【詳細解説】ガルダ湖畔の戦い【第一次イタリア遠征】


ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロナート:約20,000人
カスティリオーネ:約30,000人
ロナート:約2,000人
カスティリオーネ:約1,300人
オーストリア ロナート:約15,000人
カスティリオーネ:約25,000人
ロナート:約5,000人
カスティリオーネ:死傷者約2,000人、捕虜約1,000人

伝説ではないガルダ湖畔の戦いについて詳細に知りたい方向けの記事です。

本記事では内戦作戦(各個撃破作戦)の典型例として有名な「ガルダ湖畔の戦い」について時系列に沿って経過をまとめまています。フランス軍側だけではなく、オーストリア軍側の戦略も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたのでガルダ湖畔の戦いについて詳しく知りたい人や戦術好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。

ガルダ湖畔の戦い 01 戦いの前

1796年7月中旬、教皇領への遠征を終えたナポレオンはヴォーボワ旅団をトスカーナ州リヴォルノに残して北イタリアに帰還すると、マントヴァ要塞の本格的な攻囲に取り掛かりました。

モンテノッテ戦役ロディの戦いボルゲットの戦いと続くナポレオンの快進撃は表面上順調でしたが、水面下では失敗を望む国々に囲まれていました。

対するオーストリア軍は7月1日にヴルムサーがドイツ方面からトレントに到着し、13日にロヴェレトへ移動しました。

トレント周辺にオーストリア軍が徐々に集結し、その勢力範囲を広げて行きました。

その結果、フランスの勢力範囲と重なり、バルド山にある3つの重要地点の1つであるボケッタ・ディ・カンピオーネで最初の衝突が発生。攻撃を仕掛けたフランス側が勝利を収めました。

日に日に増すオーストリア軍の脅威のためにナポレオンが防備を固めている間、オーストリア軍は着々と前哨基地を形成していきました。

そしてナポレオンの元に届いた前哨基地からの報告とオーストリア軍の攻撃計画の噂とが一致し、それはオーストリア軍の総攻撃が近いことを示唆していました。

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ガルダ湖畔の戦い 02 ヴェローナの反乱とオーストリア軍の侵攻計画

オーストリア軍接近の噂は反フランスであるヴェローナの市民達を奮い立たせ、自身で警備隊を結成しフランス革命軍に対抗しました。

ヴェローナを防衛していたランポン将軍は上官であるマッセナに救援を求め、ヴェローナの反乱の鎮圧に成功しました。

1796年7月17日、マッセナは未だ燻り続けているヴェローナでの反乱に対応するために連絡システムを確立し、師団本部をヴェローナ寄りに移動せざるを得なくなりました。

この反乱の間、オーストリア軍は侵攻計画を実行に移そうとしていました。

オーストリア軍の侵攻計画(全体)については詳細記事で解説しています。

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ガルダ湖畔の戦い 03 オーストリア軍右翼とガルダ湖艦隊の侵攻計画(詳細)

オーストリア軍右翼カスダノウィッチ師団は約18,000人を有し、6個旅団に分かれてイドロ湖方面に進み、キエーゼ渓谷とメッラ渓谷の二手に分かれて進軍する計画でした。

キエーゼ渓谷側の第一目標はサローとガヴァルドの占領、メッラ渓谷側の第一目標はブレシアの占領です。

オーストリア軍ガルダ湖艦隊の目標はフランス軍ガルダ湖艦隊をペスキエーラに封じ込め、ガルダ湖西岸の右翼と東岸の中央の連絡を担うことでした。

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ガルダ湖畔の戦い 04 オーストリア軍中央と左翼の侵攻計画(詳細)

オーストリア軍中央右のメラス師団は約14,000人を有し、4個旅団に分かれてアディジェ川右岸側を南下。川沿いとバルド山方面の二手に分かれて進軍し、バルド山を勢力下に置く。そしてそのまま進軍し、リヴォリを占領する計画でした。

オーストリア軍中央左のダヴィドウィッチ師団は約10,000人を有し、3個旅団に分かれてアディジェ川左岸側を南下。

フレダ峡谷で二手に分かれ、一方はアディジェ川左岸側をそのまま南下してリヴォリでメラス師団と合流する。

もう一方はレッシーニ山脈に入りヴェローナを占領する計画でした。

そしてオーストリア軍左翼メサロス師団は約5,000人を有し、2個旅団に分けられスガナ渓谷を通りバッサーノ、ヴィチェンツァと進軍し、モンテベロを占領する。

その後フランス軍が撤退したのを見計らってヴェローナとレニャーゴを占領する計画でした。

それぞれの計画の作戦図は詳細記事に掲載しています。

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ガルダ湖畔の戦い 05 ガルダ湖畔の戦いの始まり

1796年7月下旬、オーストリア軍全軍が移動を開始しました。

7月22日、イドロ湖周辺のオーストリア軍の動向に異変があることに気付き、23日、ガルダ湖においてオーストリア艦隊がフランス艦隊を攻撃し、フランス艦隊はペスキエーラへの撤退を余儀なくされました。

そして様々な前線での異変の報告がナポレオンの元に届き、28日、ナポレオンはオーストリア軍が24時間以内にオーストリア軍と接触することを全軍に伝え、臨戦態勢をとるよう指示しました。

同日、オーストリア軍側では総司令官ヴルムサー元帥が全軍に進軍の号令を発しました。

そして29日午前3時、ついにオーストリア軍の全軍が侵攻作戦を開始しました。

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ガルダ湖畔の戦い 06 オーストリア軍による侵攻①(コロナ、ブレンティーノでの戦闘)

1796年7月29日未明、戦闘が開始されました。

メラス師団本体はバルド山へ進軍しコロナを占領してリヴォリに向かって前進し、セボッテンドルフ師団はアディジェ川右岸沿いを南下しブレンティーノ、プレアボッコを占領してリヴォリへ向けて前進しました。

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ガルダ湖畔の戦い 07 オーストリア軍による侵攻②(リヴォリ、サローでの戦闘)

1796年7月29日、バルド山とアディジェ川流域で敗北したマッセナ師団は、オーストリア軍によるさらなる侵攻を防ぐため、リヴォリ周辺に集結し防衛体制を整えました。

しかしメラス師団とマッセナ師団が戦っている時、右側のインカナーレからダヴィドウィッチ師団が現れ、激しい戦いの末にリヴォリ砦はダヴィドウィッチの手に渡りました。

リヴォリ砦が失われたのを見たフランス革命軍ジュベール将軍は、リヴォリ盆地を放棄しました。そして後方に位置する山地で新たな戦線を構築し粘り強く応戦しました。

同日、ガルダ湖西岸側でもサローでソーレ師団とカスダノウィッチ師団との戦いが繰り広げられていました。

ソーレ師団は防衛する地域が広すぎたため、部隊を分散して配置していました。そのためサローの守備隊は数が少なく、オーストリア軍に敗れ、サローは占領されました。

ブレシアに向かったカスダノウィッチ師団本体は前衛部隊がブレシアの前にまで進軍しており、フランス革命軍の前衛部隊と衝突しました。

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ガルダ湖畔の戦い 08 全軍撤退の決断

1796年7月29日に始まったオーストリア軍の本格的な侵攻に対し有効な防衛策も無く敗戦を続けていたフランス革命軍でしたが、未だコロナ以外の地域の敗退について報告を受けていないナポレオンは態勢を立て直しオーストリア軍に対抗できると考えていました。

しかしナポレオンの元にブレンティーノ、リヴォリ、サローでの敗戦の報が入ると、オーストリア軍の本格的な侵攻が始まったことを確信し、即座に各師団に撤退指示を出しました。

前線を維持して抵抗しつつイタリア最大河川であるポー河を越えて撤退し、ポー河を自然の障壁として防衛線を構築する計画でした。

リヴォリ盆地の後方の山地でオーストリア軍に対抗していたマッセナ師団でしたが、数的劣勢は覆せずペスキエーラ要塞への撤退を余儀なくされました。

メサロス師団の状況やより詳しい両軍の状況は詳細記事に掲載していますのでご覧ください。

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ガルダ湖畔の戦い 09 ブレシアでの戦闘とフランス軍の状況

1796年7月30日夜明け頃、オーストリア軍カスダノウィッチ師団本体の前衛部隊がブレシアに攻撃を仕掛けました。

ブレシアは瞬く間に陥落し、ランヌ、ミュラ、ケレルマンの3将軍が捕虜となりました。

ブレシアを占領したカスダノウィッチは四方に偵察部隊を放ちモンテキアーリに向かいました。

29日にサローとガヴァルドを占領したカスダノウィッチ師団の分離は、サローに一部残って抵抗しているフランス革命軍を包囲しつつ、キエーゼ川に橋が架かっている重要地点ポンテ・サン・マルコを占領しました。

この時、マッセナ師団はヴルムサー本体とカスダノウィッチ師団にミンチョ川を挟んで挟撃されようとしていました。

一方、オージュロー師団は30日、ナポレオンからの書簡を受け取ると即座に事態を理解し、レニャーゴを離れロヴェルベッラへ退却しました。

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ガルダ湖畔の戦い 10 オージュローの提案

1796年7月30日午後9時頃、ナポレオンはロヴェルベッラに到着し、オージュローの元に行きました。

そして全軍撤退しポー河で防衛線を構築することを伝えると、オージュローはその作戦案に反対し、オーストリア軍に立ち向かうべきであることを主張しました。

ナポレオン、ベルティエ、オージュローは情報を共有し意見を言い合う中でオージュローが作戦を提案しました。

それは今すぐロヴェルベッラを立ってブレシアを取り戻してカスダノウィッチ師団打ち倒す。その後マッセナ師団と合流してヴルムサーと決戦を行うという計画でした。

オージュローの作戦にはいくつかの問題点がありました。しかしナポレオンはそれを修正し、オージュローの作戦案を採用しました。

ナポレオンとしては、ブレシアを奪還すれば兵力もミンチョ川の西側に集中し、その後の状況が変化したとしてもポー河やアッダ川を越えて撤退することもできたため、ブレシア奪還を許可したと考えられます。

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ガルダ湖畔の戦い 11 退路の確保と戦力の集中

1796年7月30日深夜、ナポレオンはセリュリエに対し師団の一部を分離してオージュロー師団とマッセナ師団を補強し、31日の夜にマントヴァの包囲を解いて撤退するよう命令しました。

さらにロヴェルベッラのマッセナ師団隷下の旅団やキルメイン騎兵隊をマッセナ師団と合流させてモンテキアーリを攻撃するよう命令しました。

これらの施策によりフランス革命軍は退路を確保した上でミンチョ川の西側に兵力を集中させることができ、カスダノウィッチ師団とヴルムサー本体とをミンチョ川で分断することが可能になりました。

そして7月31日夜明け頃、マッセナ師団の前線を支えていた旅団は追撃を受けつつもペスキエーラに到着しミンチョ川西側に避難することに成功しました。

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ガルダ湖畔の戦い 12 最初のロナートの戦い(第1次ロナート争奪戦)

1796年7月30日夜、ソーレ将軍とデスピノイ将軍はサローで包囲されている部隊の救出とサロー奪還の命令を受けました。

しかし、デスピノイはブレシアがオーストリア軍の手に渡ったことを知るとサローへの進軍準備を停止し、ソーレに対しても命令に反してデセンツァーノに残るよう促しました。

しかしソーレはデスピノイの誘いには乗らず、ソーレ師団のみでサローに向けて出発しました。

7月31日午前5時頃にサロー近郊にまで迫っていたソーレ師団は、激戦の末オーストリア軍に勝利し包囲されていた部隊を救出しました。しかしオーストリア軍に包囲機動を取られ、退路を遮断されることを懸念しデセンツァーノに撤退しました。

ソーレがサローを攻撃している頃、カスダノウィッチはデセンツァーノのすぐ隣にあるロナートに旅団を派遣し、これを占領しました。

これが最初のロナートの戦いの始まりです。

ロナートが攻撃されていることを知ったデスピノイは急行しロナートを奪還しました。

デスピノイが命令に反してデセンツァーノに残ったことが功を奏した勝利でした。

戦闘の経過については詳細記事を参照してください。

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ガルダ湖畔の戦い 13 マントヴァ要塞への進軍

1796年7月31日、マッセナ師団をペスキエーラに押し戻したヴルムサーはバヤリックス旅団をペスキエーラの包囲のために残し、午後4時頃、マッセナ師団をカスダノウィッチ師団とともに打ち砕くためヴァレッジョに急行しました。

カスダノウィッチ師団がマッセナ師団と対峙している間にヴァレッジョでボルゲット橋を渡りマッセナ師団の背後を突く作戦でした。

しかしヴルムサーがヴァレッジョに到着するとその考えは変わります。

ナポレオンとオージュロー師団がヴァレッジョとマントヴァ要塞の間に位置するロヴェルベッラに駐留して臨戦態勢を取っており、マントヴァ要塞は陥落寸前だったのです。

もしボルゲット橋を渡りカスダノウィッチ師団とともにマッセナ師団を攻撃した場合、オージュロー師団がゴーイトでミンチョ川を渡りヴルムサーの背後から襲い掛かり、最悪の場合、敗北もあり得ます。

そのためヴルムサーはまずロヴェルベッラにいるフランス革命軍を打ち砕き、メサロス師団とともに陥落寸前のマントヴァ要塞の救援に向かうことを決断しました。

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ガルダ湖畔の戦い 14 カスダノウィッチ師団の劣勢

1796年7月31日のサローへのソーレ師団の機動と最初のロナートでの戦いでの敗北はカスダノウィッチ師団の進軍を停止させました。

カスダノウィッチは師団の連絡線が脅かされようとしていることを懸念してガヴァルドに移動し再攻勢のために師団の再編成を行いました。

このカスダノウィッチの動きは連絡線の重要性を理解した堅実な考えの結果でした。

同日夜、ナポレオンの修正案によりブレシアへの出発を遅らせたオージュロー師団が最大の沈黙を保ってロヴェルベッラを出発しました。

ブレシアへの行軍途中のオーストリア軍の前哨基地や重要地点を次々と占領しブレシアに迫りました。

フランスの大軍がブレシアに迫ってきていることを察知したカスダノウィッチ師団隷下の旅団はすぐさまブレシアを放棄し。ガヴァルドに退却しました。

オージュローは戦うことなくブレシアを勢力下に置くと、ミラノとの連絡を再確立しました。

これらの行動によりフランス革命軍はミンチョ川西側に集結し、カスダノウィッチ師団は数的劣勢に追い込まれました。

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ガルダ湖畔の戦い 15 マントヴァ要塞への救援

1796年8月1日夜明け、マントヴァ要塞司令官カント・ディールは要塞を包囲していたフランス革命軍が忽然と姿を消したことに気付きました。

セリュリエ師団は7月31日夜にマントヴァ要塞の包囲を解き、オーストリア軍に察知されないようにマルカリアへ撤退していました。

マントヴァ要塞へ向かっていたヴルムサーがロヴェルベッラに迫ったとき、ロヴェルベッラはもぬけの殻でした。

ヴルムサーはリプタイ旅団にフランス革命軍の後を追わせ、自身はマントヴァ要塞の救援に向かいました。

ヴルムサーはマントヴァに到着すると物資を要塞内に運び入れて兵士たちに行きわたらせました。そしてフランス革命軍が放棄した大砲を要塞内に運び入れ、攻囲のための塹壕を埋め戻しました。

しかし各地でのカスダノウィッチ師団の敗戦の報が入ると、フランス革命軍の後を追わせたリプタイ旅団にカスティリオーネへの前進命令を出し、自身は8月2日午前3時にシュビルツ率いる騎兵隊を先行させてミンチョ川を渡らせ、ゴーイトに向かいました。

ヴルムサーとしては8月2日にミンチョ川を渡り、3日にカスダノウィッチ師団とフランス革命軍を挟撃することを想定してましたが、カスダノウィッチ師団のロナートでの敗戦の報により安全のためにミンチョ川を渡りませんでした。

このことがナポレオンとヴルムサーとの勝敗を分ける要因の1つになりました。

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ガルダ湖畔の戦い 16 銃無き戦いとナポレオンの決意

1796年8月1日、ブレシアを奪還したナポレオンは将軍達を召集し会議を開きました。

そして現状を共有しポー河を渡って後退することを提案しました。

オージュローはこれに反論し、抗戦論を主張しました。

しかし召集された将軍達はオージュローを除いて撤退論に同調し、オージュローは一人で撤退論者と戦いました。

その会議では方針は決まらず、抗戦論と撤退論を戦わせただけでした。

翌午前2時頃、ナポレオンはオージュローを呼び自身の決意を伝えました。

この時ナポレオンは明確にオーストリア軍を打ち砕く決断をしたのでした。

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ガルダ湖畔の戦い 17 ヴァレッテ旅団の後退とオージュローの決意

1796年8月1日、ランドリュー将軍はカスティリオーネでヴァレッテ将軍とともにいました。

ヴァレッテはナポレオンからカスティリオーネの死守を命じられていましたが、カスティリオーネは防衛には不向きな地形でした。

一方、ランドリューは、「ランドリューの部隊の後ろに如何なる部隊も残さないように」とオージュローから命じられていました。(ランドリューの後ろはミンチョ川方向)

もしオーストリア軍がカスティリオーネに攻めてきたらヴァレッテ旅団は瞬く間に全滅することは目に見えていました。

相反する2つの命令に対し、ランドリューはヴァレッテに自身の受けた命令に従うことを勧めました。

昼食を取り、キッチンから出ようとした時、村のあちこちから警鐘が鳴り響きました。

オーストリア軍の攻撃が始まり、ランドリューとヴァレッテは応戦しましたが、要所を抑えられ撤退の決断をしました。

ランドリューはヴァレッテを先に逃がし、自身は殿を務めました。

翌2日、ヴァレッテがモンテキアーリに逃げて来た時、オージュローがやってきて、死守すべきカスティリオーネを放棄したばかりかオージュロー師団の部隊に後退をそそのかしたことを激しく非難しました。

そして午後4時頃、ナポレオンがモンテキアーリに将軍達を召集し会議を開きました。

ナポレオンはそこでヴァレッテがカスティリオーネを放棄したことを知ると激怒し、ヴァレッテの将軍としての職務を停止させて軍の後方に配置しました。

フランス革命軍にとってカスティリオーネをオーストリア軍が占領しているという事実は、挟撃の危機にあることを意味していました。

ヴルムサーの前衛部隊がモンテキアーリのすぐ東に位置するカスティリオーネに迫ってきていたことで当初想定していた各個撃破計画は崩れ去りました。そのためナポレオンはアッダ川への撤退を主張しましたが、マッセナとオージュローに諫められます。

そしてヴァレッテによるカスティリオーネの放棄がオージュローとの命令の重複だとわかると事態をオージュローに丸投げし、自身はロナートに向かいました。

ナポレオンとしては事の発端であるオージュローにヴルムサー本体とその前衛部隊を抑え込ませ、自身はマッセナ師団とともにカスダノウィッチ師団を打ち砕くことを考えていました。

ですが、丸投げされた方は大変です。マッセナ師団がカスダノウィッチ師団を打ち破り反転してオージュロー師団と合流するまでヴルムサー本体を相手に時間を稼がなければならないのです。

過酷な任務になることは容易に想像できました。

丸投げされたオージュローは将軍達に支援を乞い、将軍達もオージュローの指揮を望みました。

オージュローはその晩の残りの時間を自身の決意と夜襲の準備に費やしました。

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ガルダ湖畔の戦い 18 ロナートの戦いにおける両軍の計画 

1796年8月2日夜、マッセナ師団はポンテ・サン・マルコを中心として、カスダノウィッチ師団はガヴァルドを中心として部隊を配置していました。

この段階ではフランス革命軍は数的優位な立場にいましたが、8月3日中にカスダノウィッチ師団を打ち破らなければヴルムサー本体が到着し、数的優位はオーストリア軍に傾いてしまう時間制限のある数的優位でした。

しかし、オージュロー師団が劣勢になったとき即座にオージュロー師団の補強をしなければならないため、本体を温存し両翼でカスダノウィッチ師団の両翼を打ち破り、その後カスダノウィッチ師団本体のあるガヴァルドで合流するというどちらかというと消極的な攻勢計画を実行しなければなりませんでした。

対するカスダノウィッチも数的劣勢なため、積極的な攻勢に出ることはできず、本体を温存し両翼でマッセナ師団の両翼を打ち破り、その後マッセナ師団本体のあるポンテ・サン・マルコで合流するという計画を採用しました。

奇しくもナポレオンとカスダノウィッチは立場と兵力は違えど類似した計画を実行に移し、それをほぼ同時に実行に移したのです。

具体的な計画は詳細記事に記載してありますので、ぜひそちらを参照してください。

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ガルダ湖畔の戦い 19 ロナートの戦い

1796年8月2日夜に計画を実行に移すため、両軍が動き出しました。

ナポレオンは右翼のギウ旅団をロナートからサローに向けて出発させ、カスダノウィッチは左翼オクスカイ旅団をサローからロナートに向けて出発させました。

そしてギウ旅団の動きを察知したカスダノウィッチはオクスカイ旅団の補強としてロイス旅団をデセンツァーノに差し向けました。

両軍、始点と終点を入れ替えただけの行軍でしたが、オーストリア軍は主街道を通り、フランス革命軍は忘れ去られた旧道を通ったため衝突することなく目的地に到着しましました。

そして3日、ギウ旅団はサローを占領し、オクスカイ旅団はロナートを防衛していたピジョン旅団を追い出しました。

ギウ旅団はサローを占領するとすぐさまカスダノウィッチ師団本体のいるガヴァルドに向けて進軍を開始しました。ガヴァルドの北まで進軍しましたがスポーク旅団の反撃に合ったため僅かに後退し態勢を整えました。

一方、オクスカイ旅団はロナートを占領するやいなやマッセナ師団本体がロナートに到着し、オクスカイ旅団は撃退され東のデセンツァーノの方向に逃亡しました。

ナポレオンはすぐさま騎兵隊を形成しデセンツァーノに先回りさせ、騎兵隊はデセンツァーノで待ち受けました。

オクスカイ旅団は取り囲まれて降伏しました。

しかしそこにカスダノウィッチ師団左翼の補強として派遣されたロイス旅団がデセンツァーノに到着します。

ロイス旅団はマッセナ師団に一撃を与えてオクスカイ旅団を救出しましたが、マッセナ師団に包囲されつつありました。

ロイスは退路を断たれることを察知し急いでガヴァルドに向かって撤退しましたが、マッセナ師団の追撃により多くの兵士が捕らえられました。

ガヴァルドに向かっていたマッセナ師団左翼デスピノイ師団はカスダノウィッチ師団右翼オット旅団と衝突しパイトーネで戦闘を繰り広げていました。

しかしオット旅団が補強されたためデスピノイ師団は無秩序にブレシアに撤退させられました。

この時点でカスダノウィッチ師団は右翼は勝利し、左翼側は敗北しました。マッセナ師団も右翼は勝利して左翼は敗北しており、勝敗は未だ定まらない状況でした。

ですがカスダノウィッチ師団は重要な退路の1つをギウ旅団に遮断されており、ギウ旅団をなんとかしなければならない状況でした。

そこへロイス旅団と壊滅状態のオクスカイ旅団が続々と到着し始めました。

カスダノウィッチは膠着状態のスポーク旅団とギウ旅団との戦闘を有利に進ませ退路を確保するために秩序を失っているオクスカイ旅団の兵士達で部隊を形成し武器を与えスポーク旅団を次々と補強しました。

これがオクスカイ旅団の最後の一撃となり、ギウ旅団をサローに押し戻し、退路の確保に成功しました。

詳細記事では作戦図等で詳しく解説しています。

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ガルダ湖畔の戦い 20 カスティリオーネの戦い<前哨戦>

1796年8月2日夜、モンテキアーリのオージュロー師団では、カスティリオーネを占領しているヴルムサーの前衛部隊であるリプタイ旅団に夜襲を行う準備をしていました。

そして8月3日0時にモンテキアーリを出発し、カスティリオーネに向かいました。

オージュロー師団は一日中飲食もできず3度もオーストリア軍と戦闘を行いました。

8月3日は炎天下であり、過酷な真夏日でした。

最初は未明にカスティリオーネでリプタイ旅団を打ち倒し、2度目は午前中に騎兵隊の補強を受けたリプタイ旅団が反転攻勢に出てオージュローの罠にかかり撃退され、3度目は昼過ぎにヴルムサー本体からの増援を受けたリプタイ旅団が再び反転攻勢に出たものの駆け付けてきたキルメイン騎兵隊に後背を突かれ敗退しました。

このオージュローの活躍によりヴルムサーは軍の再編制を余儀なくされ、一時的に停止せざるを得なくなりました。

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ガルダ湖畔の戦い 21 カスティリオーネの戦い<前夜>

1796年8月3日夜、マッセナはガヴァルドのカスダノウィッチ師団を包囲殲滅すべく計画していましたが、カスダノウィッチ師団はすでにイドロ湖方面への撤退準備を始めていました。

そのため8月4日、カスダノウィッチ師団のほとんどはイドロ湖方面に逃れることができました。

しかし一部はギウ旅団により分断され、分断された3個騎兵大隊約2,000人はガヴァルドに集結し最後衛を形成しました。

この最後衛がナポレオンを最大の窮地に陥れることになります。

最後衛はガヴァルドから南下してポンテ・サン・マルコでキエーゼ川を渡り、ロナート、カスティリオーネを通過してヴルムサー本体と合流する決定を下しました。

そしてポンテ・サン・マルコを通過しロナートに迫ったとき、丁度ナポレオンが約300人とともにロナートに到着したところでした。

ロナートの周囲には約1,200人しかおらず、合計しても1,500人ほどでした。

このままではナポレオンとその側近は捕らえられてしまいます。

しかしナポレオンは一計を案じカスダノウィッチ師団の最後衛を降伏させました。

そして8月6日までにカスダノウィッチ師団はイドロ湖周辺への撤退を完了させました。

カスダノウィッチ師団がしばらく再侵攻してくることは無いことを確信したナポレオンはギウ旅団を残し、オージュローの元に赴き、マッセナ師団をカスティリオーネに反転させました。

フランス革命軍はカスティリオーネに集結し、オーストリア軍はロッカ・ディ・ソルフェリーノに集結しました。

この時点で、フランス革命軍約22,000人、オーストリア軍約25,000人であり、オーストリア軍が数の上で有利でした。

そして翌日に行われるであろう決戦に備え、両軍ともに戦略を練り、準備を行いました。

両軍とも2列の戦列を形成し、布陣を行いました。

ナポレオンがカスダノウィッチ師団の最後衛を降伏させた計略や翌日に行われるカスティリオーネの戦いの両軍の戦略などは詳細記事に記載していますので、そちらを参照してください。

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ガルダ湖畔の戦い 22 カスティリオーネの戦い<本戦>

1796年8月5日早朝、両軍が睨み合う中、先にフランス軍が動き出しました。

当初の計画通り、中央寄りに配置していたオージュロー師団をオーストリア軍左翼側に移動させました。

その時、わずかに後退を行ったのですが、オーストリア軍はフランス革命軍の真意を誤解してフランス革命軍が完全に後退していると考え、全体的に前進を始めました。

午前7時頃オージュロー師団が所定の位置に付きました。そしてセリュリエ師団の前衛部隊がグイディッツォーロから出撃してくるのを確認した時、ナポレオンは最初の攻撃命令を下しました。

この最初の攻撃命令でフランス革命軍右翼がモンテ・メドラノのオーストリア軍左翼への攻撃を開始し、マッセナ師団は散兵を投入し攻撃を始めました。

オーストリア軍はモンテ・メドラノを支点としてフランス軍左翼を片翼包囲する機動を行いました。

しかしモンテ・メドラノは瞬く間にフランス革命軍に占領され、オーストリア軍は左翼側を圧迫されました。

オーストリア軍はそのまま前進し片翼包囲の機動を続けましたが、背後からフィオレラ将軍率いるセリュリエ師団の前衛部隊に本部を背後から急襲されました。

ヴルムサーは馬に乗って逃げる時間しか無かったと言われています。

フィオレラの後をガルダンヌ将軍率いるセリュリエ師団本体が続きました。

このセリュリエ師団の一撃を見たナポレオンが第二の攻撃命令を下すと、オージュロー師団とマッセナ師団の2列の戦列が本格的に動き始めました。

オージュロー師団はオーストリア軍を中央に押し込み、マッセナ師団はオーストリア軍中央と右翼の間の隙間を滑るように移動してオーストリア軍右翼を隔離しようとしました。

ヴルムサーは逃げた先で本部を再構築し、戦列の1列目をそのまま前進させ、2列目でセリュリエ師団に対抗させました。

この時点でフランス革命軍は約27,000人、オーストリア軍は約25,000人であり、開戦当時のオーストリア軍の数的優位は覆りました。

オーストリア軍の前線を支える将軍達はヴルムサーに撤退の要請を行いますが、ヴルムサーはそれを撥ね退け続けます。

しかし英国コミッショナーの進言を受け全軍撤退の命令を下しました。

オーストリア軍は秩序を保ってロッカ・ディ・ソルフェリーノに集結しつつヴァレッジョへの撤退を始めた時、ルクレール麾下2個半旅団約3,000人が戦場に到着し、瞬く間にロッカ・ディ・ソルフェリーノとその周辺の高地を奪取しました。

オーストリア軍は集結地点を失い秩序ある後退は一瞬で敗走に変わりました。

そして追撃戦に移り、フランス革命軍はオーストリア軍を逃さないように機動しましたが、地形に邪魔をされ、後から到着した部隊に防がれたため、オーストリア軍はわずかな損失でミンチョ川を渡りフランス革命軍の追撃から逃れることに成功しました。

この戦いでのオーストリア軍の損失は死傷者2,000人未満、捕虜約1,000人、大砲18門~20門だったと言われています。

戦いをイメージしづらいという方は詳細記事に作戦図を掲載していますので参照してください。

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ガルダ湖畔の戦い 23 ミンチョ川での攻防

1796年8月5日夜、フランス革命軍とオーストリア軍はミンチョ川を挟んで対峙していました。

ヴルムサーとしてはカスダノウィッチ師団とオーストリア本国からの増援がミンチョ川周辺に到着するまではミンチョ川を挟んでの膠着状態を望んでおり、ナポレオンとしてはミンチョ川を何としても通過しなければならない状況でした。

そこで8月6日、ナポレオンはヴルムサー本体のいるヴァレッジョはオージュロー師団に対峙させ、マッセナ師団を主攻としてペスキエーラでミンチョ川を通過する計画を実行に移します。

この作戦は成功し、ヴルムサーはチロル方面への退路を失う危機に直面しました。

ヴルムサーは即座にチロル方面への撤退を決断し、バルド山とその周辺でマッセナ師団に対抗しつつ、マントヴァ要塞を強化し、自身はヴェローナへ向かい撤退を行いました。

カスティリオーネに続き、ミンチョ川においてもヴルムサーは敗北し、出発地点であるトレントへの道を退却していくことになりました。

このミンチョ川での攻防で、ヴルムサーにはいくつかの選択肢がありました。それらの選択肢やペスキエーラ要塞の詳細などは詳細記事の掲載していますので、そちらを参照してください。

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ガルダ湖畔の戦い 24 オーストリア軍の退却とマントヴァ要塞の再包囲

1796年8月7日夜明け、ナポレオンはオーストリア軍の追跡を命じました。

マッセナ師団はリヴォリに進み、ボーモント率いるキルメイン騎兵隊、ガルダンヌ率いるセリュリエ師団、オージュロー師団はペスキエーラを通過しヴェローナに向かいました。

そこにはフランス革命軍を拒否し、市門を閉じるヴェローナの姿がありました。

ナポレオンは話し合いが決裂すると、ドマルタン砲兵隊にヴェローナの市門を破壊させ、ガルダンヌにヴェローナを占領させました。

オージュロー師団はそれを横目に通り過ぎ、ヴィチェンツァまでメサロス師団を追跡しました。

ヴェローナを占領すると8月8日にフィオレラ率いるセリュリエ師団にマントヴァ要塞の再包囲を命じましたが、フィオレラは病に倒れ、ソーゲ将軍がそれを引き継いて再包囲を行いました。

しかし多くの大砲を放棄して失っていたフランス革命軍は「攻囲」することはできず、「封鎖」を行わざるを得ませんでした。

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ガルダ湖畔の戦い 25 フランス革命軍の前進

1796年8月8日時点で、オーストリア軍のほとんどはフランス革命軍の追撃を振り切り対抗する姿勢を見せていました。

そしてオーストリア軍は再侵攻可能な兵力といくつかの重要地点を有していました。

そのため、ナポレオンはヴルムサーの再侵攻の意思を打ち砕くため8月10日、前線の3師団に前進を命じました。

マッセナ師団はバルド山とアディジェ川右岸側を攻略、オージュロー師団はヴェローナからレッシーニ山脈を攻略、ソーレ師団はイドロ湖周辺を攻略するために北上し前線を押し上げて行きました。

ソーレ師団はカスダノウィッチ師団右翼ロイス旅団を破ってトレントのすぐ西側にまで迫りました。そしてオーストリア軍全軍の退路を脅かし、リーヴァにいるカスダノウィッチ師団本体の重要な退路の1つを奪った時、ヴルムサーはさらなる撤退を指示しました。

しかしロイス旅団が反攻作戦を実行に移そうとしていることを知ると一転、その撤退命令を停止します。

ロイス旅団は反攻作戦を実行に移してトレントの西側の地域を占領し、カスダノウィッチ師団本体の重要な退路の1つを取り戻しました。

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ガルダ湖畔の戦い 26 ガルダ湖畔の戦いの終わり

1796年8月中旬、それまで順調に戦局を進めていたマッセナ師団とオージュロー師団も攻撃の限界点を迎えることになります。

オーストリア軍をトレントやロヴェレト周辺にまで追い詰めたところで山岳地帯の行軍による補給難により行軍を停止せざるを得なくなったのです。

各師団はこれ以上遠くに出撃することができなくなりました。

そしてその隙を突かれて反撃に合い、フランス革命軍は僅かながら後退。オーストリア軍に防衛のための重要地点と防備を固める時間を与えてしまうことになりました。

ヴルムサーはトレントとロヴェレト周辺で防備を固め、本国からの増援が到着するまで防御に徹することを考えており、対するナポレオンはさらなる進軍のための準備を行っていました。

この時点でマントヴァ要塞は包囲されているものの未だオーストリア軍の手中にあり、最初のマントヴァ要塞救出作戦であるガルダ湖畔の戦いは終わりを告げました。

ガルダ湖畔の戦い全体を通して、オーストリア軍は死傷者と捕虜を合計し16,770人を失い、対するフランス軍は死傷者約6,000人、捕虜約4,000人を失ったと言われています。

しかしマントヴァ要塞を巡る戦役はまだ始まったばかりであり、この後も戦いは続いていくことになります。

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ガルダ湖畔の戦い EX アスターテ会戦

銀河英雄伝説のアスターテ会戦のモデルの1つは「ガルダ湖畔の戦い」であると言われています。

アスターテ会戦は、宇宙歴796年/帝国歴487年2月に行われたエル・ファシルとイゼルローン要塞の間に位置するアスターテ宙域で行われた会戦です。

詳細記事ではナポレオンが関わった戦いと比較しながらアスターテ会戦について考察しています。

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参考文献References

André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第二巻」
デイヴィッド・ジェフリー・チャンドラー著 「ナポレオン戦争 第一巻」
アンドレ・マルロー編、小宮正弘訳 「ナポレオン自伝」
「Le rapport de la 5e demi-brigade de bataille」
「Bericht von GM Ott an FML Quosdanovich」
「Rapport de la 4e demi-brigade légère」
A. Lievyns, Jean Maurice Verdot, Pierre Bégat著「Fastes de la Légion-d'honneur: biographie de tous les décorés accompagnée de l'histoire législative et réglementaire de l'ordre, 第四巻」1844
その他