【第一次イタリア遠征】モンテベッロでのフォルトゥネの死【ナポレオン】 
Death of Fortune

1797年6月の第一次イタリア遠征中、モンテベッロでナポレオンの妹エリザとポーリーヌの結婚式が催される前、ジョゼフィーヌの愛犬フォルトゥネが死亡しました。

本記事では愛犬フォルトゥネとジョゼフィーヌの関係を紐解きながら「フォルトゥネの死とその後」について記載しています。

フォルトゥネとジョゼフィーヌの関係性に関するエピソード

1794年3月2日、ジョゼフィーヌの前の夫であるアレクサンドル・ド・ボアルネが王党派と見做されて逮捕され、カルム監獄(Prison des Carmes)に投獄されました。

ジョゼフィーヌは既にアレクサンドルと離婚していましたが、アレクサンドルの助命を歎願しました。

しかし、ジョゼフィーヌも王党派に連なるものであるとの疑いをかけられ、1794年4月21日、アレクサンドルと同じくカルム監獄に投獄されることとなりました。

ジョゼフィーヌは1日数時間アレクサンドルと面会することを許可されたと言われています。

この時、カルム監獄には友人のタリアン夫人も投獄されており、ジョゼフィーヌとタリアン夫人は壁に連署し、直筆のメッセージを書きました。

「自由よ、いつになったら空虚な言葉でなくなるの?私たちは17日間監禁されています。明日は出られると言われていますが、それは無駄な希望ではないでしょうか?」

※タリアン夫人は4月16日に別の刑務所から移され、ジョゼフィーヌは4月21日に投獄されています。タリアン夫人とジョゼフィーヌの関係性ではタリアン夫人の方が主導的役割を果たすことが多いため、この壁に書いたメッセージはタリアン夫人が主導した可能性が高く、17日間という数字はタリアン夫人から見て17日間であると考えられます。もしその推測が正しければ、壁にメッセージが書かれた日は1794年5月3日となるでしょう。

その後タリアン夫人は釈放されましたが、アレクサンドルとジョゼフィーヌは収監されたままでした。

この時のジョゼフィーヌは監獄の外で何が起こっているのかわからなかったため、不安でいっぱいでした。

ジョゼフィーヌの子であるウジェーヌとオルタンスは家庭教師とともに面会許可を得ていましたが、看守がすべての面会に同席している中でどのように監獄の外で起こっている事実を伝えればいいのか途方に暮れていました。

もし事実を伝えた場合、もう面会できなくなるか王党派と見做され投獄されてしまう可能性がありました。

しかしフォルトゥネだけはジョゼフィーヌの室内に入ることを禁じられておらず、自由に行き来できました。

ある日、家庭教師はフォルトゥネの首輪の裏にメモを隠すことを思い付き、フォルトゥネに新しい首輪を付けました。

そして面会時、フォルトゥネをジョゼフィーヌの元に送り込み、ジョゼフィーヌは隠されたメモに気付きました。

抜け目がないジョゼフィーヌはそれを察し、同じ方法でメモに返信しました。

こうしてジョゼフィーヌとジョゼフィーヌの友人との間には看守の監視下であるにもかかわらず連絡が確立され、彼女を救うための行動を常に知らせることができ、彼女の勇気を支えました。

そして1794年7月28日にロベスピエールがギロチンにかけられ恐怖政治が終わりを迎え、ジョセフィーヌは同年8月6日にようやく釈放されました。

家族は、あたかも犬の意志によってもたらされたかのように、犬を通してもたらされた正義に対して犬に感謝しました。

そしてフォルトゥネはウジェーヌとオルタンスにとってもジョゼフィーヌにとっても、ナポレオンがが容認せざるをえない信仰の対象となったのでした。

この信仰はフォルトゥネが亡くなるまで続きました。

この頃ナポレオンは1794年3月に少将としてイタリア方面軍砲兵司令官に任命され、4月には「サオルジオの戦い」に参戦しましたが、8月9日にロベスピエール一派であるとの疑いをかけられて逮捕されカッル砦に収監されています。

フォルトゥネの容姿と性格

※フォルトゥネの肖像

アルノーによると、フォルトゥネは脚が低く、体が長く、赤色よりも黄褐色のようなイタチ鼻、黒い顔とコルク栓抜きの尾を持つパグであり、ハンサムではなかったそうです。

そして善良でも愛される性格でもありませんでした。

フォルトゥネが懐いていたのはジョゼフィーヌとその子供達、そして愛人のイッポリト・シャルルのみだったと言われています。

もしかしたらフォルトゥネはジョゼフィーヌが本当に愛している人のみに懐く性質を持っていたのかもしれません。

フォルトゥネの死

エリザとポーリーヌの結婚式の前、ナポレオンがモンテベッロ城に滞在中のある晩、フォルトゥネは庭で一匹のマスティフ(犬種)と出会いました。

フォルトゥネはジョゼフィーヌとその子供、そして愛人以外の者のほとんどに傲慢な態度を示し、犬も人も関係なく噛むパグであり、マスティフは番犬として飼われるような大型で筋骨隆々の体つきの犬でした。

恐らくマフティフと出会った時もフォルトゥネは傲慢な態度で攻撃を仕掛けたのでしょう。

人間ほど寛大ではない犬はいつもフォルトゥネを許してくれるわけではありませんでした。

マスティフは料理人の犬であるにもかかわらず、自分が雇い主の犬よりも劣っているとは考えていませんでした。

マスティフはフォルトゥネを蹴散らして上に乗り、背中を噛み、頭を噛み、歯を噛み、フォルトゥネは倒れたまま動かなくなりました。

この時モンテベッロ城にいたアルノー曰く、ナポレオンはこの出来事を残念に思っており、夫婦のベッドを自分だけが所有することになってしまったため心から悲しんでいたそうです。

※フォルトゥネは常にジョゼフィーヌのベッドに潜り込んで寝ていたため、ナポレオンは必然的にフォルトゥネと寝なければなりませんでした。尚且つ、フォルトゥネはナポレオンにいっさい懐かず、結婚初夜にナポレオンがジョゼフィーヌとともに寝ようとした時、ナポレオンの足を噛んで追い出そうとしたというエピソードがあります。

参照:ナポレオンとジョゼフィーヌの結婚式

しかし、ナポレオンは心の中ではほくそ笑んでいたでしょう。

新たなパグ

※フォックスのイラスト

後日、悲しみと寂しさに打ちひしがれているジョゼフィーヌを見た愛人イッポリト・シャルル中尉は新たな犬をプレゼントしました。

フォルトゥネの後継者はフォルトゥネと同じくパグであり、英国犬であるためフォックス(Fox)と名付けられました。

フォックスはフォルトゥネと違って穏やか性格をしていましたが、ナポレオンはパグにトラウマを持っており「フォックス」は英国犬だったため、「彼はイギリス人だ」と言ったそうです。

※イギリスとフランスは海を隔てていますが覇権を争うライバル同士であり、仲は良くありませんでした。そのためイギリスに対して不信感や嫌悪感を持っている人の中には、信用できない紳士をイギリス人と呼ぶ人もいました。

ナポレオンは、「穏やかな性格に見えるけど実は傲慢な犬なんだろ?」と言いたかったのでしょう。

マスティフの飼い主である料理人とナポレオンのエピソード

ある日ナポレオンは料理人がモンテベッロ城から少し離れた涼しい木立の中を歩いているのを見ました。

ナポレオンを発見した料理人はすぐに森の中に身を隠しました。

それを見たナポレオンは「なぜ私から逃げるのですか?」と問いかけました。

料理人は「私の犬が将軍の犬を...。私の存在があなたにとって不快になるのではないかと心配したのです。」と言いました。

「あなたの犬だったのか! もう犬を飼っていないのですか?」とナポレオンが問うと、料理人は「申し訳ありません、将軍。私の犬はもう庭に置きません。特にマダム(ジョゼフィーヌ)が別の犬(フォックス)を持っているので...」と申し訳なさそうに答えました。

ナポレオンは「その犬を安心して走らせてください。おそらく彼は私のためにもう一つのもの(フォックスのこと)も処分してくれるでしょう。」と言いました。

ナポレオンがいかにフォルトゥネが嫌いだったかという事の他に、様々な隠された意味を感じ取れるエピソードです。

フォルトゥネのその後

※ナバラ城。作者不明

死後フォルトゥネは剝製にされて保存され、ジョゼフィーヌがナバラ公爵夫人の称号を与えられた1810年以降からナバラ城(Château de Navarre)で保存されました。

※ナバラ城はパリの西約90㎞ほどのところに位置するエヴルー(Évreux)近郊にかつて存在した城です。

しかし1834年に砲弾による火災で焼け落ち、1836年に取り壊される中で、フォルトゥネの剥製は行方不明となりました。

ナバラ城とともに燃え、灰になったのではないかと考えられます。

参考文献References

・Antoine-Vincent Arnault著「Souvenirs d'un sexagénaire,第3巻」(1833)