ロディ戦役 03:フォンビオの戦い Lodi Campaign 03

グアルダミーリオの戦い、フォンビオの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 グアルダミーリオ前哨戦:約500人
グアルダミーリオ:10,500人~11,500人
フォンビオ:約10,500人~約11,500人
合計約450人
オーストリア グアルダミーリオ前哨戦:約150人
グアルダミーリオ:約5,000人
フォンビオ:約5,000人
合計約500人~約600人

フォンビオの戦いBattle of Fombio

 1796年5月8日午前1時頃、ボナパルトは約4,000~5,000人の歩兵と約1,200人の騎兵でフォンビオに駐屯しているリプタイに接近するように命令した。

 部隊を3つに分割し、ダルマーニュ少将が右翼を担当しピッツィゲットーネ(マントヴァ方面)への連絡線を遮断しつつオーストリア軍の左側面を攻撃する。ランヌ大佐が左翼を担当しカザルプステルレンゴ(パヴィア方面)への連絡線を遮断しつつオーストリア軍の右側面を攻撃する。ラヌッセ少将が中央を担当しフォンビオを正面から攻撃する。ラハープ中将は予備として支援する。

 リプタイは軽騎兵を駆使して勇敢にフォンビオを防衛したが、包囲されつつある事を知ると軽騎兵隊を殿にしてコドーニョへ撤退した。

 ダルマーニュはコドーニョへ撤退するリプタイを追跡し、コドーニョで再びリプタイを攻撃した。

 リプタイはコドーニョを放棄し、フランス軍の追撃を振り切りつつアッダ川を渡りピッツィゲットーネへ退却した。

 コドーニョがフランス軍の手に落ちた中、リプタイがピッツィゲットーネへ撤退した場合、ボーリューとの連絡は寸断されてしまう。そのような状況でリプタイがボーリューの元ではなくピッツィゲットーネへ退却した理由は、ピッツィゲットーネがアッダ川渡河のための重要地点だったからだろうと考えられる。アッダ川左岸にある市街は城壁で囲まれており、右岸は星形堡塁等の防衛施設を有する要塞都市だった。もしリプタイがボーリューの元へ向かって退却した場合、ピッツィゲットーネは守備隊のみでフランス軍と渡り合わなければならず、ピッツィゲットーネを奪取されてしまう可能性が高かった。

 そして、ピッツィゲットーネがフランス軍の手に渡った場合、オーストリア軍主力はピッツィゲットーネでは渡河できず退路の一つを失い、さらにフランス軍がアッダ川を渡ることにより、オーストリア軍主力を包囲する作戦をも可能にしてしまうのである。

 オーストリア軍としてはピッツィゲットーネを奪われるわけにはいかなかった。

◎ピッツィゲットーネ見取り図

※左岸にはピッツィゲットーネ市街が広がっており、右岸にある村はゲラ村と呼ばれている。ゲラ村、ピッツィゲットーネ市街を合わせてピッツィゲットーネである。


 ダルマーニュはピッツィゲットーネの南西にあるマレーオまでリプタイを追跡したが、ピッツィゲットーネへの退却を許してしまい、それ以上の追跡はできなかった。

 実際はピッツィゲットーネには大砲も無く、食料も備蓄していなかった。防衛に必要な物はほとんど欠如している状態であった。ただ、これらの事はフランス軍には分からないため、フランス軍の追撃はピッツィゲットーネで阻まれることになる。

 ボナパルトは時間を無駄にせず、橋を架けるためにピアチェンツァへ戻った。

 グアルダミーリオ、フォンビオの戦いでオーストリア軍は約500人~600人の死傷者を出し、特にナポリ軽騎兵隊の損害が酷かったと言われている。対してフランス軍は約150人が死亡、約300人が負傷した。

 ラハープはコドーニョを占領した。