ロディの戦い 09 Battle of Lodi 09

ロディの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約17,500人 約500人
オーストリア 9,627人 約335人
捕虜:約1,701人

ロディの戦い 終盤戦Battle of Lodi Bridge (Late Stage)

 セボッテンドルフは戦線維持は困難と考え、ルスカの騎兵突撃によって分断された部隊の秩序を再確立させた。そして、両翼を伸ばしたフランス軍の包囲を避けるためにクレマへの撤退を命令した。

 コルテ・パラージオに配置したニコレッティ麾下3個大隊、2個騎兵中隊約1,958人がフォンタナで合流し、フォンタナに配置していたナポリ軽騎兵隊を含む8個騎兵中隊約1,092人に3個大隊と6個の大砲を加えて殿(しんがり)を形成した。

 殿の部隊はフォンタナを通って追撃しようと追ってくるダルマーニュ、マッセナ麾下の部隊に対して攻撃を加え、順番に後退していった。そして、フランス軍の追撃を撃退するために頻繁に向きを変えた。

 ダルマーニュ、マッセナ麾下の部隊はクレスピアティカまで追跡したが疲れ果てており、それ以上の追跡を断念した。健在な部隊は戦闘に参加できなかったボーモント騎兵隊のみだった。

 ボーモント騎兵隊は結局のところオーデナーを模倣してアッダ川を泳ぎ左岸に到着した。そしてオーストリア軍の追跡に入った。ダルマーニュ、マッセナ麾下の部隊を追い越し、クレスピアティカに向かった。

 ボーモントは疲れ果てて脱落したオーストリア軍の兵達を捕らえ、オーストリアとナポリの騎兵隊とせめぎ合いながら大砲や物資を奪った。

 セボッテンドルフはベンゾナへ後退しクレマへ後退した。

 ボーモントは午後9時頃までセボッテンドルフを追跡した。

 クレマは中立国であるヴェネツィア共和国の領土であり、クレマはセボッテンドルフに対して門を閉ざした。セボッテンドルフはクレマに入らず横を通り過ぎ、ボーリューとの合流のためにクレモナを目指した。

 キルメインについては夜が明けるまで浅瀬の探索から戻らなかったため、ついに追跡にも参加することは無かった。

 このロディの戦いで、オーストリア軍の死者153人、負傷者182人、捕虜1,701人。フランス軍は死傷者およそ500人。負傷した士官はマッセナの副官であるラトゥールのみだった。

 そして、フランス軍は勇名を馳せていたオーストリア軍将校ビカソヴィッチ准将を討ち取ったと歓喜に沸いたが、それはデマだったということが発覚した。

 このロディの戦いの数日後、ナポレオンは自身の運命について天啓を受け、野心を抱いたと言われている。

ミラノ占領Occupation of Milan

 星がちりばめられた5月10日の夜、ダルマーニュの選抜部隊、オージュロー師団、騎兵隊はアッダ川左岸のフォンタナからトルモまでそれぞれ野営をした。

 マッセナは本営のあるロディ周辺で野営をした。同日、セリュリエ師団はピアチェンツァでポー河渡河の準備をしていた。

 この夜、フランス軍は疲れ果てているにも関わらず、それぞれの村や町で禁止されているはずの略奪を行った。秩序ある略奪防止措置を実施することができたのは翌11日以降のことだった。

 5月11日、ダルマーニュの選抜部隊はクレマを占領しセボッテンドルフを追跡した。フランス軍が中立国の町を尊重することは無かった。

 キルメイン率いる騎兵隊はメレニャーノからカッサーノ・ダッダに向けて出発し、ミラノへの道を占領した。

 オージュロー師団はアッダ川左岸にある橋の出口付近に留まった。

 マッセナはジュベール旅団に2門の大砲を配備し、ムラッザーノに向かわせミラノ方面を警戒させた。

 コッリはクレモナでボーリューと合流することを容易にするためにミラノ周辺に駐屯軍を残していたのである。しかしロディを占領されたことによりクレモナでの合流は不可能となり、コッリとボーリューは連絡が遮断された状況が続いた。コッリはクレモナでの合流を諦め、マントヴァ要塞の北西にあるリヴァルタ・スル・ミンチョで合流するためブレシア方面へ行軍を続けた。

 5月12日朝、セボッテンドルフ師団はクレモナ付近でボーリューと合流し、指揮下に入った。その後ボーリューはピッツィゲットーネに約250人の守備隊を残して後退した。

 シュビルツはアクアネラに移動した。

 同日、マッセナ師団はロディ橋を渡り、クレマに部隊を集結させ、アッダ川左岸を行進してピッツィゲットーネへ向かった。そしてピアチェンツァでポー河を渡河したセリュリエ師団もピッツィゲットーネへ向かっていた。

 このマッセナ師団の動きはセリュリエ師団の動きと連動していた。ピッツィゲットーネ守備隊約250人はアッダ川右岸のメナード師団、セリュリエ師団、アッダ川左岸のマッセナ師団に包囲されたが、抵抗を続けていた。4~5時間の抵抗の後、メナード師団はついにアッダ川右岸にあるゲラ村を占領し、守備隊約250人を捕虜とした。

 コッリはブレシアに到着した。

 ピッツィゲットーネの占領によりアッダ川流域を勢力下に置いたボナパルトは、ロディの戦いまでの間にラハープの死、メニエルの体調不良、ピエモンテやミラノの占領による防衛すべき地域の増加により軍の再編と増援の必要性を感じていた。そして、ペスキエーラ要塞、マントヴァ要塞攻略のためミラノ周辺一帯の支配体制を確立する必要があった。

 ペスキエーラ要塞は中立国であるヴェネツィア共和国の領土であるが、オーストリア軍がペスキエーラ要塞を利用する可能性が高かった。そのためフランス軍はペスキエーラ要塞攻略も視野に入れて計画を立てなければならなかった。

 ミラノの占領にあたり、ボナパルトは既存の軍を再編成し、メナード、オージュロー、マッセナ、セリュリエの4個師団とキルメイン騎兵旅団を形成した。

 メナードはカッサーノ・ダッダとマレーオ周辺、オージュローはパヴィアを担当したがロディに半旅団を駐屯させた、マッセナはミラノとロディ、セリュリエはピアチェンツァを担当した。

 オージュロー麾下の半旅団をロディに配置させた理由は、ミラノの包囲のためにマッセナ師団の大部分の兵力が割かれたための補強だろうと考えられる。

 後方ではマッカードはクネオ、フランス政府から派遣されてきたハッキン中将はケラスコ、メニエルはトルトナの防衛に当たった。

 5月13日、オーストリア軍はサン・ロレンツォ・デ・ピチェナルディにセボッテンドルフを残し、ボーリューはマントヴァ要塞への道を急いだ。

 同日、マッセナ師団はジュベール旅団を先頭に「共和国万歳!」の叫び声とともにミラノの街に入った。「自由万歳!暴君を倒せ!」と大勢の人々が発した。

 マッセナはミラノを占領するために門に大砲と砲兵を、城壁付近に騎兵隊を配置し、師団本体は騎兵隊から1㎞ほど離れた場所で宿営した。

 マッセナはミラノを占領した直後、自治体の長を召喚し、マッセナ師団のための食料を要求した。そして、貴族たちに都市の鍵をロディにいるボナパルトの元へ運んでもらい、ボナパルトのために宿泊施設を準備するよう促した。

 貴族たちの長であるメルッチ伯爵はロディに赴きボナパルトへの献身を訴え、その見返りに軍隊、宗教、住民、財産を尊重することを約束するよう願い出た。

 フランス政府はミラノ占領というイタリア方面軍の破竹の勢いに、喜ぶ半面危機感を募らせていた。イタリア方面軍を二分してボナパルトとケレルマンに任せ、ボナパルトにはリヴォルノ、ローマ、ナポリ方面に進出させて教皇庁から戦利品を獲得し破産寸前のフランス財政を潤させ、ケレルマンにはロンバルディア(ポー河流域)を確保させることを計画した。ボナパルトの力を弱めようと画策したのである。

 これに対してボナパルトは「指揮の統一」の重要性と現時点でのリヴォルノ、ローマ、ナポリへの進出計画について軍における戦略的無価値を説き、もし自分のの考え通りにできなければこれ以上成果を上げることを期待しないで欲しいという書簡を送った。

 このフランス政府の作戦案には重大な欠陥があった。オーストリアと相対しているにも関わらず兵力を二分し、尚且つ片方に防衛させ、もう片方にはオーストリアとは関係のない地域に進出させようとしていたのである。

 まともな軍事指揮官ならこのような計画は立案しない。おそらくフランス政府はオーストリア軍は負け続けているため侵攻する余力なしと見て、フランス財政の立て直しとボナパルトの発言力の低下を優先させたのだろうと考えられる。

 オージュローはパヴィアのすべての店舗で食料や弾薬を押収した。

 5月14日、リヴァルタ・スル・ミンチョでボーリューはコッリと合流を果たした。

 同日、マッセナ麾下のランポン旅団がミラノに到着し、マッセナはミラノの包囲を形成した。

 5月15日、ボナパルトは歩兵を先行させ、騎兵隊に囲まれミラノに入城した。マッセナとジュベールはローマ門(Porta Romana)までボナパルトに会いに行った。ボナパルトがローマ門を通過するとミラノの都市警備隊は左右に列を形成し武器を掲げた。貴族達はボナパルトを歓待する準備が整っている大公邸への行進中ボナパルトを褒めちぎった。大公邸に入ると200席のディナーが用意されており、その後に華麗な舞踏会が続いた。

 総司令官ボナパルトを筆頭としてフランス軍はミラノにおいて盛大に迎え入れられた。

 ボナパルトにとっていくつかの不安要素があったにせよ、フランス軍はついにロンバルディア平原の最大の都市であるミラノを手中に収めたのである。