モンテノッテ戦役 15:モンドヴィの戦い Montenotte campaign 15

モンドヴィの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約17,500人 約600人
オーストリア
サルディーニャ王国
ヴィコフォルテ:約5,000人
モンドヴィ:約8,000人
合計:約13,000人
約1,600人(捕虜含)
※勢力について、オーストリアが含まれているのはオーストリアの将校と部隊が含まれているため記載

モンドヴィの戦いBattle of Mondovi

 4月20日夜、コッリは橋を破壊し、軍を後退させた。モンドヴィに流れるエッレロ川の背後に布陣し、防衛の態勢を整えてフランス軍を迎撃する計画であったと言われている。

 4月21日早朝、ボナパルトはコッリの後退を察知すると偵察が発見した浅瀬を渡り追跡を開始した。そして、ピエモンテ軍を見つけたらどこでも攻撃を開始するように各部隊に通達した。

 ボナパルトの攻撃計画はまたも肩透かしをくらったが、ピエモンテ軍の後退速度は遅かった。

 ピエモンテ軍はサン・ミケーレ周辺から北はコルサリア川とタナロ川の合流点、南はフラボーザ・ソプラーナにまで伸びていた軍をヴィコフォルテを経由しモンドヴィへ向かうように後退させていたため、ピエモンテ軍の後衛は未だヴィコフォルテ周辺にいた。

 4月21日午前8時頃、メニエル師団はレゼーニョから出発し、一時的な橋を架け、右翼をブリアーリアの斜面を通らせヴィコフォルテへ向かった。

 セリュリエは山から下りて師団を3つに分割し、後ろに騎兵と砲兵を配置し前進した。ドマルタンはトッレ村からサン・ミケーレの主要道路沿いに行軍、フィオレラはコルサリア川を渡りモリーネを通りヴィコフォルテへ、ギウはトッレ村から山を通りヴィコフォルテへ向かった。

 セリュリエ師団はヴィコフォルテに着くとピエモンテ軍に攻撃を開始した。

 ギウの前衛がヴィコフォルテにある牧草地の広がるコスタに駐留するピエモンテの部隊を発見し、大砲を放った。コスタのピエモンテ部隊は動揺したが交戦の構えを見せた。

 しかし、左からドマルタンの部隊が現れてサン・ミケーレへ続く道のピエモンテ部隊を攻撃すると、コスタのピエモンテ部隊は徐々に後退した。

 戦闘はヴィコフォルテの聖域(Santuario di Vicoforte)のすぐ左で行われており、聖域の北側にあるサン・ロッコの高台を占有しているピエモンテの部隊から支援砲撃が始まった。

 フィオレラはモリーネからピエモンテの部隊を追い出すとキアレロの丘に上りそこから聖域に向かって駆け下りた。

 しかし、サン・ロッコの高台からの砲撃や聖域からの射撃で進軍を止め、小さな家の後ろに避難した。

 ギウとドマルタンに挟まれ、コスタのピエモンテ部隊は完全に敗走した。彼らのほとんどは村を通って後退していった。

 ギウはそのまま前進した。フィオレラはギウの進撃を見て、聖域の中庭と建物に突入した。聖域を防衛するピエモンテ部隊の攻撃は激しく、聖域前の大通りは激戦となった。しかし、周辺のピエモンテ部隊が敗走するのを見て、聖域のピエモンテ部隊は聖域を放棄し撤退した。

 一方、メニエルの中央がサン・ジョバンニに到着すると、サン・ジョバンニを守るピエモンテ部隊はサン・ジョバンニを放棄し急速に撤退した。

 丘へ行く道はピエモンテの部隊によって固く防衛されており、ヴィコフォルテの村で無秩序に退却するピエモンテ兵を助けていた。

 フィオレラは丘を西から迂回し、パスクエロ周辺を通り丘で組織的に抵抗しているピエモンテ部隊の後背を脅かすと、丘のピエモンテ部隊は後退を余儀なくされた。

◎ヴィコフォルテの戦いの作戦図

 メニエルはオッテリア川を渡るために正面にある谷に突入し、ヴィコフォルテに残存しているピエモンテ兵の退路を脅かした。

 ヴィコフォルテのピエモンテの残存兵は急速にヴィコフォルテから追い立てられ、ヴィコフォルテの丘とピローネ・ヴィリーリからアルベンゴ村まで続く尾根の間にある低地に広がり敗走した。

 コッリのハンターはピローネ・ヴィリーリの建物の後ろにおり、砲台と擲弾兵の小隊により支援され、鋭い射撃によりフランス軍の前進をしばらく阻んだ。

 フランス軍は中央を砲台の砲火の射程外に保ちながら両翼を伸ばして、ピエモンテ軍を取り囲むように三日月形に配置した。

 戦闘はピエモンテの砲台とそれを支援する部隊に徐々に近づいており、近づくにつれて戦闘は激しさを増した。2時間ほど戦線は膠着状態となっていた。

 しかし、数で劣り後退中での防衛戦を強いられたピエモンテ軍は徐々に削られピローネ・ヴィリーリからも後退し、ピローネ・ヴィリーリとモンドヴィの町の間にある炎ような形をした丘の上で防衛線を構築していた。

 サン・クロース礼拝堂のある丘に砲台があり、その周辺をディチャット少将が、右翼のキウーザ少将はアルベンゴ村の尾根、ヴァラックス大佐がモーリエを、コッリが左翼を防衛していた。

 ヴァラックスはモーリエの下の森に突入し、そこでフランス部隊を追い散らし、ピローネ・ヴィリーリへ押し戻した。

 ボナパルトはピローネ・ヴィリーリ南東にあるブドウ畑に砲兵を配置した。

 フランスの大砲は周囲のピエモンテ部隊を掃討した。

 戦いは激化し、フィオレラは3度突撃したがすべてはね返された。

 右翼のキウーザは、正面はギウ、ペルティエ、右側面はフィオレラに攻撃にさらされ包囲の脅威にさらされており、耐え切れずディチャットの左に後退した。

 キウーザの右翼が崩れたため、ピエモンテ軍中央に攻撃が集中し、ディチェット少将が致命傷を負った。代わりにウレリーニがピエモンテ軍中央を指揮した。

 しかし、ウレリーニは右を包囲され、正面と左から鋭く攻撃されていたため、占有している丘を放棄しヴァラックスを支援するためにフランス軍に突撃を敢行した。

 キウーザのピエモンテ右翼が崩れて以降、ピエモンテ軍は戦線を支えきれず、次々と拠点を放棄し、モンドヴィに退却していった。主要道路はピエモンテの逃亡兵で溢れかえった。

 勝敗は決した。

モンドヴィ占領Occupation of Mondovì

 モンドヴィの門は固く閉ざされ、警備兵によって守られていた。

 ピエモンテ軍はエッレロ川の左岸へ後退した。コッリは、デレラ中将にモンドヴィの防衛のために部隊と大砲を預け、自身はモンドヴィを放棄し後退するために、兵たちを休ませ、準備を行った。

 ボナパルトはトッレ村の南にあるガーディア山で総指揮をとっていたが大勢が決すると前線の方へ移動した。

 午後4時頃、ステンゲル騎兵中将はエッレロ川左岸へ移動していた。左岸ではピエモンテ兵が後退する前に休憩を取っていた。ピエモンテのチャファードン大佐がステンゲルの騎兵隊に気付き、約125人の部隊でステンゲルの騎兵隊に突撃した。突撃は鋭く、ステンゲルは左腕を銃で撃たれ、サーベルで切りつけられる重傷を負い、ステンゲルのフランス騎兵隊は撤退した。

 その後ステンゲルは腕を切り落とす手術をしたが死亡した。

 コッリは準備が整うと軍を2つに分割し、その1つをフォッサノとクネオすぐ北にあるマドンナ・デル・オルモへ後退させた。

 クネオ方面に向かわせた理由は、フランスのアルプス方面軍と対峙しているピエモンテ軍への連絡と補強である。

 フランス軍はモンドヴィを取り囲み、砲撃を行った。

 デレラの守るモンドヴィの町は1時間の砲撃の後、午後6時頃に降伏した。

 ボナパルトはモンドヴィが降伏するまでの間、モンドヴィの責任者と交渉を行い、略奪を行わない代わりに、フランス兵達に食料を供給させた。モンドヴィの責任者はこの交渉を長引かせることでピエモンテ軍が後退する時間を稼いでいたと言われている。

 フランス軍はモンドヴィの占領に伴って兵器廠を手中に収め、肥沃なピエモンテの平原に到達し、食料問題も大幅に軽減さすることができたのである。

 フランス軍の次なる目標はトリノである。おそらくピエモンテ軍はポー河で防衛線構築しているはずであり、フランス軍が圧倒的優位に立っているとはいえ、コッリの軍は未だ健在であった。アルプス方面軍と対峙していた兵力とコッリの軍を合わせてポー河を死守するであろうと考えられていたのである。