【詳細解説】ロアノの戦い【ナポレオン】Battle of Loano


ロアノの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約25,000人 約1,700人
オーストリア
サルディーニャ王国
約18,000人 約4,000人
捕虜:約4,600人
 

ナポレオンが総司令官として脚光を浴び始めたモンテノッテ戦役の直前の大きな戦いが「ロアノの戦い」です。

ナポレオンが作戦を立案し、オージュローが右翼として、セリュリエが左翼として、マッセナが中央として勝利を収めた戦いでした。

マッセナの麾下としてスーシェが、オージュローの麾下としてヴィクトールやランヌが参戦しています。

オージュロー、マッセナ、セリュリエ、スーシェ、ヴィクトール、ランヌはそれぞれ将来の元帥として活躍する人物達です。

ロアノ戦いでマッセナ将軍はピエモンテ・オーストリア軍中央と右翼、左翼と中央を分断して各個撃破をし、この戦いでの驚異的な活躍により注目を集めました。


本記事では「ロアノの戦い」について時系列に沿って経過をまとめています。ナポレオンやロアノの戦いの詳細が知りたい方、戦術好きや歴史好きな方はぜひご覧になってください。


ロアノの戦い 01 戦いに至るまでの両軍の状況

1793年、フランスがトゥーロンやリヨンなどでの国内反乱を鎮圧している時、ピエモンテ・オーストリア軍はオネリア周辺にまで勢力を伸ばしていました。

1794年、国内反乱を鎮圧し終えたフランス革命軍は、イタリア方面での失地を回復すべく侵攻を開始し、同年4月にサオルジオの戦いで勝利を収めました。

そしてイタリア方面軍はジェノヴァの目と鼻の先に位置するサヴォナまで侵攻しました。

1795年6月29日、オーストリア軍は大規模な侵攻作戦を開始しました。

イタリア方面軍新総司令官ケレルマン中将はサヴォナからロアノに隣接しているボルゲット・サン・スピリット、オルメアまで後退し、ロアノ、ガレッシオはピエモンテ・オーストリア軍の手中に落ちてしまいました。

ケレルマンはボルゲット・サン・スピリットからクロージ・ディ・トルナッサ(Croge di Tornassa)まで強固な防衛線を構築し、ピエモンテ・オーストリア軍の侵攻を食い止めました。

 しかし、フランス軍は数的劣勢の状況にあり、ケレルマンはすぐに増援が送られなければ、ニースすら保持することは危ういとフランス政府に伝えました。

フランス政府はこの危機的状況を打破すべく、ヴァンデミエールの反乱を見事に鎮圧して10月16日に少将から中将に昇進した「ヴァンデミエール将軍」としてさらに名声を高めていたナポレオン・ボナパルト将軍を呼びました。

詳細記事ではイタリア方面軍の状況や、対するピエモンテ・オーストリア軍の状況について解説しています。

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ロアノの戦い 02 侵攻作戦の開始

1795年、ナポレオンは陸軍大臣カルノーにヴァド、チェバを攻略する作戦を提示しました。

ヴァドを占領できればジェノヴァまでは目と鼻の先となり、補給事情はかなり改善されることが見込まれ、チェバを占領できればピエモンテ軍とオーストリア軍を分断することができます。

まずコルサリア方面(方向としてはモンドヴィ方面)へ陽動攻撃を行い、次にガレッシオ、ロッカ・バルベナ、ロアノへの同時攻撃を行うことにより急激に前線を押し上げヴァド、チェバを占領するという作戦でした。

カルノーはイタリア方面軍総司令官をケレルマン中将からシェレール中将に変更し、ナポレオンの立案した作戦命令書を発送しました。

しかしこの作戦はナポレオンが7月に考案したものであり、実際の戦闘は準備が遅れ雪の降る11月でした。

尚且つ、作戦に必要な兵数を下回っていたため、規模を縮小して作戦を実行することになりました。

イタリア方面軍総司令官シェレール中将はナポレオンの作戦に修正を加え、侵攻作戦開始の命令を下しました。

詳細記事ではシェレールの修正した作戦についても解説しています。

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ロアノの戦い 03 ロアノの戦いの序盤

1795年11月22日、マッセナはイタリア方面軍中央の部隊をズッカレロに集めてスピーチをし、中央軍の士気を大いに高めました。その夜、マッセナ師団はピエモンテ・オーストリア軍に悟られないように静かに出撃しました。

11月23日夜明け、オージュロー師団の砲撃からロアノの戦いは始まりました。

右翼のオージュロー師団は塹壕地帯に苦戦をしつつ奮戦し、中央のマッセナ師団も麾下の将軍の1人を失いながらも幾度もの粘り強い突撃の末、前哨基地を占領しました。

左翼のセリュリエ師団もピエモンテ軍の前哨基地への攻撃を開始しました。

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ロアノの戦い 04 ロアノの戦いの中盤

フランス革命軍右翼のオージュロー師団では数度に渡るトイラーノの塹壕地帯(シャルトリューズ)への突撃を撃退され麾下のバネル少将が負傷をして戦線離脱をし、バネル旅団の指揮をランヌ大佐が引き継ぎました。

ランヌは指揮を引き継ぐとシャルトリューズに猛攻を加え、ランヌの攻撃に耐えきれなくなったテルニシー将軍がシャルトリューズの兵力を集め、塹壕地帯から出撃しました。

しかしテルニシー将軍の突撃はドマルタン少将によって阻まれます。

ドマルタンとランヌは強力してシャルトリューズに残ったビカソヴィッチ麾下の部隊を排除し、シャルトリューズを占領しました。

シャルトリューズはフランス革命軍の手に落ちたものの、オーストリア軍はボイッサーノの塹壕地帯(カステッラーロ)を保持していました。

しかしピエモンテ・オーストリア軍総司令官ウォリスはシャルトリューズの惨状を見てロアノを放棄し、中央のアルジャントーと戦線を合わせるためにピエトラに後退することを決断しました。

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ロアノの戦い 05 ルカヴィナの活躍とアルジャントーの敗北

ピエモンテ・オーストリア軍総司令官ウォリスがピエトラに後退したことにより、ルカヴィナ少将はカステッラーロで孤立して完全に包囲されました。

ルカヴィナは兵力を集中した正面突破によりヴィクトール旅団を突き崩し、この危機を脱しました。

ルカヴィナの敵であるフランス人でさえルカヴィナの勇気と功績に感銘を受けたと言われています。

一方、中央では前哨基地を突破したマッセナ師団は急速に師団を進め、アルジャントー将軍に効果的な防衛線を構築する時間を与えず圧倒し、アルジャントーはメローニョからボルミダへ撤退しました。

アルジャントーは撤退することを伝える伝令を右翼のコッリ将軍に派遣しましたが、マッセナ麾下のピジョン旅団に捕らえられました。

アルジャントー師団がボルミダへ撤退したことにより中央のアルジャントー師団と右翼のコッリ師団との連絡は寸断されることになりました。

このアルジャントー師団の敗北は「ロアノの戦い」の趨勢をも決しました。

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ロアノの戦い 06 ロアノの戦いの終盤

1795年11月24日午前1時頃、アルジャントー師団をボルミダへ撤退させたマッセナ師団は、オーストリア軍左翼と中央の連絡における中継地点であるサン・ジャコモへジュベール大佐の部隊を向かわせました。

ピエモンテ・オーストリア軍はフィナーレ周辺で地形に沿って有利な位置に兵力を配置していたが、総司令官ウォリスはヴァド、サヴォナまで退却することを考えていました。

24日夕暮れ時、ピエモンテ・オーストリア軍総司令官ウォリスは後退を隠すために防衛線全体に大きな火を煌々と焚き付け、夜8時頃、3列に分かれてフィナーレからの後退を始めました。

3列の内1列はサン・ジャコモへ向かい、マッセナ師団麾下のジュベールの部隊と遭遇し、オーストラリアの列は敗退しました。

25日未明、イタリア方面軍総司令官シェレールはオージュロー将軍にフィナーレへの攻撃命令を下しました。

山岳地帯で兵をかき集めていたマッセナ師団もオージュロー師団の動きに合わせてフィナーレへ降下しました。

ウォリスは右側でフランス部隊が形成され、包囲されているのを見て、食糧や大砲を放棄し後退速度を速めました。

そしてオーストリア軍左翼は暗闇の中ヴァド、サヴォナへ後退して行き、中央のアルジャントー師団はボルミダからさらに北にあるミレッシモへ退却して行きました。

マッセナ師団とオージュロー師団はマッセナの指揮の下ヴァド、サヴォナへオーストリア軍を追跡しました。

しかしフランス革命軍左翼のセリュリエ師団の負担が大きく、シェレールはマッセナ師団から一部の部隊をセリュリエ師団への増援として向かわせました。

マッセナ師団とオージュロー師団はヴァド、サヴォナを占領しましたが、川などの地形的な障害や兵士の疲労、軍靴の不足などにより行軍を停止しました。

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ロアノの戦い 07 セリュリエ vs コッリ とその後

1795年11月26日まで数的劣勢な中、コッリ将軍相手によく持ち堪えていたセリュリエ師団に新たな命令が下されました。

ピエモンテ軍を押し込むようにという命令でした。

シェレールはセリュリエ師団の側面部隊としてジュベールに3,000人、メナードに5,000人を指揮させてセリュリエ師団と協力して攻撃するように命じていました。

これによりピエモンテ軍の数的優位は覆り、フランス革命軍が圧倒的に優勢となりました。

コッリ将軍は前線を維持しつつチェバまで撤退していきました。

セリュリエは数的劣勢にも関わらずピエモンテ軍を相手によく持ちこたえ、コッリをガレッシオ周辺に釘付けにし、セリュリエは自身の役割を完璧に果たしました。

ロアノの戦いは終わり、その後イタリア方面軍は総司令官にナポレオン・ボナパルト中将を据え、翌1796年に侵攻を再開することになります。

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まとめ

1、1795年、オーストリア軍の大規模侵攻によりフランス革命軍はロアノまで前線を押し下げていた。そのため、「ヴァンデミエール将軍」としてさらに名声を高めたナポレオンに作戦の立案を要請した。

2、ナポレオンは作戦を立案したが、準備に手間取り想定兵力よりも兵員が少なくなったため、ナポレオンの作戦を修正して侵攻作戦を開始した。

3、1795年11月23日夜明け、オージュロー師団の砲撃を開始の合図として各前線で攻撃が開始されました。

4、ピエモンテ・オーストリア軍の構築した前哨基地は強固であり、フランス革命軍の幾度もの突撃を跳ね返していた。

5、しかし、マッセナ師団が中央のピエモンテ・オーストリア軍前哨基地を占領したことにより状況は一変した。

6、マッセナ師団はピエモンテ・オーストリア軍中央のアルジャントー師団い効果的な防衛線を構築する時間を与えず進撃し、アルジャントーを後方まで後退させアルジャントー師団とコッリ師団との連絡を遮断した。

7、マッセナはアルジャントー師団とウォリス本体との連絡の中継地点であるサン・ジャコモに麾下のジュベールの部隊を派遣し、自身はピエモンテ・オーストリア軍の背後を突くためにフィナーレへ向かった。

8、ウォリス本体はフィナーレへ後退しており、地形に沿って有利な地点に兵力を配置していた。そして、さらにヴァド、サヴォナへ後退をはじめた。

9、後退の途中、3列の内の1列がサン・ジャコモでジュベールの部隊と遭遇し敗走。ウォリスは包囲されつつあることを察し、食糧や大砲を放棄して後退を早めた。

10、マッセナ師団とオージュロー師団はヴァド、サヴォナまでウォリス本体を追跡し、勢力下に収めた。

11、フランス革命軍総司令官シェレールはマッセナ師団から部隊を分割し、セリュリエ師団の側面部隊としてガレッシオ方面に向かわせた。

12、セリュリエ師団はマッセナ師団の分割部隊の支援を受け、ピエモンテ・オーストリア軍右翼をチェバまで後退させた。

13、フランス革命軍もこれ以上の侵攻は不可能となり、ロアノの戦いは幕を閉じた。

参考文献References

André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第一巻」
デイヴィッド・ジェフリー・チャンドラー著 「ナポレオン戦争 第一巻」
その他