モンテノッテ戦役 16 Montenotte campaign 16

モンテノッテ戦役

勢力 戦力 損害
フランス共和国 37,775人 約6,000人
オーストリア
サルディーニャ王国
約57,500人 約10,000人~約12,000人

ケラスコの休戦Armistice of Cherasco

 ボナパルトは時間を無駄にせず21日から22日の夜までに軍の再編成を終わらせ、フランスのケレルマン中将率いるアルプス方面軍と対峙していたピエモンテのサヴォワ軍を降伏させクネオを占領した。サヴォワ軍としては正面にアルプス方面軍、後背にモンドヴィに進出してきたボナパルト中将率いるイタリア方面軍と前後を挟まれ、降伏は免れない状況だった。

 4月23日トリノ方面へ進軍を開始した。マッセナをタナロ川左岸を通りベーネ・ヴァジエンナを経由しケラスコへ、オージュローをタナロ川右岸を通りモッラを経由しアルバに向かわせ、、マッセナの左をセリュリエが受け持ち、トリニタを経由しフォッサノへ向かい、オージュローの右をラハープがニエーラ・ベルボに駐留してオーストリア軍を警戒した。

 モンドヴィの戦いに敗北した報がサルディーニャ王国国王ヴィクター・アマデウス3世の元に届くと、休戦の書簡をボナパルトに送った。

 ボーリューはコッリと合流しようとニッツァ・モンフェラートへ16個大隊、22個中隊で行軍したが、この動きは遅すぎた。

 4月24日、ボナパルトは、如何なる交渉も彼らの進軍を遅らせることは許されないとカッルから書簡を送り、進軍速度を一層速めてサルディーニャ国王に対して圧力をかけた。

 4月25日、セリュリエはコッリの本部のあるフォッサノの前に到着し、両者はストゥーラ・ディ・デモンテ川を挟んで交戦した。2時間の砲撃の応酬の後、コッリはカリニャーノへ後退した。セリュリエは川を渡りフォッサノを占領した。

 マッセナはベーネ・ヴァジエンナからケラスコに移動した。ボーモント少将に先行させ、ケラスコを包囲した。ケラスコは28門の大砲と周囲を防御柵で守られており、地理的な観点でもストゥーラ・ディ・デモンテ川とタナロ川の合流点にあり、フランス軍にとって重要な位置だった。コッリはケラスコを守ることを重要視していなかったため、守備兵をほとんど配置していなかった。というのも、ケラスコはストゥーラ・ディ・デモンテ川の南に位置しており、川を挟んで防衛することができなかったからであり、ピエモンテ軍にとっては防衛における重要地点ではなかったためである。マッセナは急いでケラスコを占領した。

 同日、オージュローはアルバを占領した。アルバの住民はフランス軍を歓迎し、サルディーニャ王国に対して叛旗を翻した。

 その間、ボナパルトは連絡線が長すぎると感じていたため、チェバ、オルメアを経由している連絡線を、クネオ、タンド峠、ニースを経由するルートへ変更し、連絡線がより安全に短くなった。

 このケラスコ、アルバの占領は、コッリ追撃のためと、ボーリューとの連絡線を妨害するためという2つの意味があった。

 ボナパルトはトリノを攻略するよりも、現状を利用してより有利な条件で早々にサルディーニャ王国と休戦し、オーストリアへと侵攻した方がオーストリアとの戦いもより有利に進めることができると考えた。

 そのため、ボナパルトは休戦交渉を行う権限を持っていなかったが、フランス政府の回答を待つ前に和平交渉を進めることにし、ケラスコへ赴いた。

 ボナパルトの提示した休戦条件は、①ニース、サヴォワをフランス領とすること。

 ②デモンテからケラスコを通りタナロ川に流れ込むストゥーラ・ディ・デモンテ川、ケラスコからアレクサンドリアを通りポー河に流れ込むタナロ川を両軍の境界線とし、その南をフランス領とすること。

 ③チェバ、クネオ、トルトナの要塞をフランス軍に明け渡すこと。(チェバ、クネオの要塞は既に占領済である)もし、トルトナの要塞がオーストリア軍の手中にある場合、アレクサンドリアを明け渡すこと。

 ③サルディーニャ王国領内の自由通行権。

 ④サルディーニャ王国は今後中立の立場を取ること。

 ⑤サヴォワの宮廷、サルディーニャ王国、サルディーニャ王国の宗教団体が保有する110点の貴重な芸術作品の譲渡、であった。

 上記に加え、ボナパルトはヴァレンツァでのポー河の渡行許可を求めた。

 4月26日、ナポレオンはケラスコに本部を移して交渉を行い、ケラスコの町の中心にあるパラッツォ・サルマトリス(Palazzo Salmatoris)に泊まったと言われている。

 同日、アルバの市民たちはアルバ共和国建国宣言を行った。

 4月27日、マッセナはジュベール、ドマルタンに命じストゥーラ・ディ・デモンテ川を渡りピエモンテ軍を追い払い、ブラを占領させた。サルセッテは戦いが終わるとドマルタン旅団に加わった。

 軍の規律により都市への立ち入りは禁止されていた。しかし、兵士たちは散り散りに広がり略奪しようとした。マッセナは規律を強化して取り締まった。

 同日、コッリはボナパルトにトリノの宮廷が提案された条件をすべて受け入れたと伝えた。

 コッリはオーストリア軍と合流するため、アレクサンドリア方面へ後退した。

 4月28日、オーストリア軍にも見捨てられたヴィクター・アマデウス3世はこの休戦条件を公式に承認した。ボナパルトはフランス政府の正式な承認を得るため休戦条件の詳細をミュラ大佐に託し、フランス政府に向かわせた。

 休戦が決まると、ボナパルトは即座にラハープに対してアックイ方面へ進み、ボーリューを警戒するように命じた。

 このケラスコの休戦でサルディーニャ王国が同盟軍から脱落し、モンテノッテ戦役は終結した。26日に建国宣言を行ったアルバ共和国はサルディーニャ王国領となることが決まったため、僅か2日間で消滅した。

 ボナパルトは3月27日の着任時にした兵士達との約束を守り、肥沃なピエモンテの平原へ導いた。そして4月10日ヴォルトリで始まり、4月28日ケラスコで終わったこの18日間の戦役で、ボナパルトはモンテノッテ、ミレッシモ、デゴ、チェバ、サン・ミケーレ、モンドヴィと勝利を収め、オーストリアと対等に渡り合える状況を手に入れたのである。