モンテノッテ戦役 13:サン・ミケーレの戦い Montenotte campaign 13

サン・ミケーレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約5,000人 約600人
オーストリア
サルディーニャ王国
約8,000人 約300人
※サン・ミケーレ周辺の戦闘のみ記載
※勢力について、オーストリアが含まれているのはオーストリアの将校と部隊が含まれているため記載
※フランス軍の戦力について、セリュリエ師団は当初約6,500人であり、チェバに約1,500人の分遣隊があるため、セリュリエ師団は補強が無ければ約5,000人であるため。

サン・ミケーレの戦いBattle of San Michele

 1796年4月17日午前10時頃、タナロ川とコルサリア川を渡ったコッリ率いるピエモンテ軍はほとんどの橋を落とし、コルサリア川の背後にあるサン・ミケーレとヴィコフォルテ周辺を中心としてディチャット少将が部隊を展開した。左はコッリがコルサリア川とタナロ川の合流点まで部隊を展開し、右はベルガルド大佐がトッレ村に重点を置き、その防衛線はコルサリア川沿いにフラボーザ・ソプラーナにまで伸びていた。

 チェバを撤退したピエモンテ軍右翼はレゼーニョからサン・ミケーレへ、中央のコッリはカステッリーノからタナロ川とコルサリア川の合流点へ移動した。

 レゼーニョやサン・ミケーレ、コルサリア、フラボーザ・ソプラーナの守備隊と合流し防衛線を固めたのである。

 コッリが右の防衛線を伸ばした理由であるが、コッリ視点では、チェバの戦いではセリュリエ師団が北上し、チェバの後背を突く行動を行っていたため、同様のことを繰り返さないためにフランス軍の別動部隊がコルサリア川の上流にあるコルサリア及びフラボーザ・ソプラーナ周辺でコルサリア川の渡河することを阻止し、後背を突かれるのを防ごうとした。

 そしてタナロ川は断崖が険しく渡河が困難であり、コルサリア川はタナロ川と比較して川の流れが緩やかで渡河点が多いため、コルサリア川の防衛線を伸ばさざるを得なかったと考えられる。

 そして、この時ボーリューは15日のデゴの戦いとスピーニョ・モンフェッラート(Spigno Monferrato)での敗戦によりアックイからの後退を決断し、アレクサンドリアとノヴィの間に位置するボスコ・マレンゴ(Bosco Marengo)への後退を始めた。

 ナポレオン視点では、ピエモンテ軍が防衛線を構築したコルサリア川がタナロ川に流れ込む三角地帯は天然の要害であり、正攻法での攻略が困難と思われた。

 まず、ピエモンテ軍は川を渡河しているため、フランス軍と地続きではない。

 次に、右には鋭い絶壁でほとんど通れない自然の断崖を形成している急で激しいコルサリア川が走っている。

 最後に、左はコルサリア川より流れが速くて深いタナロ川が走っているからである。

 しかし、この防衛線を突破しなければフランス軍には未来が無い。ボナパルトはオージュロー師団とセリュリエ師団にタナロ川沿いに西に移動し、翌日にレゼーニョとサン・ミケーレのラインを攻撃するように命じた。

 オージュローはレゼーニョの橋の前にいる部隊を排除し、タナロ右岸を行軍しタナロ川の渡河点を見つけ出し渡河を成功させる。

 セリュリエはコルサリア川右岸を上り渡河点を見つけ出し、サン・ミケーレを攻撃する。

 セリュリエの分遣隊約1,500人はチェバの町を防衛する。

 ドマルタンは1個大隊でチェバの要塞群を防衛し、連絡線を保持する。

 マッセナはモンバルカーロを出発しチェバに向かい、オージュロー、セリュリエと合流する。

 4月18日早朝、コッリはレゼーニョで接敵するとレゼーニョから部隊を後退させた。

 セリュリエは栗の木々と山々を覆う森の中を行軍し、急流をかなり上ったところに渡河点(浅瀬)を見つけ出し、幸運にもピエモンテ軍から発見されることなく渡河することができた。

 セリュリエはギウ旅団を分離し、ギウ旅団はさらにコルサリア川沿いを南下しサン・ミケーレの後方を突くよう機動した。セリュリエ師団はサン・ミケーレを防衛するディチャット大佐の部隊を攻撃し、サン・ミケーレを占領した。

 そして、サン・ミケーレのすぐ南にあるトッレ村付近でギウ旅団が水道橋を見つけ、トッレ村周辺を防衛していたピエモンテ軍右翼ベルガルド大佐を攻撃し追い払った。

 ベルガルドは追跡を逃れたが、ディチャットは捕虜となった。

 一方、オージュロー師団はタナロ川の渡河点を見つけ出せないでいた。砲火と絶壁に阻まれたのである。

 そんな中、ジュベール少将は負傷していたが急流の中に飛び込み、砲火の中、左岸に到達することができた。しかし、部下はジュベールが通った箇所が自分たちにとってはあまりにも危険だったため、渡河を拒否した。そのため、ジュベールは同じところを通って右岸の元の位置に戻らざるを得なかった。

 オージュローはタナロ川渡河を諦め、部隊を大砲の射程外に避難させ、ボナパルトに命令を求めた。

 フランス軍右翼がタナロ川を渡れないのを見て、コッリは部隊を形成し自らサン・ミケーレの支援に向かった。

 セリュリエ師団はサン・ミケーレ周辺を支配すると略奪に走り、あらゆる方向に解散して行った。

 兵達は給料も貰えず、飢えており事態を収拾することは厳格なセリュリエをもってしても不可能であった。

 ディチャットはこの隙を逃さず守衛を倒して逃亡した。

 午後早く、コッリの部隊がサン・ミケーレに到着したとき、セリュリエ師団は略奪の真っ最中であり、コッリに全く気付いていなかった。コッリは山側からサン・ミケーレに近づき、村の中心部にいるセリュリエに奇襲をかけた。

 セリュリエはこの突然の襲撃に驚き、散り散りに敗走した。

 そして幸運にもコルサリア川を渡り少し離れた栗の木の森で避難してきた兵を集結させることができた。

 トッレ村にいたギウ旅団は統制を失っておらず、この攻撃をやり過ごすことができた。

 ボナパルトはデゴに続きサン・ミケーレでの無規律による失敗を深刻に考えていたが、兵士達の実情を考えると厳格に罰することはできなかった。

 兵士達の視点だと、将軍たちの指示に従って略奪をしないならば、食事をし、服を着て、給料を貰っているはずなのである。

 ボナパルトは本部をレゼーニョ(レゼーニョの町ではなく、近辺の大砲の射程外の高台と思われる)に移した。

 そして、すべての主要な将軍達にレゼーニョに集まるよう命じた。

 この時、マッセナはチェバの橋でタナロ川を渡っているところだった。マッセナは将軍達の集まるレゼーニョへ向かった。