【詳細解説】トゥーロン攻囲戦【ナポレオン】- Siege of Toulon
トゥーロン攻囲戦
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | 約32,000人 | 約1,700人 |
フランス王党派 グレートブリテン王国 スペイン王国 ナポリ王国 シチリア王国 サルディーニャ王国 |
約17,000人 | 約2,100人 |
伝説ではないトゥーロン攻囲戦について詳細に知りたい方向け。
この記事ではトゥーロン攻囲戦について時系列に沿って経過をまとめまています。フランス側の資料だけではなくイギリス側の資料も調査し出来得る限り網羅的にまとめましたのでトゥーロン攻囲戦について詳しく知りたい人や戦術好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。
トゥーロン攻囲戦 01 叛旗時の状況と攻囲戦の始まり
1793年1月21日、フランス国王ルイ16世の処刑を契機として、イギリスが中心となりオーストリア、プロイセン王国、スペイン、ナポリ王国、サルディーニャ王国、南ネーデルラントが第一次対仏大同盟を結成ました。
フランス国内では4月29日にマルセイユが、5月29日にリヨンが反乱を起こし、その周辺に位置するアヴィニョン、ニームも反乱勢力に飲み込まれました。フランス政府はアヴィニョン、マルセイユの反乱勢力に対処するため、元画家で憲兵隊出身のカルトー大佐を派遣して、7月25日にアヴィニョンを占領、8月25日にマルセイユの反乱を鎮圧させました。
反乱を起こした各市の反政府勢力への報復の事が広まると、トゥーロンの王党派勢力は大人しくしていても報復されると考え、1973年8月27日深夜~8月28日未明、フランス政府に反旗を翻しイギリス、スペイン、ナポリ王国、ピエモンテ各軍をトゥーロン港に迎え入れました。
そしてフランス政府は反旗を翻したトゥーロンに対し、トゥーロンの西側からは各市で反乱を鎮圧したカルトー師団を派遣し、東側からはイタリア方面軍からラポワプ師団を派遣しました。
詳細記事では、要塞都市トゥーロンが叛旗を翻し攻囲戦開戦に至るまでの状況や大小の要塞の集まりで構成されているトゥーロン要塞の要塞の位置や名称を図と表で解説しています。さらにトゥーロン要塞東側を攻囲していたラポワプ将軍が考えていたであろう作戦についても記載していますので詳しく知りたい方は詳細記事を読んでみてください。
トゥーロン攻囲戦 02 第一次ケールの丘攻防戦
トゥーロン攻囲戦の序盤は、士官学校で軍事の専門知識を学び砲兵の重要性について実践レベルで理解しているボナパルト砲兵大尉、反乱鎮圧で実績を上げて昇進した憲兵隊出身のカルトー将軍、たたき上げの軍人であるラポワプ将軍の3者が主導権争いを繰り広げたことによりフランス革命軍の足並みは揃いませんでした。
そのためナポレオンの作戦は骨抜きとなり失敗したと言われています。その骨抜きとなり失敗したと言われている第一次ケールの丘攻防戦について詳しく記載しています。カルトー将軍が考えていたであろう作戦やナポレオンが実行しようとしていた作戦についても解説しています。
トゥーロン攻囲戦 03 マルグレイブ要塞の建設とラポワプ将軍の失敗
トゥーロン要塞を攻囲しているフランス革命軍は第一次ケールの丘攻防戦において敗北しました。その結果、対仏大同盟軍はケールの丘の重要性を強く認識し、ケールの丘に総司令官マルグレイブの名を冠した要塞を建設しました。これによりケールの丘は要塞化され、難攻不落となったと言われています。マルグレイブ要塞の建造目的は、岬の先端にあるレギエット砦、バラキエ砦の防衛でした。
ケールの丘での失敗に加え、トゥーロン要塞東側を攻囲しているラポワプ将軍が独断でファロン要塞へ攻撃して失敗、さらにその後、ブラン岬要塞に攻撃を仕掛けて失敗しました。
この二つの失敗を理由にラポワプは総司令官であるカルトーに更迭されました。
これらを作戦図を使用して解説していますので是非ご覧ください。
トゥーロン攻囲戦 04 リヨン包囲戦の終了と第二次ケールの丘攻防戦
少佐に昇進したナポレオンはトゥーロン要塞に隣接しているマルブスケ要塞を陥落させるため砲台群の建設命令を受けました。この時、同時期に行っていたリヨン包囲戦に勝利したフランス革命軍はトゥーロン要塞を陥落させるために兵員と物資を送ることができるようになっていました。
ナポレオンはこれを活用して攻囲軍の強化とマルブスケ要塞を取り囲むように砲台群を建設します。
そしてナポレオンとそりが合わなかったカルトー将軍が更迭され、リヨン包囲戦で勝利を収めたドッペ将軍が着任します。
ドッペ将軍が着任してすぐに第二次ケールの丘(マルグレイブ要塞)攻防戦が始まりました。
対する対仏大同盟軍側は食糧不足と防衛すべき要塞の広さに対する兵員の少なさに頭を悩ませていました。物資の不足により傷ついた兵士達の治療もままならず、疲弊していました。
本記事では第二次ケールの丘(マルグレイブ要塞)攻防戦について詳しく解説しています。
対仏大同盟側の要塞防衛の状況やフランスの公安委員会肝いりの作戦についても解説していますので、より詳しく知りたい方は是非ご覧ください。
トゥーロン攻囲戦 05 デュゴミエ将軍の着任と総攻撃の準備
フランス革命軍は第二次ケールの丘(マルグレイブ要塞)攻防戦に敗北しました。これによりドッペ将軍は総司令官を辞任し、新たにデュゴミエ将軍がフランス革命軍総司令官に任命されました。
デュゴミエ将軍は着任してすぐにマルグレイブ要塞のあるケールの丘の重要性について認識し、ナポレオンの作戦計画を支持したと言われています。
デュゴミエ将軍はナポレオンに命じマルグレイブ要塞から少し離れた位置に、「大いなる港」、「4つの風車」砲台を建設し、さらにマルグレイブ要塞の至近に「ジャコバン党員」、「恐れを知らぬ男たち」、「悪党狩り」砲台を建設しました。
総攻撃の準備段階とは言え常に砲弾が飛び交っていました。
フランス革命軍が総攻撃を行うまでの攻防やその他の砲台建設についてなどの総攻撃の具体的な準備について解説していますので、より詳しく知りたい方はご覧ください。
トゥーロン攻囲戦 06 総攻撃の始まりからトゥーロン要塞の占領
1793年12月16日深夜~17日未明、酷いみぞれの降る嵐の中、フランス革命軍による総攻撃が始まりました。
トゥーロン要塞を防衛している同盟軍の対処能力を超えたフランス革命軍による攻撃(飽和攻撃)は多くの死傷者を出しながらもマルグレイブ要塞、ラルテック要塞、ファロン要塞を次々と陥落させ、遂にレギエット砦、バラキエ砦を占領しました。
フランス革命軍はさらにトゥーロン要塞に隣接しているマルブスケ要塞をも占領しました。
レギエット砦に大砲を設置し発砲を始めるとトゥーロン艦隊司令官フッド提督は撤退を決断しました。
本記事ではフランス革命軍による総攻撃について詳しく解説しています。ナポレオンをして「わが運命を失わしめた男」と言わしめたイギリス海軍シドニー・スミス提督のトゥーロンにおいての活躍、トゥーロン要塞占領後についても紹介していますので、より詳しく知りたい方はご覧ください。
まとめ
1、トゥーロンが叛旗を翻してから反乱鎮圧の勝者であるカルトー将軍に命令が下り、トゥーロン要塞を攻囲することになった。しかしカルトー将軍は攻囲戦に必要な砲兵について無知であり、トゥーロン要塞に到着する前の小競り合いで砲兵の専門家であるドマルタン大尉が重傷を負い戦線を離脱していた。
2、フランス革命軍はトゥーロン要塞の西側をカルトー将軍が、東側をラポワプ将軍が攻囲を行ったが、フランス革命軍の内部不和やトゥーロン要塞の防御により対仏大同盟軍側が有利に戦いを進めた。フランス革命軍は第一次ケールの丘攻防戦、ファロン要塞攻略戦、ブラン岬要塞攻略戦に失敗し、とてもトゥーロンを陥落できるように思えなかった。
3、しかし同時期に行われていたリヨン包囲戦が終了したことにより兵員、物資をトゥーロン攻囲のために送ることができるようになり、兵力、物資ともに対仏大同盟軍より優位に立つことができるようになった。
4、ナポレオンとそりの合わないカルトー将軍が解任され、リヨン包囲戦の勝者であるドッペ将軍が着任し、さらにリヨンからの増援により兵力、物資ともに強化されたため第二次ケールの丘攻防戦を行った。しかしマルグレイブ要塞周辺に砲台が無く、イギリス部隊が来援したことにより失敗に終わった。
5、第二次ケールの丘攻防戦の失敗によりドッペ将軍が辞任し、経験豊富なデュゴミエ将軍が着任したことによりフランス革命軍内は一つにまとまり総攻撃の準備に取り掛かった。第二次ケールの丘攻防戦での失敗を教訓にマルグレイブ要塞の周囲に砲台群を建設した。
6、1793年12月16日深夜~17日未明に総攻撃が始まり次々と要塞が陥落し、マルグレイブ要塞、レギエット砦、バラキエ砦を占領したことによりトゥーロン港の封鎖が可能となった。レギエット砦からの砲撃が始まり包囲されることを察したフッド提督は即座に撤退を命じた。
コラム
「レ・ミゼラブル」の主人公であるジャン・ヴァルジャンは1795年の終わりにパンを盗んだ罪で有罪となりトゥーロンの刑務所に投獄されました。1795年はトゥーロン攻囲戦の2年後であり、終わり頃なのでアンドレ・マッセナ将軍が活躍したロアノの戦いくらいの時期になります。
投獄されてから約19年後にジャン・ヴァルジャンが出所したところから物語が始まるのですが、「レ・ミゼラブル」と同時代というのも感慨深いものがありますね。
「レ・ミゼラブル」はヴィクトル・ユーゴーが1862年に執筆した大河小説です。小説の他に映画、ミュージカル、漫画にもなっていて長く愛されている作品です。そしてナポレオン時代の雰囲気を知るための資料でもあります。ナポレオン時代の文化、風習、雰囲気などを知りたい方は是非読んでみてください。
参考文献References
デイヴィッド・ジェフリー・チャンドラー著 「ナポレオン戦争 第一巻」
John Holland Rose著 「Lord Hood and the Defence of Toulon」
その他