ガルダ湖畔の戦い 12:最初のロナートの戦い(第1次ロナート争奪戦) 
Battle on the shores of Lake Garda 12

ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロナート:約20,000人
カスティリオーネ:約30,000人
ロナート:約2,000人
カスティリオーネ:約1,300人
オーストリア ロナート:約15,000人
カスティリオーネ:約25,000人
ロナート:約5,000人
カスティリオーネ:約3,000人

ギウの救出

 1796年7月30日の夜、ソーレとデスピノイは、カスダノウィッチ師団とメラス師団との連絡を妨害するため、そしてマルティネンゴ宮殿で包囲されているギウの部隊の救出のため、デセンツァーノを出発しサローを奪還せよという命令を受けた。

 しかしデセンツァーノでの準備の途中、デスピノイはブレシアが奪われたという連絡を受け、進軍準備を停止した。

 デスピノイの目線では、ブレシアが奪われたということは、ミラノとの連絡を断たれ退路の半分が失われたことを意味し、オーストリア軍がブレシアから東に進軍することは明白であり、進軍してサローを奪還したとしてもロナートやデセンツァーノがオーストリア軍の手に落ちる可能性がある。

 ロナートやデセンツァーノがオーストリア軍に奪われた場合、サローにいるソーレとデスピノイは敵中に孤立することになるのである。

 そしてガルダ湖東側でもオーストリア軍が大軍をもって押し寄せて来ており、会議で撤退決議が出されているにも関わらずサローを奪還せよという命令だった。

◎デスピノイがサローを攻撃した場合の状況

 この時、デスピノイは先の撤退決議を優先したのか、サローで孤立することを恐れたのかは不明だが、デセンツァーノに残る決断をした。

 実際の戦争は情報が錯綜し、敵軍の情報も曖昧なことが多い中、もしかしたらデスピノイにはセルヴォニ旅団、ランポン旅団、ダルマーニュ旅団がマッセナ師団と合流しようとしていることを知らされていなかった可能性もある。

 デスピノイはソーレに対しともにデセンツァーノに留まることを提案をしたが、ソーレがデスピノイの提案に乗ることは無かった。

 ソーレはデスピノイの考えの通りだとしても部下であるギウを見捨てることはできないと考えたのかもしれない。

 ソーレはデセンツァーノからガルダ湖沿岸の道を通りサローへ向かった。

 騎兵隊に先行させ、31日午前5時頃には、サローの至近にまで迫っていた。

 サローを防衛しているオクスカイ旅団がサローの外で防衛体制を整えた時、ソーレは攻撃を開始した。

 4時間の激しい戦闘の後、オクスカイはサローの町に後退した。

 町の入り口は2つの砲台によって守られており、ソーレが保有している兵力に対して防備は強固なものだった。

 ソーレは4回目の突撃で町の入り口の2つの砲台を奪い、7回目の突撃でギウが同時にマルティネンゴ宮殿から出撃して包囲部隊を攻撃し、オクスカイ旅団をサローから追い出すことに成功した。

 オクスカイ旅団はトルミニ(Tormini)にある野営地に向かった。

 ソーレはマルティネンゴ宮殿の包囲を解いた後、29日の戦闘で捕虜となったルスカ将軍を助け出した。

 サローで敗北したオクスカイだったが、ガヴァルドの部隊と周囲の部隊と協力してソーレを包囲する機動を行った。

 ソーレは後方が脅かされ、退路が断たれることを察してデセンツァーノに撤退した。

 ルスカとギウを救出したものの、ソーレ単独ではサローの奪還を果たすことはできなかった。

 もしデスピノイが命令通りにソーレとともにサローを占領していたら、ガヴァルドを経由してポンテ・サン・マルコにいるオット旅団の脇腹を突けたかもしれず、さらに言えば、カスダノウィッチ師団の態勢を崩しブレシアへも進軍できた可能性があった。





最初のロナートの戦い(第1次ロナート争奪戦)1st Battle of Lonato

 1796年7月31日、カスダノウィッチはオット旅団8個歩兵大隊、1個騎兵中隊をポンテ・サン・マルコからロナートに進軍させ、ロナート東の高所に配置されていたデスピノイ麾下の歩兵部隊約400人を追い払った。

 ロナートが攻撃されていることを知ったデスピノイはマントヴァから到着したダルマーニュ旅団と麾下のベルタン旅団とともにロナートへ急進した。

 ロナート東の高所を失ったロナート守備隊はロナートを防衛するに当たっての重要地点の1つを失い、左側面をオーストリア軍に晒すこととなった。そのためロナート守備隊は後退を始めた。

◎オット旅団によるロナートへの攻撃

 この時、もしかしたらデスピノイは「やはりオーストリア軍はロナートへ進軍してきた。もしソーレとともにサローに行っていたら敵中に孤立していたところだ」と思ったかもしれない。

 後退するロナート守備隊に対し、オットは騎兵隊を差し向け丘の上まで追撃した。

 そこでオーストリア騎兵隊はフランス軍がデセンツァーノから運んだ2つの砲台に遭遇し、数発の砲弾とキャニスター弾の攻撃を受けた。

 そのためオーストリア騎兵隊は追撃をやめて後退した。

 フランス軍がデセンツァーノから出撃してきたことを察知したオットは左の方に戦列を伸ばし防衛態勢を整えた。

 そしてフランス軍がロナートに近づくと前にフランス軍が防衛していたロナート東の高所から攻撃を開始した。

 デスピノイはベルタンに2個大隊でオット旅団の側面を攻撃するよう命じた。

◎フランス軍によるデセンツァーノからの反撃

 ロナートの町に後退することを余儀なくされたオットは町の門を閉めることはできたが十分に防衛体制を整えることはできず、息つく間も無くすぐ後ろを追跡していたデスピノイの副官であるエルビン(Herbin)将軍とダルマーニュ将軍に攻撃された。

 フランス軍はロナートの門を破壊して町に雪崩込み、門や道などあらゆる所で戦闘を行った。

 マスケット銃の銃声が1時間ほど響き渡り、フランス軍はロナートの町のオーストリア軍を粉砕した。

 フランス軍が追撃すると、オット旅団の部隊が最後の門で待ち伏せをし横に広がっていた。

 そしてオットにカスダノウィッチへ報告をする時間を与えるためにフランス軍に猛攻を加え、激しい戦闘を繰り広げた。

 フランス軍の右翼が回り込もうとしていることを察知すると、最後の門を防衛しているオーストリアの部隊はロナートから撤退し、フランス軍は右翼の支援の下、最後の部隊の追撃を行った。

 ロナートの町の西側で引き続き3~4時間ほど戦闘が続いた後、オット旅団は戦場を放棄して撤退した。

 第1次ロナート争奪戦における両軍の損害は最低でも、オーストリア軍の損害については死者約120人、負傷者約150人、捕虜約400人であり、フランス軍の損害は死者30人、負傷者90人、捕虜12人だったと言われている。