モンテノッテ戦役 17 Montenotte campaign 17

モンテノッテ戦役

勢力 戦力 損害
フランス共和国 37,775人 約6,000人
オーストリア
サルディーニャ王国
約57,500人 約10,000人~約12,000人

モンテノッテ戦役の感想Impression

 このモンテノッテ戦役はピエモンテ軍とオーストリア軍の最初のボタンの掛け違いが悲惨な敗戦に繋がったと言っていいだろう。ボーリューが初めから数的優位を生かしたコッリの戦略を採用していればナポレオンに普通に勝利できただろうと思う。

 ただボーリューにはボーリューの視点があるので一概には批判はできないが、時間に対する認識の甘さと結果的に兵力を小出しにして戦ったことが大局的な敗北に繋がったことは間違いない。

 フランス軍は最初に大きな幸運があったが、それを掴みとって離さなかった。ほんの半日程度の期限付きの幸運だったが、その幸運を起点に自らの戦略に身を投じることができたことが最終的なフランス軍の勝利に繋がった。

 ヴォルトリの戦いについては、旅団長ピジョンが病に臥せ、戦いの直前にセルヴォニに指揮権を移譲したにも関わらず、セルヴォニは毅然とし各地点で規律を保ち抵抗を続けつつヴォルトリに撤退させ、ヴォルトリをあっさりと手放しオーストリア軍の夜襲を躱した。

 この戦いはオーストリア軍も数的優位を生かしピジョン旅団を追い詰めヴォルトリを手中に収めており、この局地のみを見るとオーストリア軍は優秀だった。

 対するセルヴォニも規律を保って撤退戦を繰り広げ、旅団の損害を最小限に抑えたことが戦役全体に貢献している。

 モンテノッテの戦いについては、まず主戦場がモンテ・ネジーノ(Monte Negino)だが、マッセナの回想録ではモンテ・レジーノ(Monte Legino)と書いてある。マップにはネジーノと書いてあったのでネジーノとしている。

 モンテノッテの戦いの作戦図においてマッセナがアルジャントーの右翼に突撃したときの場所についてだが、カディボナから出発し、断崖下からの攻撃であり、ルカヴィナ率いるピエモンテ軍中央から側面攻撃を受け、正面にピエモンテ軍右翼に気付かれずに近づける位置を考えた配置とした。

 デゴの戦いについては、2日目の戦いでフランス軍がビカソヴィッチの部隊に敗れたにも関わらず、その日の内にデゴに再侵攻をして奪い返す判断スピードは目を見張るものがある。ビカソヴィッチも兵力差があり、退路を遮断された中で戦闘を行い、規律を保って後退するところにビカソヴィッチの統率力を感じる。

 コッセリアの古城での戦い(ミレッシモの戦い)の作戦図についてだが、古城への攻撃時のフランス3部隊の位置はそれぞれ山の頂上にある古城の尾根の上に配置されている。ジュベールは古城正面ではなく、裏の尾根の上ということに注意してほしい。

 この戦いではプロベラが光ったと思う。フランス軍の攻撃を何度も撃退し、交渉を長引かせ時間稼ぎを行ったのである。しかし、プロベラが稼いだ時間はほぼ無駄になったことは惜しい。

 チェバの戦いについては、連絡線を脅かして堅固な要塞から退却を強いるナポレオンの戦略が刺さった。もしセリュリエ師団と合流できていなければ、このチェバで血みどろの戦いとなっていたと思われる。

 サン・ミケーレの戦いについては、コッリはコルサリア川とタナロ川の後ろという良いポジションに布陣したと感じた。険しい川があるために後背を突かれる心配が少ないためである。この防衛線を有効に守れていれば少しは戦局に変化があったのではないかと思う。

 この位置を放棄して、エッレロ川左岸まで後退しようとしたことが個人的に理解に苦しむ。

 なぜならエッレロ川左岸は平地であり、エッレロ川右岸は山岳地帯だからである。エッレロ川左岸へ後退したとしても、後背を突かれる可能性が高まり、山の上からモンドヴィやエッレロ川左岸のピエモンテ軍を砲撃されて不利な状況に陥るのである。

 そのためモンドヴィの戦いの時のピエモンテ軍の配置がコッリが予定していた配置だったのではないだろうかと思う。そもそもエッレロ川の後ろに後退予定だったのでは無く、モンドヴィ東にある山岳地帯を最終防衛線として予定していたという考え方である。

 こう考えた理由は他にもあり、コルサリア川とタナロ川の後ろのポジションから後退を始めたのは4月18日夜であり、フランス軍の攻撃が始まったのは4月19日早朝である。ヴィコフォルテに右翼のベルガルド大佐がいるということが不思議なのである。後退があまりにも遅すぎる。もしかしたら、後退が遅れた理由が何かあるのかも知れないし、本当にエッレロ川左岸に後退しようとしていたのかもしれないが。

 ちなみにサン・ミケーレの戦いの後、1796年4月19日、ナポレオンをして「わが運命を失わしめた男」と言わしめたシドニー・スミスがルアーブルでフランスに捕らえられている。フランスの船を奪おうとしたが失敗したのである。通常は慣例に則り捕虜交換されるのだが、トゥーロン攻囲戦でのフランス艦船への放火の罪で起訴されたためタンプル塔に収容されてしまった。トゥーロン攻囲戦時、シドニー・スミスは休暇中であり、公式の戦闘員では無かったため、フランスは罪人として捕虜交換の対象にはしなかったのである。

 最後に、ナポレオンは1979年3月9日にジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚している。パリ2区市庁舎で結婚式が行われたのだが、ナポレオンは2時間遅刻し結婚式は5分で終わったというエピソードがある。

 ナポレオンがニースで着任したのが3月27日。結婚式の18日後である。ナポレオンは若く新婚ほやほやであり、ジョゼフィーヌの肖像画をマッセナや他の将校に見せて自慢し、冷笑を買っていたとのことである。このエピソードは笑いを誘う一方、同情してしまう。

参考文献References

André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第二巻」
デイヴィッド・ジェフリー・チャンドラー著 「ナポレオン戦争 第一巻」
Wikipedia
Jean-Baptiste-Antoine-Marcelin baron de Marbot著 「The memoirs of Baron de Marbot: late lieutenant - general in the French army 第二巻」
その他