【詳細解説】アルコレ戦役【第一次イタリア遠征】


カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

伝説ではない「アルコレ戦役」について詳細に知りたい方向けの記事です。

本記事ではナポレオンにとって第一次イタリア遠征最大の苦境である「アルコレ戦役」について時系列に沿って経過をまとめまています。

アルコレ戦役とは「アルコレの戦い」を含む前後の連続した戦い全体のことです。

フランス軍側だけではなく、オーストリア軍側の戦略も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたのでアルコレ戦役やアルコレの戦いについて詳しく知りたい人や戦術好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。

アルコレ戦役 01 ゴヴェルノロの戦い

1796年9月15日にヴルムサー元帥率いる救援軍がマントヴァ要塞に避難したことによりバッサーノ戦役は終わりました。

しかしフランス軍とオーストリア軍の戦いは未だ続いていました。

サン・ジョルジュの戦いの後、ミラノにいる妻ジョゼフィーヌの浮気に激怒していたナポレオンは、包囲の一部をわざと緩めヴルムサーをマントヴァ要塞の外に誘き出そうとしました。

ヴルムサーはナポレオンの目論見通りマントヴァ要塞からクレナウ旅団を出撃させ、要塞南西部を勢力下に置いて物資をかき集めました。

しかしマントヴァ要塞南西部の占領地を維持して安定的に物資を集めるためにはマントヴァ要塞南東に位置するゴヴェルノロを占領することが不可欠であり、ヴルムサーが将来マントヴァ要塞を離れることになった時のためにもゴヴェルノロを占領しておく必要がありました。

そしてゴヴェルノロにはボン将軍率いる師団が駐留しており、もしフランス軍がゴヴェルノロ橋を渡ってマントヴァ要塞を攻撃してきた場合、その攻撃を阻むことは難しくマントヴァ要塞南西部の占領地も手放さなければならなくなってしまいます。

ヴルムサーはゴヴェルノロへの奇襲攻撃を行うよう命じました。

しかしヴルムサーの動きはフランス軍に筒抜けでした。

キルメイン将軍はボン将軍率いる師団に増援を送ってこれを撃退し、オーストリア軍はマントヴァ要塞に逃亡しました。

フランス軍は追撃しようとしましたが濃霧のためうまく捕捉できず、多くのオーストリア軍を取り逃しました。

その後、オーストリア軍はマントヴァ要塞の南東に位置するヴィルジリアーナで態勢を立て直そうとしますが、フランス軍に完全に包囲されました。

ですが深追いを警戒したキルメイン将軍が撤退命令を出したことによりボン師団はヴィルジリアーナから撤退しゴヴェルノロの戦いは終わりました。

詳細記事ではゴヴェルノロの戦いについてより詳しく記載しています。

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アルコレ戦役 02 両軍の状況

バッサーノ戦役以降、フランス軍は将官や士官が不足しており、マントヴァ要塞付近に駐留している部隊には熱病が発生し、師団長はそれに対応しなければならない状況でした。

特にマッセナ師団はひどい状態であり、マッセナはナポレオンに師団の一部をヴィチェンツァまたはヴェローナへ派遣するよう要求しました。

マッセナの要求は認められ、師団の一部をヴェローナに移しました。

ボン将軍率いるオージュロー師団は師団長であるオージュローが療養中であり、ランヌやミュラなどの主要な上級士官が負傷して戦線離脱していました。

オージュロー師団は約5,000人でゴヴェルノロの防衛任務を行っていました。

ヴォーボワ師団は引き続きチロルの山中でダヴィドウィッチと対峙していました。

一方、オーストリア軍側ではヴルムサー元帥の後継としてアルヴィンチ砲兵大将が救援軍の総司令官となってチロルに向かい、マントヴァ要塞を救出するためにダヴィドウィッチ師団との共同作戦について話し合われました。

その共同作戦とは、ダヴィドウィッチ師団は南下してトレント、カッリアーノを占領してヴェローナに進軍し、フリウーリ軍はバッサーノを占領してブレンタ川を渡り、ヴィチェンツァを経由してヴェローナに向かう。

その間、マントヴァ要塞にいるヴルムサー元帥は動員可能なすべての兵士とともにマントヴァ要塞を離れ、フランス軍の後方に出て強力な迂回攻撃を行い、地路露軍とフリウーリ軍とともにフランス軍を合撃するという計画でした。

この計画が成功した場合、フランス軍はマントヴァ要塞の放棄を余儀なくされ、大きく撤退せざるを得ない状況を強いられるだろうと考えられました。

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アルコレ戦役 03 マントヴァ要塞の完全包囲

1796年9月下旬頃、ローマ政府とナポリ王国は協力体制を築こうとしており、教皇はあわよくばボローニャとフェラーラを奪い返すことを企図してモンタルトに民兵を派遣しました。

民兵の武器はトスカーナ大公が供給し、ナポレオンはオーストリア軍だけではなく、裏で策動している国々の対応にも追われていました。

マントヴァ要塞側では、キルメイン将軍としてはこれ以上マントヴァ要塞駐屯軍に物資調達を許す必要は無く、マントヴァ要塞内のオーストリア軍を干上がらせるために、マントヴァ要塞を完全に包囲しました。

詳細記事では、この時に包囲の外に残されてしまったオーストリア部隊の珍道中なども記載していますので、ぜひご覧になってください。

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アルコレ戦役 04 カスダノウィッチ師団の進軍とナポレオンによるイタリア方面軍の強化

9月下旬に多くの増援を受け取ったカスダノウィッチは、フランス軍が弱体化しているためアディジェ川より先に進軍することができないでいることを知りました。

10月1日、カスダノウィッチはブレンタ川に前哨部隊を配置し、ヴィチェンツァまで偵察部隊を押し進めました。

ナポレオンはその対応としてマッセナ師団約5,000人をバッサーノに派遣して部隊を配置するよう命じました。

マッセナ師団がバッサーノに向けて出発したころ、ナポレオンはバッサーノ戦役の損失と熱病などで弱体化したイタリア方面軍の力を強化するために奔走していました。

バッサーノ戦役後のイタリア方面軍の状況は危機的であり、この時点での動員可能兵数は18,900人(キルメイン師団含めず)でした。

オーストリアは未だマントヴァを諦めておらず、三度の侵攻を行ってくることは明白でした。

さらに近い未来を考えると、冬に入った時、オーストリア軍は一部の連絡線(補給路など)が使えなくなるものの本国から前線への補給は可能であるのに対し、イタリア方面軍と本国との連絡線は雪に覆われたアルプス山脈によって遮られるため、雪で覆われる前にアルプス山脈を越えた部隊しか前線に到着することができなくなってしまいます。

そのため、ナポレオンはあらゆる手段を利用してイタリア方面軍の強化を図ったのでした。

ナポレオンの具体的な強化策を知りたい方は詳細記事を参照してください。

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アルコレ戦役 05 後方への陽動とフランスの姉妹都市国家建国構想

1796年10月1日の段階でオーストリア軍がフリウーリ方面からブレンタ川流域まで進出してきており、正面から戦った場合、現状の戦力ではオーストリア軍に打ち勝つことは難しいと考えたナポレオンはフリウーリ州のさらに後方に位置するハンガリーで暴動の種を蒔くためにいくつかのプロパガンダを広めました。

当時のハンガリーはオーストリア帝国に対して反感を抱いていたため、ナポレオンはそれを利用したのです。

さらにナポレオンは自らオーストリア皇帝フランツ1世に書簡を送り、トリエステ港への進出をチラつかせました。

これらの施策はオーストリア軍の兵力をハンガリーやトリエステ方面に分散させることが目的であると考えられます。

同時にナポレオンは北イタリアにフランスの姉妹国家を建国しようと動いていました。

姉妹国家建国の目的は「周辺国家を平和的に吸収しフランスの従属地域を増やすこと」や「継続的な徴兵による兵力の創出」、「資金や物資の調達」などが挙げられます。

姉妹国家の建国は即時の効力はそれほど期待できませんが、ナポレオンがどれだけ戦略的な視点でオーストリア軍を打ち倒すことを考えていたのかを知ることのできる1つの例でしょう。

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アルコレ戦役 06 小競り合いの始まりとオーストリア軍の圧力の増加

1796年10月初旬、ヴォーボワは前衛でオーストリア軍前哨基地を攻撃し、マッセナ師団はカスダノウィッチ師団の前哨部隊をピアーヴェ川以東に追い払ってバッサーノに到着しました。

オーストリア軍の増援は滞ることなく到着しており、オーストリア軍の圧力は日に日に増していき、チロル軍は約14,000人に、フリウーリ軍は15,000人に増加していました。

この事態にナポレオンはフランス政府に対して、早く増援を到着させないと体調不良を理由にイタリア方面軍総司令官職を辞任すると脅し、ナポレオンにイタリア方面軍の全権が委ねられなければフランス政府に何か不幸が起きるかもしれないと不安を煽りました。

そして本国からの増援を待つ間、アッダ川、ポー河の重要地点に防衛態勢をとらせました。

ナポレオン視点では前線で小競り合いが発生しており、オーストリア軍の圧力は増していました。

そのためオーストリア軍の侵攻開始前までに本国からの増援が到着しなかった場合、フランス軍は数的劣勢の状態でオーストリア軍と向き合わなければならず、いざという時のために後方の防衛体制を強化する必要があると考えたのでした。

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アルコレ戦役 07 チザルピーナ連邦の誕生とマントヴァへの降伏勧告

1796年10月16日、モデナにおいて行われたモデナ、ボローニャ、フェラーラ、レッジョの各地方の代表者による会議において、4つの街をチザルピーナ連邦(Confederazione Cispadana)としてまとめることとなりました。

この会議はナポレオンによって非公式に企画され、「イタリアの状況の安定化」、「1797年にフランス軍が北イタリアを横断すること」、「オーストリア帝国に対抗するための新しい部隊の創設」などが話し合われました。

新しい部隊の創設こそ、この時点のナポレオンが最も求めているものだったと考えられます。

10月16日、ナポレオンはマントヴァ要塞の目の前に2つの砲台を新たに建設した上で、キルメインにヴルムサー宛の降伏勧告状を送らせました。

2つの砲台の建設は圧力を加えることによりヴルムサーが降伏勧告を受け入れやすくすることが主な目的であり、降伏勧告自体の目的は、マントヴァ要塞を占領することによりその包囲軍を前線に振り向けることだろうと考えられます。

しかし、ヴルムサーからの返答はありませんでした。

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アルコレ戦役 08 イギリス地中海艦隊の撤退と戦役開始直前のイタリア方面軍の強度

一方、地中海の情勢は10月5日以降、大きな変化を見せていました。

スペイン王国がフランス共和国と以前に締結した条約を履行し、ポルトガルとイギリスに対して宣戦布告を行ったのです。

イギリス地中海艦隊司令官ジャービスはジブラルタル海峡を抜けるために撤収作業を進め、10月下旬にコルシカ島の撤収作業をネルソン船体司令官に任せ、コルシカ島を離れました。

そして11月4日までにフランス軍はイギリス海軍がいなくなったコルシカ島全域を再征服し、エルバ島を根拠地として抵抗を続けていたネルソンは11月中にはエルバ島を放棄して地中海からの撤退を完了させました。

これによりフランスは地中海における制海権を取り戻しました。

フランス政府は10月中に地中海からイギリス海軍の影響力を排除し、アドリア海へ軍船を派遣する目途が立っていました。

そのためナポレオンの元に船で援軍を送ることを決定しました。

ナポレオンの側ではチロルのダヴィドウィッチ師団が徐々にその数を増していました。

10月中旬~下旬時点でダヴィドウィッチ師団は約19,000人に増加していたにもかかわらず、対するヴォーボワ師団は約8,000人ほどでした。

ナポレオンはヴォーボワ師団を一旦トレントに後退させて強化しました。

10月22日時点での各フランス師団の兵力は、ヴォーボワ師団10,520人、マッセナ師団5,311人、オージュロー師団5,603人、キルメイン師団7,882人であり、イタリア方面軍の動員可能兵力は29,316人と記録されています。

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アルコレ戦役 09 侵攻作戦の始まり

1796年10月中旬から下旬にかけて、総司令官アルヴィンチは侵攻作戦開始に向けて軍の編成を行っていました。

前衛であるホーエンツォレルン旅団は約4,400人、本体であるプロベラ師団は約17,700人、合計26,342人を数え、その他にミトロフスキー旅団(約3,000人ほどと推定される)がブレンタ渓谷の哨戒とチロル軍とフリウーリ軍の連絡のために形成されました。

10月下旬頃、アルヴィンチは前衛をトレヴィーゾ、プロベラをピンツァーノに向かわせました。

アルヴィンチは22日にゴリツィアの野営地からコドロイポに到着し、その後、アルヴィンチとプロベラはカスダノウィッチ師団と合流するためにフォンタナフレッダに向かいました。

10月26日、カスダノウィッチ師団のトレヴィーゾへの進出を知ったマッセナはこの本格的な侵攻の前触れのようなオーストリア軍の行動をナポレオンに報告しました。

ナポレオンは副官であるケレルマン将軍を派遣してトレヴィーゾからオーストリア軍を追い払いました。

この時点までにナポレオンの元にフランス本国からの増援部隊が到着し、その動員可能兵数は38,000人に満たないくらいにまで増加していました。

ですがオーストリア軍全軍約45,000人(チロル軍約19,000人とフリウーリ軍26,342人)+ミトロフスキー旅団約1,500~3,000人に対し、フランス軍は38,000人未満であり、その兵力差は約8,500人~10,000人ほどありました。

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アルコレ戦役 10 ヴルムサーによるマントヴァ要塞脱出作戦とチロル軍及びフリウーリ軍の前進

1796年10月27日、チロルのダヴィドウィッチ師団が前進を開始しました。

ヴォーボワ師団右翼は押され、バッサーノにいるマッセナ師団との連絡線の1つを失いました。

10月28日午前4時頃、ヴルムサーはマントヴァ要塞からの脱出を開始しようとしていました。

しかしモロー大佐の部隊に阻まれ要塞内に押し戻されました。

その頃フリウーリ軍側ではプロベラ将軍がカスダノウィッチ師団の元に到着し、その後、全軍が集結しました。

10月29日、カスダノウィッチは行進を再開し、ピアーヴェ川に向かいました。

29日夜、ヴォーボワ師団が攻勢を仕掛けました。

ヴォーボワ師団はセゴンツァーノ城を手中に収めましたが、ビカソヴィッチ旅団の反撃により奪い返されました。

これを契機としてダヴィドウィッチは反撃に転じ、ヴォーボワも負けじとそれに対抗しました。

リジニャーゴ周辺で激しい戦いが夜まで続き、ヴォーボワ師団は後退して行きました。

一方、マッセナ師団は強力な偵察部隊を派遣し、ピアーヴェ川右岸でカスダノウィッチ師団と対峙しました。

しかしマッセナは、師団がバッサーノからピアーヴェ川まで広範囲に広がっているため、カスダノウィッチ師団が本格的に攻勢に出た場合、それを防ぎきることはできないことをナポレオンに伝えました。

ナポレオンはダヴィドウィッチ師団は雪に覆われたチロル山中を行軍することは困難であると考え、ヴォーボワ師団とオージュロー師団から増援を送るよう命じました。

この時ナポレオンは、マッセナ師団に増援を送ることによって持ち堪えさせ、その間にオージュロー師団を急行させてフリウーリ軍を撃退し、その後ヴォーボワ師団とともにダヴィドウィッチ師団を打ち砕くという計画を思い描いていたのではないかと考えられます。

しかしヴォーボワ視点では優勢と予想されるダヴィドウィッチ師団と対峙していたため、この命令を実行することはできませんでした。

マッセナはこれらの援軍を受け取る代わりにブレンタ川で8日間持ち堪えることを約束しました。

そのためマッセナはバッサーノ周辺に徐々に兵力を集結させました。

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アルコレ戦役 11 チロル方面の動向とフリウーリ軍の急接近

1796年10月31日、ナポレオンはヴォーボワにダヴィドウィッチ師団に対して攻撃を仕掛けるよう命じました。

この時点でヴォーボワ師団約10,500人に対しダヴィドウィッチ師団は約19,000人を有していました。

恐らくナポレオンは、ダヴィドウィッチ師団の強度を過小評価していたか、雪が降り積もる山岳地帯で先制攻撃を行うことによって主導権を握り攻撃的な機動によって兵力差を補い防衛しようとした、もしくはその両方なのではないかと考えられます。

ヴォーボワは侵攻計画を立案し、侵攻開始時期を11月2日未明に定めました。

その頃ダヴィドウィッチもアルヴィンチとの取り決め通りに侵攻準備を行っていました。

11月1日、マッセナはフリウーリ軍が動き出しピアーヴェ川を渡ったことを知りました。

マッセナは状況を把握するためにあらゆる方向に偵察部隊を派遣しました。

フリウーリ軍の前衛であるカスダノウィッチ師団はトレヴィーゾにまで進出していました。

翌11月2日、フリウーリ軍本体はピアーヴェ川を渡り、ミトロフスキー旅団はブレンタ渓谷に侵入するためにフェルトレに集結していました。

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アルコレ戦役 12 ヴォーボワ師団による攻撃の開始

11月2日午前3時、ダヴィドウィッチより先にヴォーボワ師団が動き始めました。

ヴォーボワ中将は師団を4列に分けて進軍し、サン・ミケーレやチェンブラを占領し、セゴンツァーノ城を攻撃しました。

しかしビカソヴィッチ旅団の反撃によってチェンブラを失い、セゴンツァーノ城を攻撃していたガスパール将軍は退路の1つを失いました。

ヴォーボワ将軍はチェンブラを取り戻そうとしましたが、ビカソヴィッチ旅団の強い抵抗により諦めることを余儀なくされ、ラヴィースへの撤退を全軍に命じました。

孤立していたガスパール旅団はビカソヴィッチ旅団に包囲され、セヴィニャーノとピネに逃れました。

死傷者と捕虜を合わせたこの戦いでのフランス軍の損失は650人であり、オーストリア軍の損失は1,086人だったと言われています。

ダヴィドウィッチはこの日の夜にサン・ミケーレを取り戻し、ビカソヴィッチ旅団の元に向かった。

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アルコレ戦役 13 ダヴィドウィッチ師団側の侵攻計画の全容

1796年11月2日夜、ダヴィドウィッチは侵攻計画を一部修正し各師団に命令を発しました。

師団を6列に分割し、ヴォーボワ師団を包み込むように機動しつつロヴェレトまで進む計画でした。

その計画はヴォーボワ師団が選択するであろうあらゆる可能性と、フリウーリ軍との統合を早期に実現するために各段階での連絡線の変更も考慮した上で詳細に練り上げられていました。

ダヴィドウィッチ師団の侵攻計画を詳細に記載してありますので、知りたい方は詳細記事を参照してください。

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アルコレ戦役 14 ダヴィドウィッチ師団による侵攻の始まり

1796年11月3日、ダヴィドウィッチは侵攻作戦を開始しました。

ダヴィドウィッチ師団の各列は一部に遅れが生じたもののほぼ計画通りにヴォーボワ師団右翼を崩しトレントへ後退させました。

一方、フリウーリ軍の進行速度の速さによりオージュロー師団の到着は間に合わず、孤立の危機に直面したマッセナはナポレオンに指示を仰ぎ、翌11月4日午前3時に師団をヴィチェンツァ方面への撤退を始めました。

11月4日、ダヴィドウィッチはさらにヴォーボワ師団の両翼を押しやりトレントの前まで迫りました。

ヴォーボワは11月4日夜から5日未明にかけてトレントの背後に部隊を集結させ、両側面を圧迫され包み込まれようとしているのを見てトレントからの撤退を開始しました。

ヴォーボワはカッリアーノに急いで向かい、2つの城で防備を固め、アディジェ川右岸のノーミを占領しました。

この戦いでの損失は、オーストリア軍は死傷者と捕虜を合計して94人だったのに対し、フランス軍は死傷者は不明ですが482人が捕虜になったと言われています。

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アルコレ戦役 15 ダヴィドウィッチ師団によるトレントの占領

1796年11月4日、フリウーリ軍は右翼でバッサーノを包囲し、左翼でチッタデッラとフォンタニーヴァを包囲しました。

ミトロフスキー旅団は早朝にチズモーン橋を占領し、フリウーリ軍との連絡線を確立するためにバッサーノに向かって接近していました。

マッセナがバッサーノから退却するとすぐにカスダノウィッチ師団が現れバッサーノを占領し、それにミトロフスキー旅団の一部が合流して連絡役を担いました。

プロベラは前衛をバッサーノの南でブレンタ川沿いに位置するフォンタニーヴァに進出させ、ブレンタ川に浮かぶ小島で前哨基地を形成しました。

マッセナがヴィチェンツァに向かっている途中、ナポレオンの副官ミュイロンがマッセナの元に到着し、オージュロー師団がモンテベッロに到着したこと、ヴォーボワ師団がダヴィドウィッチ師団を相手に有利に戦局を進めていることを伝えました。

これらの情報からマッセナはナポレオンはフリウーリ軍に立ち向かうだろうと推測し、師団の後退を中断し野営に入りました。

オージュロー師団の前衛はすでにヴィチェンツァの門の手前で野営していました。

そのためフランス軍は翌日には協力して作戦を実行できる状況にありました。

11月5日夜明け前、ヴォーボワ師団がトレントから撤退したことを知ったオーストリア軍はトレントを占領し、可能な限りフランス軍を追跡しました。

そしてヴォーボワを追いつつアディジェ川右岸に渡るために舟橋を完成させてオクスカイ旅団をノーミに向かわせました。

ダヴィドウィッチは夜に東側からロヴェレトに分遣隊を派遣し、正面ではアクアヴィーヴァに野営し翌朝にカッリアーノの強固な位置を攻撃する準備を着々と進めていました。

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アルコレ戦役 16 第二次バッサーノの戦い

1796年11月5日、マッセナとオージュローは翌11月6日にフリウーリ軍と戦うためにヴィチェンツァを出発しフォンタニーヴァとバッサーノに向かいました。

ナポレオンもヴィチェンツァでオージュローと合流した後、ともにバッサーノに向かいました。

マッセナ師団の目標はフォンタニーヴァに架かる橋を渡りブレンタ川左岸に橋頭保を確立することであり、オージュロー師団の目標はバッサーノに架かる橋を渡りバッサーノの町を占領することでした。

カスダノウィッチ師団はその前衛をノーヴェまで進め、プロベラ師団はブレンタ川右岸側にあるカルミニャーノまで進出していました。

11月6日、戦いは夜明けとともに始まりました。

マッセナはプロベラ師団の前衛であるリプタイ旅団を攻撃し、フォンタニーヴァ近くのブレンタ川に浮かぶ小島に後退させ、オージュローは前哨部隊を追い払ってノーヴェを占領しました。

マッセナはリプタイ旅団に大きな損害を与えましたが、リプタイ旅団新たな部隊と交替したことにより戦いは激しさを増しました。

一方、オージュロー師団側では本体と予備軍がノーヴェに到着して前進し、バッサーノの西側を守るように位置している3つの小山の1つであるコル・デ・グラード(Col di Grado)周辺までオーストリア軍を追い詰めました。

しかし、コル・デ・グラードの有利な位置からの砲撃によってその前進は止められました。

その後、コル・デ・グラード周辺で一進一退の攻防が繰り広げられましたが、フランス軍はコル・デ・グラードを突破することはできませんでした。

午後4時頃、カスダノウィッチはノーヴェを手に入れようと1個大隊を差し向けましたが、間の悪いことにフランス軍の攻勢と被ってしまい、1個大隊はノーヴェで孤立してしまいました。

大隊はノーヴェに身を隠しボン将軍率いる予備軍がノーヴェを通過した際に姿を現して奇襲攻撃を仕掛けましたが、包囲され、大隊のほぼ半数が失われました。

日が落ちた頃、ホーエンツォレルン旅団はオージュロー師団左翼を片翼包囲する計画を実行に移しました。

幾度もの突撃をはね返されたオージュロー師団にはホーエンツォレルン旅団の前進を阻む余力さえありませんでした。

そのためボン将軍に救援を求めました。

午後6時頃、激しい戦いを続けていたマッセナ師団は遂に弾薬を使い果たして後退を始め、カスダノウィッチ師団の重要地点であるコル・デ・グラードに部隊を差し向けました。

夜になり、ようやくボン将軍が現れ2個大隊をオージュロー師団左翼の元へ向かわせました。

そしてオーストリア軍を激しく撃退し、師団左翼との合流を果たしました。

しかしそれでもコル・デ・グラードを中心として防衛線を構築しているオーストリア軍の戦列を突き崩すことはできませんでした。

オージュロー師団は夜更けまで戦い、翌7日夜明けまでカスダノウィッチ師団と対峙しました。

この戦いでの死傷者と捕虜を合計した両軍の損失は、フランス軍約3,000人、オーストリア軍2,774人だったと言われています。

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アルコレ戦役 17 カッリアーノとトルボレでの戦闘

1796年11月6日、第二次バッサーノの戦いが行われている頃、ダヴィドウィッチはカッリアーノで強固な防衛線を構築しているヴォーボワ師団へ攻撃を行っていました。

しかしヴォーボワ師団の正面はカヴァッロ川に覆われ、右側ではベセノ城が立ちはだかり、その間に位置する峠道は新しく掘られた塹壕によって封鎖されていました。

ダヴィドウィッチは幾度もの攻撃によってベセノ城を取り囲むことに成功しましたがその後も激しい戦いが続きました。

夜になっても勝敗は決まらず、ヴォーボワが優勢を維持したままこの日の戦いは終わりました。

カッリアーノでの戦闘<1日目>における死傷者と捕虜を合計した両軍の損失は、オーストリア軍753人でしたが、フランス軍側の損失は不明です。

この日、ガルダ湖北岸に位置するトルボレでも戦いが行われていました。

ヴォーボワ師団左翼であるガルダンヌ旅団約3,500人強がトルボレでラウドン旅団の襲撃を受けたのでした。

ガルダンヌは防衛しきれずにバルド山方面に後退しますが、夜襲を行ってトルボレを奪い返しました。

しかし夜闇の中突然現れたオーストリア軍の偵察騎兵によって秩序を失い、モーリの方向に逃亡しました。

ラウドン旅団はこの日の内にモーリの手前まで進み、ヴォーボワ師団の重要な退路の1つを脅かそうとしていました。

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アルコレ戦役 18 ナポレオンによるヴェローナへの撤退命令とカッリアーノでの戦闘<2日目>

11月7日午前2時頃、ヴォーボワ師団が敗北を喫しトレントを放棄したという報告がナポレオンの元に届きました。

ヴォーボワ師団はアディジェ川左岸側に集中し、右岸側にはほとんど部隊を持っていませんでした。

そのためナポレオンは当初の計画を修正してマッセナ師団とオージュロー師団にヴェローナへ後退するよう命じ、副官のヴィニョール少将にヴェローナに集結できるすべての兵を集めさせコロナとリヴォリに派遣しました。

さらにマントヴァ要塞を包囲しているキルメイン師団からも部隊を派遣しました

ヴィニョールはヴァンデから到着したばかりの大隊を率いて、コロナにやってきた最初の前哨部隊を制圧しました。

11月7日午前4時、マッセナ師団は撤退を開始し、オージュロー師団もマッセナの後に続いて撤退を開始しました。

フランス軍が撤収していくのを見たホーエンツォレルン将軍は前衛とともに追跡を開始しました。

しかし夜襲を恐れたプロベラがフォンタニーヴァの橋を破壊していました。

プロベラ師団の支援がないことを知ったカスダノウィッチ将軍はホーエンツォレルン旅団の前進を停止させました。

橋を再建してフランス軍の後を追い、日が落ちた頃にようやく最後衛に追いつきましたが夜になったため宿営に入りました。

11月7日、チロル方面ではダヴィドウィッチは午前6時頃に再びカッリアーノへの攻撃を仕掛けました。

この日もヴォーボワは優勢に戦局を進めていましたが、午後4時頃、ダヴィドウィッチに勝利の女神が微笑みかけました。

ペルジーネから山岳地帯を通ってロヴェレトに向かっていた分遣隊がロヴェレトに到着し、ヴォーボワ師団の後部を襲ったのです。

ヴォーボワ師団の兵士達は後方からの戦闘音に動揺し、ダヴィドウィッチはその隙を衝き正面攻撃を行いました。

ヴォーボワ師団はパニックに陥り、踏みとどまろうとする兵士たちを飲みこんで前線は総崩れとなりました。

そしてカッリアーノを放棄して逃亡しました。

ヴォーボワ師団はピエトラ城でダヴィドウィッチ師団の前進を食い止めていましたが、それも占領されてしまいました。

一度はピエトラ城を取り戻したもののダヴィドウィッチ師団の猛攻の前に再び失い、ヴォーボワ師団は混乱しながらロヴェレトを通過し、リヴォリに向かいました。

カッリアーノでの戦闘<2日目>における死傷者と捕虜を合計した両軍の損失は、オーストリア軍1,522人に対し、フランス軍は死傷者は不明であり約1,000人以上が捕虜となったと言われています。

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アルコレ戦役 19 ヴォーボワ師団のリヴォリへの到着とダヴィドウィッチ師団両翼の展開

1796年11月8日午前、ダヴィドウィッチ師団の前衛がロヴェレトを占領し、ダヴィドウィッチは午後に本部とともに入りました。

そしてアディジェ川下流にいるマッセナ師団とオージュロー師団の左側面を脅かし、フリウーリ軍を動きやすくできるよう強力な分遣隊を派遣しました。

ダヴィドウィッチ師団はこの時点ですでに師団の五分の一を失っており、左翼はヴァルスガーナ、右翼はサルカ川上流に位置するティオーネにまで広域に分散していました。

そのためダヴィドウィッチは師団の再編成を行うためにビカソヴィッチ旅団とスポーク旅団の前進を停止させました。

フリウーリ軍はヴィチェンツァに進み、対するフランス軍はオーストリア軍に追われてヴィラノーヴァに後退しました。

フランス軍の抵抗が強く遅れは生じているものの、全体としてはアルヴィンチの計画通りに進んでいました。

その後、ヴォーボワ師団はリヴォリで態勢を立て直して防備を固め、ダヴィドウィッチ師団は両翼を広げました。

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アルコレ戦役 20 アルヴィンチの接近とナポレオンの計画

1796年11月9日、マッセナ師団とオージュロー師団は午前中にヴェローナに到着し、マッセナ師団はカステルヌォーヴォに向かいました。

マッセナ師団をカステルヌォーヴォの向かわせたのは、時期を見計らってヴォーボワ師団とともにチロル軍を叩くか、もしくはオージュロー師団とともにフリウーリ軍を叩くかを選択できるようにするためだと考えられます。

 さらにチロル軍とフリウーリ軍の侵攻が遅かった場合、12門の大砲をロンコに移動させていたことから、マッセナ師団はヴェローナを通過して攻撃を仕掛け、オージュロー師団はロンコに迂回しフリウーリ軍の左側面を衝くという計画を用意していたと考えられます。

11月10日、フリウーリ軍の前衛はヴァーゴに進軍し、前哨部隊はサン・マルティーノを攻撃しました。

これによりフランス軍はヴェスコヴォ門の前まで後退を余儀なくされました。

アルヴィンチはブレンタ渓谷でチロル軍との連絡線を維持していたミトロフスキー旅団をティエネやスキオに呼び寄せチロル軍との連絡線の確立を急がせました。

オージュローはヴェローナに多くの部隊を残しつつ、一部の部隊とともに本部をロンコに移しました。

この移動を見たホーエンツォレルン将軍はフランス軍はヴェローナから引き上げるのではないかと考え、ヴェローナへの奇襲攻撃を提案しました。

しかし反対多数により提案は退けられ、ホーエンツォレルン将軍は威力偵察のみを行うことを許可されました。

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アルコレ戦役 21 ヴァーゴでの戦闘

1796年11月10日、リヴォリに派遣されたマッセナは、より視野が広がり各部隊が連携しやすくなるようヴォーボワ師団の再配置を行いました。

そしてダヴィドウィッチ師団の位置を知るためにアラにまで偵察部隊を向かわせましたが、オーストリア軍の姿は見えませんでした。

マッセナはこの偵察の結果を受け、ダヴィドウィッチはブレシア方面に向かったか、もしくはフリウーリ軍との合流のために主力を移動させたのではないかと推測しました。

しかし、実際は再編成のために停止していただけでした。

その頃ダヴィドウィッチ師団はラウドン旅団から「フランス軍はベルガモ地域とイーゼオ湖を占領していること」、「おそらくチロル国境に対して行動を起こすだろうこと」などの報告を受け、その対応としてラウドン旅団を強化しました。

さらにフランス軍が積極的になったことで、ヴォーボワ師団がマッセナ師団によって強化されたことを確信し、攻撃的な行動を停止して防御を固め、アルヴィンチとの統合を急ぎました。

11月11日、アルヴィンチはヴィッラノーヴァに進軍しました。

そして、ホーエンツォレルン将軍が威力偵察を派遣するとフランス軍がヴェローナの街から飛び出してきました。

初めは単なる小競り合いでしたが、午後3時頃、ナポレオンはフリウーリ軍を打ち砕くことを決断し、ヴェローナ周辺の動員可能な約13,000人を動かしました。

この時フランス軍の大砲12門はロンコにあり、雨でぬかるんだ地面のため戦場に移動させたとしても間に合わないだろうことが予想されました。

オージュロー師団は前進してヴァーゴ前の運河までホーエンツォレルン旅団を後退させました。

しかし補強を受けたホーエンツォレルン旅団にすべての攻撃を撃退され、運河に架かる石橋を占領することはできませんでした。

ヴァーゴでの戦闘におけるオーストリア軍の損失は404人だったと言われています。

フランス軍は撃退されたものの翌11月12日朝にマッセナ師団を加えて攻撃をしかけようと準備を行いました。

フランス軍がヴァーゴのすぐ北に部隊を配置したことからフランス軍は翌朝に攻撃を仕掛けてくると判断し、アルヴィンチはホーエンツォレルン旅団をヴァーゴからカルディエーロに撤収させ、カルディエーロ周辺で防備を固めてフランス軍を迎え撃つ準備を整えました。

ナポレオンがフリウーリ軍を打ち砕く決断をした背景や数的劣勢なアルヴィンチがカルディエーロでフランス軍を迎え撃つ決断をした背景などを詳しく知りたい方は詳細記事を参照してください。

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アルコレ戦役 22 ナポレオン最初の敗北「カルディエーロの戦い(1796年)」

1796年11月12日、ナポレオンは大雨の中、夜明けとともにマッセナ師団とオージュロー師団合計約13,000人にオーストリア軍に向かって前進するよう命じました。

対するアルヴィンチは約8,000人でカルディエーロで持ち堪え、およそ7㎞東に位置するヴィッラノーヴァのプロベラ師団が戦場に到着し数的優位な立場となってから反撃に転じることを考えていました。

朝の時点でプロベラ師団は3列で戦場に向かいましたが、振り続いている大雨によって低地の洪水といたるところでの浸水によりほとんど進軍できませんでした。

対するナポレオンはロンコにある12門の大砲無しで戦わなければなりませんでした。

ナポレオンの勝機はプロベラ師団到着前にカルディエーロのアルヴィンチを打ち砕くことであり、アルヴィンチの勝機は大雨で戦場への到着が大幅に遅れると予想されるプロベラ師団の到着までカルディエーロで持ち堪えることでした。

オージュロー師団の攻撃がカルディエーロの戦いの合図となり、一進一退の攻防が繰り広げられましたが、徐々にカルディエーロのオーストリア軍を追い詰めていきました。

そして午後4時頃、マッセナ師団とオージュロー師団の右翼がカルディエーロのオーストリア軍を包み込もうとしたとき、プロベラ師団が戦場に到着しました。

新たな攻撃にマッセナ師団が態勢を崩して押し返され、午後5時頃、マッセナ師団の撤退を知ったオージュロー師団も後退を始めました。

カルディエーロの戦いにおける死傷者と捕虜を合計した両軍の損失は、フランス軍約1,729人、オーストリア軍1,244人だったと言われています。

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アルコレ戦役 23 ナポレオン最大の窮地

1796年11月9日以降、師団の前進を停止させていたチロル軍がようやく動きを見せようとしていました。

ダヴィドウィッチは本格的な侵攻を考えており、その計画は11月13日に侵攻準備を行い、翌14日に南下してリヴォリを制圧し、ブッソレンゴに向かうというものでした。

ダヴィドウィッチは各旅団に命令を発しました。

一方、ナポレオンは窮地に追い込まれていました。

カルディエーロの戦いに敗れ、上級士官のほとんどが負傷し、イタリア方面軍は壊滅寸前の状態であり、チロル軍とフリウーリ軍の統合は間近に迫っているように見えました。

ナポレオンは攻勢に出てフリウーリ軍を打ち砕くことを決意しました。

ナポレオンはヴェローナからロンコへの移動を隠し、ロンコから本格的な奇襲攻撃を仕掛け、物資集積所のあるヴィッラノーヴァを奪取することを計画しました。

この計画が成功すれば、同時にフリウーリ軍の連絡線を遮断し撤退に追い込むことができると見込まれていました。

ですが、この計画は地図上の計画であり、ロンコからヴィッラノーヴァへの途上に位置するアルコレ周辺が沼地で覆われていることは調査されておらず、このアルコレ周辺の地形がオーストリア軍の防衛を容易にすることは考慮に入れられていませんでした。

11月13日、ナポレオンはマッセナ師団とオージュロー師団に翌14日夜に最大の静寂をもってロンコに向かうよう命じました。

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アルコレ戦役 24 アルヴィンチの計画と雪に阻まれたダヴィドウィッチ師団の進軍

1796年11月13日、ゴンビオンに本部を置いたアルヴィンチはカスダノウィッチにゼーヴィオへ橋を架けてアディジェ川を渡るよう命じ、ミトロフスキー旅団をダヴィドウィッチ師団との連絡線の変更を目的としてモンテッキオに向かわせました。

この時点でのアルヴィンチの計画は、ヴェローナの正面から圧力を加えてフランス軍をヴェローナに集結させ、カスダノウィッチ師団がゼーヴィオでアディジェ川を渡河してヴェローナの後部を脅かし、アルヴィンチ本体が正面攻撃を行うというものでした。

しかし11月14日、ゼーヴィオへ橋を架けるためには堤防を作った後に橋を架けなければならなかったため、数日かかることが判明しました。

チロル方面ではダヴィドウィッチ師団は大雪の中の行軍のため全体的に進捗が遅れており、計画の半分ほどしか進んでいませんでした。

もし計画に遅れが生じていなければ、11月15日にリヴォリでヴォーボワ師団を破りブッソレンゴに進軍しているはずでした。

11月14日、ナポレオンはキルメイン師団とヴォーボワ師団から部隊を分離してロンコに向かわせ翌15日にアルヴィンチを打ち砕くために兵力を集中させました。

そしてキルメインはヴルムサーに行動を起こす余裕を与えないため、師団にマントヴァ要塞への砲撃を始めさせ、降伏勧告を行いました。

ですがヴルムサーが降伏勧告に応じることはありませんでした。

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アルコレ戦役 25 アルコレの戦い<前夜>とダヴィドウィッチ師団によるリヴォリへの侵攻計画

1796年11月14日、恐れていたヴェローナへの攻撃が行われることなく夜を迎え、ナポレオンの命令通りマッセナ師団とオージュロー師団はわずかな騒音のみでキャンプを撤収し、夜10時~11時までに黙ってヴェローナを横断しました。

ロンコではすでにロベルト将軍が筏(いかだ)でアディジェ川を渡り、橋の建設作業を保護していました。

しかしその作業はアルバレードに配置されていたブリジド旅団所属の大隊に発見され、アルバレードの大隊は警鐘を鳴らさず橋の建設も妨害せず、最大の沈黙を保って旅団本体のいるアルコレに後退しました。

11月15日、ダヴィドウィッチ師団はリヴォリの手前にまで迫ってきていました。

偵察からの報告によるとリヴォリ周辺のフランス軍は約8,000人と推定され、これを打ち破るには10,000人~12,000人が必要だと考えられました。

そのためダヴィドウィッチは再編成を行いリヴォリ攻略のための準備を始めました。

11月15日午前7時頃、ダヴィドウィッチ師団の進捗の遅れを知ったアルヴィンチは午前10時にヴァーゴから攻勢に出るつもりで準備していましたが、停止せざるを得なくなりました。

そして午前9時頃、アディジェ川下流方面から数発の大砲の砲撃音が聞こえてきました。

ナポレオンは計画通りロンコでアディジェ川を渡りオーストリア軍に攻撃を仕掛け、戦いが始まったのでした。

これがアルヴィンチにとっての「アルコレの戦い」の始まりの合図となりました。

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アルコレ戦役 26 アルコレの戦い<1日目>

1796年11月15日午前5時頃、フランス軍がロンコでアディジェ川を渡ろうとしていることを知ったブリジド大佐は、フランス軍に気づかれないようアルコレ周辺でフランス軍を迎え撃つべく部隊を配置しました。

フランス軍は夜明けとともにアディジェ川を渡り、先頭のオージュロー師団はヴィッラノーヴァを目指してアルコレ方向に進軍しました。

オージュロー師団はブリジド旅団の前哨部隊を追い散らしつつ前進し、それらをアルコレ橋の入り口まで後退させましたが、午前9時頃、待ち構えていたブリジド旅団からの砲撃によって前進を阻まれました。

フランス軍にとっての死闘が続き、師団長であるオージュローが旗を持ってアルコレ橋のたもとまで進み数分間留まりましたが、兵士達は怖気づき、数人しか付いて来ませんでした。

オージュロー師団の後にアディジェ川を渡ったマッセナ師団はベルフィオーレ方面に向かいガヴァッシーニ旅団と衝突しました。

ガヴァッシーニ旅団はマッセナ師団をゼルパまで押し返しました。

しかしそこへブラベック旅団が現れ、後部を警戒していた味方であるガヴァッシーニ旅団を敵と誤認して砲撃を行いました。

ガヴァッシーニ旅団はフランス軍による攻撃と思い、混乱しながらビオンデに戻り、さらにマッセナ師団に追跡されました。

オージュロー師団側はわずか4個大隊のブリジド旅団の防衛するアルコレ橋を未だ突破できないでいました。

ナポレオンはギウ旅団を迂回させてアルバレードを経由してアルコレに向かわせ、その間、自ら先頭に立ち先導しました(アルコレ橋のナポレオン)が兵士達は後に続くことは無く、部隊を混乱させただけでした。

戦いは日暮れまで続き、フランス軍はアディジェ川を再び渡りロンコへの道をたどりました。

午後4時頃、迂回部隊を率いるギウ将軍はアルバレードへ上陸し、アルコレ村に向かいました。

午後7時頃、アルコレ村への攻撃を仕掛けて占領しましたが、周囲に友軍の姿はありませんでした。

孤立を恐れたギウ将軍はロンコに戻りました。

このようにナポレオンのヴィッラノーヴァ奇襲作戦は局所的な数的優位を作りつつもアルコレ周辺の沼地によって阻まれる形となったのでした。

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アルコレ戦役 27 アルコレの戦い<2日目>

1796年11月16日、前日の奇襲作戦に失敗したナポレオンはフリウーリ軍全体と正面から戦うことを決心し、アルヴィンチもロンコ周辺での戦いを受け入れました。

戦いに参加するフリウーリ軍は約20,000人と推定されました。

アルヴィンチはフランス軍をロンコに封じ込めるべく各部隊を動かしましたが、マッセナ師団がブラベック旅団を打ち破りカルディエーロまで押し戻されました。

一方、ミトロフスキー旅団はオージュロー師団を撃破してゼルパに押しやりましたが、プロベラ師団の退却を知るとアルコレ方向に退却し、その後ミトロフスキーは防衛的な動きでオージュロー師団の幾度もの突撃をはね返しました。

そのためナポレオンは迂回攻撃を行えるようにするためにアルポーネ川左岸側に上陸して橋を架けようとしていましたが失敗に終わりました。

日が暮れると2日目の戦いは終わり、フランス軍は一部の部隊をロンコの対岸に残してロンコに撤退しました。

ナポレオンがアルコレで苦戦している間、ヴォーボワ師団はリヴォリ防衛体制を構築していました。

対するダヴィドウィッチ師団は、翌日にリヴォリを攻略するために11月16日を再編成と準備に費やしていました。

これは圧倒的に数的劣勢であるヴォーボワ師団が11月17日にリヴォリを奪われ、ナポレオン率いるフランス軍主力は19日には後背を脅かされることを意味していました。

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アルコレ戦役 28 アルコレの戦い<3日目>

1796年11月17日、ナポレオンは前日に橋を架けようとして失敗したアルポーネ川渡河作戦の強化版を計画していました。

ナポレオンは夜の間にアルポーネ川に橋をかけ、アルバレードへの迂回攻撃のためにレニャーゴに部隊を派遣して周到な準備をしていたのでした。

夜明け前、フランス軍が動き始め、ロンコの舟橋で3度目となるアディジェ川左岸側への横断を始めました。

オーストリア軍は渡河を防ごうとしましたが、マッセナ師団にオーストリア軍をボーヴァまで、その後に続いたオージュロー師団にアルコレ方向に押し戻されました。

そしてオージュローはアルポーネ川左岸側のオーストリア部隊をアルバレードに後退させ、昨日ロンコを出発してレニャーゴ橋を渡って来た迂回部隊と合流して師団右翼を形成しました。

オージュロー師団右翼はアルコレに向かいましたが、ミトロフスキー旅団が師団中央を敗走させたため師団右翼は再びアルポーネ川を渡河して撤退しました。

勝利を確信したミトロフスキーは前進してゼルパに向かいました。

ナポレオンはミトロフスキー旅団の進路に伏兵を配置し、ミトロフスキー旅団の後部を攻撃するためにマッセナ師団を素早く戻しました。

ミトロフスキー旅団は正面では伏兵によって沼地に落とされ、マッセナ師団に退路を遮断されました。

ミトロフスキーはほんのわずかの兵とともにアルコレに敗走していきました。

ナポレオンは全体的な数的劣勢の中、チロル軍とフリウーリ軍に対して内線作戦を実行しましたが対フリウーリ軍においても数的劣勢を覆すことはできませんでした。

しかしナポレオンはさらにフリウーリ軍のプロベラ師団とミトロフスキー旅団に対して内線作戦を実行し、対ミトロフスキー旅団において数的優位を作り上げ、遂にミトロフスキー旅団の大部分を撃破したのでした。

アルコレの戦いにおける勝利が決定づけられた瞬間でした。

フランス軍はその後、プロベラ師団を後退させ、サン・ボニファーチョの手前まで進軍しました。

アルコレの戦いにおける死傷者と捕虜を合計した両軍の損失は、フランス軍約4,500人、オーストリア軍6,214人だったと言われています。

アルコレ周辺の地理や作戦図、細かな作戦や計画などは詳細記事に掲載していますので、そちらを参照してください。

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アルコレ戦役 29 ヴォーボワ師団のリヴォリでの敗北

1796年11月17日、遂にダヴィドウィッチ師団がリヴォリを征服すべく行動を開始しました。

ヴォーボワは最初の攻撃をはね返しましたが、師団左翼のヴァレッテ旅団の動きが悪く思うように攻勢をかけることができませんでした。

そのためブッソレンゴにいるフィオレラ旅団を呼び寄せてヴァレッテ旅団を支援させようとしました。

ダヴィドウィッチはこの弱点を看破しており、ヴァレッテ旅団に攻撃の重点を移して再度攻勢をかけました。

ヴォーボワ師団の中央と右翼は勇敢に戦いましたが、ヴァレッテ旅団が敗北し退却したことによりヴォーボワ師団中央と右翼は側面を攻撃されました。

フィオレラ旅団はあと少しのところで間に合わず、戦闘に巻き込まれ、フィオレラ将軍はヴァレッテとともに捕虜となりました。

ヴォーボワ師団の中央と右翼は午後2時頃まで持ち堪えていましたが、リヴォリを放棄し後退していきました。

このリヴォリでの戦いにおける死傷者と捕虜を合計した両軍の損失は、フランス軍約2,000人、オーストリア軍471人だったと言われています。

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アルコレ戦役 30 ヴォーボワ師団の後退とナポレオンの計画

1796年11月17日午後、ヴォーボワ師団はピオヴェッツァーノに後退し、夜にはカステルヌォーヴォに後退しました。

ダヴィドウィッチ師団はリヴォリ周辺とガルダ湖沿岸を制圧し、18日にはヴェローナ方向に進軍するだろうと考えられました。

リヴォリでの敗北を知ったナポレオンは、すぐにチロル軍を打ち倒す決意を固めました。

この時ナポレオンは要塞であるヴェローナをキルメイン指揮下の約3,000人強で防衛し、オージュロー師団でダヴィドウィッチ師団の退路を遮断して撤退を促し、マッセナ師団とヴォーボワ師団を合流させてアルヴィンチへの正面攻撃を行うことを計画していました。

11月18日、アルヴィンチはブレンタ渓谷を介して再びダヴィドウィッチとの連絡線を確立し、態勢を立て直してフランス軍と対峙するためにヴィチェンツァ方面への後退を続けました。

ダヴィドウィッチパストレンゴへ向かい、ヴォーボワはダヴィドウィッチ師団を避けるようにペスキエーラに退却しました。

ですがヴィッラノーヴァでマッセナ師団と合流する計画を知ると夜にはボルゲット橋に向かって行軍しました。

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アルコレ戦役 31 ダヴィドウィッチ師団のヴェローナへの接近とフリウーリ軍の反転

11月18日、ダヴィドウィッチは本部をピオヴェッツァーノに移し、前哨部隊をブッソレンゴ、カステルヌォーヴォ、パチェンゴに配置しました。

ブッソレンゴからヴェローナまでは約12㎞程の距離であり、ダヴィドウィッチは偵察を放ちキルメイン指揮下の約3,000人がヴェローナを防衛していることを知りました。

一方、アルヴィンチは18日午後5時頃にオルモに到着し召集可能なすべての将軍たちを集め、現有戦力を確認し、攻勢に移ることを決定しました。

そしてフランス軍の姿が見えなったのを見たアルヴィンチは、フランス軍は主力をチロル軍に振り向けたのではないかと考え、反転して再びヴェローナ方向に向かい、前衛をモンテベッロの近くまで前進させました。

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アルコレ戦役 32 ダヴィドウィッチ師団包囲殲滅計画への変更とアルヴィンチ最後の作戦

1796年11月18日、ヴォーボワ師団がペスキエーラに退却してしまったことによりヴィッラノーヴァでマッセナ師団と合流させることは現実的ではなくなり、ナポレオンは計画の変更を余儀なくされました。

ナポレオンは当初の計画を変更し、ヴェローナに近いチロル軍を早急に打倒することを決断しました。

そして各部隊にダヴィドウィッチ師団を包囲殲滅するための命令を発しました。

11月18日、アルヴィンチは現有戦力を確認しフリウーリ軍全体でおよそ16,000人にまで打ち減らされたことが判明しました。

しかしアルヴィンチはチロル軍とともにフランス軍を挟撃すべく出動命令を発しました。

アルヴィンチ最後の作戦が書かれた書簡は信頼できる人物に託され、ヴェローナとフランス軍の直中を通り、ダヴィドウィッチの元に最短ルートで向かいました。

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アルコレ戦役 33 ダヴィドウィッチ師団のリヴォリ方面への後退とフリウーリ軍のカルディエーロへの進出

1796年11月19日正午、ダヴィドウィッチはフリウーリ軍がアルコレの戦いで敗北しヴィチェンツァに向かって後退していることを知りました。

ヴェローナの手前まで進出していたダヴィドウィッチはこの報を受けても踏みとどまろうとしましたが、夜、フリウーリ軍との間に致命的な空間が開いていることを確信し、リヴォリ方面への後退命令を下しました。

11月20日、フランス軍がダヴィドウィッチ師団の前哨部隊への攻撃を開始した頃、ダヴィドウィッチ師団はすでにリヴォリ方面への後退を開始していました。

一方、フリウーリ軍はヴィッラノーヴァにまで進出し、カルディエーロで防衛態勢を取っているルクレール旅団と対峙するように前哨部隊を配置しました。

翌11月21日、フリウーリ軍はカルディエーロとアルコレに向かって前進を開始しました。

ルクレール旅団はカルディエーロでの戦闘に敗北し、カルディエーロはオーストリア軍が占領しました。

フランス軍はアルコレ方面をすでに撤収していたため、オーストリア軍は戦うことなくアルコレとその先のアルバレードに進出しました。

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アルコレ戦役 34 連絡の齟齬による不運とリヴォリからの撤退

1796年11月21日、ダヴィドウィッチはフリウーリ軍の状況が好転したという連絡を待っていましたが、夜明けになっても届かなかったため、リヴォリを放棄しアラに撤退することを決断しました。

ですがダヴィドウィッチ師団がリヴォリを撤収してしばらくしたところでアルヴィンチから「リヴォリ周辺を全力で防衛することを望んでいること」が書かれた書簡が届きました。

ダヴィドウィッチはすぐに師団をリヴォリの元の位置に戻るよう反転させました。

ダヴィドウィッチ師団がリヴォリの元の位置に戻った時、フランス軍は目の前にまで迫ってきており、師団中央と左翼は戦闘態勢をとれないまま戦うことを余儀なくされました。

そのためフランス軍に中央突破を許し撤退しました。

その頃、オージュロー師団はペーリにまで進出しダヴィドウィッチ師団の退路を遮断していました。

そのことを知ったダヴィドウィッチはドルチェに到着すると師団本体が非常に危険な位置にいることに気づきました。

師団はアディジェ川と高い山々に阻まれ、通行可能な道はフランス軍によって占領され、完全に包囲されていたのです。

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アルコレ戦役 35 ダヴィドウィッチ師団による包囲の突破とチロル方面での戦いの終わり

1796年11月21日夜、ダヴィドウィッチは力づくでペーリのオージュロー師団を突破しアラに向かう他に選択肢はありませんでした。

ダヴィドウィッチは夜の闇を利用してオージュロー師団を突破し、フランス軍を振り切るたえに砲撃にも反撃せずにアラに向かいました。

その頃、オージュロー師団がヴェローナとレッシーニ山脈を越えてペーリに向かっているという情報を得たアルヴィンチは、オージュロー師団の後背を脅かすため、11月22日朝にシュビルツ旅団を派遣しました。

11月22日、チロル山中での戦いは続いていましたが、午後8時頃、フリウーリ軍がヴェローナ近郊にまで迫ったことによりフランス軍はペーリから後退していきました。

11月21日と22日の2日間の戦闘における死傷者と捕などを合計した両軍の損失は、オーストリア軍1,859人に対し、フランス軍の損失はわずかなものだったと言われています。

戦闘の経過や全体の状況などが知りたい方は詳細記事を参照してください。

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アルコレ戦役 36 アルヴィンチの撤退とヴルムサーの出撃

1796年11月23日正午、ダヴィドウィッチ師団はリヴォリで敗れバルド山とアラに撤退したことなどの現状が書かれた書簡がアルヴィンチの元に届きました。

アルヴィンチはフランス軍がそのまま進軍してダヴィドウィッチ師団を打ち破ってトレントを占領し、フリウーリ軍よりも先にバッサーノを占領するのではないかと考え、ブレンタ川の背後に撤退することを決断しました。

アルコレ戦役の勝敗が決した瞬間でした。

一方、ヴルムサーはチロル軍とフリウーリ軍がヴェローナ近郊にまで迫ってきているという連絡を受けていました。

そのため11月23日夜明けに友軍と合流するためにマントヴァ要塞から出撃を開始しました。

マントヴァ要塞駐屯軍はチッタデッラ要塞から出撃し、あらゆるところでフランス軍を後退に追い込み、ヴルムサーの計画は成功するかに見えました。

ですがフランス軍の増援が到着したことにより劣勢となり、最終的にマントヴァ要塞に封じ込められました。

マントヴァでの戦闘におけるオーストリア軍の損失は789人だったと言われています。

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アルコレ戦役 37 戦役の終わり

1796年11月24日、フリウーリ軍は追跡されることなくヴィチェンツァまで行進し、その後ブレンタ川の背後に陣取り、ミトロフスキ旅団をチロル軍との連絡線を確立するためにヴァルスガーナに向かわせました。

フリウーリ軍の体制が整った11月26日、アルヴィンチはフリウーリ軍を離れ、11月29日にアラに到着しました。

そしてダヴィドウィッチ師団の防衛体制を整えました。

対するフランス軍は大きな損失を被り消耗しながらもオーストリア軍に対して優位性を獲得し、東はヴェローナからレニャーゴまでのアディジェ川流域、北はリヴォリを中心としてコロナやブレンティーノで防衛体制を整えました。

このように両軍、チロル山中とブレンタ川で対峙し、休息に入りました。

アルコレ戦役における死傷者と捕虜を合計した両軍の損失は、フランス軍19,507人、オーストリア軍は推定17,000人~18,000人だったと言われています。

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参考文献References

André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第二巻」
アンドレ・マルロー編、小宮正弘訳 「ナポレオン自伝」
その他