれないようロヴェルベッラを去り、ブレシアへ向かいました。

この時、ほぼ同時にセリュリエ師団がマントヴァ要塞の包囲を中止してマルカリアへ撤退していました。

8月1日、ブレシアを奪還したナポレオンは翌2日にカスダノウィッチ師団とヴルムサー本体の間の中間地点に陣取りました。

8月2日夜から4日にかけてオージュロー師団がカスティリオーネを奪い返してヴルムサーの前進を食い止めている間(カスティリオーネの戦いの前哨戦)に、マッセナ師団がガヴァルドのカスダノウィッチ師団を敗退させてオージュロー師団の元に駆け付け(第二次ロナートの戦い)、フランス軍はカスティリオーネ周辺に、オーストリア軍はソルフェリーノ周辺に布陣しました。

この時点でフランス軍約22,000人、オーストリア軍約25,000人であり、オーストリア軍が数の上で有利でした。

8月5日早朝、カスティリオーネの戦いがついに開始され一進一退の攻防が繰り広げられましたが、午前7時過ぎにセリュリエ師団約5,000人がオーストリア軍の背後に現れて攻撃を開始したことにより形勢はフランス軍の勝勢となりました。

ヴルムサーが軍をソルフェリーノに集結させて撤退を開始した時、ブレシアから来たルクレール旅団約3,000人が戦場に到着し、瞬く間にロッカ・ディ・ソルフェリーノとその周辺の高地を奪取しました。

ヴルムサーは敗走し、ミンチョ川の背後で防衛線を構築しましたが、マッセナ師団にペスキエーラ要塞を突破され、マントヴァ要塞とチロル方面に分かれての撤退を余儀なくされました。(ミンチョ川の攻防

そしてマントヴァ要塞は再びフランス軍の完全包囲下に置かれることとなりました。

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第一次イタリア遠征 05 バッサーノ戦役

バッサーノ戦役

1796年8月、ナポレオンとヴルムサーの状況は両者とも最悪なものでした。

ナポレオン側は補給路が山賊に襲われて一部遮断されて物資が前線に届かず、カビの生えたパンさえも口にしている状況であり、兵力の回復も遅いものでした。

ヴルムサー側もガルダ湖畔の戦いでの敗北で意気消沈し、食糧が足りず自給自足を強いられ、服や靴の不足も深刻でした。

両軍ともとても侵攻できる状況にないように見えました。

そこへ両軍とも本国から侵攻するよう命令が届きました。

ヴルムサーは軍を2つに分けました。

1つはチロル方面の防衛を目的としたダヴィドウィッチ師団約14,000人、もう1つはメサロス師団約11,000人と合流するためにバッサーノへ向かったセボッテンドルフ師団とカスダノウィッチ師団の合計約9,000人でした。

その後、メサロス師団はヴェローナでフランス師団と相対しつつ、セボッテンドルフ師団とカスダノウィッチ師団でマントヴァ要塞を救出し、ミンチョ川を北上してダヴィドウィッチ師団と相対しているフランス軍を挟撃するという計画でした。

そして9月2日正午頃にナポレオンによる侵攻作戦が開始された時、ヴルムサーはすでにトレントを出発してバッサーノへ向かっていました。

ナポレオンはロヴェレトの戦いに勝利し、9月5日にはトレントを占領しました。

ナポレオンはトレントでヴルムサーがバッサーノに向かったことを知ります。

ヴルムサーはチロルに戻ることもできず、バッサーノに向かうしかありませんでした。

ナポレオンはヴォーボワ師団をトレントから北に敗走して行ったダヴィドウィッチ師団と対峙させ、オージュロー師団とマッセナ師団でバッサーノに向かっているヴルムサーを追跡させました。

前衛であるオージュロー師団は9月7日にプリモラーノとコヴォロ砦のオーストリアの防衛線を突破し、9月8日午前7時頃、バッサーノの前に到着しました。

ナポレオンはその勢いのままオージュロー師団とマッセナ師団合計約22,000人で約8,000人のヴルムサー本体を攻撃して敗走させました。(第一次バッサーノの戦い

ヴルムサーはメサロス師団約11,000人を見捨てず、セボッテンドルフ師団とともにフランス軍に包囲されているマントヴァ要塞へ向かい、カスダノウィッチ師団を分離してフリウーリ州へ撤退させました。

ヴルムサーは9月9日正午頃までに軍をモンテベッロに集結させ、レニャーゴへの行軍を続けました。

レニャーゴを占領し、途中、マッセナ師団に先回りされてしまいましたが、何とか突破し、9月12日にマントヴァ要塞を包囲しているソーゲ師団の封鎖網を迂回してマントヴァ要塞に到着することができました。

9月13日、ヴルムサーはチッタデッラ要塞周辺に列を形成していました。

ヴルムサー率いる救援軍がマントヴァ要塞周辺にいることで要塞駐屯軍の活動範囲が広がり、飼料の入手が容易になっていました。

9月15日、ナポレオンはマッセナ師団とソーゲ師団でヴルムサーを包囲して攻撃し、そのためヴルムサーは大きな損害を出しながらマントヴァ要塞内に退避しました。(サン・ジョルジュの戦い

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第一次イタリア遠征 06 アルコレ戦役

アルコレ戦役

1796年9月21日、マントヴァ要塞内に避難していたヴルムサーは要塞南側の地域一帯を勢力下に置き、物資を手に入れるために出撃しました。

周辺の制圧に成功したヴルムサーは、制圧地域を容易に奪われることを恐れてゴヴェルノロ橋の奪還を命じました。

しかしこれらはナポレオンの罠であり、誘い出されたオーストリア部隊は多くの損害を出してマントヴァ要塞に帰還することを余儀なくされ、その後、マントヴァ要塞は完全に包囲されました。(ゴヴェルノロの戦い

一方、オーストリア軍側ではヴルムサー元帥の後継としてアルヴィンチ砲兵大将が救援軍の総司令官となっていました。

10月27日、アルヴィンチは軍をダヴィドウィッチ将軍率いるチロル軍と自らが率いるフリウーリ軍の2つの軍に分け、マントヴァ要塞のヴルムサー元帥との共同作戦を開始しました。

この時点でのナポレオンが有する兵力は、マントヴァ包囲軍を含め約38,000人であり、対するオーストリア軍はチロル軍約19,000人、フリウーリ軍約26,000人、中間部隊約3,000人、合計約48,000人であり、マントヴァ要塞のヴルムサー軍を含めると60,000人を超えていました。

その兵力差は22,000人であり、ナポレオンは窮地に立たされていました。

11月5日、ダヴィドウィッチはヴォーボワ師団を後退させてトレントを占領し、カッリアーノの前でヴォーボワ師団と対峙し、アルヴィンチはバッサーノを占領し、そこでマッセナ師団とオージュロー師団を撃退していました。(第二次バッサーノの戦い

これによりヴァルスガーナを経由する長いルートですがチロル軍とフリウーリ軍の連絡線が繋がりました。

その後もチロル軍とフリウーリ軍は進軍を続け、チロル軍はロヴェレト周辺、フリウーリ軍はヴェローナから10㎞以内の距離に迫って来ていました。

11月12日、ナポレオンは大雨の中、夜明けとともにマッセナ師団とオージュロー師団合計約13,000人にオーストリア軍に向かって前進するよう命じました。

ナポレオンの攻撃に対し、アルヴィンチは約8,000人でカルディエーロを防衛し、およそ7㎞東に位置するヴィッラノーヴァから向かってきているプロベラ師団の到着まで持ち堪えて勝利を収めました。(カルディエーロの戦い

これがナポレオン初の戦術的敗北でした。

11月14日、ナポレオンは軍主力約19,000人を夜闇の中迂回させてロンコに橋を架けてアディジェ川を渡り、長く伸びているオーストリアの隊列の中心であるヴィッラノーヴァを占領して分断するという奇襲作戦を実行に移しました。

しかし翌15日、奇襲攻撃は沼地に覆われたアルコレで阻まれて失敗し、主力がロンコにいることがバレてしまいます。(アルコレの戦い<1日目>

オーストリア軍は約22,000人の兵力でナポレオンを相対しようとしていました。

ナポレオンは数的劣勢ながらもロンコ周辺で戦うことを決意し、その後2日間続いた戦いに「内戦の利」を利用して勝利し、アルヴィンチを大きく後退させることに成功しました。(アルコレの戦い<2日目>アルコレの戦い<3日目>

その後、ヴェローナの手前まで迫って来ていたダヴィドウィッチはアルヴィンチのアルコレでの敗北を知って撤退したものの包囲されて大きな損害を出しながらアラへの撤退を余儀なくされていましたが、その時にはアルヴィンチは態勢を立て直してヴェローナに再接近していました。

11月23日正午、ダヴィドウィッチの敗報が届くとアルヴィンチはブレンタ川の背後への撤退を命じました。

一方その頃、ヴルムサーはマントヴァ要塞から脱出するために出撃していました。

しかし、アルヴィンチが撤退したことによりナポレオンに増援を送る余裕が生まれ、それによって再び要塞内に封じ込められました。

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第一次イタリア遠征 07 リヴォリ戦役

リヴォリ戦役

1796年12月、先月末頃まで行われたアルコレ戦役における疲弊と大きな損失によりフランス軍とオーストリア軍は休息に入り、両軍とも次の戦いに向けての準備を行いました。

12月25日、捕らえた捕虜からデュマ将軍が情報を引き出し、翌年1月初旬から中旬頃までオーストリア軍の侵攻は無い可能性が高いことなどが判明しました。

1797年1月4日、アルヴィンチはバッサーノにすべての将軍と各列の指揮官を集め、侵攻計画の全容を見せ、各列または独立旅団のすべての指揮官に書面による行動命令と口頭での説明を行いました。

オーストリア軍は全体として、バヤリッヒ旅団が1月12日にヴェローナを攻撃し、13日にラウドン旅団がブレシアへの陽動を行いつつ主力軍はリヴォリで、プロベラ師団はマントヴァ周辺で戦い勝利するという計画でした。

そして翌5日、長い距離を移動しなければならない列が計画より早く移動を開始しました。

1月10日時点での両軍の兵力は、フランス軍44,610人(ランヌ旅団を除く)、オーストリア軍49,049人(マントヴァ要塞駐屯軍を除く)であり、約4,500人オーストリア軍の方が優勢でした。

1月8日、プロベラ師団はベヴィラックアでオージュロー師団前衛に勝利し、アディジェ川まで進出しました。(べヴィラックアでの戦闘

1月10日までにバヤリッヒ旅団はヴェローナに迫り、主力軍と連絡線を繋いでいました。

この時、ボローニャにいたナポレオンはオージュローからプロベラ師団と戦っているとの報告を受け取り、オーストリア軍が動き出したことを知りました。

ナポレオンはランヌ旅団の半数である2,000人をオージュロー師団の支援に向かわせ、自身はマントヴァを経由するルートでヴェローナに向かいました。

1月11日、遂にオーストリア主力軍の各縦隊が集結地点を離れ各々の目的地に向かい、翌12日にはその一部がジュベール師団との交戦を開始しました。

13日午後3時、ナポレオンはジュベールからの状況報告をようやく受け取ると、アルヴィンチは主力でリヴォリを突破するつもりであることを確信し、リヴォリに兵力を集中させることを決断しました。

ナポレオンはすぐさまジュベール将軍にリヴォリで防衛態勢を整えるよう命じ、ヴィクトール師団、マッセナ師団、レイ師団をリヴォリへ向かわせ、セリュリエ将軍に騎兵を送るよう命じました。

14日午前2時、遂にフランス軍の総司令官がリヴォリに到着しました。

ナポレオンはすぐさま危機的状況であることを理解すると、ジュベール師団約10,000人にオーストリア軍の手中にある重要地点の奪還を命じ、それらを奪い返すことに成功しました。

ナポレオンはオーストリア軍が態勢を立て直す前に攻勢をかけましたが、オーストリア軍との兵力差は倍以上であり、重要地点は奪い返され、左翼が敗走を始めました。

午前11時頃、オーストリア軍の勝利が決定しようとしたまさにその時、マッセナ師団が戦場に到着し、すぐさま左翼の支援を行いました。

マッセナ師団は左翼を立て直す時間を稼ぐと次は右翼側に向かいオーストリア主力軍を敗走させました。

ロイス旅団も隘路から出ようとしたところを運悪く砲撃されて大混乱に陥り、敗走していきました。

リヴォリの南の山地に到達していたルシニャン旅団もブルーン旅団、モニエ旅団、レイ師団に挟撃され、完全に崩壊しました。(リヴォリの戦い<1日目>

マッセナ師団は戦いの後の追撃には参加せず、ナポレオンとともにすぐにマントヴァ要塞へ向かいました。

一方その頃、1月13日夜にプロベラ師団がアンジャーリでアディジェ川の渡河を成功させてオージュロー師団を分断し(アンジャーリでの渡河作戦)、1月15日にはマントヴァ要塞の前に到着していました。

プロベラ将軍はヴルムサー元帥と連絡を取り合い、翌16日に要塞を包囲しているセリュリエ師団を圧倒し、マントヴァ要塞のヴルムサー元帥と合流することを計画していました。

1月15日、リヴォリの戦い<2日目>において指揮を任されたジュベール将軍は勝利を収め、オーストリア軍の一部を包囲して大損害を与え、アルヴィンチを敗退させました。

1月16日午前4時半、プロベラ師団は攻撃のために動き出しましたが、セリュリエ師団、マッセナ師団、ヴィクトール師団、ギウ師団、オージュロー師団に包囲されて退路を失い、降伏を余儀なくされました。(ラ・ファヴォリータの戦い

アルヴィンチはリヴォリの北にあるアーヴィオにいたにも関わらず、迂回してバッサーノからプロベラ師団の救出に向かおうとしましたが、その後、プロベラ師団降伏の報が届き、救出を諦めました。

しかしフリウーリ方面ががら空きとなることに気付いたため、ラウドン旅団をチロル方面の防衛に残し、主力軍はそのままバッサーノ方面への移動を継続させました。

ナポレオンはアルヴィンチを完全に打ち倒すためにジュベール師団を北上させてマッセナ師団とオージュロー師団をバッサーノへ向かわせ、教皇領遠征のために自身とヴィクトール師団はボローニャに向かいました。

バッサーノに集結していたオーストリア主力軍の一部はマッセナ師団とオージュロー師団の攻撃によりバッサーノを奪われ、ピアーヴェ川の背後に退避しました。

バッサーノへの道を失ったアルヴィンチはチロル州とケルンテン州を通過してフリウーリ州に出てピアーヴェ川の背後の軍と合流するためにトレントに戻りました。

その後、ジュベール師団は順調にラウドン旅団に勝利して北上しトレントを占領しました。

2月2日、セリュリエ師団に封鎖され、食糧が尽きたマントヴァ要塞は遂に降伏し、マントヴァ要塞はフランス軍に引き渡されました。

同日、ナポレオンはボローニャから進軍を開始し、ファエンツァで教皇軍に勝利し、アンコーナを目指しました。(マントヴァ要塞の降伏と第二次教皇領遠征の始まり

その頃、オーストリア政府はイタリア方面におけるこの差し迫った危機に即時に対応するために、すぐにライン方面の勝者であるカール大公にイタリアへ向かうよう命じました。

この時、カール大公25歳、ナポレオン27歳であり、オーストリア帝国とフランス共和国はともに20代の若者にこの戦争の行く末を委ねたのでした。

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第一次イタリア遠征 08 第二次教皇領遠征、最後の戦役

第一次イタリア遠征最後の戦役

1797年2月2日、ファエンツァの戦いに勝利したナポレオンは後退する教皇軍を追いました。

2月9日に以前ピエモンテ軍を率いていたコッリ将軍率いる教皇軍をアンコーナで敗退させてローマに迫ると、2月19日、教皇は怖気づいて休戦条約を結びました。(第二次教皇領遠征の終わり

しかし、その背後ではアルヴィンチがピアーヴェ川の軍と合流し、カール大公がオーストリア軍の総司令官として軍の態勢を立て直し、新たな戦略を策定していました。

カール大公の戦略は後退しつつライン方面からの援軍と合流して数的優位を確立した後、攻勢に出るというものでした。

しかしライン方面からフリウーリ州へは移動にかなりの日数がかかり、それまで時間を稼ぐ必要があっため、ピアーヴェ川の前線に前衛を置いて防御させました。

3月初旬、ライン方面からの援軍であるベルナドット師団とデルマス師団が前線に到着したことにより、オーストリア軍を打ち倒す準備が整いました。

この時、フランス軍の総兵力は約52,000人、オーストリア軍の総兵力は約41,000人でフランス軍が数的有利な状態でしたが、チロル軍は10,000人の州兵(民兵)によって補強されていました。

この時ナポレオンはピアーヴェ川方面に約32,000人、チロル方面に約20,000人の兵力を振り分けており、カール大公はピアーヴェ川とタリアメント川に約21,500人、チロル方面に約24,000人(チロル州兵含む)、中間部隊としてピアーヴェ川方面に約3,000人、チロル方面に2,500人を配置していました。

ナポレオン側は内線であり、カール大公側は外線であったため、カール大公側は前線維持のために兵力を分散配置する必要がありました。

尚且つピアーヴェ川方面から攻撃された場合、中間部隊を含めてもカール大公の兵力は24,500人であり、ナポレオンの兵力は約32,000人とその兵力差は約7,500人でした。

しかし、オーストリア軍の希望は未だ到着していないライン方面からの援軍約30,000人の存在でした。

3月10日、ナポレオンは教皇領遠征によって中断されていたオーストリア軍への作戦の再開を発表しました。

ナポレオンはカール大公の意図を察しており、急速な進軍によってライン方面からの援軍が到着する前にカール大公軍を叩くためにピアーヴェ川のオーストリア軍前衛を包囲するような機動を取って同時にタリアメント川に肉薄し、一挙に渡河する作戦を決行しました。

途中、山岳地帯の雪によりマッセナ師団の作戦の変更と遅滞を余儀なくされましたが、ボルゲットの戦いの時のように兵力を集中させてタリアメント川の渡河を成功させました。(ヴァルヴァゾーネの戦い

カール大公はケルンテン方面(オクスカイ旅団)、シヴィダーレ方面(コボロス旅団)、イゾンツォ川方面(カール大公本体)に分かれて撤退し、それぞれ防衛線を構築しましたが、その後、イゾンツォ川の渡河を許し、さらに3方向に分かれての撤退を余儀なくされました。(グラディスカの戦い

1つ目はシヴィダーレ方面に撤退した軍と合流しタルヴィジオへ向かい(バヤリッヒ師団)、2つ目はリュブリャナを経由してフィラハへ向かい(ロイス師団)タルヴィジオに向かった軍と合流しようとし、3つ目はリュブリャナを経由してグラーツ方面の防衛にあたりました(ゼッケンドルフ旅団)。

カール大公は重要地点はタルヴィジオ方面であると考えており、自身もそこで指揮を執るべく少数の騎兵とともにリュブリャナを経由してタルヴィジオに急行しました。

3月23日夜明け、マッセナ師団は一度失ったタルヴィジオを再び占領しようと進軍を開始しました。

タルヴィジオを守るオーストリア軍は有利な地形により幾度かの攻撃をはね返したものの数的に劣勢であり、敗走を始めていました。

そのような中、カール大公とオクスカイ旅団が戦場に到着しました。

カール大公は態勢を立て直そうと最前線に立って尽力しましたが、撤退を余儀なくされました。

これによりシヴィダーレ方面に撤退した軍(コボロス旅団)とタルヴィジオに直接向かった軍(バヤリッヒ師団)はフランス軍に包囲され、降伏しました。(タルヴィジオの戦い

一方その頃、チロル方面ではジュベール師団が順調に北上してブレッサノネを占領し、戦略目標の1つを達成していました。

しかし、プステリア渓谷とフィラハは未だオーストリア軍の勢力下にあり、ナポレオンとの連絡線を繋ぐことは大きな危険を伴いました。

その後、カール大公はフィラハでメルカンディン師団と合流し、クラーゲンフルト、ザンクト・ファイトと遅滞戦術を行いつつカイム師団と合流し兵力を増強しました。

しかし、ゼッケンドルフ旅団をグラーツ方面に分離し、コボロス旅団とバヤリッヒ旅団は消滅していたため、ナポレオンとの兵力差は覆ることはありませんでした。

この時カール大公は中間部隊であるスポーク師団(旧ルシニャン旅団+シェアーズ旅団の一部+メルカンディン師団の一部)約8,500人をザルツブルクでライン方面から向かってきているソマリヴァ旅団と合流させ、その合計約14,000人とグラーツ方面のゼッケンドルフ旅団約4,500人、そしてカール大公本体約13,000人をレオーベン周辺に集結させて数的優位の状況を作り上げ、フランス軍への反攻作戦を行なうことを考えていました。

ナポレオンはそのことを良く理解しており、4月3日、リュブリャナ周辺にいるベルナドット師団などに至急ナポレオン本体と合流するよう命じました。

そして同日、周囲をオーストリア軍に囲まれて不利を悟ったジュベール師団も独断でナポレオンと合流するためにプステリア渓谷を通るルートでフィラハへ向かいました。

カール大公はその後、ノイマルクト、ユーデンブルクと遅滞戦術を行い、そして追撃を受けながら撤退し、レオーベンに到着しました。

しかしレオーベンへの後退の途上で問題が発生しました。

ジュベール師団がリーエンツに進出したことにより、ザルツブルクに集結したスポーク師団約12,000人(地形によって脱落者が出て2,000人減少した)をレオーベンに向かわせることができなくなってしまったのです。

しかもグラーツ方面から来たゼッケンドルフ旅団はカール大公本体と合流した後、独断でウィーンに逃亡してしまい、その結果カール大公は約13,000人でマッセナ、ギウ、シャボー、ベルナドットの4個師団、20,000人を超えるフランス軍と対峙しなければならなくなりました。

オーストリア皇帝は、前面では快進撃を続けるナポレオンがウィーンに迫りつつあり、背後ではハンガリーでの反乱が広がりを見せていたためナポレオンに和平を提案しました。

カール大公を追い詰めたナポレオンでしたが、ウィーンでは30,000人を超える守備隊が戦闘準備を行っており、後方ではヴェネツィア共和国の民衆が蜂起し、ヴェネツィア軍も出動するという危機的状況にありました。(ヴェロネーゼのイースターの始まり

そのためオーストリア皇帝からの和平の提案を受け、4月18日、レオーベン近郊のエッゲンヴァルト城でレオーベン条約を締結しました。

しかし、レオーベン条約は両軍の喫緊の事情によって結ばれた【仮】の和平条約であり、最終的な和平条約の詳細はその後に話し合われることとなりました。

レオーベン条約が締結されると、ナポレオンはヴェネツィア共和国での民衆蜂起を鎮圧し、それに加担したヴェネツィア軍を打ち倒して後方の安全を確保しました。(ヴェロネーゼのイースターの終わり

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第一次イタリア遠征 09 ヴェネツィア共和国の崩壊

1797年4月20日、フランス軍船がヴェネツィアに不法に突入しようとして捕らえられ、戦闘の際にフランス側に死者が出るという事件が発生しました。(イタリアの解放者事件

4月24日、ナポレオンはレオーベン条約に基づいてオーストリア領から撤退し、その後ヴェネツィアを取り囲むよう各師団を配置する命令を発しました。(オーストリア本土からの撤収

ヴェネツィアは事件の釈明と今後のヴェネツィア共和国へのナポレオンの考えを知るために特使を派遣し、4月25日にグラーツで会談を行いました

ナポレオンはすでにヴェネツィア共和国と戦争を決意しており、「8万人の武装兵と20隻の砲艦でヴェネツィア打倒の準備ができている。」と脅迫した上、「もう異端審問も元老院も望まない、私はヴェネツィアにとってのアッティラになる。」と事実上の宣戦布告を行いました。

首都ヴェネツィアは天然の要害に囲まれていたため、強い姿勢を見せることによってヴェネツィア政府の内部を揺さぶったのでした。

フランス軍はヴィチェンツァとパドヴァを占領し、マッセナ師団とベルナドット師団との内部対立などが顕在化しながらも(リュブリャナでの騒動)ヴェネツィアを取り囲みました。

そして5月初旬、バラグアイ・ディリエール師団がメストレを占領し、ヴェネツィアへの圧力を強めました。

ヴェネツィア政府は防衛するための兵力を維持できず、軍を解散させ、5月12日、ヴェネツィア政府の廃止を決議しました。

5月14日、ナポレオンはヴェネツィア大評議会の最後の決議の知らせを受け取り、バラグアイ・ディリエール将軍麾下の約5,000人の兵力をヴェネツィアの島々に送り込みました。

そして5月16日、ヴェネツィア暫定政府は正式に降伏文書に調印し、ナポレオンはヴェネツィア共和国のすべての権力を掌握したのでした。

これが約1,100年続いた歴史あるヴェネツィアの「最も穏やかな共和国」が滅亡した瞬間でした。(ヴェネツィア共和国の滅亡

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第一次イタリア遠征 10 ジェノヴァ共和国の滅亡

1797年5月19日時点でナポレオンは北イタリアの領土を3つの姉妹共和国によって支配する構想をすでに考えていました。

1つ目はボローニャやヴェネツィアなどで構成されるチスパダーナ共和国、2つ目はロンバルディアやモデナなどで構成されるチザルピーナ共和国、3つ目はジェノヴァなどで構成されるリグーリア共和国です。

この時ジェノヴァ共和国はまだ存続していましたが、ナポレオンはすでに滅ぼすことを考えていました。

5月21日、ジェノヴァ共和国でフランス人による暴動が発生し、ジェノヴァ軍が出動して殺し合いにまで発展する事態となりました。

この事を知ったナポレオンはすぐにセリュリエ師団を派遣し、要求と脅迫が書かれた書簡を送りました。

ナポレオンの恐怖に屈したジェノヴァ政府は、国民に対して「国の健全はフランスによってもたらされるものであるため、フランス人と融和するように」と布告を出しました。

その後、大評議会でジェノヴァ政府の廃止が決議され、6月6日、ジェノヴァ共和国はナポレオンの本部のあるモンテベッロでフランス共和国との秘密条約(モンテベッロの和約)を締結することを余儀なくされました。

1005年の建国から792年後の1797年6月14日、ジェノヴァ共和国はナポレオンによって滅ぼされ、新たにリグーリア共和国が建国されることになります。

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第一次イタリア遠征 11 フォルトゥネの死

ジョゼフィーヌがフランスを旅立ちイタリアへ向かう時、一匹の犬を連れていました。

「フォルトゥネ」と呼ばれたその犬はパグであり、ハンサムとはほど遠い傲慢な犬でしたが、ジョゼフィーヌと子供達と愛人には懐いており、ジョゼフィーヌと子供達はフォルトゥネを愛していました。

フォルトゥネは、ナポレオンがジョゼフィーヌと一緒のベッドで寝ていると脚を噛んだり、玄関先で吠えるなどナポレオンには一切懐くことはありませんでした。

1797年5月~6月頃、エリザとポーリーヌの結婚式の前、ナポレオンがモンテベッロ城に滞在中のある晩、フォルトゥネは庭で一匹の犬と出会いました。

この犬はナポレオンの料理人の飼っている犬であり、番犬として飼われるような大型犬でした。

フォルトゥネはいつもの傲慢さで吠えて攻撃を仕掛けました。

しかし返り討ちにあい、フォルトゥネは倒れたまま動かなくなり、そのまま亡くなりました。

後日、悲しみと寂しさに打ちひしがれているジョゼフィーヌを見た愛人イッポリト・シャルル中尉は新たな犬をプレゼントしました。

フォルトゥネの後継者はフォルトゥネと同じくパグであり、英国犬であるためフォックス(Fox)と名付けられました。

ナポレオンはフォックスを見て「彼はイギリス人だ」と言ったそうです。

ある日、ナポレオンは大型犬の飼い主である料理人が歩いているのを見て話しかけました。

「もう犬は飼っていないのですか?」

料理人は、ジョゼフィーヌがフォックスを飼っているのでもう庭には置いていないことを告げると、ナポレオンは「その犬を安心して走らせてください。おそらく彼は私のためにもう一つのもの(フォックスのこと)も処分してくれるでしょう。」と言ったと言われています。

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第一次イタリア遠征 12 母レティツィアと妻ジョゼフィーヌの初顔合わせと妹エリザ及びポーリーヌの結婚式

1797年6月ジョゼフィーヌはモンテベッロでナポレオンの母レティツィアと妹達と初めて顔を合わせました。

母レティツィアはナポレオンがジョゼフィーヌとの結婚について相談がなかったことに怒っており、ボナパルト家の面々は違いはあれどジョゼフィーヌに良い印象を持っていませんでした。

特に母レティツィアは息子よりも6歳年上のジョゼフィーヌを「品行が悪く、金がかかり、冷淡な性格の女」と見做しており、「ジョゼフィーヌはナポレオンの子を産むには年をとりすぎている」とも考えていました。

実際、ジョゼフィーヌの素行は悪く、レティツィアの考えは的を射ていました。

しかし、ボナパルト家の印象とは裏腹に、ジョゼフィーヌが北イタリアに来てからもイタリア方面軍は勝ち続けていたため、本人の素行はどうあれフランス本国でもイタリア方面軍内でも「勝利をもたらす女性」として好ましく思われていたのでした。

6月14日、ナポレオンがモンテベッロの城と呼んでいたヴィラ・プステリア・クリヴェッリ・アルコナティのすぐ隣にあるサン・フランチェスコ礼拝堂でエリザとポーリーヌのカトリック様式での宗教上の結婚式が行なわれました。

エリザ20歳、ポーリーヌ16歳でした。

この日はジェノヴァ共和国が滅亡し、新たにリグーリア共和国が樹立された日とも重なっていました。

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第一次イタリア遠征 13 フリュクティドール18日のクーデター

1797年6月29日、ナポレオンはチザルピーナ共和国の建国宣言を行い独自の憲法を発布し、同時にトランスパダーナ共和国併合し、10日後の7月9日、チスパダーナ共和国も併合したことにより、ロンバルディア、マントヴァ、ボローニャにまたがる共和国となり、ナポレオン王国のようなものを形成しました。

しかしこの時、ナポレオンが首都ウィーンに迫った恐怖はすでに過去のものとなっており、さらにフランス共和国内部では王党派が勢力を大きく伸ばし、現政権の足元はグラついていました。

そのためオーストリア軍はまるで戦争状態かのように大砲を設置して部隊を配置し、ナポレオンは警戒を強めました。

一方、フランス国内では、共和派がオッシュ将軍率いる軍を使ってクーデターを起こそうとしていました。

しかしカルノーによって先手を打たれ、バラスが日和見をしたためクーデター計画は頓挫してしまいました。

しかし、バラスは諦めたわけではありませんでした。

もしこのまま王党派が政権を牛耳った場合、フランスには再び内戦が訪れるだろうと考えられ、もし内戦となった場合、ナポレオンが築き上げた姉妹共和国の行方も危ういものになると考えられました。

尚且つ共和派議員達は断頭台に送られるのではないかと恐怖心を抱いていました。

ナポレオンとしては内戦を避けオーストリア軍をおとなしくさせる必要があったため、現政権に協力し、総裁であるバラスの要請に応えました。

9月1日、クーデターの決行日時はまだ決まっていませんでしたが、軍の動きから間近にまで迫っているように思えました。

9月3日、オージュローは訓練と称して憲法上の境界線に軍を整列させ、王党派に圧力を掛けました。

しかし、翌日には軍の撤退が行なわれることが決議されたことにより、共和派としてはクーデターを起こすしか生き延びる手段がない状況となりました。

午後4時、議会が終わるとバラスはクーデター軍の指揮官であるオージュロー将軍の元を訪れ「決行は真夜中です。」と告げました。

9月4日午前0時、気付けのためにシャンパーニュを少し飲んだオージュローは、12,000人の軍を遂に動かしパリに引き入れました。

軍は王党派議員を1人たりともパリから逃さないよう都市を包囲しつつ、王党派の総裁達の邸宅のあるリュクサンブールと議会のあるテュイルリー宮殿を包囲し、カルノーを除く王党派議員たちを逮捕しました。

この時カルノーは下水路を通ってリュクサンブールの邸宅を脱出し、両手に拳銃を持ってパリの街中を彷徨い、軍の包囲を掻い潜るために脇道を通って隠れ家にたどり着いていました。

フリュクティドール18日のクーデタは共和派の勝利に終わり、一滴の血も流れることはなかったと言われています。

例え国民に人気の無い政権だったとしてもこれで政権の足元は確固たるものになると考えられました。

一方、これらの間にイギリス海将ホレーショ・ネルソンは右腕を失い、隻眼、隻腕の将軍となっていました。(テネリフェ島サンタ・クルスの戦い

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第一次イタリア遠征 14 カンポ・フォルミオ条約の締結

1797年9月末、フランス軍とオーストリア軍は軍の再編成を行ないライン方面とイタリア方面で対峙していました。

ライン方面のオーストリア軍はカール大公が指揮し、騎兵28,622人を含む合計129,897人でマインツ周辺からバーゼル近郊の主にライン川右岸側に広がっていました。

一方、フランス軍側ではライン方面に3つの方面軍がオーストリア軍と対峙するように展開していました。

ライン・モーゼル方面軍約70,000人~75,000人がバーゼルの後方から北に展開し、サンブレ・エ・ムーズ軍約50,000人はクロイツェナハからオーストリア軍右翼を囲むようにフリードベルクまで展開し、北方軍約16,000人がライン川とムーズ川の間に配置されていました。

イタリア方面のオーストリア軍はテルツィ砲兵大将が指揮し、チロル軍、ケルンテン軍、ゴリツィア軍に分かれてフランス軍を取り囲むように配置されていました。

総兵力騎兵18,835騎を含む112,685人を数えました。

対するナポレオン率いるイタリア方面軍は騎兵12,000人を含む合計約83,000人がフリウーリ州からガルダ湖東岸まで広がっていました。

オーストリア側もフランス側もマントヴァ要塞の行方について譲歩しなかったため和平交渉は長引き、前線では軍事的緊張が高まり、一触即発の状況となっていました。

10月11日、ナポレオンは最後の交渉のためにパッサリアーノからウディネに向かいました。

交渉が始まるとやはり対立は明確であり、オーストリア側も「戦争を恐れていない。」と主張しました。

ナポレオンは激怒して立ち上り「さて、平和は破られ、宣戦布告がなされた。しかし、秋が終わる前に、この磁器を壊すようにあなた方の君主制を壊すことを覚えておいてください。」と近くのお盆を床に叩きつけ、その上に乗っていた磁器が砕け散りました。

交渉の限界を察したオーストリア政府は、フランス国内の王党派が一掃されたこともあり、フランス側に譲歩する形で和平条約を締結することを許可しました。

10月17日、両国は遂にカンポ・フォルミオ村の当時馬車宿だったベルトランド・デル・トーレ邸で第一次イタリア遠征における最終的な和平条約を締結しました。

このカンポ・フォルミオ条約の締結によってフランスに敵対している列強国はイギリスのみとなり、第一次対仏大同盟は完全に崩壊することとなり、第一次イタリア遠征は終わりを迎えました。

カンポ・フォルミオ条約が締結されたことが報道されると、フランス国内でのナポレオン人気はさらに高まりを見せました。

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