アルコレ戦役 27:アルコレの戦い<2日目>(1796年11月16日)
Battle of Arcole 27

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

プロベラ師団及びミトロフスキー旅団の到着とロンコ周辺の包囲

 11月16日午前4時頃、ミトロフスキーはアルコレを奪還し、前哨部隊をゼルパに向かって派遣した。

 プロベラも前哨部隊を派遣し、再びビオンデを占領した。

 ボナパルトは、このままアルコレ周辺で戦いオーストリア軍を打ち破るか、ヴェローナに戻ってヴェローナを固く防衛するか、もしくはヴォーボワ師団をペスキエーラへ、マッセナ師団とオージュロー師団をマントヴァ要塞方向へ撤退させるかの選択を迫られていた。

 前日の戦いでオーストリア軍の思わぬ抵抗にあったものの、ボナパルトは戦略の方向性を変えることはなくこのままアルコレ周辺で戦いオーストリア軍を打ち破ることを決心した。

 この時点で戦略を転換してヴェローナを防衛するとしてもオーストリア軍はすでにロンコの対岸に集結しようとしており、数的優位であるオーストリア軍がロンコもしくはゼーヴィオでアディジェ川を渡河することを阻止することはできない、そして撤退するにしてもまだアルコレ周辺で戦える時間があり、アルコレでアルヴィンチを打ち破ればチロル軍とフリウーリ軍の統合を不可能にできると考えたのだろう。

◎アルコレの戦い<2日目>戦闘開始前の両軍の状況

 一方アルヴィンチの側では、オーストリア軍はロンコの対岸に兵力を集結させつつあったため、もはやヴェローナへの攻撃を考えることができなかった。

 そのため、アルヴィンチは数的優位の立場でアルコレ周辺における戦いを受け入れることを決意していた。

 前衛はホーエンツォレルン指揮下でヴェローナの前に配置され、サン・マルティーノとヴァーゴの防衛を担当した。

 ブラベック旅団とガヴァッシーニ旅団を有するプロベラ、スティッカー旅団とシュビルツ旅団、ブリジド旅団、そして自旅団を有しアルコレでブリジド旅団と合流する予定であるミトロフスキーはロンコに対して同じ目的を持って協力して行動する計画だった。

◎アルコレ戦い<2日目>におけるオーストリア軍の計画

 マッセナ師団とオージュロー師団に対抗するオーストリア軍は約20,000人と推定された。

マッセナ師団の進軍とブラベック将軍の死

 16日夜明け、オージュロー師団とマッセナ師団は再びロンコの舟橋を渡って前進を開始した。

 オージュローはアルコレに向かうアルポーネ川右岸の堤防を行進し、マッセナはビオンデに向かうアディジェ川左岸の堤防を行進した。

 オージュロー師団とマッセナ師団はロンコ橋のすぐ近くでオーストリア軍と衝突した。

 オーストリア軍の各列はロンコへの攻撃計画を進めており、プロベラ師団はベルフィオーレから出撃しようとしており、ミトロフスキー旅団はデズモンタ方面にミロラドウィッチ(Miloradowich)少佐率いる2個大隊と1個騎兵中隊を分離した後、旅団の大部分を率いてアルコレから出撃しようとしていた。

 ブリジド旅団は4個大隊、2個騎兵中隊を有していたが、アルバレードには大部隊を置くスペースが無いためアルコレ村に2個大隊を予備として残し、2個大隊、2個騎兵中隊でアルバレードに向かっていた。

◎マッセナ師団の出撃とベルフィオーレへの進出

 プロベラ師団の前衛であるブラベック旅団は、マッセナ師団の前哨部隊を発見すると警鐘を鳴らし、兵士たちは飛び起きた。

 それにもかかわらず先頭の第12半旅団は後退させられた。

 しかし第25と第32半旅団は支援のために前進し、数人の歩兵が堤防の脇に自生している葦をかき分けて滑り降り、オーストリアの列の右側面へ射撃を行った。

 ガルダンヌ将軍は消耗戦に引きずり込まれるのを見て堤防に登り、帽子を銃剣の先に引っ掛けて急いで前進し、3個半旅団を先導した。

 帽子を銃剣の先に引っ掛けたのは、堤防の下のオーストリア兵に帽子を狙って射撃させるためだろう。

 ガルダンヌの突撃に対し、オーストリア軍はブドウ弾を放ってその前進を止めようとした。

 フランス軍は2回地面に伏して回避行動をとり、跳ねるように起きてオーストリア軍を捕えようとした。

 最も前にいたオーストリア小隊は怯えてひっくり返り、バラバラに逃亡しようとした。

 第12半旅団は銃剣だけで前進を阻もうとする者すべてを泥沼に沈めた。

 ブラベック将軍は逃亡者を止めようとして殺され、ブラベックの死は敗走を決定づけた。

 オーストリア軍はカルディエーロまで押し戻され、ガルダンヌは5門の大砲を奪い取った。

ミトロフスキーによるアルポーネ川での頑強な防衛

 一方、オージュロー師団はミトロフスキー旅団とアルポーネ川右岸の堤防で戦闘を行っていたがミトロフスキー旅団は強く、守勢にまわっていた。

 ミトロフスキーは頑強に戦い、遂にオージュロー師団を撃退した。

 しかし、プロベラ師団の退却を知ったミトロフスキーはマッセナに側面を晒すのを恐れ、アルコレ方向に後退した。

 その後、オージュローは守勢から攻勢に転じて、2門の大砲を先行させてロベルト将軍率いる第75半旅団をアルコレに押し込んだ。

 ロベルトはオーストリア軍を倒し2門の大砲を鹵獲した。

 しかし、オーストリア大隊がアルポーネ川左岸の堤防に沿って部隊を展開し、側面から致命的な射撃を行ったためロベルトは鹵獲したばかりの大砲の1つを放棄して後退した。

 正午頃、ミトロフスキーはロンコの右側の堤防に2個大隊と1個騎兵中隊を配置し、左側の堤防に2個大隊と騎兵50騎を配置した。

 そして予備としてアルコレ村の背後に4個大隊を配置し、その内の1個大隊を連絡役としてサン・ボニファーチョに派遣した。

 デズモンタ(Desmontà)にいるミロラドウィッチは2個大隊と1個騎兵中隊をアルポーネ川左岸に配置し、ブリジド旅団はアルバレードを数百人の兵士で守っていた。

 ミトロフスキーのこの動きは、アルヴィンチは主力の一部を動かすつもりであるとボナパルトに思わせた。

◎ミトロフスキー旅団によるロンコ方面の封鎖

 ボナパルトは急いで4門の軽砲を砲台に配置してこれから到来するであろうオーストリア軍の攻勢に対応した。

 オーストリア大隊が防衛位置から離れて前進してきた場合、その砲火はオーストリア大隊を阻止することができると考えられたが、オーストリア軍は攻勢に出るつもりはなく、堤防に留まった。

 オージュローは2個大隊に命じ、連続して数回突撃させた。

 アルポーネ川左岸に配置されたミロラドウィッチ少佐の部隊は、フランス兵が目の前のアルポーネ右岸の堤防に現れる度にフランス軍の列へ射撃を行った。

 オージュローの突撃は正面と右側面の2点からの攻撃によりすべて撃退された。

アルポーネ川渡河作戦の失敗

 午後2時頃、オージュローはアルコレ方向へ強行突破できないのを見て、アルコレ村を占領するためにはアルポーネ川の河口付近を渡河し、強力な部隊を迂回させてアルコレ村を攻撃するしかないとボナパルトに伝えた。

 ボナパルトはオージュローの提案を受け入れ、そのための指示が出された。

 アディジェ川右岸に設置された6門の軽砲によって支援された200人の兵士がアディジェ川を渡ってアルポーネ川の河口付近のアディジェ川左岸に上陸して橋頭保を築き、アルバレード周辺を防衛しているオーストリア部隊を追い出し、橋の建設を行うという計画だった。

◎アルポーネ川渡河作戦

 しかしミロラドウィッチはフランス軍の動きを察知し、部隊をアルポーネ川河口に振り向けて前進させ、舟を砲撃した。

 フランス兵の乗った舟は恐怖に陥り、アディジェ川の真ん中にある砂の中州に立ち往生し、計画された上陸は果たせなかった。

 その後ボナパルトはオージュローに、負傷したランヌ将軍に代わって第51半旅団を率いるヴィアル(Honoré Vial)将軍をアルポーネ川の端に送るよう命じた。

 工兵司令官シャセループが行おうとしていた橋の建設を保護することが目的であり、橋の建設後すぐに橋を通過し、アルコレ村を後ろから攻撃する予定だった。

 しかしアルバレード守備隊の激しい攻撃と数門の大砲からのブドウ弾の砲撃を受けたため橋の建設を諦めなければならなかった。

 その後、第15竜騎兵隊が下馬して粗朶(細い木の枝を集めて束にしたもの)を運びアルポーネ川の川床を斜めに埋めようとしたが、粗朶は川の流れに押し流されていった。

 ヴィアル将軍はアルポーネ川に入り、胸まで水に浸して歩き、向こう岸までたどり着くことができた。

 第51半旅団もそれを真似して対岸までたどり着き橋頭保を築いた。

 しかし、他の部隊はヴィアル将軍の部隊の呼びかけに耳を貸さずアルポーネ川右岸に留まった。

 ヴィアルは第51半旅団で橋頭保を守り、第75半旅団所属の1個大隊と交替して夜まで射撃を続けたが、ロンコの舟橋に撤退した。

 2日目の戦いは終わり、ミトロフスキーはアルヴィンチに「フランス軍を完全に撃退した」と報告を送ったと言われている。

両軍の夜の動きとレニャーゴ橋への迂回作戦

 日が落ちると夜襲を恐れたミトロフスキーはロンコ左側の堤防に配置した2個大隊と1個騎兵中隊を引き上げ、ポンテ・ゼルパーネ周辺を強固に防衛する体制を整えた。

 夜になって、第5半旅団はロンコの橋の手前400mのベルフィオーレに向かう堤防の上で野営し、第12半旅団がアディジェ川左岸のロンコの橋の橋頭保を覆い、オージュロー師団の残りはアディジェ川右岸のロンコ橋のたもとで宿営した。

 マッセナ師団はベルフィオーレの向かいの道に宿営した。

 しかしアルヴィンチは「ボナパルトはアディジェ川右岸に戻されてマントヴァに後退し、ロンコに前衛のみを残した」という偽情報を得ており、ロンコの橋を占領するために、夜にプロベラ師団を前進させた。

 ベルフィオーレの手前で宿営していたマッセナ師団はロンコに戻され、押されるように第5半旅団もロンコに戻った。

 これによりアディジェ川左岸でロンコの舟橋の橋頭保を防衛する部隊は第12半旅団のみとなった。

 オーストリア軍左翼はアルバレードとアルコレを占領したままであり、ミトロフスキーは怪我の治療を行い、アルバレードの東に位置するクッカ(Cucca)とサッビオン(Sabbion)を占領し、レニャーゴ方向に強力な偵察部隊を送った。

 アルヴィンチはフリウーリ軍のすべての戦力を投入しなければならない状況と認識し、ホーエンツォレルン将軍にカルディエーロの前衛とともに行動するよう命じ、ホーエンツォレルンは夜中にフリウーリ軍右翼(プロベラ師団)と合流し、左翼であるミトロフスキー旅団に2個大隊を派遣して補強した。

◎両軍の夜の動き

 この補強によりミトロフスキー旅団は16個大隊を有するようになった。

 しかしゼーヴィオでアディジェ川を渡るという希望は捨てることができず、カスダノウィッチは引き続きゼーヴィオへの橋の建設を続けた。

 アルヴィンチはダヴィドウィッチが進軍することを期待しており、リヴォリからフランス軍を追い出した後もヴェローナへ向かいフランス軍の側面と後方で指揮する時間があることを望んでいた。

 ダヴィドウィッチ師団がアルヴィンチの望む通りに動き、ボナパルトが部隊を分割した場合、フリウーリ軍はロンコからヴェローナの途中でアディジェ川を渡り、チロル軍とフリウーリ軍はヴェローナを圧迫して占領するだろう。

 そしてその後チロル軍とフリウーリ軍は統合を果たし、圧倒的な数的優位をもってフランス軍を追い詰めるだろう。

 しかしアルヴィンチは、この日ダヴィドウィッチからの連絡を受け取っていないことからダヴィドウィッチは未だチロルの山中にいる可能性が高く、翌日にダヴィドウィッチ師団と協同作戦を行うことは不可能であると結論付けた。

 16日夜10時頃、ボナパルトはアルポーネ川の河口近くの橋が完成したことをオージュローに知らせ、ロンコで野営していた1個大隊を500頭の馬に乗せてレニャーゴ橋に向かってすぐに出発させるようオージュローに命じた。

 アルバレード周辺はオーストリア軍に固く守られているため、歩兵を馬に乗せて最速でレニャーゴ橋を渡りアルバレードへの迂回攻撃を行う計画だった。

 そして翌日に2つの師団がロンコからアディジェ川左岸へ渡りオーストリア軍を一掃するための列の編成を行った。

ダヴィドウィッチ師団の再編成とリヴォリ攻略準備

 11月16日、ヴォーボワは2日前にギウ旅団をボナパルトの元に派遣したため5個半旅団約6,000人でリヴォリ一帯を防衛することを余儀なくされていた。

 ヴォーボワ師団右翼はリヴォリ高原に繋がる渓谷に並んでおり、1個半旅団と騎兵隊で構成されていた。

 中央は2個半旅団で構成され、1個半旅団は砲兵によって支援されてヴェローナへの主要道路にまたがって野営し、他は左側の丘を占領した。

 これらの3個半旅団はジュベール将軍が指揮した。

 左翼はヴァレッテ将軍に率いられ、1個半旅団で構成され、リヴォリの盆地を支配する左の高さに配置された。

 最後にフィオレラ指揮下の1個半旅団がブッソレンゴで野営した。

◎ヴォーボワ師団の防衛体制とダヴィドウィッチ師団によるリヴォリ攻略準備

 ダヴィドウィッチはヴァイデンフェルト旅団とスポーク旅団をアディジェ川右岸側に渡らせオクスカイ旅団との合流を図った。

 スポーク旅団はアーヴィオとベッルーノを経由してバルド山を登り、ほとんど通行できない道をたどって夜にはオクスカイ旅団と合流を果たした。

 オクスカイ旅団は11月17日にヴァイデンフェルト旅団とスポーク旅団とともにバルド山から下りてリヴォリに対して最初の攻撃を行うよう命じられた。

 ビカソヴィッチは主力でドルチェの塹壕に5個大隊を率いており、クロアラ(Croara)に架けられた橋を翌17日に渡り、インカナーレに移動してオクスカイの支援を行うよう命じられた。

 ロイスはアディジェ川左岸からヴェローナへの道を南下し、キウーサ砦を観察し、アディジェ川左岸にある大砲によって右岸への攻撃を支援することを命じられた。

 そのためドルチェの前に大口径の砲台を設置し、9個中隊によってそれを保護し、リヴォリの側面の位置を獲得した。

 そしてキウーサ砦を防衛しているフランス部隊を不安にさせるために山の左側にクロアチア人分遣隊を派遣した。

 2個大隊を率いていたルシニャンは、その内の1個大隊を切り離してペリ(Peri)に向かわせ、2つ目とともにフォッセ(Fosse)、ブレオーニオ(Breonio)を経由しカヴァロ(Cavalo)方面へ向かうよう命じられた。

 そしてルシニャンは、17日の朝にダヴィドウィッチがリヴォリへ攻撃を行っている最中にキウーサに移動して攻撃するか、少なくとも迂回して後方を遮断するか、もしフランス部隊がキウーサ砦へやってきた場合、キウーサ砦の後方に位置するヴォラルニェ(Volargne)に移動しフランス部隊の前進を阻む任務を負った。

 セウレン中佐はセッロ(Cerro)に到着し、ラターマン大隊をアッツァゴ(Azzago)、ロサロ(Rosaro)、カザレ(Casale)に配置して哨戒を行った。

 その結果、11月16日時点の計画でダヴィドウィッチはアディジェ川右岸にオクスカイ師団、ヴァイデンフェルト旅団、スポーク旅団、計約8,000人強、アディジェ川左岸にビカソヴィッチ旅団、ロイス師団、ルシニャン旅団、合計約6,600人を配置する手筈となった。

 しかし、これらの命令が遅れて到着し、軍が散らばってアディジェ川から遠く離れていたため、計画通りに実行することはできなかった。

 このようにダヴィドウィッチは11月16日をリヴォリを攻略するための再編成と準備に費やした。