ヴェネツィア共和国の崩壊 04:ヴェネツィア共和国の滅亡
Fall of the Venetian Republic
ヴェネツィア共和国への宣戦布告
フランス共和国がオーストリア帝国とレオーベンで和平条約を締結したことによりヴェネツィア共和国は完全に孤立した。
ヴェネツィア政府はフランス軍への敵対行為をやめるよう民衆達を説得していたが、民衆達はそれを聞き入れず、ついに蜂起し、鎮圧されていた。
1797年5月1日、ボナパルトはパルマノヴァでこれまでの経緯を説明つつヴェネツィア政府の行為を非難し、ヴェネツィア共和国へ正式に宣戦布告を行った。
絶望的な状況の中、ヴェネツィア政府はナポレオンの元に急使を派遣した。
5月2日ヴェネツィアの急使はボナパルトと話し合い、一時的にヴェネツィア本土の中心都市であるメストレ(Mestre)と首都ヴェネツィアのみ数日間の停戦期間を得たが、同時に様々な受け入れがたい要求を突き付けられた。
回答期限は5月7日に定められ、ボナパルトはミラノへ向かい、交渉の場はミラノに移された。
5月4日、ヴェネツィア政府は大評議会での投票の末、ボナパルトの要求に従うことを決定した。
そしてテラ・フェルマでの反乱を扇動したと考えられる異端審問官、フランス軍に敵対した軍司令官の逮捕、政治的理由によって逮捕されているフランス人の釈放を布告した。
賛成704票、反対12票、棄権26票で可決されたと言われている。
ヴェネツィアの包囲
5月6日、ヴェローナにオージュロー将軍が到着した。
オージュローはクラーゲンフルト周辺にいるギウ師団を指揮し、「ヴェロネーゼのイースター」を主導した人物達を捕えて処刑し、ヴェローナへの罰を実行した。
そしてこの日、ボナパルトは麾下の全師団へ命令を下した。
◎ヴェネツィア包囲におけるイタリア方面軍各師団主力位置
ギウ師団はクラーゲンフルト、ブルーン将軍率いるマッセナ師団は追って通知があるまでゴリツィアに留まる。
トレヴィーゾに到達したドゥガ将軍は新たな騎兵部隊を加えた後、ウーディネへ向かう。
デュマ将軍はトレヴィーゾで騎兵師団を集結させ、ヴェネツィアから本土へのあらゆる連絡を遮断し、水を持ち込むのを阻止する。
デルマス将軍はポルデノーネを離れ、ベッルーノ、カドーレ、フェルトレを指揮する。
セリュリエ将軍は9日もサチレへの行進を継続するよう命じられ、その指揮範囲はピアーヴェ川からタリアメント川、つまりコネリアーノ川とタリアメント川右岸のフリウーリ州の一部まで及ぶこととなる。
バラグアイ・ディリエール将軍はトレヴィーゾに本部を置き、メストレに師団を配置する。
そして同じくトレヴィーゾに本部を置く予定であるデュマ騎兵師団と協力する。
ジュベール将軍はバッサーノに師団を留め、9日に1個旅団を分離してヴェローナに向かわせる。
分離した1個旅団はヴェローナを指揮するオージュロー将軍指揮下に入る。
ベルナドット師団はトリエステに師団を置き、1個旅団をウディネに配置する。
その結果、ベルナドット将軍はフリウーリ州の指揮を執り その指揮範囲はタリアメント川の左岸とモンファルコーネ(Monfalcone)県にまで及ぶことになる。
ヴィクトール将軍は師団をパドヴァに集結するよう命じられ、 パドヴァ、ポレージネ(Polesine)、アドリア(Adria)、ドガド(Dogato)を指揮することになる。
ボナパルトの意図は、バラグアイ・ディリエール師団でヴェネツィア共和国に対する圧力をかけつつ師団間で争いが起こらないよう各師団ごとにエリア分けを行い、訓練や演習、規律の向上を行なわせることであり、ボナパルトの命令が下ったらすぐに行動に移せるようにすることだった。
そのため、ヴェネツィアを取り囲むように各師団の主力を設置させたのである。
規律の向上は無法な略奪を行なわせないためのものであり、訓練や演習を行なわせるのはヴェネツィア共和国への圧力を増すためでもあった。
戦力の放棄
ヴェネツィア政府の閣僚達はレオーベンでの密約のことは知らないため、多くの領土を失うこととなったとしてもヴェネツィア共和国として可能な限り多くの領土を残して生き残ることを考えていた。
5月8日には屈辱と無力感によりヴェネツィア総督のルドヴィーコ・マニン(Ludovico Manin)が辞任を申し出る出来事があったが、周囲の説得により思いとどまった。
内部は動揺が広がり混乱している状況ではあったが、ヴェネツィア共和国は依然として独自の強力な艦隊、イストリアとダルマチアの領土、そして都市とラグーンの無傷の防御を保持していた。
しかしヴェネツィア政府は戦うことを選択せず、首都防衛のために動員した12,000人の軍の解散を命じた。
この背景にはドイツで勝利した約6万人のフランス軍に近い将来取り囲まれるだろうという絶望もあったが、イタリア本土及びアドリア海を封鎖され、軍を維持できるだけの経済力や物資が失われていることが大きな理由だった。
フランス軍はこの時点ですでにオーストリア本土からイタリアへ帰還していたのだが、ヴェネツィア政府はこの事を知らず、メストレのフランス軍はイタリアに残された部隊であり、ナポレオンの主力は未だオーストリアにいるものだと思っていた。
侵略の脅威にさらされていた5月11日の夜、年老いた総督は恐怖により「今夜ベッドで寝られるかわからない。(ベッドも安全ではないという意味)」と言ったと言われている。
ヴェネツィア共和国政府の廃止
5月12日朝、フランス軍がすぐそこにまで迫っている中、ヴェネツィア共和国最後の大評議会が開かれた。
投票権のある貴族1,200人のうち537人だけが議会に出席しており、定数を満たしていなかったが大評議会は開かれた。
この時点ですでに多くの貴族達がヴェネツィアから逃亡しただろうことが窺える。
その後、フランスの要求が評議にかけられた。
フランスの要求とは、フランス統制下の民主政権を支持し総督が退位すること、サン・マルコ広場に自由の木を植えること、フランス軍4,000人の上陸、フランスへの抵抗を強く支持していた何人かの議員の引き渡しなどである。
投票前、広場から銃による一斉射撃の音が鳴り響きわたり、議会は一時騒然となった。
しかし、それは解散した軍がサン・マルコの旗(ヴェネツィア共和国の国旗)に敬礼して出発するための一斉射撃の音だった。
フランス軍がいつ襲来するかの恐怖の中、議員たちは直ちに採決に進み、賛成512票、棄権5票、反対20票で、ヴェネツィア共和国政府の廃止を決議した。
ヴェネツィアの民衆の暴動
大評議会が閉会されると、総督はドカーレ宮殿(Palazzo Ducale)のバルコニーに立ち、下の広場に集まった群衆に向かってヴェネツィア共和国政府の解散を宣言した。
すると人々は立ち上がり、「聖マルコ万歳!」の叫び声を上げた。
総督の復権を成すためにフランスに対抗しようとし、ヴェネツィアのジャコバン派の家や所有物を攻撃した。
議員たちはフランスの報復を恐れて秩序を回復しようと奔走し、夕方、市内の巡回とリアルト川への大砲による威嚇射撃により秩序は回復した。
翌13日は略奪品の返還などフランスの機嫌を回復させるために奔走することとなった。
ヴェネツィア共和国の終焉
※1797年5月のナポレオンによるヴェネツィアの占領。
5月14日、ボナパルトはフランスの要求を受け入れるか否かのヴェネツィア大評議会の最後の決議の知らせを受け取り、バラグアイ・ディリエール将軍麾下の約5,000人の兵力をヴェネツィアの島々に送り込んだ。
その内の900人はメストレに残り、1,200人はヴェネツィア本島、残りは周辺の島々や要塞に派遣された。
そしてセリュリエ師団からは半旅団が、マントヴァ要塞からは大砲と砲兵及び船員が、ペスキエーラ要塞からは船員が、トリエステからは艦隊がバラグアイ・ディリエール師団を支援するために派遣された。
5月15日、総督はドゥカーレ宮殿を永遠に去り、ヴェネツィア政府最後の法令で暫定自治政府の誕生を発表した。
※ヴェネツィア共和国最後の総督ルドヴィーコ・マニンの退位。作者不明
そして1797年5月16日、ヴェネツィア暫定政府は正式に降伏文書に調印し、ボナパルトはヴェネツィア共和国のすべての権力を掌握した。
ヴェネツィア共和国の解体
5月16日、ボナパルトはミラノでヴェネツィア暫定自治政府と友好平和条約を締結した。
同時に締結された密約では、ヴェネツィアにはフランス共和国が提案した領土変更に応じることが定められ、3,000,000フランを支払う義務が課せられた。
そしてバラグアイ・ディリエール将軍は、イギリス、ロシア、ポルトガルのすべての財産とモデナ公の所有財産をヴェネツィアから取り上げた
※前年(1796年)にフランス軍接近の恐怖によりモデナ公国から逃亡したモデナ公エルコレ3世・デステはヴェネツィアに避難しており、この時フランス兵によって捕らえられ、20万ゼッキーノ(Zecchino)を強奪された。
その後、財産を失ったモデナ公はトレヴィーゾに移り住むことを余儀なくされ、その6年の後の1803年10月14日、モデナ公国を取り戻す夢は叶うことなく75歳で死亡した。
アドリア海に展開するブリュイ(François-Paul Brueys d'Aigalliers)海軍少将指揮下のフランス艦隊は、ヴェネツィアの艦艇によって増強され、イオニア諸島を占領した。
※ブリュイ将軍は翌1798年8月1日にナイルの海戦(アブキール海戦)でネルソン提督に敗れ、死亡する。
イタリア本土では、それまで従属していたヴェネツィア諸都市がヴェネツィア暫定自治政府に従うことを拒否し、その結果、共和国の領土は完全に解体されることとなった。
約1,100年の歴史あるヴェネツィアの「最も穏やかな共和国」が滅亡した瞬間だった。
これにより「最も穏やかな共和国」と呼ばれる国はジェノヴァ共和国、ルッカ共和国、サン・マリノ共和国のみとなった。
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