【詳細解説】モンテノッテ戦役【第一次イタリア遠征】Montenotte Campaign
モンテノッテ戦役
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | 37,775人 | 約6,000人 |
オーストリア サルディーニャ王国 |
約57,500人 | 約10,000人~約12,000人 |
ナポレオンが世界から注目され始めた戦いがこの「モンテノッテ戦役」です。
モンテノッテ戦役は「ヴォルトリの戦い」から「ケラスコの休戦」(サルディーニャ王国降伏)までの連続した戦いを指します。
日本では「ヴォルトリの戦い」から「カンポフォルミオ条約」までのイタリアにおける連続した戦いである「第一次イタリア遠征」と言った方が一般的かもしれません。
「第一次イタリア遠征」を細分化すると以下のようになります。
1、サルディーニャ王国(ピエモンテ)を第一次対仏大同盟から離脱させるまでの「モンテノッテ戦役」。
2、「ケラスコの休戦」から「ロディの戦い」を経て「ミラノ占領」し、その後オーストリア軍総司令官ボーリュー罷免に繋がる「ボルゲットの戦い」までの「ロディ戦役」。
3、オーストリア軍によるマントヴァ要塞救出作戦準備期間中に行われた「マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)」と「教皇領遠征」。
4、ナポレオンによる内戦作戦の成功例として有名であり、最初のマントヴァ要塞救出作戦である「ガルダ湖畔の戦い」。
5、「ガルダ湖畔の戦い」に敗れたヴルムサーを北イタリアから排除することを目的としたナポレオンの攻勢と2回目のマントヴァ要塞救出作戦がほぼ同時に行なわれた「バッサーノ戦役」。
6、ナポレオンを窮地に追い込んだ3回目のマントヴァ要塞救出作戦である「アルコレ戦役」。
7、数的劣勢なナポレオン軍がオーストリア軍を圧倒した4回目のマントヴァ要塞救出作戦である「リヴォリ戦役」。
8、「フランスの英雄」ナポレオンと「オーストリアの英雄」カール大公が初めて相まみえ、レオーベンの和約で休戦した「第一次イタリア遠征最後の戦役」。
そしてヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国を滅亡させ、オーストリア帝国との正式な和約である「カンポフォルミオ条約」の締結で終結となります。
本記事では第一次イタリア遠征の最初の戦役である「モンテノッテ戦役」について時系列に沿って経過をまとめまています。フランス側の資料だけではなくオーストリア側、イギリス側の資料も調査し出来得る限り網羅的にまとめましたのでモンテノッテ戦役、第一次イタリア遠征について詳しく知りたい人や戦術好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。
モンテノッテ戦役 01 戦役の始まり
1795年11月のロアノの戦いの後、冬の到来、戦いによる兵士達の疲弊によりフランス革命軍もピエモンテ・オーストリア連合軍もこれ以上の軍事行動を起こすことができませんでした。
ロアノの戦い時も飢えと給料不支給が問題になっていましたが、その後もひどい状態であり、イタリア方面軍総司令官シェレールは兵士の反乱と命令不服従に頭を悩ませていました。
シェレールはこれらを解決するために様々な施策を取りましたが、根本的な問題である食糧不足と給与不支給は解決できず3月末に辞任しました。
1796年3月27日、ナポレオン・ボナパルト中将がイタリア方面軍の新総司令官としてニースに到着します。
ナポレオンは事前にある程度のイタリア方面軍の現状を把握しており、フランス政府に食糧・物資を届けさせましたが、それでも事態は改善されないままでした。
イタリア方面軍の内情は既にボロボロであり自壊の道を歩んでいました。
詳細記事ではピエモンテ・オーストリア軍側の状況なども記載してありますので、ご覧になってください。
モンテノッテ戦役 02 コッリ中将の提案
ピエモンテ軍総司令官であるオーストリア軍将校コッリ中将はオーストリア軍総司令官であるボーリュー砲兵大将に2つの作戦を提案しました。
1つは攻撃的な計画で、ヴォルトリを攻撃することによりフランス革命軍をヴォルトリに集中させ、ピエモンテ軍、オーストリア軍の共同で包囲殲滅する計画。
もう1つは防衛的な計画で、オーストリア軍をアックイ周辺に、ピエモンテ軍をチェバ周辺に集結させて部隊を展開することで、フランス革命軍がどちらの方面に向かったとしても挟撃できる計画でした。
詳細記事では作戦図を掲載していますので、イメージしづらい方はそちらをご覧になってください。
モンテノッテ戦役 03 ボーリューとナポレオンの作戦計画
ボーリューはピエモンテ軍と連携した作戦ではなく、地中海に制海権を持つイギリス地中海艦隊と協力してフランス革命軍を攻撃する作戦を考えていました。
というのも、ボーリューはオーストリア本国からピエモンテが裏切ろうとしているとの情報を得ていたからでした。
ボーリュー本体はイギリス地中海艦隊とともにヴォルトリを占領し、同時にアルジャントー師団がモンテ・ネジーノを占領する。その後、ボーリュー本体とアルジャントー師団、イギリス地中海艦隊でサヴォナを攻略するという作戦でした。
この時、イギリス地中海艦隊には将来の提督であるホレーショ・ネルソンが配属され、サヴォナ沖で戦隊を率いていました。
対するナポレオンはピエモンテ軍とオーストリア軍を分断することを計画していました。
ピエモンテ軍とオーストリア軍の接点はカルカレであるため、第一段階としてカルカレを占領。その後、オーストリア軍を牽制しつつデゴを占領しオーストリア軍とピエモンテ軍の連絡を完全に遮断。そして数の少ないピエモンテ軍を各個撃破するという作戦でした。
モンテノッテ戦役 04 ヴォルトリの戦い
1796年3月31日、ボーリューはピジョン旅団排除のために南下命令を下しました。
オーストリア軍はヴォルトリの北に位置するマゾーネまでを勢力下に置き、ヴォルトリのフランス革命軍に迫りました。
そして4月9日、ボーリューは右翼のアルジャントー師団に対し、「翌日にモンテノッテを経由しサヴォナを攻撃せよ」という内容の書簡を送りました。
そしてボーリュー自身はマゾーネを発ち3方向からヴォルトリを目指し、10日の朝に攻撃を開始しました。
この攻撃開始時間はイギリス地中海艦隊へ伝えた時間よりも12時間早かったため、イギリス地中海艦隊のホレーショ・ネルソン戦隊司令官はヴォルトリからサヴォナまでの海岸沿いの街道を見渡せる位置で待機していましたが、ヴォルトリの戦いに参加することができませんでした。
病に倒れたピジョン将軍から指揮権を移譲されたセルヴォニ将軍は抵抗しつつ後退し、損害という損害もほとんど無くサヴォナ方面への撤退を完了させました。
なぜボーリューが予定よりも12時間早く攻撃を開始したのかは不明ですが、もしボーリューがイギリス地中海艦隊に伝えた時間通りに攻撃していたら、セルヴォニ旅団はネルソンに海岸線の退路を断たれ降伏を余儀なくされていたでしょう。
モンテノッテ戦役 05 モンテノッテの戦い01
1796年4月10日、アルジャントー中将はボーリューからの命令書を受け取るとすぐに準備に取り掛かりました。
アルジャントー師団は約11,500人を擁していましたが、モンテノッテの山々に分散して配置されていたため、兵を集結させるために時間が必要でした。
同日、ヴォルトリの戦いでフランス革命軍は敗退しましたが、この行動により今まで不明だったボーリュー本体の位置が判明し、目標であるカルカレとボーリュー本体との間は山岳地帯を挟み大きく離れている状況でした。
ナポレオンは4月15日に開始するはずだった作戦を繰り上げ、即座に反撃の準備に取り掛かりました。
4月11日、アルジャントーはモンテノッテ・インフェリオーレに約3,700人、カジノに1,500人の兵力を集めモンテ・ネジーノに向かい、その前衛部隊がモンテ・ネジーノに到着すると、フォルネシー大佐麾下の2個大隊が守るモンテ・ネジーノ砦に襲い掛かりました。
指揮官ランポン大佐麾下約1,200人はこの攻撃を知るとモンテ・ネジーノに急行しました。
モンテ・ネジーノの周囲は急な斜面で囲まれており、攻めづらく守りやすい地形でした。
アルジャントー本体とランポン大佐麾下1,200人がモンテ・ネジーノに到着しました。
ランポン大佐は砦から出てアルジャントー師団に攻撃を仕掛けましたが砦に押し戻されてしまいました。
砦の外で戦うにはアルジャントー師団に分がありました。
アルジャントーは攻撃部隊を形成し、北の斜面から幾度も攻撃を仕掛けましたが、すべて失敗に終わりました。
そして日も暮れ、アルジャントーはモンテ・ネジーノの正面に部隊を配置し野営に入りました。
モンテノッテ戦役 06 モンテノッテの戦い02
アルジャントーがモンテ・ネジーノの正面に部隊を配置したのは、モンテ・ネジーノを占領することだけが目的ではありませんでした。
この夜の間にセボッテンドルフとの連絡を確立して増援を要請。モンテ・ネジーノの後方に位置するカステッラーゾ山を占領しようとしていました。
アルジャントー師団でモンテ・ネジーノの前面を封鎖し、増援部隊に後方を封鎖させることにより、挟撃できるだけではなく、退路を断つことによる降伏も視野に入っていました。
しかし、この時セボッテンドルフはヴォルトリからサッセッロに向かっている途上であり、アルジャントー師団とは遠く離れていました。
対するナポレオンはアルジャントーのモンテ・ネジーノへの攻撃を知るや否や各師団に命令書を送りました。
ラハープ師団約7,000人はセルヴォニ旅団とともにモンテ・ネジーノの後方から砦を支援。メニエル師団約5,000人はアルターレを占領しカルカレを攻略。マッセナ師団はメナード旅団と合流しアルジャントーの側面攻撃を行う。兵のほとんどが武器を持っていないオージュロー師団はカルカレ攻略のために前進しました。
4月12日、夜が明けるとそこには増強されたモンテ・ネジーノがありました。
午前6時頃、ラハープはモンテ・ネジーノの正面に位置するルカヴィナ旅団を攻撃し、さらに約3,000人の分遣隊を編成してアルジャントー師団の左側面を攻撃させました。
マッセナ師団は息を殺してアルジャントー師団右翼側の崖下を進み、奇襲を仕掛けようとしていました。
最初の発砲でアルジャントー師団右翼がメナード旅団を発見しました。
メナードは発砲せずに銃剣突撃を行いました。
アルジャントーはこの右翼への奇襲攻撃に対応するために左翼から約2,000人を移動させましたが、それは遅すぎました。
駆け付けた時にはマッセナ師団とアルジャントー師団右翼の戦闘はすでに終わっていたからです。
右翼が崩れたことによりアルジャントー師団の戦線は崩壊し、即時撤退を命令した後、アルジャントーはモンテノッテ・インフェリオーレへ逃亡しました。
モンテ・ネジーノで戦いが繰り広げられている中、メニエル師団はアルターレと目標であるカルカレを何の抵抗もなく占領し、深夜、それにオージュロー師団が合流しました。
モンテノッテの戦いが始まるのをアルターレ近郊の高台で見ていたナポレオンは、後にアルジャントーを排除したという報告を受け取ると、オージュローとマッセナに新たな命令を下しました。
その命令とは、ミレッシモ、モンテゼモロへの進軍とデゴの占領でした。
モンテノッテ戦役 07 ミレッシモの戦い(コッセリア城の戦い)
オーストリア軍プロベラ少将率いる5個大隊は、コッセリアとミレッシモの間に位置するコッセリアの古城の北の山に展開しており、ボーリューとコッリの連絡線を保持していました。
1796年4月13日未明、モンテノッテの戦いで得たマスケット銃で武装したオージュロー師団はミレッシモへの進軍を開始し、プロベラ旅団を包囲するように機動しミレッシモに向かいました。
プロベラはフランス革命軍が近づいてきており、包囲されつつあることに気づいていませんでした。
そのため左翼に奇襲攻撃を受けて初めて自身が包囲されつつあることを知りました。
プロベラ旅団左翼はミレッシモを越えて大きく撤退し、プロベラはコッセリアの古城に約1,600人の兵士とともに籠城しました。
オージュローはプロベラの立て籠もる古城を包囲した後、ナポレオンの命令を待ちました。
この時、ナポレオンは焦っていました。
ナポレオンはピエモンテ軍とオーストリア軍の間に位置しており、挟撃の危険性と常に隣り合わせな状況に置かれていました。
プロベラ旅団は水、食料、木材などの資材が無ければ1日も経たず降伏するように見えました。
しかしフランス革命軍側も兵は飢え、装備、物資は乏しく、オーストリア軍から奪い取って現状を維持していました。
さらに補給も不定期であり、次にいつ補給があるのか不明であり、兵士たちは常に不安と不満の中にいました。
ナポレオンには時間がありませんでした。そのためナポレオンは古城を攻略する決意を固めました。
4月13日朝、ナポレオンはプロベラに対し降伏勧告を行いましたが、プロベラは大砲を発砲し抗戦の意思を見せました。
ナポレオンは即座にオージュローに古城への攻撃命令を下しました。しかし攻撃はすべてはね返されました。
正午頃、ナポレオンは再び降伏勧告を行いました。
それに対しプロベラは会談を要求しました。
この時、デゴで戦闘が始まったため、ナポレオンはデゴに急ぎ向かいました。
そのため会談はオージュローが担当し、プロベラと話し合いが行われました。
会談が物別れに終わると、オージュローはすぐに古城への攻撃を再開しました。
攻撃は今まで以上の苛烈さをもって行われましたがすべてはね返され、この戦闘でオージュロー麾下の2将軍が戦死してしまいます。
オージュローは大砲を用意し、夜間も継続して古城への攻撃を行いました。
そして深夜、オージュローは3度目となる降伏勧告を行い、プロベラはついに降伏を受け入れました。
古城に立て籠ったプロベラ旅団は食糧も弾薬も尽き、これ以上抵抗できない状況だったと言われています。
ナポレオンはこの戦いで、プロベラ将軍の思惑通りに時間を浪費させられてしまったのでした。
モンテノッテ戦役 08 デゴの戦い 01
1796年4月12日、デゴ占領の命令を受け取ったマッセナはメニエル師団とラハープ師団を麾下に置き、メニエル師団を率いてデゴへ進軍し、ラハープ師団には後からデゴに向かわせました。
13日、午前の間にマッセナはナポレオンと打ち合わせを行い、その際、脱走兵からの情報と前置きした上で「デゴには強力な部隊が配置されている」と伝えました。
これはマッセナがより多くの兵を集めるための嘘でしたが、デゴはオーストリア軍にとってピエモンテ軍との連絡の要だったため信憑性は十分にありました。
ナポレオンはマッセナを信じ、オージュロー師団から部隊を分離し、マッセナ師団の元に向かうよう指示しました。
その後、マッセナはデゴへ威力偵察を行いました。
その威力偵察を見たアルジャントー中将はデゴを増強するために自らパレットに赴き麾下の部隊を集結させ、デゴへ向かいました。デゴへの到着は14日の予定でした。
ボーリューはアルジャントーからの連絡でデゴが奪われようとしていることを知ると、サッセッロにいるビカソヴィッチ旅団に対し「翌日にデゴに移動するように」と命令しました。
ボーリューの意図は14日中にデゴに移動しアルジャントー師団を補強することでしたが、ビカソヴィッチがその命令書を受け取ったのは14日になってからだったため、ビカソヴィッチは5個大隊を集め、15日にデゴに到着するようサッセッロを出発しました。
ラハープ師団は13日中にマッセナの元に到着し、マッセナは2つの師団とともに野営しました。
14日早朝、13日にコッセリア城に立て籠ったプロベラ旅団が降伏したことを伝えて兵士たちを活気づかせ、正午、マッセナ師団はデゴへの攻撃を開始しました。
4倍以上のフランス革命軍に攻撃され、デゴを防衛していた守備隊約2,700人は散り散りになり指揮系統も統合できず混乱に陥りました。
そこへパレットで集結させた部隊とともにアルジャントーが戦場に到着し混乱を収めようとしましたが、それは無駄でした。
オーストリア軍は退路が断たれていると分かると武器やバッグを放り投げ逃亡しました。
その後、アルジャントーは追跡者を振り切りって撤退しました。
モンテノッテ戦役 09 デゴの戦い 02
デゴの守備隊とアルジャントー師団を排除したナポレオンでしたが、西にはコッリ中将率いる無傷のピエモンテ軍約20,000人がいました。
ナポレオンはメニエル師団をデゴに残し、ラハープ師団にオージュロー師団との合流を命じました。
その夜はひどい暴風雨だったため、アルジャントー師団はこの暴風雨を利用して逃げるだろうとマッセナは考えていました。
マッセナが師団を去った後、兵士たちは食糧を求めて略奪のために小隊を組んで周辺の村に降りて行きました。
師団は急速に規律を失い、部隊は分散して行き、周辺の村は隅々まで略奪を受けました。
そしてその夜、雨と寒さをしのぐためにマッセナ師団の兵士たちは周辺の村の家に散らばって休息をとりました。
1796年4月15日早朝、ビカソヴィッチはミオーリアに到着しました。
ミオーリアを経由した理由は、デゴを高地側から攻撃するためでした。
ビカソヴィッチがデゴに近づくと、フランスの歩哨部隊と遭遇し、それを捕らえました。
捕らえたフランス兵はデゴには20,000人がいると言いましたがビカソヴィッチはそれを信じず行軍を続けました。
ビカソヴィッチはデゴに到着し威力偵察を行うと、オーストリア軍襲来の警鐘が鳴り響き、デゴの駐留部隊に広まり、師団長メニエルもこの警鐘によりたたき起こされ、部隊を結集しようとしました。
ビカソヴィッチはフランス革命軍を高所から見て戦闘態勢に入っていないことを察知すると、すべての部隊を投入しました。
この時点でデゴ駐留軍の半数は逃亡し、残りの半数は秩序を失ったまま戦っていました。
そこへデゴを離れていたマッセナが急いで到着しました。
マッセナはデゴで秩序を回復し部隊を結集しようと試みましたがビカソヴィッチの猛攻撃により総崩れとなり、略奪による戦利品を放棄して逃亡しました。
マッセナはオーストリア軍の砲火の中で部隊を結集することを諦め、戦場から離れた兵を集結させるために後退しました。
デゴは再びオーストリア軍の手に渡ることになりました。
詳細記事では、この戦闘でのマッセナにまつわるエピソードについても紹介していますので、ぜひご覧ください。
モンテノッテ戦役 10 デゴの戦い 03
1796年4月15日午前、ビカソヴィッチはデゴ奪還を果たしましたが、現有戦力ではフランス革命軍による再侵攻を防ぎ切ることは困難と判断し、総司令官ボーリューの元へデゴ占領の報告と援軍の要請のために伝令を走らせました。
そして防衛のためにデゴの防衛施設を強化しました。
デゴがオーストリア軍の手に渡ったことを知ったナポレオンはチェバ方面に向かっていたラハープ師団にデゴに引き返すよう命令しました。
オージュロー師団からも部隊を分離してデゴに向かわせました。
各部隊がデゴに集結すると、4月15日正午頃、ナポレオンは攻撃命令を下しました。
ナポレオンは数的優位を活かし左翼・中央・右翼が高地を占拠するオーストリア軍を包み込むように駆け上がらせ、隙をみて騎兵隊をビカソヴィッチ旅団の背後に回り込ませ、退路を遮断しました。
退路を遮断されてもビカソヴィッチは動揺することなく指揮を執り続け、その後約1時間半もの間戦い続けました。
激しい攻防が繰り広げられましたが、数的劣勢なビカソヴィッチ旅団は徐々に削られていきました。
そこへフランス革命軍右翼が銃剣突撃を敢行し、少し遅れてマッセナも銃剣突撃を行いました。
ビカソヴィッチ旅団はこの連続した銃剣突撃に耐えられず主要道路に向けて急いで後退しました。
その後退は一部フランス騎兵隊によって阻まれましたが、それにも関わらずビカソヴィッチは配下の部隊とともに秩序を保ちアックイへ撤退して行きました。
その後、マッセナはデゴの北に位置するスピーニョ・モンフェッラートまで進出し、対オーストリア軍の前哨基地を構築しました。
モンテノッテ戦役 11 チェバの戦い 01
1796年4月15日にデゴを取り戻したナポレオンでしたが、オーストリア軍がデゴを諦める筈がないと考えていました。
その考えは正しく、南下してきたオーストリア軍の前衛部隊がスピーニョ・モンフェッラートのフランス革命軍の前哨基地を攻撃し、占領されてしまいました。
マッセナはこれに対応して部隊を派遣。オーストリア軍前衛部隊とその後から派遣されてきた5個大隊も各個に撃破しました。
ナポレオンとしては戦力のほとんどをピエモンテ軍に振り向けたいと考えていましたが、もしオーストリア軍が大挙して襲来してきてデゴ、カルカレを奪い返され場合、カディボナ、サヴォナを経由している連絡線を遮断される危険がありました。
そのためナポレオンは、オーストリア軍の動向を探るために偵察部隊を派遣しました。
しかし、オーストリア軍の気配は消え失せていたため、監視部隊を残しピエモンテ軍を打ち倒すべく戦力をチェバに向かわせ、本部をカルカレからミレッシモに移しました。
同日、ピエモンテ軍司令官コッリ中将はチェバとミレッシモのおよそ中間に位置するモンテゼモロにいました。
しかし東からはオージュロー師団が、南のガレッシオ方面からはセリュリエ師団が迫ってきていました。
モンテゼモロでオージュロー師団と対峙したとしてもセリュリエ師団にチェバ周辺を攻撃された場合、ピエモンテ本国との連絡線を遮断されてしまいます。
そしてチェバは西はモンドヴィ、北はケラスコやピエモンテの主要都市に繋がっている道の中心にあり、この地点には3つの要塞があり、その周辺の高地は約20㎞にも及ぶ塹壕によって囲まれていました。
チェバには難攻不落の巨大な防衛施設があったのです。
コッリはチェバで防衛戦を行うべく、その日の内にチェバに移動しました。
チェバの戦いの始まりです。
チェバ攻略のためのナポレオンの作戦は詳細記事の方に記載してありますので、そちらをご覧ください。
モンテノッテ戦役 12 チェバの戦い 02
1796年4月15日、オージュロー師団はコッリが残していった少数のピエモンテ部隊を蹴散らしてモンテゼモロを占領しチェバに向かいました。
チェバに近づくとピエモンテ軍が最北端に位置するペダゲラ要塞、その南のゴーヴォン要塞、そして最も巨大な最南端にいちするベルべデーレ要塞の要塞群とその周辺の塹壕地帯、そしてチェバの町を防衛しているのが見えました。
この時コッリは約20,000人の兵力を保有していましたが、他にも防衛するべき地点が多く、チェバには約3,500人しかいませんでした。
4月16日、オージュロー師団によるチェバの攻略戦が開始されました。
しかし要塞は堅固であり、幾度もの突撃が跳ね返されました。
その後、オージュロー師団はなんとか要塞の一部を占領したものの、その他の攻撃はすべて撃退されたため、パロルドへの後退を余儀なくされました。
オージュロー師団が戦っている間にマッセナ師団がチェバの後方を占領し連絡線を遮断する予定でしたが、マッセナ師団は軍靴や食糧などが不足しており現地調達していたため行軍が遅れ、ナポレオンの作戦についていけませんでした。
ですが、ペダゲラ要塞の北東に位置するモンバルカーロに到達しており、それはチェバからケラスコへの道を脅かせる位置でした。
セリュリエ師団はチェバの後方に位置するモンバジーリオを占領し、チェバからモンドヴィへの道を遮断しようとしていることをアピールするために、その夜、目立つように野営しました。
16日深夜、コッリは麾下の将軍を召集し作戦会議を開きました。
モンドヴィ、ケラスコへの連絡線は脅かされているため、それらが完全に遮断されて包囲が完成する前に撤退することが決まりました。
コッリは約800人の部隊をチェバに残し、夜の内に軍を後退させました。
翌朝、コッリがチェバから退却したことを知ったオージュローは慎重に要塞群を包囲し、チェバを占領しました。
チェバの戦いとピエモンテ軍のチェバからの後退方法について、より具体的に知りたい方は詳細記事を参照してください。
モンテノッテ戦役 13 サン・ミケーレの戦い
1796年4月17日午前10時頃、コッリ率いるピエモンテ軍はタナロ川とコルサリア川を渡り、ほとんどの橋を落としました。
フランス革命軍が進軍してくると考えられるタナロ川とコルサリア川の合流点を防衛する左翼をコッリ自身が指揮し、その後方に位置するサン・ミケーレ村、ヴィコフォルテ村を中央を、トッリ村以南に右翼を配置し、コルサリア川を天然の障壁として防衛体制を整えました。
コッリの構築した防衛体制は強固なものでした。
コルサリア川によって後背を突かれる危険性を減らし、タナロ川とコルサリア川を天然の障壁として利用していたため、正攻法での攻略が困難であると考えられました。
しかし、この防衛線を突破しなければピエモンテ軍とオーストリア軍に挟撃されるか、食糧や物資が足りず自壊の道を辿るのは目に見えていました。
4月18日、ナポレオンはセリュリエ師団にコルサリア川の渡河点を、オージュロー師団にタナロ川の渡河点を探索させ、もし渡河点が発見できればそのまま渡河しピエモンテ軍を攻撃するよう命令しました。
タナロ川では渡河点は発見できませんでしたが、コルサリア川ではセリュリエ師団が浅瀬を見つけ、ピエモンテ軍に発見される事無く渡河することができました。
セリュリエは師団からギウ旅団を切り離し、コルサリア川の別の渡河点を探索しつつサン・ミケーレ村の後方に回り込むよう命令しました。
そしてセリュリエ自身はサン・ミケーレ村に向かい、これを占領しました。
ギウは防衛されていない水道橋を見つけてコルサリア川を渡り、近くのトッレ村を占領しました。
その頃、タナロ川とコルサリア川の合流点を防衛していたコッリ将軍は、フランス革命軍がタナロ川を渡河できないのを見て取ると、部隊を形成し自らサン・ミケーレ村への支援に向かいました。
セリュリエ師団はサン・ミケーレ村周辺を勢力下に置くと兵士達は略奪のためにあらゆる方向に解散して行きました。
兵士達の飢えはセリュリエの厳格さをもってしても止めることはできませんでした。
午後早く、コッリがサン・ミケーレ村に到着したとき、セリュリエ師団は略奪の真っ最中であり、コッリに全く気付いていませんでした。
コッリは北の山側からサン・ミケーレ村に近づき、村の中心部にいるセリュリエ師団に奇襲を仕掛けました。
セリュリエ師団はコッリの奇襲に驚き、散り散りになってコルサリア川を渡り敗走しましたが、森の中でサン・ミケーレ村から逃げてきた兵を集結させることができました。
ナポレオンはデゴに続きサン・ミケーレ村での失敗を深刻に考えていましたが、兵士達の実情を考えると厳格に罰することはできませんでした。
モンテノッテ戦役 14 モンドヴィの戦い 01
1796年4月18日夜、ナポレオンはレゼーニョで作戦会議を開き、イタリア方面軍のおかれている状況を包み隠さず将軍達に伝え、サン・ミケーレ村からピエモンテ軍を追い出し、戦いの舞台をピエモンテの平野に移すこと、規律を再確立することが急務であることが決められました。
ナポレオンは攻撃計画の準備と補給の改善を含む連絡線の変更のために丸2日間、作戦行動を休止しました。
今までレゼーニョからミレッシモ、カルカレ、サヴォナを経由していた連絡線を、チェバ、オルメアを経由する安全なルートに変更したのです。
この連絡線の変更によりミレッシモ、カルカレ、サヴォナ周辺を防衛していた兵力を縮小しピエモンテ攻略に振り向けることができるようになり、加えて補給線の短縮により兵士達の不満を改善して規律を再確立することができるようになりました。
そして攻撃計画は4月21日に開始することが決まりました。
モンドヴィの戦いにおけるナポレオンの作戦計画については詳細記事に記載してありますので、ぜひご覧ください。
モンテノッテ戦役 15 モンドヴィの戦い 02
1796年4月20日夜、コッリはレゼーニョの橋を破壊し軍を後退させました。
一般的にはモンドヴィに流れるエッレロ川の背後に布陣し、防衛体制を整えてフランス革命軍を迎撃する計画だったと言われています。
しかし、エッレロ川の背後は平野でありエッレロ川の背後に布陣して防衛体制を整えた場合、ピエモンテ軍は不利な戦いを強いられる上に背後を脅かされる危険性が増すことになります。そしてオッテリア川は谷になっているため、地形的に見て最初からモンドヴィ南の高台で防衛するつもりだったのだと考えられます。
4月21日早朝、ナポレオンはコッリの後退を察知すると攻撃計画を繰り上げました。
ピエモンテ軍の防衛線は長く約20㎞にも及び、ヴィコフォルテ村を経由してモンドヴィへ後退させていたため、その後退速度は遅く、ピエモンテ軍の後衛は未だヴィコフォルテ周辺にいました。
ナポレオンはトッレ村の南に位置するガーディア山で総指揮を執り、メニエル師団とセリュリエ師団の2個師団に進軍命令を下しました。
メニエルはレゼーニョから、セリュリエはトッレ村側からヴィコフォルテに進軍しました。
ヴィコフォルテのピエモンテ軍はセリュリエ師団の攻撃に耐えきれずに敗走し、モンドヴィ南の山岳地帯に敗走しました。
メニエル師団はオッテリア川を渡るために谷に突入し、ヴィコフォルテから敗走する部隊の退路を遮断しました。
そしてナポレオンは中央を砲台の砲火の射程外に保ちながら両翼を伸ばし、ピエモンテ軍を取り囲むように三日月形に配置しました。
ピエモンテ軍は山岳地帯という有利な位置を占めていましたが数的劣勢と半包囲されているという不利な態勢のため徐々に削られていき遂に右翼が耐え切れずに後退しました。
ピエモンテ軍は右翼が崩れたことにより戦線を支えきれず、次々と拠点を放棄しモンドヴィに逃亡していきました。
主要道路はピエモンテの逃亡兵で溢れ返ったと言われています。
ピエモンテ軍はモンドヴィに流れるエッレロ川の左岸へ後退しましたが、フランス革命軍の動きは止まりませんでした。
コッリはモンドヴィを放棄して後退するために、兵士達を休ませた後、軍を2つに分割し、1つをフォッサノへ、もう1つをクネオすぐ北に位置するマドンナ・デル・オルモへ向かわせました。
ナポレオンは午後5時頃にモンドヴィを包囲して砲撃を開始し、午後6時頃にモンドヴィを占領しました。
フランス革命軍はモンドヴィの占領に伴って兵器廠を手中に収め、肥沃なピエモンテの平原に到達し、食料問題も大幅に軽減させることができました。
ナポレオンの次の目標はサルディーニャ王国の首都トリノです。フランス革命軍は圧倒的優位に立っているとはいえ、ピエモンテ軍は全軍を結集して防衛線を構築すると考えられました。
モンドヴィの戦いの具体的な経過については詳細記事に記載してありますのでご覧ください。
モンテノッテ戦役 16 ケラスコの休戦
ナポレオンは4月21日から22日の夜までに軍の再編成を終わらせ、ケレルマン中将率いるアルプス方面軍と対峙していたピエモンテのサヴォワ軍を降伏させクネオを占領しました。
サヴォワ軍としては正面にアルプス方面軍、後背にモンドヴィに進出してきたイタリア方面軍と前後を挟まれ降伏は免れない状況でした。
そして1796年4月23日、トリノへ向けて3個師団で進軍を開始しました。
モンドヴィでの敗戦の報がサルディーニャ王国国王ヴィクター・アマデウス3世の元に届くと、休戦の書簡をナポレオンの元に送りました。
ボーリューはコッリと合流しようとしましたが、この動きは遅きに失していました。
4月24日、ヴィクター・アマデウス3世からの休戦の書簡を受け取ったナポレオンでしたが、「いかなる交渉も彼らの進軍を遅らせることは許されない」とカッルから書簡を送り、進軍速度を一層速めてサルディーニャ国王に対して圧力を強めました。
4月25日、セリュリエ師団はコッリの本部のあるフォッサノを占領し、マッセナ師団はケラスコを占領。オージュロー師団はアルバを占領しました。
その間、ナポレオンはさらに連絡線の変更行い、チェバ、オルメアを経由している連絡線をクネオ、タンド峠、ニースを経由するルートへ変更し、連絡線をさらに安全に短くしました。
ボーリュー率いるオーストリア軍が近づいてきていることを懸念したナポレオンは、トリノ攻略とボーリュー率いるオーストリア軍との戦いを同時進行するよりも、現状を利用してより有利な条件で早々にサルディーニャ王国と休戦し、オーストリア方面へと侵攻した方がオーストリアとの戦いもより有利に進めることができると考えました。
そのため、ナポレオンは休戦交渉を行う権限を持っていませんでしたが、フランス政府の回答を待つ前に和平交渉を進めることにし、ケラスコへ赴きました。
4月26日、ナポレオンはケラスコに本部を移して交渉を行いました。
ナポレオンはサルディーニャ王国に対し、対仏大同盟からの脱退、サルディーニャ王国領内の自由通行権、領土や軍事施設の割譲、貴重な芸術品の譲渡の他にヴァレンツァでのポー河の渡航許可を要求し、27日にサルディーニャ王国は提案された条件をすべて受け入れました。
休戦条約が締結されたことによりオーストリア軍の将軍であるコッリはオーストリア兵士を連れてボーリューの元に向かいました。
ケラスコの休戦が締結されたことによってサルディーニャ王国は対仏大同盟軍から脱落し、モンテノッテ戦役は終結しました。
ナポレオンはアルベンガでの兵士達との約束を守り、肥沃なピエモンテの平原へ導きました。そして4月10日ヴォルトリで始まり、4月28日ケラスコで終わったこの18日間の戦役で、ナポレオンはモンテノッテ、ミレッシモ、デゴ、チェバ、モンドヴィと勝利を収め、オーストリアと対等に渡り合える状況を手に入れたのでした。
ピエモンテ軍に勝利したナポレオンの次なる標的はボーリュー大将率いるオーストリア軍であり、北イタリアを巡る戦いの終わりは未だ見えませんでした。
コラム
サン・ミケーレの戦い後の1796年4月19日、ナポレオンをして「わが運命を失わしめた男」と言わしめたシドニー・スミスがフランス北西に位置する港湾都市ル・アーブルでフランスに捕らえられています。
フランスの船を奪おうとしましたが失敗したのです。
通常は慣例に則り捕虜交換されるのですが、トゥーロン攻囲戦でのフランス艦船への放火の罪で起訴されたため、フランス革命後に監獄として使用されていたタンプル塔に収容されてしまいました。
トゥーロン攻囲戦時、シドニー・スミスは休暇中であり公式の戦闘員では無かったため、フランスは罪人とみなして捕虜交換の対象にはしなかったのです。
その2年後の1798年、シドニー・スミスはフランス王党派の手助けによりダンプル塔の脱走に成功。
5月に捕らえられたル・アーブルから釣り船に乗って出港し、イギリスの艦船に拾われ、無事ロンドンに到着しました。
参考文献References
・André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第二巻」
・デイヴィッド・ジェフリー・チャンドラー著 「ナポレオン戦争 第一巻」
・Jean-Baptiste-Antoine-Marcelin baron de Marbot著 「The memoirs of Baron de Marbot: late lieutenant - general in the French army 第二巻」
・H. Colburn著 「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson 第二巻」
・その他