【詳細解説】第一次イタリア遠征最後の戦役


ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

本記事ではレオーベンの和約で幕を閉じる「第一次イタリア遠征最後の戦役」について時系列に沿って経過をまとめまています。

第一次イタリア遠征において「リヴォリ戦役」の終わりから「レオーベン条約」の間の出来事について詳しく書かれている日本語資料はほとんどありません。

さらっと流されることが多いため、「リヴォリの戦い」でナポレオンが勝利し、その勢いでカール大公を容易にレオーベンまで追い込みオーストリアと休戦したと思われがちです。

しかし実際のところ、カール大公は追われるだけでは無く常に反撃の機会を窺っており、フランス軍の後方ではヴェネツィア共和国の民衆が蜂起し、ナポレオンは包囲の危機にさらされていました。

フランスの英雄「ナポレオン」とオーストリアの英雄「カール大公」の盤上の戦いとナポレオンのマネジメントがメインとなるためそれほど華々しくはありませんが、「戦略的な面白さ」がありますし、「ナポレオンの休戦のタイミングは絶妙だった」ということがわかるでしょう。

第一次イタリア遠征最後の戦役を知れば、「ナポレオンはなぜトリノに進軍せずケラスコで休戦したのか、なぜローマまで進軍せずボローニャとトレンティーノで休戦したのか、なぜウィーンまで進軍せずレオーベンで休戦したのか」の戦略的理由が深く考察できるでしょう。

フランス軍側だけではなく、オーストリア軍側の戦略、ヴェネツィア共和国の動向も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたので「レオーベン条約」までの流れについて詳しく知りたい人や戦略好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。

レオーベンへの道 01 アンコーナの占領とジュベール師団の強化

1797年2月2日、ファエンツァの戦いに勝利したナポレオンは後退する教皇軍を追いました。

2月9日、教皇軍を指揮するオーストリア陸将コッリ中将はアンコーナまで後退し、そこで防衛体制を整えました。

ヴィクトール将軍はアンコーナ要塞を前に一計を案じました。

交渉のために話し合いの場を作り、その交渉中にアンコーナ要塞前の教皇軍陣地を包囲するために両翼を前進させたのです。

突然の攻撃に教皇軍は散り散りとなって逃亡し、モンタニョーロ山で防衛していた1,200人は包囲され、全員捕虜となりました。

一方、サンブレ・エ・ムーズ軍を離れイタリアへ向かっているベルナドット将軍から派遣された先触れの士官たちがナポレオンの元に到着しました。

ベルナドット将軍はこれから冬のアルプス越えを行うところであり、ナポレオンはその位置をシャンベリー辺りにいるだろうと予想していました。

ナポレオンはフランスにいる内に装備を整えさせるためにベルナドット将軍に支度金を送金しました。

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レオーベンへの道 02 カール大公の到着とタリアメント川への集結命令

1797年2月6日、ライン方面から移動してきたカール大公はインスブルックに到着し、アルヴィンチはヴァイロサー大佐などの側近達とともにベッルーノを経由してコネリアーノに到着しました。

そしてライン方面とオーストリア本国から合計約30,000人の増援がチロルとフリウーリに向かって移動していました。

2月11日時点のオーストリア軍の兵力はチロル軍約8,000人、中間部隊約2,500人、ピアーヴェ川周辺の軍約16,000人、チロルからケルンテン州とフリウーリ州を経由してピアーヴェ川周辺に向かって移動している軍約5,000人、チロルに向かって移動している軍約1,000人、合計約32,500人でした。

11日正午以降、カール大公は軍の位置を修正し、フランス軍を観察するためにホーエンツォレルン将軍のみを騎兵隊と共にピアーヴェ川に残し、タリアメント川の後ろで冬営するようアルヴィンチに命じました。

恐らくカール大公はピアーヴェ川に前衛を残して「アルプスの川の王」であるタリアメント川に主力を集結させ迎え撃とうとしたのだと考えられますが、この時期タリアメント川の水位は低くどこでも渡れる状況でした。

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レオーベンへの道 03 トレンティーノ条約の締結

ヴィクトール師団は10日にロレートを占領し、さらにローマに向けて移動を続けていました。

そして13日、トレンティーノに到着しました。

トレンティーノでは教皇からの使者がナポレオンと和平交渉を行うために待っていました。

ナポレオンは翌14日にトレンティーノに到着し、和平交渉が開始されました。

その間もヴィクトール師団は前進を続け、15日にフォリーニョに到着し、16日にはフォリーニョでヴォーボワ師団の別動隊との合流を果たし、18日までにウンブリア州のすべてを勢力下に置き、ローマまで約3日の距離にまで迫りました。

そして2月19日、遂にトレンティーノにおいて和平条約が締結され、第二次教皇領遠征は終結しました。

詳細記事ではチロル方面のジュベール将軍の悩みやフランス政府とナポレオンとの軋轢、最古で最小の共和国「サン・マリノ共和国」とナポレオンとのエピソードなども記載しています。

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レオーベンへの道 04 チロルでの小競り合いとピアーヴェ川での攻防

1797年2月22日頃、ギウ師団はピアーヴェ川に向かって進軍を開始しました。

ロヴァディナを占領し、ピアーヴェ川東岸側に橋頭保を築こうとしました。

しかしオーストリア軍の強い抵抗により押し戻され、東岸側の橋頭保だけでなくロヴァディナも失いカテーナに撤退しました。

この戦いにおけるオーストリア軍の損害は死者18人、捕虜30人でしたが、フランス軍の損害はデュポー少将とバルセルミー大佐が負傷した以外の損害は不明です。

上級士官が負傷したところを見ると、フランス軍の損害の方が多かったのではないかと考えられます。

詳細記事ではチロル方面での一連の小規模戦闘、マントヴァ要塞で捕虜となったオーストリア兵のピアーヴェ川の通過とそれに伴う両軍の対応なども記載しています。

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レオーベンへの道 05 タリアメント川への撤退の開始

1797年2月24日、オーストリア軍は計画通りタリアメント川に向かって後退を開始しました。

その後退は妨害されることはありませんでしたが、25日までにフランス軍はピアーヴェ川の全戦線を前進させました。

フランス軍はピアーヴェ川を渡ることなく、西岸側を勢力下に置きました。

この頃にはベルナドット将軍がミラノに到着しており、2月27日、ナポレオンは第19猟騎兵連隊をミラノに残し、ベルナドット将軍に師団を率いヴェローナに向かうよう命じ、一部をその先のバッサーノにいるマッセナ将軍の元に派遣するよう命じました。

ベルナドット師団及びデルマス師団が続々と前線へ向かったことにより、フランス軍はようやくオーストリア軍に対して数的優位を獲得し、攻勢可能な状態になると考えられました。

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レオーベンへの道 06 ジュベール師団の攻勢の失敗とその後の強化

1797年2月28日、700名のフランス兵がチロル軍右翼の駐屯地を攻撃して一時的に押し戻しました。

しかし大砲の砲火で足止めされている内に支援部隊が到着したことにより立場は逆転し、フランス軍を以前の位置に追い返しました。

オーストリア軍の左翼側でも300人のフランス兵がソヴェール(Sover)を攻撃したが、撃退されました。

これは威力偵察でしたが、これに危機感を抱いたリプタイ将軍は部隊を前進させ、アヴィーシオ川左岸側に橋頭保を築こうとしました。

3月1日、ジュベール将軍はソヴェールを占領し、翌2日に左翼ミュラ旅団、右翼ベリヤード旅団でアヴィーシオ川を渡って攻勢をかけました。

いくつかの地点でフランス軍は優勢でしたが、エリン旅団が救援に駆け付けてきたことによりベリヤード旅団は劣勢となり、占領地からの後退を余儀なくされました。

その後もベリヤード将軍は幾度かの攻撃を行いましたがすべて撃退され、ミュラ将軍もオーストリア軍の執拗な攻撃とベリヤード旅団の失敗のため撤退を余儀なくされました。

一方、これら両軍の後方では、オーストリア軍側ではライン方面から来たメルカンディン師団がインスブルックに到着し、フランス軍側ではデルマス師団がヴェローナに到着していました。

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レオーベンへの道 07 カール大公による後方支援の強化とバヤリッヒ旅団の後退

1797年3月1日、カール大公はピアーヴェ川及びタリアメント川のイタリア陸軍とチロル軍を合計して約40,000人にまで増強し、再編成や兵站の整備、備品の分配などを行いました。

カール大公としてはナポレオンと相対する正面戦力を増強したかったですが、ナポレオンがイタリア半島のアドリア海に面するアンコーナ港を占領したことにより、トリエステ周辺とクロアチアの沿岸警備を強化せざるを得なくなりました。

クロアチア方面の沿岸の重要地点を可能な限り強化し、トリエステやリエカはイギリス軍が費用を負担して部隊を配置しました。

さらに4,000人の新兵が沿岸警備に割り当てられ、 オーストリア領内に通じるすべての道は遮断するか、逆茂木や塹壕で覆いました。

一方、ピアーヴェ川方面では3月3日にバヤリッヒ旅団がピアーヴェ川を離れてタリアメント川に向かい、バヤリッヒ旅団の一部とゼッケンドルフ旅団の一部がフェルトレ周辺のルシニャン将軍指揮下に入り、ルシニャン旅団を強化しました。

フランス軍はこれらオーストリア軍の動きを察知してロヴァディナを占領しましたが、橋頭保には近づかず3日と4日は何の動きも見せませんでした。

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レオーベンへの道 08 ヴェネツィア共和国の策動とナポレオンの対抗措置

ヴェネツィア共和国領の一部でトランスパダーナ共和国やチスパダーナ共和国を拡大する意図を表し、ベルガモ、ブレシアを始めその他の町においてもフランス士官達がヴェネツィア共和国の支配体制を打倒すると脅迫し、ヴェネツィア共和国に不満を抱いている革命家の秘密同盟を設立しました。

そのため、ヴェネツィア共和国は中立を宣言していましたが、オーストリア軍が前進を成功させた場合にのみ、その独立を維持することを望むことができるというジレンマを抱えていました。

心の底ではフランス軍に今すぐにでも国土から出て行って欲しいと願っていました。

タリアメント川に展開するオーストリア軍の右翼側にはオソッポ要塞が、左翼側にはパルマノヴァ要塞がありましたが、ヴェネツィア共和国が所有していました。

オーストリア軍のためにオソッポとパルマノヴァの2要塞を使用させることはヴェネツィア政府の方針と一致していましたが、この時点でヴェネツィア政府は2要塞を自発的にオーストリア軍に引き渡すことはできませんでした。

そのためオーストリア軍が武力でこれら2要塞を占領したように見せる必要がありました。

一方、ナポレオンはヴェネツィア共和国に攻撃的及び防御的同盟を締結することを提案しました。

見返りはヴェネツィア共和国の領土をゴリツィアとトリエステにまで拡大することでした。

しかし、ヴェネツィア共和国との交渉はサルディーニャ王国との同盟が批准されなかったことも相まって締結には至りませんでした。

そのためナポレオンはヴェネツィア共和国の策動を防ぐためにヴェネツィア共和国の各地域を分断し勢力下に置くことを決意しました。

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レオーベンへの道 09 カール大公の前線への到着とフランス軍の侵攻準備

1797年3月3日夜明け前、夜間に要塞から移動していたオーストリアの8個中隊がパルマノヴァの前に現れ、門と城壁を占領しました。

同日、オソッポ要塞にも突然オーストリア軍が現れてこれを占領しました。

オーストリア軍が明らかな力で2要塞を占領しようとしているのを見てヴェネツィア政府は喜んだと言われています。

3月4日、カール大公がウディネの本部に到着し、アルヴィンチから軍の指揮を引き継ぎ、チロル軍側では体調不良のリプタイ少将に代わってライン方面から来たケルペン中将が指揮権を引き継ぎました。

3月5日、ナポレオンはフリウーリからタリアメント川に向かう主要道路を進軍する準備をし、マッセナ、ギウ、セリュリエ、ベルナドットの各師団とドゥガ将軍の騎兵予備隊と共に、2,700騎兵と36門の大砲を含む32,000人を集結させました。

そしてフランス政府の意向に沿うように計画を立案し、オーストリア領への侵入を決意しました。

3月7日、フランス軍の強力な哨戒部隊がピアーヴェ川右岸側に現れ、倉庫には食糧や物資が積み上げられました。

バッサーノでも同様の動きが見られ、これらの兆候はフランス軍の攻勢が近づいていることを示唆していました。

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レオーベンへの道 10 ナポレオンによる攻勢計画と1797年3月10日時点でのオーストリア軍の強度と配置

1797年3月9日までにナポレオンは本部をマントヴァからバッサーノに移し、まずオーストリア軍中央のフェルトレ方面へ攻撃的に行動することを決意し、計画を立案しました。

マッセナ師団を先行させ、その後、ギウ師団、セリュリエ師団、ベルナドット師団がピアーヴェ川を渡河し、タリアメント川へ急進する計画でした。

この機動はロディ戦役におけるミンチョ川渡河作戦であるボルゲットの戦いを彷彿とさせるものでした。

フランス軍の攻勢が開始される前、3月10日時点でのオーストリア軍の兵力は、ピアーヴェ川の前衛約10,000人、タリアメントの主力約17,000人、チロル軍約14,000人、チロル州兵約10,000人、合計約51,000人であり、カール大公はこれらの兵力に加え、まだ遠方にいるライン方面からの増援とウィーンから派遣される新兵でフランス軍に対抗する必要がありました。

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レオーベンへの道 11 第一次イタリア遠征最後の戦役の開始

1797年3月10日、バッサーノを本部に置く総司令官ボナパルトは麾下の軍に宣言し、教皇領遠征によって中断されていたオーストリア軍への作戦の再開を発表しました。

これが第一次イタリア遠征最後の戦役が開始された瞬間でした。

最初の打撃を与えるよう命じられたマッセナ師団はアーゾロからフェルトレ方面に進軍し、セリュリエ師団、続いてドゥガ予備騎兵隊がひどい天候の中アーゾロに進みました。

ピアーヴェ川を守るホーエンツォレルン将軍はフランス軍の一団がフェルトレ方面に向かい、対岸のセリュリエ師団が渡河の準備をしているとの報告を受け取った。

同時にフェルトレ周辺を防衛するルシニャン旅団から悲鳴に近い報告が届けられた。

3月11日、降り続く大雨でピアーヴェ川はかなり増水していたため、セリュリエ師団及びギウ師団はピアーヴェ川を渡河できず、バラグアイ・ディリエール師団も雪に阻まれヴァルスガーナに留まることを余儀なくされました。

そのため左翼のマッセナ師団のみがルシニャン旅団への攻撃を開始し、コルデヴォーレ川の渡河を成功させました。

翌12日、ピアーヴェ川の水位が下がり、セリュリエ師団及びギウ師団はピアーヴェ川の渡河を開始し、ベルナドット師団はカステルフランコへ向かいました。

マッセナ師団はこの日、ルシニャン旅団が退避したベッルーノを占領しました。

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レオーベンへの道 12 ギウ師団による夜の追撃とマッセナ師団のロンガローネでの勝利

1797年3月13日午前1時、ドゥガ騎兵隊がピアーヴェ川を渡河しました。

同日、ギウ師団はホーエンツォレルン旅団の跡を追い、夜、ホーエンツォレルン旅団の後衛に追いつき、暗闇の中、攻撃を行ないました。

この交戦でオーストリア兵300人が捕虜となるか分散するかし、フランス側ではドゥガ将軍が負傷したが、効果的な砲撃によりギウ師団の前進が妨げられました。

ホーエンツォレルン旅団は後退速度を上げました。

同日、ベルナドット師団はトレヴィーゾに行き、橋が建設されていたネルヴェーザに前哨部隊を進出させました。

一方、マッセナ師団は3月13日朝、総司令官の命令通りピアーヴェ川沿いにルシニャン旅団の追跡を開始しました。

マッセナは数的優位を活かし、ルシニャン旅団をロンガローネに追い詰めました。

ルシニャン旅団は隘路で正方形に陣形を組み包囲を突破しようとしましたが、マッセナ師団の攻撃によって散り散りとなり、夜7時に降伏しました。

ロンガローネでの戦闘でルシニャン旅団が被った総損失は、およそ兵士600人と馬100頭だったと言われています。

ルシニャン将軍も捕虜となりましたが、その後、ガルダ湖畔の戦い時のブレシアでの所業によりナポレオンは捕虜交換を拒否し、フランスに連行しました。

詳細記事では、ナポレオンによるベルガモ共和国の樹立なども記載しています。

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レオーベンへの道 13 オーストリア軍のタリアメント川への集結とルシニャン旅団の強化

前衛がピアーヴェ川を去らなければならないという報告をウディネで受け取ったカール大公は、主力をタリアメントにより集中させるように命じました。

1797年3月14日、カール大公はフランス軍を迎え撃つために再編成を行い、タリアメント川の防御を固めました。

右翼はバヤリッヒ将軍が指揮し4,720人を擁し、中央はロイス将軍が指揮し約8,000人を擁し、左翼はスポーク将軍が指揮し4,650人を擁していました。

左翼にはその他にシュルツ師団約1,000人が配置されました。

前衛であるホーエンツォレルン旅団約4,500人が合流すれば約23,000人となります。

対するナポレオンは4個師団とドゥガ騎兵隊を統帥し、ホーエンツォレルン旅団を追跡していました。

マッセナ師団はバヤリッヒ師団と対峙し、その他の師団はヴァルヴァゾーネに集結してタリアメント川を渡河する計画でした。

しかし翌15日、ルシニャン旅団がロンガローネで敗北したという知らせがカール大公の元に届きました。

ルシニャン旅団は中間部隊としてチロル軍とタリアメントの主力との連絡を繋ぐ役割を果たしていました。

もしルシニャン旅団の位置がフランス軍に征服されてしまった場合、チロル軍とタリアメントの主力はそれぞれ包囲と各個撃破の危険にさらされてしまいます。

そのためカール大公はスポーク中将を指揮官として派遣し、メルカンディン師団から4,200人を分割してルシニャン旅団を補強するよう命じました。

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レオーベンへの道 14 ヴァルヴァゾーネの戦い

1797年3月16日午前11時、ギウ師団がヴァルヴァゾーネに到着し、正午にベルナドット師団が到着しました。

セリュリエ師団は大回りで向かっていたため未だ後方で行進していました。

ギウ師団及びベルナドット師団は陣形を整え、大砲を設置し、渡河準備を行いました。

ナポレオンは軍を2列に編成し、両翼と師団の間に騎兵隊を配置しました。

左翼ギウ師団の前列はデュポー将軍が指揮し、後列はボン将軍が指揮しました。

右翼ベルナドット師団の前列はミュラ将軍が指揮し、後列はシャブラン将軍が指揮しました。

午後3時、渡河命令が発せられ、フランス軍は整然とよく訓練されたかのような機動を示しました。

オーストリア軍はよく防御していましたが、騎兵隊の数的な差もあり、徐々に劣勢となっていきました。

この状況を打破するためにカール大公はシュルツ将軍の騎兵隊を出撃させましたが、ケレルマン将軍率いる騎兵隊によって迎かえ撃たれ、シュルツ将軍は捕虜となり、大砲5門を失いました。

少しづつ押し込まれていたオーストリア軍はこの習慣から後退を加速させました。

カール大公はフランス軍の前進を遅滞させつつ、後退を急がせましたが、オーストリア軍の後衛はかなり圧迫され、混乱しながらパルマノヴァを目指す結果となりました。

ヴァルヴァゾーネの戦いでのフランス軍の損害は死傷者と捕虜の合計約500人、オーストリア軍の損害は死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門と言われています。

一方、バヤリッヒ師団と対峙する予定だったマッセナ師団は冬の雪山に阻まれてアヴィアーノに到達できず、ベルナドット師団の後を辿ることとなりました。

詳細記事では戦場の救急車についても紹介しています。

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レオーベンへの道 15 カール大公によるイゾンツォ川での防衛計画

1797年3月17日、カール大公はさらに後退を続け、ホーエンツォレルン旅団を後衛としてパルマノヴァ要塞に残し、大部分をトッレ川の背後に移動させることに成功しました。

しかしトッレ川は小さい川であり、それほど防御効果を望むことはできませんでした。

そのためカール大公はより深く川幅が広いイゾンツォ川で防衛する計画を立案しました。

後退は18日夜に開始される計画でした。

その間、ナポレオンはこれらの後退を妨害せずに距離を保って追跡し、いくつかの地点でコルモール川を渡っていました。

一方、3月17日、ジュベール将軍の元に遂にアヴィーシオ川を渡る命令が届きました。

この時点で、ジュベール将軍は騎兵1,800騎を含む18,500人を有していました。

ジュベール将軍は威力偵察を行い、オーストリア軍の強度、警備状況、地形をよく観察しました。

その後、トレントの近くに約4,000人を監視のためにセルヴィエズ少将を残し、ジュベールは3個師団をアヴィーシオ川に移動するよう命じました。

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レオーベンへの道 16 ベルナドット師団によるパルマノヴァ要塞の占領とマッセナ師団のアルプスへの侵入

1797年3月18日夜明け前、ベルナドット師団を先頭として3個師団がコルモール川からトッレ川に向かって前進しました。

ホーエンツォレルン旅団はパルマノヴァ要塞を放棄し、トッレ川で防衛線を構築しました。

ベルナドット師団はパルマノヴァ要塞を占領し、その後、左翼ギウ師団、中央ベルナドット師団、右翼セリュリエ師団はトッレ川でホーエンツォレルン旅団と対峙した。

ホーエンツォレルン将軍率いるオーストリア軍の後衛は、その不利な地形と兵力差によりトッレ川での戦いを受け入れることはできない状況でしたが、フランス軍は周辺の制圧、マッセナ師団との連絡線の確立、後方警備や兵站の手配、パルマノヴァ要塞での侵攻準備や再編成などのため、この日、本格的な前進をすることはありませんでした。

しかし夕方5時頃、小規模な戦闘が発生し、フランス軍は撃退されました。

その戦闘の際に捕えられた捕虜から、フランスの総司令官がパルマノヴァに到着しており、翌19日にフランス軍が侵攻を開始するという情報を得ました。

18日夜、そのためカール大公は前日に伝えた計画に従って、イゾンツォ川の後ろへの後退を開始するよう各部隊に命令を下しました。

一方、マッセナ師団は、タリアメント渓谷の出口にあるオソッポとジェモナまで前進し、そこからタリアメント渓谷に前衛を進めていました。

詳細記事ではブレシア共和国の樹立についても記載しています。

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レオーベンへの道 17 グラディスカの戦い

1797年3月19日朝、ギウ師団はコルモンス、ベルナドット師団はグラディスカ、セリュリエ師団はサン・ピエールへ行進を開始しました。

ホーエンツォレルン将軍率いる後衛は前衛となり、半数はゴリツィア方面に撤退し、残りの半数はグラディスカの前に集結しました。

ベルナドット師団は3列でグラディスカに接近しました。

セリュリエ師団はゼッケンドルフ旅団の防御にも関わらずカッセリアーノ周辺にあるイゾンツォ川を渡河し、ゼッケンドルフ旅団を退けました。

川幅が広く、深さがあり、流れの速いイゾンツォ川は、当時、霜によって弱まりどの地点でも渡ることができる状況でした。

セリュリエ師団はサン・ピエールを占領すると北と東の高地の占領に向かい、その後、グラディスカのアウグスティネッツ旅団の退路を遮断するために高地に沿ってグラディスカに向かいました。

その間、ベルナドット師団は攻囲を行ってある程度の損害を被りましたが、アウグスティネッツ旅団の弾薬も心許なくなっていました。

ベルナドット師団の砲弾がグラディスカの町に火を点けた瞬間、セリュリエ師団が現れ左岸側に配備された砲台を破壊しました。

これによりアウグスティネッツ旅団は退路を断たれ、グラディスカで完全に包囲されることとなりました。

アウグスティネッツ旅団は夕方6時まで途切れることなく砲撃を続けましたが、弾薬が遂に底を尽きました。

これ以上抵抗することができず、夜9時、アウグスティネッツ大佐は降伏文書に署名しました。

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レオーベンへの道 18 カール大公によるイゾンツォ川からの撤退計画と反攻計画

1797年3月19日夜、カール大公はグラディスカの戦いでアウグスティネッツ旅団が降伏したことを知らされました。

そのため3月19日夜から3月20日未明にかけて、急いでイゾンツォ川周辺を撤収しリュブリャナへの後退を開始しました。

バヤリッヒ師団はコバリドへ向かい、残りは複数の経路でリュブリャナへ向かいました。

リュブリャナへ向かったカール大公が有する兵力は、193個大隊、13個騎兵中隊を有し、騎兵1,700騎を含む10,200人であり、コバリドへ向かったバヤリッヒ師団は10個大隊、34個騎兵中隊を有し、騎兵400騎を含む6,500人でした。

カール大公は、マッセナ師団が接近してきているタルヴィジオでメルカンディン師団、オクスカイ旅団、ゼットウィッツ少佐のクロアチア2個大隊が合流し、リュブリャナを経由して移動しようとしているロイス将軍がタルヴィジオで合流するまで持ち堪えることを望んでいました。

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レオーベンへの道 19 地元住民の噂によるメルカンディン師団の後退とカサソーラでの戦闘

1797年3月15日、メルカンディン将軍はプステリア渓谷を通りカリンシア(ケルンテン州)のオーバードラウブルクに到着しました。

オーバードラウブルクはフィラハから西に約90㎞ほどのところにある町であり、4日後にはフィラハに到着することができると考えられました。

そしてそこでロンガローネでのルシニャン旅団の敗北を知らせれました。

同時に地元の住民達は15,000人のフランス軍の縦隊がコルティナに向かって進んでいるという情報をメルカンディンにもたらしました。

これらの情報は根拠の無い噂話でしたが、もしルシニャン旅団の位置にフランス軍が割り込んだ場合、チロル軍とタリアメントの主力との連絡線が遮断され各個撃破の危険にさらされてしまうことが懸念され、もしそうであるならジリアンの倉庫を守るためにもメルカンディン将軍としては対応することを余儀なくされました。

ジリアン到着後、メルカンディン将軍は3月14日付のカール大公からのゴリツィアへ急進するよう求める書簡を受け取りました。

メルカンディンはカール大公の命令に従うべきか、それとも近隣地域の危険な状況に対処すべきか、どちらを優先するべきか迷っていましたが、その両方を満たすだろう方法を考え、部隊を派遣しました。

一方、マッセナ師団はカサソーラに進軍し、オクスカイ旅団は損害を出しながらポンテッバへ後退しました。

メルカンディン師団の具体的な対応、カサソーラでの戦闘については詳細記事に記載しています。

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レオーベンへの道 20 メルカンディン師団の再出発とオクスカイ旅団によるタルヴィジオの放棄

1797年3月18~19日、メルカンディンはコルティナに到着したスポーク将軍からカール大公の意図をより正確に知らされました。

同時に、マッセナ師団がロンガローネからベッルーノに戻ったことを知り、クロイツベルクに差し迫った危険はないことを確信しました。

そのためメルカンディンは、19日~20日に再びオーバードラウブルクに向けて出発し、20日~21日にオーバードラウブルクでカール大公が17日にファッラの本部から送った最後の命令を受け取りました。

メルカンディン師団の一部をポンテッバに、他の一部をフィラハに行進させるよう命じる内容でした。

メルカンディン師団は地元住民の噂に翻弄されて時間を浪費していたため、その行軍には大きな遅れが生じていました。

一方、オクスカイ旅団はカサソーラ峠で敗北した後、新兵で構成される1,000人の増援を受取り、1,900人の兵力を有していました。

しかし、ほとんどが新兵であるため大規模な作戦の実行は期待できず、そのため後方に増援を要請しました。

オクスカイは20日まで防御に適したポンテッバで増援の到着を待っていましたが、増援は到着せずその地を離れました。

オクスカイはタルヴィジオに後退し、数が少なく訓練もあまりされていない部隊だったため、数的優位な敵と戦ってはならないと考え、そこからさらにポドコーレンへ向かって後退しました。

これらの後退の結果、もしマッセナがオーストリア軍よりも早くタルヴィジオを占領した場合、イゾンツォ渓谷を通ってタルヴィジオの方向に後退する予定であるバヤリッヒ師団の退路が断たれてしまう状況となってしまいました。

詳細記事では、その他にベルガモ共和国とブレシア共和国に関するヴェネツィア政府との最初の交渉についても記載しています。

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レオーベンへの道 21 チロル遠征の始まり

1797年3月19日、ナポレオンはジュベール将軍にチロルへの遠征を開始するよう命じました。

それにともなってジュベール将軍は19日中までに攻勢計画を立案して再編成を行い、翌20日に実行するために麾下の各師団に命令を下しました。

3月20日、ジュベール将軍による攻勢計画は時間をきっちりと決められ、計画通りに開始されました。

ジュベール師団は順調に歩を進め、チロル軍をサロルノ周辺にまで追いやりました。

ケルペン中将はフランス軍に対抗してサロルノを守るための力があると考え、ラウドン旅団とビカソヴィッチ旅団に前進させフランス軍を撃退するよう命じました。

しかしビカソヴィッチ旅団は大きな損害を受けて撃退され、ラウドン旅団は突出し過ぎている状況となりました。

そのためケルペン中将は、サロルノを明け渡すことを余儀なくされ、予備軍と左翼の残党を率いてノイマルクトに後退しました。

この日のオーストリア軍の死者、負傷者、行方不明者の合計は3,584人であり、そのうち5人が参謀将校、78人が上級士官でした。

翌日、ケルペン師団はボルッツァーノへ後退し、敵中に取り残されつつあるラウドン旅団にもケルペン師団とボルッツァーノで合流するよう命じました。

詳細記事には、この時の戦いで分断され取り残されたオーストリア2個小隊の夜間行も記載しています。

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レオーベンへの道 22 タルヴィスの戦い(タルヴィジオの戦い)前の両軍の動向

1797年3月20日、グラディスカに本部を置いていたナポレオンは、翌21日にセリュリエ師団とベルナドット師団とともにゴリツィアに進軍し、ギウ将軍にコルモンスからシヴィダーレに前進するよう命じました。

そしてゴリツィアに到着したナポレオンは3方向に後退しているオーストリア軍を追跡するために、ベルナドット師団にリュブリャナへ後退している列を追跡させチェルニッツァに、セリュリエ師団にバヤリッヒ師団を追跡させカナレ方面に、そしてドゥガ騎兵隊をトリエステへ向かわせました。

しかしセリュリエ将軍はバヤリッヒ師団を追跡中、体調を崩してパルマノヴァに移送され、シャボー将軍に指揮権を移譲しました。

3月21日未明、クラーニに到着したカール大公は、オクスカイ旅団とバヤリッヒ師団を合流させることを想定していたタルヴィジオをマッセナが占領したことを知りました。

バヤリッヒ師団の危険を察知したカール大公はオクスカイ将軍にタルヴィジオを占領するためのあらゆる努力をするよう命じました。

3月21日の朝、ゴントルイユとバヤリッヒは、総司令官の指示が届く前にコバリドに部隊を集結させ、コバリドの北の道を5㎞ほど行ったところにあるテルノヴォへの進軍準備を行っている時、マッセナがタルヴィジオを占領したことを知りました。

22日朝、ゴントルイユは独力で道を切り開き、マッセナの前哨部隊からタルヴィジオを奪い、防衛体制を整えました。

詳細記事ではギウ師団の動きやベルガモ共和国とブレシア共和国に関するヴェネツィア政府との交渉について記載しています。

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レオーベンへの道 23 ジュベール師団によるボルッツァーノの占領

ラウドン旅団は22日午前3時にスポルマッジョーレを出発し、メッツォコロナに向かいデゲルマン中佐の部隊と合流しました。

ケルペン師団本体はオーラを離れ、ボルッツァーノに後退していました。

その後、ラウドン旅団はボルッツァーノを目指しましたが、ノイマルクトの対岸に到着した時、フランス軍はすでにノイマルクトを占領し、ノイマルクト橋を渡っていました。

ラウドン旅団はフランス軍をノイマルクトに追い返し、その後、カルダーロ湖の高台に左翼を、テルメーノに右翼を配置して防衛態勢を整えて後衛を待ちました。

この時、ジュベール師団本体はボルッツァーノへ向かい、デュマ師団がアディジェ川右岸を掃討するためにラウドン旅団に素早く対抗しました。

そのためラウドン旅団は後衛と分断され、後衛はその後包囲されて散り散りとなりました。

ラウドン旅団は降伏勧告を受けながらもボルッツァーノへの後退を成功させましたが、ケルペン師団本体はすでに後部を圧迫されてボルッツァーノから撤退していました。

ラウドン旅団の死者と行方不明者の数は、士官6人、兵士650人に達したと言われています。

22日夜、ラウドン旅団はテルラーノへ向かい、翌23日朝、ジュベール師団はボルッツァーノを占領しました。

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リヴォリ戦役 24 ロイス将軍による目的地の変更とチロル軍のブレッサノネへの後退

1797年3月23日、ロイス将軍はリュブリャナ周辺の州境に移動しており、ゼッケンドルフ将軍とホーエンツォレルン将軍はロガテツで合流しました。

ロイス将軍は、強力なフランスの部隊がタルヴィジオに向かって移動しているという連絡を受けており、ロイス将軍の目にはタルヴィジオへの行進は危険に映りました。

そのためロイス将軍は目的地をタルヴィジオではなくより後方のクラーゲンフルトへと変更しました。

一方、チロル方面では、ジュベール師団はブレッサノネに向かって進軍を開始し、オーストリア前哨部隊が配置されているコルマに対し威力偵察を行っていました。

ケルペン師団前衛はキウーサで防衛準備を整え、ケルペン師団本体はキウーサを支援するために翌24日もブレッサノネに留まりました。

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レオーベンへの道 25 タルヴィスの戦い(タルヴィジオの戦い)

1797年3月23日夜明け、マッセナは前衛であるブルーン旅団をタルヴィジオに向けて前進させました。

しかし、ゴントルイユ将軍の防御陣地と地面を覆う氷によって阻まれ、後退を余儀なくされました。

ブルーン将軍は部隊を立て直した後、午後2時に再度攻勢を開始しました。

ゴントルイユ旅団は高地を奪われ、不利な態勢に追い込まれていきましたが、午後4時、カール大公は戦場に到着しました。

カール大公は戦場に到着すると同時に、失地回復のために自らの護衛から騎兵隊をゴントルイユ将軍に率いさせて派遣し、後方にいるオクスカイ旅団を呼び寄せました。

マッセナは勝敗を決するためにオーストリア軍の退路を遮断するために1個半旅団をタルヴィジオに向かわせました。

ゴントルイユ旅団は散り散りに無秩序に敗走し、カール大公とオクスカイ旅団を巻き込みました。

カール大公は最前線で秩序を回復しようとしましたが、同時に最大の危機に直面していました。

フェダック中佐の勇敢な行動もあって逃走に成功したカール大公はコッカウまで後退し、そこでフランス軍の前進を止めました。

これによりタルヴィジオは完全にフランス軍の手に渡り、ギウ師団に追い立てられたバヤリッヒ師団は退路を失い降伏を余儀なくされました。

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レオーベンへの道 26 メルカンディン師団のフィラハへの到着とカール大公の戦略

フランス軍の進軍の速さとバヤリッヒ師団の降伏は、タルヴィジオやフィラハ周辺地域でのカール大公の反攻作戦を頓挫させました。

1797年3月23日夜、カール大公はフィラハへ移動してメルカンディン師団との合流を果たしましたが、ロイス師団とは3日の距離が離れていました。

そのためカール大公はスポーク師団をエンス渓谷を通ってレオーベン方面に向かうよう命じ、カール大公本体はクラーゲンフルトでロイス師団と合流し、レオーベンまで遅滞戦術を行いつつ後退し、数的優位な立場となってから反抗を開始する戦略を思い描きました。

3月24日、カール大公がタルヴィジオにいたという報告を受け取ったナポレオンはベルナドット師団の後を追い始めたシャボー師団を引き戻し、タルヴィジオに向かわせました。

詳細記事ではカール大公の具体的な戦略やヴェネツィアでの異変についても記載しています。

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レオーベンへの道 27 チロル軍のブレッサノネの放棄とヴィピテーノへの後退

1797年3月24日夜明け、ジュベール師団はコルマへの攻撃を再開しました。

コルマのオーストリア前哨部隊はキウーサへの後退を余儀なくされ、フランス軍はそれを追跡しましたが、キウーサではデゲルマン中佐率いるケルペン師団前衛が防御を固めて待ち受けていました。

ジュベール将軍は幾度もの攻撃を撃退されましたが、デュマ将軍の働きと高所からの攻撃により遂にキウーサを占領しました。

デゲルマン中佐率いる前衛隊は戦闘を続けながらブレッサノネに後退しました。

ジュベール師団はデュマ将軍が負傷しながらも前進し、ブレッサノネ周辺の高地を抑えました。

そのためケルペン師団はブレッサノネを放棄してアイカに後退し、ジュベール師団もそれを追いました。

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レオーベンへの道 28 スポーク将軍のカール大公本体との合流の決意とフランス軍のフィラハへの接近

1797年3月25日、中間部隊を指揮するスポーク将軍はブレッサノネがフランス軍の手に渡ったことを知りました。

そのため退路が遮断されることを懸念したスポーク将軍は師団の全部隊をリーエンツ(Lienz)に集結するよう命じました。

この時、スポーク師団は13個大隊、半個騎兵中隊で構成され、騎兵70騎を含む8,474人を擁していました。

3月25日、カール大公はブラディ旅団を後衛としてフィラハに残し、メルカンディン師団をフィラハからフェルデンに撤退させ、再配置を行いました。

この時、フランス軍は未だタルヴィジオにおり、その前衛はコッカウを通過していませんでした。

しかし3月26日、フランス軍の主力がフィラハ近くに進軍し、そして前哨基地をフィラハから約1時間ほどの地点に進めました。

そして分遣隊をブラディ旅団の左翼方向にあるドラウ(Drau)に派遣しました。

一方、ベルナドット師団はリュブリャナへは向かわず、ゴリツィアの本部からタルヴィジオまでの連絡線の防衛任務を行なっていました。

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レオーベンへの道 29 チロルでの戦いの一時的な停止

1797年3月26日の正午、ジュベール将軍は軍の大部分を率いて前進し、本格的な攻撃を行いました。

歩兵約7,000人、騎兵300人騎の列が峠に向かって真っ直ぐ道路を行進し、その他のいくつかの列が山に進みました。

ケルペン師団はプラットナーから追い出され、ミットヴァルド、ムレスと戦闘を行い、損害を出しながら後退しました。

しかしジュベール師団はそれ以上の追撃を行いませんでした。

ジュベール将軍はケルペン師団とカール大公との連絡線を遮断し、遠征の目的の1つを達成しており、ナポレオン本体とライン方面軍の状況によりその後の行動が決定されるため、これ以上の進軍はジュベール将軍の裁量を超えていました。

ジュベール師団は約15,000人、大砲50門を擁しブレッサノネ周辺におり、その他にセルヴィエズ旅団約5,000人をボルッツァーノ周辺でメラノ周辺にいるラウドン旅団の監視に当たらせていました。

この時、ケルペン師団は歩兵5,500人、騎兵130騎に減少しており、ヴィピテーノの防衛に専念していたため、両軍は一時的に交戦を避けることとなりました。

しかしラウドン旅団はオーストリア軍約2,000人、チロル州兵約2,500人、合計約4,500人を擁し、ボルッツァーノへの陽動攻撃を行なおうとしていました。

詳細記事ではラウドン旅団によるセルヴィエズ旅団への陽動攻撃について詳しく記載しています。

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レオーベンへの道 30 カール大公本体のクラーゲンフルト周辺への集結とスポーク将軍へのザルツブルクでの合流命令

1797年3月27日、ベルナドット師団は前進を開始しロガテツに接近しました。

そのためゼッケンドルフ将軍はホーエンツォレルン旅団をリュブリャナに後退させ、自身はサヴァ川の背後に後退しました。

同日、カール大公はスポーク師団にザルツブルクでライン方面からの援軍の1つであるソマリヴァ旅団と合流するように命じました。

そして3月28日、ゼッケンドルフ師団を除くロイス師団のすべての部隊がクラーゲンフルトに集結しました。

カール大公率いる主力はメルカンディン、ロイス、カイムの3個師団で構成され、23個大隊、9個騎兵中隊を有し、総兵力は842騎兵を含む13,243人でした。

これにソマリヴァ旅団とスポーク師団の合計約14,000人が合流すれば約27,000人となり、フランス軍に対して優位な立場で攻勢に転じることができる戦略でした。

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レオーベンへの道 31 ザンクト・ファイトへの撤退

1797年3月28日、カール大公は本部をクラーゲンフルトから北に約15㎞ほどの位置にあるザンクト・ファイト・アン・デア・グランに移しましたが、メルカンディンン師団、ロイス師団はクラーゲンフルトに留まっていました。

ナポレオンはフィラハに本部を移し、シャボー師団がタルヴィジオに到着するのを待っていました。

3月29日、フランス軍が前進を開始しました。

オーストリア軍はザンクト・ファイトへ後退し、フランス軍はクラーゲンフルトを占領しました。

一方、リュブリャナの北に位置するゼッケンドルフ旅団は主力から分離されており、7個大隊、4個中隊、8個騎兵中隊、騎兵1,047騎を含む4,641人を擁していました。

29日、ゼッケンドルフ将軍はフランス軍がクラーゲンフルトに進出したとの報告を受け、リュブリャナを放棄してツェリエへの後退を急ぎました。

そして空白となったリュブリャナにベルナドット師団が進出し、これを占領しました。

詳細記事にはクレマ共和国の樹立とヴェネツィア軍及びヴェネツィア領での反乱の動向も記載しています。

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レオーベンへの道 32 マッセナ師団のザンクト・ファイトへの前進とオーストリア軍のグルク渓谷への撤退

ザンクト・ファイトに後退したカール大公軍でしたが、その周辺は防御に適していない地域だったため、カール大公は翌30日にグルク川の背後に位置するミッヒェルドルフ周辺に主力を移動することを決定しました。

1797年3月30日、フランス軍がクラーゲンフルトから前進しなかったため前日に定めた後退計画は部分的にしか実行せず、ブラディ旅団がザンクト・ファイトに残りました。

3月31日午前10時頃、遂にフランス軍の歩兵6,000人、騎兵600騎の列がザンクト・ファイトへの前進を開始し、その他の部隊は両側の森や山の中を進みました。

ブラディ将軍は予定通りザンクト・ファイトから退却し、戦闘を受け入れることなくゆっくりとグルク川に向かって撤退しました。

一方、ベルナドット将軍の元にリュブリャナに師団を集結させるようナポレオンからの命令が届いていました。

そのためベルナドット将軍は師団をリュブリャナに集結させました。

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レオーベンへの道 33 ナポレオンからカール大公への休戦の提案と後方での危機

1797年3月31日午後、ザンクト・ファイトとグルク川の中間で道の両側を進むフランス軍の列が停止しました。

ナポレオンはザンクト・ファイトに本部を移さずクラーゲンフルトに留まっており、ブレッサノネからすでに接近しているであろうジュベール将軍との連絡線を開こうとしました。

そして同時にフランス軍の置かれた状況と戦略的見地からカール大公に休戦に応じるよう書簡を送りました。

4月1日朝、カール大公はナポレオンからの休戦の提案に対する返答と新たな提案を副官に持たせナポレオンの元へ派遣しました。

カール大公の返答は「自身に決定権は無く、決定権はオーストリア政府のみにある。」というものでした。

カール大公の副官である使者はそれに加えて4時間の休戦を提案しましたが、ナポレオンはその意図を察知し、攻勢を再び開始するための準備を行ないました。

詳細記事ではフランス軍の置かれている状況、ナポレオンからカール大公への書簡の内容、サローでの衝突とブレシアの喪失などについても記載しています。

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レオーベンへの道 34 グルク渓谷からの後退とノイマルクト渓谷の戦い

1797年4月1日午前9時までにカール大公率いるオーストリア軍は再編成を行い、グルク渓谷での防衛準備ができていました。

正午に向かって、マッセナ師団は2つの縦隊でグルク川に向かって前進し、オーストリア軍の前哨基地の向かいに野営しました。

同時に分遣隊は左にシュトラスブルクとグルクに向かって移動し、右にゴルトシッツ川沿いにエーベルシュタインに向かって移動し、ホーエンフェルトの陣地を包囲するよう機動しました。

翌4月2日朝にフランス軍が攻撃してくるであろうこと、そしてその数的優位性を利用してオーストリア軍の両側面を包囲するであろうことは目に見えていました。

カール大公は、フランス軍の包囲機動による差し迫った危険から数的劣勢な軍を即座に撤退させることを決断しました。

後退は4月2日の夜明け前に開始されました。

しかしマッセナ師団の進軍は素早く、ホーエンフェルトで後衛のブラディ旅団に喰らいつき、フリーザッハまで押し戻しました。

その後、カール大公軍はオルサ渓谷で後衛を交代しながら防衛し、ウンツマルクトまでの退却をなんとか成功させました。

マッセナ師団は戦場で野営し、参戦できなかったギウ師団は少し離れた位置で野営しました。

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レオーベンへの道 35 ケルペン中将によるチロルでの大規模攻勢計画

1797年3月27日のボルッツァーノでの勝利はチロル軍を湧き立たせ、ケルペン中将は総攻撃計画を4月2日に実行に移そうとしていました。

4月1日、ケルペン中将は新たに動員されたチロル州兵(武装民兵)の軍を編成し、総勢約28,000人となりました。

ケルペン中将は自師団約4,500人の他に州兵軍約17,500人を統率し、ラウドン少将は約6,000人(州兵含む)を率いていました。

ケルペン中将はブレッサノネからボルッツァーノの連絡線を遮断してジュベール師団を包囲し、ラウドン少将はノイマルクト方面へ分遣隊を派遣してボルッツァーノからトレントの連絡線を遮断しつつボルッツァーノを攻撃する計画でした。

対するフランス軍側の兵力はブレッサノネ周辺のジュベール師団約15,000人、ボルッツァーノ周辺のセルヴィエズ旅団約5,000人でした。

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レオーベンへの道 36 チロル軍による大規模攻勢の開始

 1797年4月2日、ケルペン中将は攻勢を開始する命令を下しました。

チロル軍の攻勢は順調に進みましたが、州兵軍左翼はリオで敗北し、州兵軍中央は優位な位置を占領したにも関わらず突然の混乱によって散り散りとなり、州兵軍右翼は噂によって動くことができませんでした。

そしてラウドン旅団が本格的な攻勢を開始するトリガーが州兵軍右翼からの合図だったため、ラウドン旅団の攻勢は途中で停止することとなりました。

ラウドン将軍は州兵軍右翼と連絡を取り、翌3日に再び攻勢を行うことを決断しました。

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レオーベンへの道 37 スポーク師団とゼッケンドルフ旅団の動向

1797年3月27日、スポーク師団はリーエンツに集結しつつあり、輜重隊を先行して出発させました。

3月末頃、このスポーク師団の縦隊がシュピタル周辺でフランス軍の偵察部隊に発見され、ナポレオンが知るところとなりました。

4月2日、輜重隊はウンツマルクトに到着し、その後ブルックへ送られました。

そしてこの日、スポーク将軍はザンクト・ミヒャエルでカール大公からの命令を受け取り、ザルツブルクへ向かいました。

一方、ベルナドット師団はサヴァ川に橋を架けようとしており、ゼッケンドルフ旅団を追跡すると考えられました。

そのため4月1日、ゼッケンドルフ将軍はホーエンツォレルン旅団をマリボルへ急いで後退させるために、スロヴェンスカ・ビストリツァに引き戻しました。

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レオーベンへの道 38 ナポレオンとカール大公による本体への集結命令

1797年4月2日夜~3日未明にかけて、カール大公はウンツマルクトへの後退を続け、ゼッケンドルフ将軍に書簡を送りました。

その書簡には、「本体はグルク渓谷から撤退したこと」、「ゼッケンドルフ将軍は強行軍でグラーツを経由してブルック・アン・デア・ムールへ急ぐこと」が書かれていました。

4月3日、ナポレオンは兵力を集中させる必要性をこれまで以上に認識していました。

そのためリュブリャナのベルナドット師団、トリエステのドゥガ騎兵隊に翌4日に出発して5日にクラーゲンフルトに到着するよう命じる書簡を送りました。

リュブリャナからクラーゲンフルトまでは約70㎞以上あるため、ベルナドット将軍の部下は無茶な命令に驚きましたがベルナドット将軍自身は内心はともかく表面上淡々と命令に従ったと言われています。

そしてナポレオンは本体の左側面にいるオーストリア師団(スポーク師団)を各個撃破しようと部隊を配置しましたが、スポーク師団はすでにザンクト・ミヒャエルにはおらず、ザルツブルクへ向かっていました。

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レオーベンへの道 39 ウンツマルクトでの戦闘

1797年4月3日朝、マッセナ師団はノイマルクトを占領しました。

マッセナ師団はそのまま前進を続けてノイマルクトの町を通過し、シャイフリング(Scheifling)へ向かい、そこでウンツマルクトへ向かうために前衛を形成しました。

午後、マッセナ師団はさらに前進し、オーストリア軍後衛であるブラディ旅団の後部に食らいつきました。

この時、カール大公はユーデンブルク(Judenburg)に本部を移し後退を継続しており、すぐ近くまで接近しているはずである援軍と合流するまでフランス軍主力との深刻な戦闘を回避し続けるよう注意を払っていました。

しかしフランス軍の攻撃を知るとロイス師団とカイム師団を急いでユーデンブルクに呼び寄せ、メルカンディン師団に後衛を支援するよう命じました。

ウンツマルクトで強い抵抗を示したブラディ旅団でしたが、この町からの後退を余儀なくされ、ウンツマルクトはマッセナ師団によって占領されていました。

その後メルカンディン師団の支援を受けて狭い渓谷で抵抗を続けましたが、2つに分断され、さらなる後退を余儀なくされました。

ウンツマルクトにおける戦闘でのオーストリア軍の損害は死者300人、捕虜600人だったと言われています。

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レオーベンへの道 40 セルヴィエズ旅団のボルッツァーノからの撤退とラウドン旅団によるボルッツァーノの占領

1797年4月3日、ラウドン将軍は朝にボルッツァーノを攻撃しようと準備を整えていました。

しかし夜明け前、ラウドン旅団のすべての陣地がフランス軍の攻撃を受けました。

ラウドン旅団はすべての地点でセルヴィエズ旅団を撃退し、逆に前進しました。

4月2日と3日の戦いでのラウドン旅団(州兵除く)の損害は死傷者60人、捕虜200人だったと言われています。

その夜、ラウドン将軍はこのままボルッツァーノへの攻撃を継続すべきかどうか悩んでいましたが、得られた利点を放棄してまで後退する気になれず、4月4日にボルッツァーノを占領して様子を見ることを決断しました。

4月3日、ジュベール将軍はチロルから撤退し、プステリア渓谷を通ってケルンテン州まで行進し、最終的にナポレオン本体と合流することを決断していました。

ナポレオンからの連絡は未だありませんでしたが、この時点でジュベール師団の状況は日に日に危険度を増していました。

そのため4月3日夜、まずはセルヴィエズ旅団がトレントに向かって撤退を開始しました。

4月3日夜明け前に始められたラウドン旅団への攻撃はこの撤退を悟られないようにするためのものでした。

そして翌4日、ラウドン旅団は戦うことなくボルッツァーノを占領しました。

一方、4月3日、ケルペン中将は師団をヴィピテーノに置き、平静を保ち、根拠のない不安に怯える州兵軍の鼓舞を行なっていました。

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レオーベンへの道 41 スポーク師団とソマリヴァ旅団のザルツブルクでの合流とグラーツ及びウィーンの状況

4月3日から4日にかけてスポーク師団所属の3つの縦隊がザルツブルクに到着した後、ソマリヴァ旅団と合流したスポーク師団の兵力は、193個大隊、約12,000人となっていました。

スポーク将軍はその兵力でザルツブルク周辺の防御を固めました。

マリボルのゼッケンドルフ将軍は5日にグラーツを経由してブルックへ向かう行軍を開始しました。

シュタイアーマルク州グラーツでは一部の守備隊を残して物資はもちろん貴重品や嗜好品、あらゆる資料などを街から運び出していました。

ウィーンではフランス軍がすぐそばまで迫ってきているため防衛の強化が急がれ、民衆を動員して武装させ、塞化に適した地点に塹壕が掘られました。

ウィーン周辺の兵力は騎兵を含めて約30,000人にまで達しました。

そしてウィーン政府は首都ウィーンが陥落した場合に備えて密かに首都機能をプラハに移すための準備を行ないました。

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レオーベンへの道 42 進軍を急ぐナポレオンとユーデンブルクでの戦闘

カール大公はメルカンディン師団に4月4日午前8時にユーデンブルクへの後退を開始させ、その他の部隊は午前9時にクニッテルフェルトへの後退を開始するよう命じました。

4月4日までにナポレオンはマッセナ、シャボー、ギウの3個師団をシャイフリングで統合しました。

ナポレオンとしては側面のオーストリア師団とカール大公軍との合流を早急に防ぐ必要があったため、進軍を急いでいました。

4月4日、カール大公は計画通りに本体とともにクニッテルフェルトに向けて撤退し、マッセナはユーデンブルクに向けて出発しました。

オーストリア軍後衛ブラディ旅団はユーデンブルク周辺でメルカンディン師団の支援を受けながら本体の後退を守りました。

マッセナ師団はブラディ旅団の防御を崩せず、ブラディ旅団の後衛はしっかりと役割を果たし、確実に後退を続けました。

詳細記事ではブレシアとクロアチア方面の状況についても記載しています。

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レオーベンへの道 43 カール大公軍のレオーベン周辺への後退と北イタリアにおけるヴェネツィア軍との対立状況

1797年4月5日、マッセナはユーデンブルクで24時間の休息をとった後、4月6日夜明けにクニッテルフェルトへの行軍を再開しましたが、カール大公は既にムール(Mur)川に架かる橋を燃やし、前日の内に退却していました。

4月6日も朝からオーストリア軍の後退は続け、レオーベン周辺に布陣しました。

そんな中、カール大公は皇帝である兄から和平交渉を開始するよう命じられた将軍であるベルガルド伯爵とウィーンのメルヴェルト伯爵の到着を知らされました。

そのためカール大公はナポレオンに和平交渉を行うために使者が向かう旨を伝えました。

同じ頃、ゼッケンドルフ将軍から7日にグラーツ、9日にブルックに到着するとの連絡を受け取りました。

以前、強行軍でブルックに向かうよう命じたにもかかわらず行軍速度の遅い状況を見て、7日にブルックに到着するようゼッケンドルフ将軍に命じました。

詳細記事ではヴェネツィア軍との衝突やガヴァルドでの戦闘とサローの封鎖などについても記載しています。

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レオーベンへの道 44 ユーデンブルクでの休戦交渉と6日間の停戦の合意

 1797年4月7日、ベルガルド将軍とメルヴェルト将軍はナポレオンとの最初の会談を終えると、カール大公の名において10日間の停戦を提案するメモを手渡しました。

ナポレオンとしてもこの休戦の提案はありがたいものでした。

イタリア方面軍の各師団は分散し、手元には3個師団しかない状況であり、カール大公軍にはあと数日でスポーク師団が合流すると考えられ、後方ではヴェネツィア共和国の民衆との対立が深まっていました。

尚且つ、ライン川から攻め上るはずのオッシュ将軍とモロー将軍からの良い連絡は無く、フランス政府はイタリア方面軍単独でオーストリア軍を撃破することを勧めていました。

ナポレオンは強気の姿勢を崩さず和平交渉を受け入れました。

交渉が始まって数時間後の4月7日深夜、4月7日夜から4月13日夜までの6日間の停戦協定が締結されました。

カール大公の提案した10日間の停戦は、6日間に短縮されて合意に至り、両軍の即時停戦が伝達されました。

詳細記事には具体的な合意内容も記載しています。

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レオーベンへの道 45 ジュベール師団のブレッサノネの放棄とリーエンツへの到着

1797年4月5日、ラウドン将軍は前衛をブレッサノネに派遣し、翌6日朝に何の抵抗も無くブレッサノネに到着しました。

6日朝、ケルペン中将はジュベール師団主力のミットヴァルドからの撤退を知らされ、その直後にラウドン旅団がボルッツァーノを占領したことの報告を受けました。

そのためラウドン将軍にボルッツァーノを経由してトレント方面に進軍して占領するよう指示しました。

ケルペン将軍もエイサック川にかかる破壊された橋を修復しつつ師団とともにジュベール師団の後を追いました。

その後ケルペン師団は4月8日にブルニコに到着し、4月9日にジリアンに向けて出発しました。

ジュベール師団は4月7日にジリアンに到着し、4月8日にはリエンツァー砦の武装した民衆を撃破してリーエンツに到着していました。

一方ラウドン将軍側では、4月7日、ラウドン将軍はブレッサノネからボルッツァーノに戻り、参謀竜騎兵と軽歩兵の分遣隊を率いてセルヴィエズ将軍の追跡をナイペルク大尉に命じました。

ナイペルク大尉は4月8日にトレントを攻撃しフランス軍は大砲2門と300人の兵士を失い、敗走して行きました。

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レオーベンへの道 46 ナポレオンによるヴェネツィア政府への脅迫とグラーツの占領

1797年4月8日、カール大公との6日間の停戦協定締結後、ナポレオンはイタリア方面軍全師団に停戦を伝え、停戦解除後の戦いに向けて移動を命じました。

そんな中、ミラノからの急使がキルメイン将軍からの危険を知らせる書簡を持ってユーデンブルクの本部に到着しました。

ナポレオンはすぐに副官ジュノーに脅迫するような内容の書簡を持たせ急遽ヴェネツィア政府の元に派遣しました。

ナポレオンは、ヴェネツィア政府は脅しに屈するか、もしくは決定的な対立を遅らせることができるだろうと考えていたのでしょう。

しかしこの書簡がヴェネツィア政府を躊躇させ、フランス軍に対するあらゆる敵対的な措置を停止する時間を与えたのはわずかな期間でした。

4月10日、シャボー師団はグラーツを占領し、ナポレオンは本部をブルックに移しました。

そして4月7日に締結され、4月13日に切れる停戦協定で獲得した地域の占領を急ぎました。

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レオーベンへの道 47 サローでの反乱の鎮圧とジュベール師団のシュピタルへの到着

1797年4月9日、セルヴィエズ将軍は旅団の残存兵1,800人とともにロヴェレトへ急行し、ラウドン旅団の騎兵隊はセルヴィエズ旅団をマッタレロまで追跡しました。

4月11日、ラウドン旅団の哨戒部隊はフランス軍がレーヴィコとアラから退避したと報告しました。

セルヴィエズ旅団は急いで後退し、セルヴィエズ将軍はブレシア方面に向かい、シュヴァリエ将軍はガルダ湖東岸側からヴェローナ方面に向かいました。

11日夜、サローを包囲していたランドリュー将軍の元にラホーズ旅団が到着し、協力してサローを攻撃しました。

ヴェネツィア軍の散兵がブレシア共和国軍の接近に抵抗しましたが、短い戦闘の後、フィオラヴァンティ将軍は街をフランス軍に略奪させて時間を稼ぎ、部隊をサローから撤退させました。

ランドリュー将軍はサローに港に停泊している船からマスケット銃600丁と薬莢15万発を発見し、その後、サローの街は徹底的に略奪されました。

一方、ケルペン師団側では4月12日にフランス軍との6日間の停戦協定締結の連絡を受け、ジュベールとケルペンの2人の司令官は、当分の間、当時の位置に留まることに同意しました。

詳細記事ではピットーニ旅団の動向なども記載しています。

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レオーベンへの道 48 テラ・フェルマの反乱

1797年4月12日、横暴に耐え兼ねた民衆達が遂にフランス軍に対して蜂起しました。

ほとんどの村で警鐘が鳴り響き、各町のフランス守備隊間の連絡は遮断されてしまいました。

ヴェローナ周辺一帯を警備していたバランド旅団はヴェローナに集結し、シュヴァリエ旅団はヴェローナに近づくことができずペスキエーラへ向かいました。

ヴィクトール師団はパドヴァに到着し、さらにトレヴィーゾとカステルフランコを占領して反乱を鎮圧しました。

ジュベール将軍指揮下のバラグアイ・ディリエール師団は既に上ケルンテン州から出発しており、ブレンタ川とイゾンツォ川の間で反乱が起こるのを牽制するためにジェモナに向かいました。

そしてキルメイン将軍はサローの反乱を鎮圧した部隊をヴェローナに向かわせました。

4月13日、ナポレオンとメルヴェルト伯爵は交渉を重ね、停戦が4月20日まで延長されることとなりました。

ナポレオンはオーストリア軍に弱みを見せず和平交渉を成功させるためにバラグアイ・ディリエール師団を呼び戻し、ジュベール師団を強化しました。

詳細記事ではテラ・フェルマの反乱の拡大状況やヴェネツィア政府の抵抗などについても記載しています。

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レオーベンへの道 49 ジュベール将軍とケルペン将軍の停戦協定

1797年4月15日、ジュベールとケルペンの名において、ドイツとチロル及び近隣地域の停戦に同意し、署名しました。

停戦期間は4月15日~4月21日と定められました。

この停戦協定はただちにラウドン将軍に伝えられ、アディジェ川右岸のチロルの境界線の設定はラウドン将軍とセルヴィエズ将軍に任されることになりました。

4月16日、ナポレオンはフランス政府にグラーツを占領し、ジュベール師団がケルンテン州で合流したことを伝え、ルクレール将軍にオーストリア帝国との和平についての書簡を持たせてパリに派遣しました。

同時にボナパルトは、16日~17日にかけてさらにオーストリア軍との停戦協定で獲得した勢力範囲の占領を押し進めました。

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レオーベンへの道 50 ヴェロネーゼのイースターの始まり

1797年4月16日夜~17日未明、ランドリューが公表した「ヴェネツィア人による中立違反」のプロパガンダがヴェローナの街に公示されました。

これをきっかけとしてフランス軍への悪感情が高まり、最初は小さないざこざでしたがそれが反乱に変わるのにそれほど時間はかかりませんでした。

バランド将軍は反乱を鎮めるために威嚇射撃を行いましたが、この瞬間すべての教会に聖音が鳴り響き、30,000人とみられるヴェローナの民衆が一斉に武器を取りました。

アディジェ川西岸側にいたフランス兵達はヴェッキオ城へ立て籠もり、東岸側はサン・ピエトロ城とバランド旅団の本部のあるサン・フェリーチェ城で防御を固めました。

そして主にヴェッキオ城を巡って激しい攻防が繰り広げられました。

4月18日正午になって、ラウドン旅団から派遣された大尉のナイペルグ伯爵が兵士の一団を引き連れてヴェローナに現れました。

ヴェローナの民衆達はオーストリア軍の到着に歓喜しましたが、ナイペルグ伯爵は使者として停戦交渉を行うために来訪しただけでした。

交渉の末、オーストリア軍とフランス軍の間でチロル州における停戦協定が締結され、停戦期間は4月18日から23日までと定められました。

短期間と言えどもこの停戦協定によりヴェネツィア軍とテラ・フェルマの民衆達はオーストリア軍の支援を失うこととなりました。

詳細記事ではキルメイン将軍の動向なども記載しています。

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レオーベンへの道 51 レオーベン条約

1797年4月18日、レオーベンで遂にフランス共和国とオーストリア帝国の和平条約が締結されました。

レオーベン条約は「仮」の条約であり、密約も同時に締結されていました。

レオーベン条約ではオーストリア領ネーデルラントをフランス領とし、オーストリア領から撤退することが定められ、密約ではヴェネツィア共和国の分割について規定されました。

初めはヴェネツィア共和国領であるイストリアやダルマチアについての領有については定められていませんでしたが、後にイストリアとダルマチアはオーストリア帝国に与えられることが定められました。

これらの条約によってオーストリア領ネーデルラント(現在のベルギーのほとんどとルクセンブルク、ドイツのラインラント=プファルツ州)はフランス領となり、ヴェネツィア共和国はフランス共和国とオーストリア帝国によって分割されることが決定されました。

そしてこれが1797年3月10日から始まった第一次イタリア遠征最後の戦役が終結した瞬間でした。

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レオーベンへの道 52 ヴェロネーゼのイースターの終わり

1797年4月19日、これまで各地でフランス軍に対抗してきたヴェネツィア軍とテラ・フェルマの民衆達は劣勢に陥りました。

しかし、ヴェローナだけは優勢だったためヴェネツィア政府の説得にも応じず、民衆達は戦いを求めました。

4月20日~21日、フランス軍はヴェローナを包囲しようとしましたが、トレヴィーゾへ向かうはずのバラグアイ・ディリエール師団がナポレオンに呼び戻されたためヴィクトール師団を後退させざるを得ず、ヴェローナの西側のみを包囲するのみとなりました。

そのため、ヴェローナからヴィチェンツァの連絡線は残されました。

幾度かの戦いと休戦交渉を繰り返しましたが、ヴェローナは降伏しませんでした。

4月22日、ヴェネツィア政府からヴェローナ市に降伏を求める書簡が届きました。

オーストリア帝国とフランス共和国の和平が締結されたという内容も書かれていたのでしょう。

オーストリア軍の支援を完全に失ったヴェローナ市は休戦交渉を再開し、4月24日、ヴェローナの降伏が正式に決定されました。

こうして反乱は打ち砕かれ、ヴェローナの住民は蜂起に参加したとしてヴェローナ市に180万フランの賠償金が課されたのに加え、教会、貴族の家、美術館や市民に対して組織的な略奪が行なわれました。

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参考文献References

・André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第2巻」
・Geschichte der Kriege in Europa seit dem Jahre 1792, als Folgen der ..., Band 5 (1833)
・Streffleurs österreichische militärische Zeitschrift, Band 1(1835)
・Streffleurs österreichische militärische Zeitschrift, Band 3 (1835)
・Streffleurs österreichische militärische Zeitschrift, Ausgaben 7-9 (1835)
・Streffleurs österreichische militärische Zeitschrift, Ausgaben 4-6 (1837)
・Streffleurs österreichische militärische Zeitschrift, Ausgaben 7-9 (1837)
・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第2巻
・Heinrich Leo著 「Geschichte der italienischen Staaten: Vom Jahre 1492 bis 1830. 5」
・Sir Dunbar Plunket Barton著「Bernadotte; the first phase, 1763-1799」(1914)
・その他