アルコレ戦役 26:アルコレの戦い<1日目>(1796年11月15日)
Battle of Arcole 26

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約24,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

オージュロー師団の進軍とヴェルヌ将軍の死

 1796年11月15日午前5時頃、アルバレードから撤退してきた部隊からの報告によりフランス軍がロンコでアディジェ川を渡ろうとしていることを知ったブリジド大佐は、フランス軍に気づかれないようアルコレ周辺で防御を固めるべく部隊を配置した。

 中央はアルコレ橋周辺にティライユール(散兵訓練を受けた軽歩兵)を配置し、右翼はアルコレ村を背にして配置され、左翼はアルポーネ川左岸に沿って配置されていた。

 右翼と左翼はブリジド旅団の後部を覆い、物資を守り、3時間ほどの距離にあるレニャーゴのフランス守備隊を監視する予定の部隊だった。

 夜明けとともにオージュローは3個半旅団でマッセナ師団に先立ってアディジェ川を渡り、それらをボン将軍、ヴェルディエ将軍、ランヌ将軍が率いヴィッラノーヴァを目指してアルコレ方向に進軍した。

 ポンテ・ゼルパーネ(Ponte Zerpane)に配置されていたクロアチア人前哨部隊を攻撃してアルコレ橋の入り口まで後退させたが、午前9時頃、ブリジド大佐がそこに積み上げさせた人口の障害物と大砲の砲撃によって前進を阻まれた。

 ゴンビオンにいるアルヴィンチの本部はアディジェ川下流から聞こえてくる大砲の砲撃音で混乱しつつも状況を把握するために偵察部隊を派遣した。

 アルコレ橋は木製で、2つの橋台と非常に高い石積みの橋脚の上にあり、橋の幅は砲兵が通過するのに十分ではなかった。

 橋から銃眼を通して見下ろすと周りは眺めがよく、家がまばらにあり周辺は泥沼に覆われていた。

 このアルポーネ川とアディジェ川の間の地域は深い泥の沼地と湿地の牧草地と水田でほとんど覆われており、暑い夏でも通行できなかった。

 地面が乾燥している部分は少数の村や農場の周辺、そして堤防の上の土手道のみであり、沼地の間の乾燥した場所にあるいくつかの個々の家や農場は狭い歩道でしか到達できない状況だった。

◎アルコレ周辺の地形と通行可能箇所

 しかしオージュローはそのような地形的な障害に躊躇することなくヴィッラノーヴァに向かう途上にあるアルコレ村を占領しなければならなかった。

◎アルコレの戦い最初の死闘

 オージュローは銃剣突撃によりアルコレ橋を渡ることを考えていたが、クロアチア人部隊が堤防の前と側面に立ちはだかりマスケット銃による持続的な一斉射撃を行ったことによりボン将軍の前進は長時間止められた。

 ボン将軍が前進を阻まれている間、オージュローは4個中隊でアルポーネ川を渡河していた。

 そしてランヌ将軍率いる1個半旅団にアルコレ村に侵入するよう命じた。

 ランヌは1個大隊でアルポーネ川を渡ってアルポーネ川左岸沿いを進ませ、自身は2個大隊とともにアルポーネ川右岸沿いを進んだ。

 ランヌ将軍率いる半旅団は真っ直ぐ協調してアルポーネ川両岸を平行に前進した。

 しかし、ランヌと麾下の士官達の勇敢な行動にもかかわらず、ランヌ率いる2個大隊は前進を阻まれ、堤防の後ろに滑り込み一斉射撃を続けた。

 ランヌ将軍はゴヴェルノロで負った傷が完全に癒える前にアルコレの戦いに参戦し、アルコレ橋でさらに2度の戦傷を負って意識を失った。

 そして麾下の兵士達に安全な場所に引きずられ、戦場から数キロ離れた後方の救護所に運ばれた。

 戦線は膠着状態に陥ったが、しばらく後、オージュローが動いた。

 オージュローはヴェルヌ(Pierre François Verne)将軍に2個大隊を与えアルコレ橋の先に向かわせた。

 直後、ヴェルヌは致命傷を負い、ヴェルヌが率いていた2個大隊が無秩序に戻ってくるのを見たオージュローは旗を振って士官たちとともに堤防に駆け付けた。

 兵士たちが怖気づいて付いてこないのを見たオージュローは「この意気地なしどもが!そんなに死ぬのが怖いのか!」と叫んで橋のたもとまで進み、その場に数分間留まった。

 数人の歩兵が橋から100歩離れたところまでオージュローを追いかけた。

 しかしオーストリア軍のマスケット銃が火を噴くと致命傷を負ったヴェルヌを引きずり士官や兵士達とともに堤防の後ろに隠れた。

 間もなくヴェルヌは死亡し、40年の人生に幕を閉じた。

 ナポレオンはアルコレの戦いが終わった後に、この時アルコレ橋を渡るべきだったと振り返っている。

プロベラ師団及びミトロフスキー旅団の始動

 オージュロー師団がアルコレ橋周辺で足止めされている間、マッセナはアディジェ川を渡り、ロンコの舟橋の右側にあるポンテ・ゼルパーネ(Ponte Zerpone)からロンコの間に広がる森に1個半旅団を置いてオージュローが自由に使えるようにし、キルメインから送られた1個半旅団と1個大隊とともにベルフィオーレ(Belfiore)に向かった。

 ボールヴォワール(Beaurevoir)将軍指揮下の予備騎兵隊1,700騎は、ロンコの舟橋を渡らずに通り過ぎアディジェ川右岸に戦闘態勢を取って留まった。

 ボールヴォワール予備騎兵隊は左岸へ渡った軍に続こうとしたが、状況と地形がそれを許さなかったのである。

 アルヴィンチはカスダノウィッチ師団がゼーヴィオへ橋を架けアディジェ川を渡河するのをゴンビオンで夜明けまで待っており、ヴェローナへの攻撃を行おうと準備をしていた。

 1時間後、偵察からの報告が届き、フランス軍が夜中にアディジェ川を渡り、1つの列がアルコレの前哨部隊を押し戻し、別の列がベルフィオーレに向かったとのことだった。

 アルヴィンチはフランス軍のアルコレへの機動を単なる迂回部隊であると考え、特に増援を送るなどの手配をせず、万が一のために物資集積所の荷物をモンテベッロに送るよう手配した。

 しかし新たな報告が届き、アルコレ周辺にいるのがフランス軍の主力だと分かると、プロベラ師団に武器を取るよう命じた。

 午前11時頃、ガヴァッシーニ旅団はゴンビオンからベルフィオーレへの道を進み、正午頃、ボーヴァ(Bova)にいたブラベック将軍はガヴァッシーニ旅団を支援するために出発した。

 そしてブリジド旅団をできるだけ早く支援するためにミトロフスキー将軍に命令を送った。

◎プロベラ師団及びミトロフスキー旅団の始動

 フリウーリ軍の後衛と接触した後コローニャ(Cologna)に向かおうとしていたミトロフスキーは、12時半には1個大隊と1個騎兵中隊をブリジド旅団を支援するためにアルコレに向けて先行させ、自身は2個大隊とともにモンテベッロを出発し、可能な限り行軍速度を上げたにもかかわらず、午後3時頃にようやくサン・ボニファーチョに到着した。

 その後、ミトロフスキーは2個大隊を予備としてサン・ボニファーチョに留まった。

ガヴァッシーニの不運

 マッセナの前衛である1個大隊はビオンデの前でガヴァッシーニ旅団所属のオーストリア連隊と衝突した。

 この時、ガヴァッシーニは前方のビオンデで戦いながら後方にすでにフランス軍の前衛が土手沿いに進んだ可能性を考え、後部の警戒も怠っていなかった。

 マッセナの前衛は一旦後退して2門の大砲を準備して再び戦ったが、オーストリア連隊はそれも押し返して2門の大砲を鹵獲し、ゼルパ(Zerpa)に進んだ。

 ブラベックはアルヴィンチの指示に従ってガヴァッシーニ旅団の動きを支援し、マッセナの左翼に1個大隊を移動させてボーヴァ(Bova)からゼルパまで走る堤防を手に入れ、もしフランス軍がすでに川を下って進軍していた場合、攻撃して撃退するよう命じられていた。

 ブラベック指揮下のクロアチア人大隊は目の前で警戒しアルポーネ川右岸まで続いている部隊を敵とみなし、味方であるガヴァッシーニ旅団所属の連隊を砲撃し始めた。

◎ブラベックによる同士討ち

 遠目では敵味方の判別はできなかったのである。

 地形的にもアディジェ川がロンコの北で大きく曲がりくねっているため見通しが悪く、ブラベックはロンコ周辺の地形に疎かった。

 そしてガヴァッシーニはブラベック旅団が土手沿いを進軍してくることを知らされていなかったため後部を警戒し、それが仇となったのである。

 砲弾はゼルパでマッセナ師団と戦っているオーストリア連隊に命中し、オーストリア連隊はフランス軍に後部を衝かれたと思って混乱した。

 この瞬間、ガルダンヌはオーストリア連隊を突破し、鹵獲された2門の大砲を含む3門の大砲を放棄させた。

 オーストリア連隊は副官であるウェンデリング将軍を失いビオンデに戻った。

 マッセナは師団をベルフィオーレに向け、その途中でオーストリア旅団と遭遇しこれを撃退。その後、ベルフィオーレに入った。

アルコレ橋のボナパルト

※アントワーヌ・ジャン・グロ画「アルコレ橋のボナパルト」(ヴェルサイユ宮殿美術館蔵)

※ジャン・グロはアルコレの戦いの時に従軍していた。
ただ実際にナポレオンの無謀な行動を目撃したわけではなく、ロンコにいたのだろうと考えられる。
後にナポレオンはジャン・グロに「アルコレ橋のたもとに旗を立てた出来事」を絵画にするようミラノで依頼したと言われている。
※実際の旗はフランス国旗(トリコロール)ではなく、第5半旅団旗の1つで、白地で四隅に青と赤の菱形があるデザインのものだったそうである。


 オージュロー師団はアルポーネ川右岸のオーストリア軍を排除しアルコレ橋の手前まで部隊を進めることに成功していた。

 しかし、アルコレ橋は強固に守られ死体の山を築いており、アルコレ橋を渡るのは不可能であると考えられた。

 ボナパルトはオージュロー師団の前進が阻まれそれを乗り越えられないことを知らされるとすぐにアルコレに向かった。

 そして状況を把握するとロンコに到着したばかりのギウ将軍に、1個半旅団と1個大隊とともにアルバレードへ舟で川を渡って北上し、アルコレを後部から攻撃するよう命じた。

 同時にアルコレの正面からも攻撃を行う計画だった。

 ギウがアルコレを攻撃するまでには時間が必要だったため、その間ボナパルトはもう一度アルコレ橋への攻撃を行うよう命じた。

 しかし、アルコレを防衛するブリジド旅団がミトロフスキー旅団の一部によって補強されたばかりだったため、再度の攻撃は撃退され失敗に終わった。

 オージュロー麾下の主要な将軍であるボン、ランヌは負傷し、アルコレ橋の周囲は死体で覆われていた。

 オージュローが旗を持って橋のたもとまで行ったが兵士がついて行かなかったことを聞いたボナパルトは、下馬して第5半旅団旗を持って橋に向かい、そこに旗を立てようとした。

 その後をボナパルトの副官などの士官達や第5半旅団を統率するヴェルディエ将軍が追った。


※1826年、オラース・ヴェルネ(Horace Vernet)画「La Bataille duPontd'Arcole」

※資料によるとナポレオンは部隊を伴わず橋に向かい、そこに旗を立てようとして撃退されている。
しかし、多くのアルコレ橋の戦いを題材にする絵画やイラストなどはナポレオンの周囲に部隊がおり、突撃している様子が描かれている。


 この時のフランス軍は数的優位のフリウーリ軍に対し側面への奇襲攻撃により局所的な数的優位を作り出しており、数的劣勢なアルコレ周辺のオーストリア軍などは早々に撃破していなければならなかった。

 時間が経つごとにアルヴィンチが送ったであろう増援が到着し突破は困難になることは容易に予想された。

 しかし現実は沼地という地形により数的優位の利点は封じられ、ほんの数個大隊のブリジド旅団に前進を止められ、オージュロー師団の主要な将軍が負傷して戦線離脱し、大きな損害を被り、オージュローの呼びかけにも応えられないほど兵士達の士気は下がっていた。

 そのためボナパルトはこの窮地に対し自身の決意を行動に表し、「お前たちはロディの勝利者ではないか!」と呼びかけ、兵士達を奮起させようとしたのである。

 しかしボナパルトと副官などの士官達はオーストリア軍の格好の標的となり、ボナパルトが橋のたもとに到着する前に射撃が始まった。

 ボナパルトを追った士官達の多くは橋に背を向けて逃げた。

 副官ミュイロンが戦死し、副官のヴィニョール将軍とベリヤード(Belliard)大佐がボナパルトの近くで負傷し、オーストリア軍がアルコレ橋を渡りフランス軍の列を追跡したことにより混乱は最高潮に達した。

※ナポレオンは後にこの出来事を回想したとき、ミュイロンはナポレオンを庇い銃弾を受けて戦死したと語っている。

 兵士達が攻撃から身を隠すためにお互いに駆け寄ったため道幅は狭まり、堤防は混雑して逃げることもできず、多くは沼地に落ちた。

 ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトとジュノー、マルモンは彼らの体で壁を作り、ボナパルトを引きずって避難させた。

 ボナパルトは少し前に馬を連れてきたばかりであり、厚くて深い泥沼を無理やり通り抜けることを余儀なくされ、馬とともに泥沼に沈んだ。

 ルイは泥沼の中で何とか兄の片手に手を伸ばすことができた。

 しかし、マルモンの近くにいた2人の下士官がベリヤードの指示でボナパルトの助けに駆け寄り、ルイの近くの泥沼からボナパルトを引き抜いたとき、ルイは泥沼に飲み込まれようとしているところだった。

 その時、オーストリア軍は50歩と離れていなかった。

 ヴィニョールはこの差し迫った危機を乗り越えるために歩兵を集結させて振り返り、クロアチア人部隊を数百歩追跡し、ボナパルトが再び堤防の上に戻る時間を稼いだ。

 ブリジド大佐はフランス軍の混乱を好機と見てこれまで左岸に留まっていた第51半旅団の1個大隊を攻撃しアルポーネ川右岸に押し戻すことに成功し、同時にアルコレ村から堤防の上に向かって出撃した。

 堤防の上のフランス軍は撃退されたがその後退は砲台に設置された大砲によって支援され、勇敢な兵士達は大砲の後ろに再集結し、損失を伴いながら橋を越えて迫りくるブリジド旅団の前進を阻んだ。

 救護所のベッドで苦しんでいたランヌ将軍はこの出来事を知ると馬に飛び乗って駆け付けた。

 そしてその途中で被弾して地に落ち、そのまま意識を失った。

 戦いは日暮れまで止まることはなかった。

 ボナパルトはアルヴィンチがゼルパの近くで部隊を1つの集団にまとめて2つの師団に押し付けることを恐れ、夜中にオージュロー師団にアディジェ川を再び渡らせることが賢明であると判断した。

 不利な戦いで疲れ果てていたオージュロー師団はアディジェ川を再び渡った。

 マッセナもオージュローが撤退したことにより側面を衝かれることを警戒してベルフィオーレとビオンデを撤収し、アディジェ川を渡って右岸側に撤退した。

※この時の功績でかどうかは不明だがベリヤード大佐はアルコレの戦い後の11月18日に旅団長(少将)への昇進の辞令を受けた。

ギウ旅団の単独行と1日目の終わり

 11月15日午後4時頃、ギウはアルバレードへ舟で上陸し、アルコレ村へ2列に分かれて行進した。

 午後7時頃、ギウ旅団は夜の闇の中アルポーネ川左岸にあるアルコレ村に到着し攻撃を開始した。

◎ギウによるアルコレ村への攻撃

 初めに村に到着して攻撃を開始した右翼はクロアチア人部隊によって激しく撃退され、追跡された。

 しかし左翼はしばらくしてから攻撃し、防御側の大多数がギウ旅団右翼の追跡のためにアルコレ村の外にいたため容易に村に侵入することができた。

 短い抵抗の後、ブリジド大佐は多くの兵を無用に失いながらミトロフスキー旅団の大隊とともにサン・ボニファーチョに戻り、アルコレ村はフランス軍によって占領された。

 その後、ギウはアルコレ村で旅団右翼と合流したが周囲に友軍の姿は無く、参謀長やマッセナとも連絡が取れず孤立していた。

 この時、マッセナ師団、オージュロー師団ともにアディジェ川を渡って撤退していたため、一時的に独立して動いていたギウ旅団は戦果を上げたはいいが取り残される形となったのである。

 ギウはオーストリア軍の真っ只中で旅団を危険にさらすことを恐れて静かにアルバレードに後退し、夜中にアディジェ川を渡った。

 オーストリア軍側ではミトロフスキー将軍の部隊はサン・ボニファーチョとサン・ステファノの間で夜を過ごし、プロベラ師団はボーヴァとベルフィオーレ周辺で夜を過ごした。

 15日の終わりに9,000人よりもかろうじて強いフランス軍がアディジェ川の右岸に撤退すると、アルヴィンチは日暮れにゼーヴィオでアディジェ川を渡ることを未だ期待していた。

 しかし、フランス軍の奇襲攻撃により多くの兵員を動員せざるを得なくなり、ゼーヴィオへ橋を架ける作業は継続しつつも大きく遅れが生じることとなった。

 オーストリア軍がボナパルトの計画した奇襲攻撃を撃退したことにより、ヴィッラノーヴァの物資集積所を電撃的に奪う計画は失敗に終わり、もしアルコレでの戦いを継続する場合、翌日からフリウーリ軍全軍を相手に戦わなければならなくなることが予想された。

 ボナパルトのヴィッラノーヴァ奇襲作戦はアルコレ周辺の沼地によって阻まれる形となった。

 しかし一方で、ボナパルトによる北イタリア支配は進捗を見せており、この日ミラノを首都としロンバルディアとマントヴァを勢力圏としてトランスパダーナ共和国の建国が宣言された。

※トランスパダーナ共和国の国旗は「緑・白・赤」の三色旗であり、現在のイタリア共和国の国旗の源流を辿るとトランスパダーナ共和国の国旗に行きつくため、イタリア国旗もナポレオンの遺産と言えるでしょう。

 そしてマントヴァ要塞側では、アディジェ川方面から大砲の轟音が聞こえ、ガッビア塔(Torre della Gabbia)からはアルコレ方面での継続的な戦闘の火が観測されていた。

 これによりヴルムサーはフランス軍とオーストリア軍の戦いが始まったことを確信したが、11月14日から続くマントヴァ要塞への砲撃により有効な行動を起こすことができずにいた。