アルコレ戦役 28:アルコレの戦い<3日目>(1796年11月17日)
Battle of Arcole 28

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

ロンコからの出撃とオージュロー師団の危機

 1796年11月17日、フランス軍は前日のアルポーネ川渡河作戦の強化版を計画していた。

 ベルフィオーレ方面のプロベラ師団に対抗する兵力を少なくし、ミトロフスキー旅団側に兵力を集中し、さらにレニャーゴ橋からの迂回部隊がアルバレードの後方を衝きアルポーネ川両岸から攻め上る。そしてアルコレ村を占領し、オーストリア軍を分断するためにその先のサン・ボニファーチョへ向かうのである。

 夜明け前、フランス軍の本体が動き始め、ロンコの舟橋で3度目となるアディジェ川の横断を始めた。

 しかしその瞬間、舟橋の内の1隻が沈没して通行不能となり、同時にオーストリア軍が現れた。

 2つの師団がアディジェ川右岸から攻撃を行い川を渡るために動いた。

 オーストリアの軽歩兵が第12半旅団を攻撃してそれを包み込んだが、アディジェ川右岸からの大砲の砲撃によりオーストリアの軽歩兵は後退し、かなりの距離を保った。

 橋が復旧すると先ずマッセナ師団が橋を渡り、第18半旅団はオーストリア軍をボーヴァ(Bova)に押し戻し、ロベルト将軍率いる第75半旅団所属の2個大隊がアルコレ方向に押し戻し、アルコレまでの途中でオーストリア軍を食い止めた。

 第18軽歩兵半旅団は第12半旅団を支援するためにロンコの舟橋の近くに並んでいた。

 この瞬間、レニャーゴでアディジェ川を渡った迂回部隊がアルポーネ川左岸側に現れ始めた。

 オージュローはアディジェ川を渡り、アルポーネ川下流に向かった。

 工兵司令官シャセループが夜中にオーストリア軍に見つからないよう4つの浮橋を架けた地点まで第51半旅団を進め、左岸に渡るために固く守られているオーストリア軍の前哨部隊を追い払いアルポーネ川を渡った。

 その際、ボールヴォワール将軍の騎兵予備軍は右翼の動きを支援していた。

 しかし、ブリジド旅団所属のクロアチア人部隊から強力な射撃が始まり、第51半旅団は浮橋に向かって順番に後退することを余儀なくされ、オージュローは第4半旅団を前進させ渡河点に到達した。

 これらの2個半旅団はクロアチア人部隊をアルバレードに後退させ、2門の大砲とその弾薬を奪い取った。

◎オージュロー師団のアルポーネ川の渡河

 そして昨日ロンコを出発してレニャーゴ橋を渡って来た大隊と第9竜騎兵、4門の大砲との合流を果たした。

 これらはオージュロー師団の右翼を形成し、アルコレへ向かって前進した。

 同時にロベルト将軍は突進してアルポーネ川のそばまで進んでいた。

 ミトロフスキーは正面と側面を脅かされつつあったが、アルポーネ川左岸側で形成されたオージュロー師団右翼への対応としてアルコレ村から部隊を派遣し、正面からの攻撃に強く抵抗した。

 ミトロフスキー旅団の正面攻撃は第75半旅団を打ち砕き、それに続く第5半旅団をも押し倒した。

 ロベルト将軍は重傷を負いながらも敗走を止めるためにあらゆる努力をした。

 しかし兵士の逃亡に引きずられてゼルパに向かった。

 戦いの後、ロベルト将軍は療養のためにフェラーラに送られたが、傷は深く翌1797年1月10日に死亡した。

◎オージュロー師団の敗走と再集結

 ロベルト旅団と第5半旅団が押し倒され、アルコレ方面から迫ってくる部隊に自分たちが攻撃されようとしているのを見た第51半旅団と第4半旅団はアルコレへの前進をやめ、アルポーネ川の4つの浮橋に向かって敗走した。

内線の中の内線

 オージュローは彼らをアルポーネ川右岸に集結させ、休息の時間を与え、オージュロー師団が直面している危険な状況をボナパルトに伝えた。

 午前中、ボナパルトはミトロフスキー旅団を打ち砕くための作戦を実行に移した。

※この計画はナポレオンがアルポーネ川渡河作戦の強化版が失敗した場合を想定して次善策として用意していたか、もしくはその場の判断で命令を下したかは定かではない。

◎内線作戦の中の内線作戦

 堤防とアディジェ川の間にいる第32半旅団を前進してくるミトロフスキー旅団の左側面を衝くために木の束の後ろに隠れさせ待ち伏せさせた。

 ロベルトがミトロフスキーの数個大隊によってロンコの舟橋に向かって腰に剣を持って戻されたとき、ボナパルトはマッセナに命令を送り、ミトロフスキー旅団の後部を攻撃するためにプロベラ師団をベルフィオーレに残して第18半旅団を素早く戻した。

 ボナパルトは第18半旅団の内の12個中隊とヴェローナから呼び寄せた1個歩兵大隊を含む計4個大隊でオージュロー師団を強化した。

 そしてマッセナは第18半旅団でミトロフスキーの後部へ攻撃を行った。

 ミトロフスキー旅団は勝利を確信しており、すでにロンコ橋の近くまで進出して発砲していた。

 しかし、待ち伏せしていた第32半旅団が木の束の後ろから出てきて銃剣突撃を行いミトロフスキーの左側面を衝いた。

 側面攻撃を受けたミトロフスキーの部隊は沼地に落ち、敗走が決定づけられた。

 ミトロフスキー率いる数個大隊のほとんどが捕虜となり、第18半旅団所属の騎兵と第25半旅団所属の歩兵をガルダンヌが先導してミトロフスキーを精力的に追跡し、ほんのわずかの兵がアルコレに敗走した。

 ミトロフスキーはこの時点ではアルコレ橋とアルコレ村で抵抗することを考えており、支援を求める書簡をアルヴィンチに送った。

 ボナパルトは全体的な数的劣勢の中、チロル軍とフリウーリ軍に対して内線作戦を実行したが対フリウーリ軍においても数的劣勢を覆すことはできなかった。

 ボナパルトはさらにフリウーリ軍のプロベラ師団とミトロフスキー旅団に対して内線作戦を実行し、対ミトロフスキー旅団において数的優位を作り上げ、遂にミトロフスキー旅団の大部分を撃破したのである。

ナポレオンのトランペット陽動作戦

 ボナパルトによる内線作戦(各個撃破)が成功してミトロフスキー旅団を大幅に弱体化させたものの、ミトロフスキーはアルコレ村の後方に配置していた予備の2個大隊をアルポーネ川右岸に移動させガルダンヌの前進を止めた。

 しかしオージュロー師団がすでにアルポーネ川左岸に渡って堤防の上をアルコレ方面に北上しており、4個大隊の補強を受けたミロラドウィッチ少佐の部隊に攻撃を仕掛けようとしていた。

 戦いはフランス軍右翼側で再び始まり、ミロラドウィッチ少佐の部隊は沼に寄りかかって抵抗していた。

 この時、堤防の上のオージュロー師団本体の行進とは別にアディジェ川と沼地の間への迂回機動でミロラドウィッチの前線を後退させることができた。

 しかしオージュローは急いでおり、危険を冒して2個大隊を右側(沼地側)に移動させた。

 地面を鳴らしながら前進し、オーストリア軍の列の先頭を2つの攻撃の間に置くことに成功した。

 後退を余儀なくされたミロラドウィッチは大砲を残してポンテ・ゼルパーネ付近まで後退した。

 右側に移動した2個大隊は慎重に堤防に戻り、半旅団とともに行動した。

 午後3時頃、ミトロフスキーがアルヴィンチに送った書簡が届き、アルヴィンチはプロベラに対し部隊を派遣するよう命じると同時にカルディエーロを経由してヴィッラノーヴァに撤退するよう命じた。

 ミトロフスキーの書簡の内容は、「レニャーゴから来た敵の列が私の左翼に向かって行進しており、敵はあらゆる場所に大きな力で前進している」という報告と「カルディエーロからあなたの左翼への迂回を向かわせて敵の力を分割することはできませんか?」という要求だった。

 同時刻、ボナパルトは進捗が遅れているオージュロー師団を見て、ボナパルト直下にエルクール(Hercule)中尉に25人の兵士を与え、エルクールがかき集めたトランペットを兵士に持たせ、オージュローとミロラドウィッチが戦っている戦場から2㎞離れた地点までアディジェ川左岸を下り、ミトロフスキーの左側を覆っている沼地を迂回し、アルコレ側から大きな音を鳴らすよう命じた。

◎トランペット陽動作戦

 この時ボナパルトは、なぜオージュローは数的優位の利点を利用して沼地を迂回しオーストリア軍の背後を衝かないのかと思っただろう。

 ボナパルトの作戦は成功を収め、ミロラドウィッチは後方にあるアルコレ村がマッセナ師団によって占領されたと考えコローニャ方向へ撤退した。

 その後、オージュローはアルコレへ勢いよく進軍し、ガルダンヌはアルポーネ川右岸のミトロフスキーへの攻撃を再び開始した。

プロベラ師団の撃退とアルコレ村の占領

 ミトロフスキーがアルコレ橋から後退した後、マッセナはプロベラ師団に対抗するために第18半旅団をベルフィオーレに戻した。

 ベルフィオーレから少し離れた地点でミトロフスキーが要求しプロベラが派遣した5門の大砲に支援された2個大隊と第18半旅団の前衛が遭遇した。

 プロベラの2個大隊は堤防の沼地に入って左右に急速に広がり、堤防の上の第18半旅団の前衛を包み込もうとした。

 危険を察知したシャテレイン(Chatelain)中尉はマッセナの護衛の20人の兵士で分遣隊を形成し、堤防の上で四つん這いになり堤防の下の沼地に広がったオーストリア軍の目を欺き、前方に向かって突撃を仕掛けた。

 シャテレインはオーストリアの2個大隊を分断し、大砲を奪い、オーストリア軍を撤退に追いやった。

 そしてベルフィオーレ村から遠く離れたオーストリア軍を近づけさせなかった。

 これによりマッセナはベルフィオーレを占領し、フランス軍の左翼を形成し、ロンコの橋を覆うことに成功した。

 ゼルパに戻ったマッセナはそこで指揮を再開し、アルポーネ川左岸のオージュロー師団と平行に進軍した。

 午後5時頃、ミトロフスキーはアルコレ村をもはや維持することができず村からの撤退を余儀なくされた。

◎フランス軍によるアルコレの占領とオーストリア軍の撤退

 負傷したばかりのガルダンヌはオージュローと同時にアルコレ村に入った。

 ミトロフスキー旅団はアルポーネ川左岸の堤防を歩きサン・ボニファーチョに向かって後退し、その後ろをフランス軍に追跡された。

 アルヴィンチはフランス軍が主要道路に到達しヴィッラノーヴァのプロバラ師団と分断されることを警戒してシュビルツ旅団を伴ってフランス軍をアルコレに追い返した。

 アルポーネ川左岸側に残されたクロアチア人部隊の一部はミロラドウィッチの退却を支援するために残り、オージュロー師団に包囲されて捕虜となった。

 ミロラドウィッチは分散して敗走しながらもコローニャで結集し秩序を回復しようとしており、その後ロニーゴ(Lonigo)を経由してヴィチェンツァの南西に位置するブレンドラ(Brendola)に逃れようとしていた。

 しかしオージュロー師団の追跡は早く、一部はコローニャへの集結が間に合わず、300人の兵士がミロラドウィッチ本体と分断されてコローニャの南方に位置するベヴィラックア城(Castello Bevilacqua)に逃げ込み、アルコレの南東に位置するサン・グレゴーリオ(San Gregorio)に師団を配置したオージュローの分遣隊に包囲され捕虜となった。

 マッセナはサン・ボニファーチョへの道の左側の村を占領した。

アルヴィンチ最後の一撃

 日も落ち、サン・ボニファーチョの付近まで部隊を配置し、フランス軍はこれで戦いは終わったと考えていた。

 しかし夜の間にサン・ボニファーチョへの道のそばの橋まで侵入しようとしたオーストリアの2個大隊が眠っているフランス軍を攻撃した。

 この夜襲は第25半旅団を混乱させた。

 フランス軍は応戦し橋の出口側に設置されていた2門の大砲により少しの間オーストリア軍の前進を止めることに成功し、その後すぐに激しく撃退することができた。

 しかし夜闇のせいでオーストリア軍を追跡することはできなかった。

 アルヴィンチはこの日、サン・ボニファーチョとヴィッラノーヴァでフランス軍に邪魔されることなく静かに夜を過ごした。

 1796年11月15日から17日までに行われたアルコレの戦いで、オーストリア軍は死者535人、負傷者1,535人、捕虜4,144人、大砲11門、弾薬10個を含む、6,214人の兵士を失った。

 対するフランス軍はヴェルヌが死亡、ボン、ランヌ、ロベルト、ガルダンヌ、ベリヤード、ヴィニョールが負傷し、両師団の将軍でギウだけが無傷だった。

 その他、ナポレオンの副官であるエリヨとミュイロンが死亡している。

 死者約1,000人、負傷者約2,300人、捕虜約1,200人、合計約4,500人の兵士を失ったと言われている。