モンテノッテ戦役 07 Montenotte campaign 07

ミレッシモの戦い(コッセリア城の戦い)

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約9,000人 約約900人~1,000人人
オーストリア
サルディーニャ王国
約1,600人 不明(死傷以外はすべて捕虜となった)
※コッセリア城の戦いのみの数値

ミレッシモの戦いBattle of Millesimo

 プロベラ少将率いるピエモンテの部隊を含む5個大隊(約2,000~2,500人)は、コッセリアの古城(コッセリアとミレッシモの間に位置する古城)の北の山に位置し、ボーリューとコッリを結び付けていた。

 4月13日未明、総司令官ボナパルト中将からミレッシモ、ロッカヴィニャーレ、モンテゼモロへの進軍命令を受けていたオージュロー中将は、部下に命令を下した。

 ビエストロにいるバネルはボルミダ・ミレッシモ川を渡りコッリとプロベラとの連絡を遮断し、古城北の山へ2個大隊を分離し包囲するように機動させる。メナードは古城麓の道を通りミレッシモへ入りチェンジョへ。ジュベールは古城の北の山々から古城北の山に位置するプロベラに接近する。

 バネルの部隊が橋を渡ろうとしたところ、ピエモンテ騎兵隊が現れバネルの部隊は追い散らされた。バネルは橋を渡らず橋の手前に部隊を配置し古城北の山へ2個大隊を差し向けた。

 ジュベールは古城北の山々を占領しているオーストリア補助軍の一部を攻撃した。ジュベールはコッセリアの山を覆っている低い木を利用することにより、オーストリアの部隊に気付かれずに近づくことができたのである。

 この突然の襲撃はオーストリアの部隊を驚かせ、オーストリアの部隊はチェンジョからボルミダ・ミレッシモ川を渡り、チェンジョ・アルトへ退却し、さらにミレッシモを超えてピエモンテ方面へ後退していった。

 バネルはコッセリア南の山からミレッシモに近づき、ミレッシモの橋を占領。部隊を分割しプロベラのいる古城北の山の包囲に加わった。

 プロベラは自身が包囲されているのを見て、自身がいる山の南にある古城へ撤退し、約1,600人の兵士とともに立て籠もった。この古城は山の頂上に建てられており、プロベラのいた山と尾根で繋がっていた。

 オージュローはプロベラの立て籠もる古城を包囲した後、ボナパルトの命令を待った。

 デゴは未だオーストリア軍の手中にあり、ピエモンテ軍、オーストリア軍はプロベラを救出するように動く可能性があった。

 ボナパルトは焦っていた。西には無傷のピエモンテ軍約20,000人がおり、北東ではボーリューの軍は未だ健在だった。モンテノッテの戦いで敗北したアルジャントーの軍も時が経過すすればボーリューと合流し、立て直して襲い掛かってくるかもしれないのである。

 プロベラの立て籠もったこの古城は水、食料、木材等の資材が無ければ、オーストリア軍は1日も経たずに降伏を余儀なくされるように見えた。しかしフランス軍も兵は飢え、装備、物資は乏しく、オーストリア軍から奪い取って繋いでいるのが実情だった。補給も不定期であり、食料、物資が届いたとしても次にいつ来るのか不明であった。このこともフランス兵に不安と不満を抱かせる原因だった。フランス軍には時間が無かった。

 ボナパルトは古城を攻略する決意を固めた。

ジョバンニ・マルケゼ・ディ・プロベラGiovanni Marchese di Provera

 4月13日朝、ボナパルトはプロベラを脅し降伏するように書簡を送った。

 しかしプロベラは大砲を発砲することで拒否の意を示した。ボナパルトはオージュローに攻撃命令を下した。

 オージュローはバネル少将、ジュベール少将、ケスネル少将に攻撃を命じた。3将軍は断続的に古城に攻撃を仕掛けたが、すべてはね返された。

 正午前頃、ボナパルトは再度降伏を求める書簡をプロベラに送った。プロベラはこの書簡に対して、会談を要求した。

 しかし、デゴの方角で大砲の音が響き始めると、ボナパルトは後をオージュローに任せ、至急デゴに赴くことになった。

 後を任されたオージュローはプロベラと会談をすることにした。

 プロベラとオージュローは会談に赴いた。そして話し合いがなされた。

 オージュローはプロベラに武器と荷物を持って後退するように申し出た。しかし、プロベラはこれを拒否した。さらにオージュローは捕虜を引き渡すよう要求したが、これも拒否された。

 結局この会談は平行線に終わり、オージュロー、プロベラはお互い戦闘を継続する決意で別れた。

 ここでプロベラは何のために会談を要求したかが疑問となる。というのは包囲されている側が会談を要求する内容は、包囲している側に対して①自身の安全を要求する。②味方と合流することを要求する。の2点に絞られる。しかし、オージュローの提案を拒否している時点でプロベラが会談する意味がない。

 そう考えるとオージュローはそのようなことを申し出ていないか、プロベラは会談を要求することで時間稼ぎがしたかったかのどちらかだろうと考えられる。恐らく後者であろうが。

 オージュローは本陣に戻るとすぐに攻城の手配をした。そして軍を4つの部隊に分けた。

 1つ目はジュベール、2つ目はバネル、3つ目はケスネル、オージュローは4つ目と予備隊。それぞれの隊は城が位置する3つの絶壁の尾根に沿って配置された。ジュベールは中央、バネルは東、ケスネルは西である。

 フランスの3将軍は尾根から古城へ近づいて行った。3将軍の部隊が行軍を始めた当初、プロベラは気付いていないように見えた。途中、ジュベールは部隊を結集するために死角となる位置で行軍を止めた。バネルとケスネルは、なぜジュベールが行軍を止めたのかわからないまま、同調して行軍を止めた。

 ジュベールはプロベラが自分たちを引き付けた上で攻撃しようとしていることを察知したのである。

 その時、古城に立て籠もるオーストリアの部隊はフランスの3将軍の部隊の道をすべて押しつぶすように岩を落とし、石弾を投げ、強烈にマスケット銃で攻撃した。落石と石弾、マスケット銃での攻撃は約15分間続き、オーストリア軍の攻撃が止んだ時、フランス軍は約300人の死者を出し、約600人が重傷を負った。その中に、バネル少将とケスネル少将の死体も転がっていた。

 この岩の雪崩と鉛のあられの真っ只中、ジュベールは動かなかったがようやく行軍を開始し、先頭の部隊を城壁の下に導いた。

 ジュベールの擲弾兵の内3人はすでに城壁に登っていたがジュベールは頭に2回石弾を落とされたとき、意識を失った。

 フランス3将軍の攻撃はすべて撃退されたのである。

 この失敗の後、オージュローは1,000人の部隊を形成し、プロベラへの支援を妨害するように配置した。そして大砲2門、榴弾砲1両を用意し、夜間も継続して攻撃を仕掛けた。

 この間、ピエモンテ軍を指揮するコッリはプロベラを支援する部隊を形成するためにピエモンテの擲弾兵大隊とともにチェバからモンテゼモロに移動した。

 コッリはオージュローの背後に2つの部隊を派遣した。しかし、この2つの部隊はプロベラを支援するための行動をほとんど起こさなかった。

 深夜、オージュローは3度目となる降伏の書簡を送った。プロベラはついに降伏を受け入れた。古城に立て籠もったオーストリアの部隊は食料も弾薬も尽き、抵抗する術を失っていたのである。