ロディの戦い 10 Battle of Lodi 10

ロディの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約17,500人 約500人
オーストリア 9,627人 約335人
捕虜:約1,701人

ロディの戦いの感想Impression

 ロディの戦いはフランス軍にとっては追撃戦である。そしてロディで戦わなくともアッダ川は手中に収めることができただろう。

 ナポレオンがロディで戦う決断をしたのは、本文でも書いたがそこでボーリューが待ち受けていると信じており、ボーリューを粉砕すればその後の要塞攻略がやりやすくなるからであると考えられる。

 そしてセボッテンドルフもロディで戦う必要は無かったが、兵士の疲労等で戦わざるを得なかったのではないかと考えている。

 ヴァレンツァの罠についてだが、ナポレオンがケラスコの休戦(和約)の時、ヴァレンツァでの渡河の許可をサルディーニャ国王に要求したのは、ボーリューがフランス軍はヴァレンツァで渡河しようと計画していると思わせるための情報戦である。

 ナポレオンがフランス政府に当てた書簡にもオーストリア軍を罠に嵌めたという記述がある。

 つまりピエモンテとの休戦の時にはポー河渡河計画を立案していたということになる。

 ボーリューはこの罠にかかることは無かったが、明確に目標を持っているフランス軍とフランス軍の動向を推察しつつ行動するオーストリア軍の行軍速度の差とによってピアチェンツァでの渡河を許してしまった。

 ボーリューが罠にかかったとしたら、ボーリューはヴァレンツァ周辺により多くの兵力を配置しているはずであり、フランス軍の動きを把握しているかのようにピアチェンツァ方面に部隊を移動しなかっただろう。

 オーストリア軍の行軍速度がフランス軍と同等だったとしたら、ボーリュー本体に渡河を阻止されたのではないだろうか。

 グアルダミーリオの戦いについては、初期戦力としてリプタイ旅団の方が兵力が大きくダルマーニュの選抜部隊とラハープ師団の一部をポー河まで押し返したが、フランス軍が次々と渡河を果たして戦力差がひっくり返った。

 フォンビオの戦いについては、フォンビオに逃げたリプタイの追撃戦であり、フランス軍が兵力的に優勢であった。通常の流れでフランス軍が勝利した。リプタイの偉いところは重要地点であるピッツィゲットーネを保持したことであり、失敗点は退却時にボーリューに連絡しなかったことである。フォンビオ、コドーニョがフランス軍の手に落ち、ピッツィゲットーネへ撤退する旨の連絡があったとしたら、ボーリューもリプタイとの連絡の取りようがあったのではないだろうか。

 コドーニョの戦いについては、オーストリア軍前衛シュビルツによる夜襲である。兵力的にフランス軍の方が圧倒的に優勢であったが、フランス軍の虚を突いたこと、そして師団長ラハープの不慮の死によってフランス軍は秩序を失ったことにより、シュビルツはコドーニョの町の一部を夜明けまで保持できた。その後、ダルマーニュの援軍とベルティエの到着によってフランス軍は秩序を取り戻し、シュビルツは撤退。ベルティエはシュビルツを追ってカザルプステルレンゴを占領した。

 その後、ボーリューはリプタイと連絡が取れないことから最悪の事態を考えてロディを経由して後退することを決断した。ボーリューの後退に合わせ、フランス軍が進出した。

 ロディの戦い前哨戦については、まずオーストリア軍の後衛であるビカソヴィッチ旅団が追い付かれた件についてだが、資料によって記載内容が異なっている。

 ある資料①は何の障害も無くロディ橋を渡れたことになっている。そして、ある資料②はムッツァ・ピアチェンティーナでビカソヴィッチ旅団ではないオーストリア軍の後衛に追いつき、ロディのクレモナ門まで追いかけ混戦に持ち込み、壁を上り内側から門を開け、ロディ橋西詰まで追跡したことになっている。マッセナの回想録では勤勉なダルマーニュはオーストリア軍の後衛を攻撃しロディに追いやったということになっている。

 ちなみに、最も詳細に記載してあるのは、ある資料②である。

 筆者は時間と配置的にオーストリア軍の最後尾はビカソヴィッチ旅団であると考えているので、ビカソヴィッチ旅団はロディの城壁近くでダルマーニュに追いつかれ、攻撃を受けたのではないかと推測している。

 次にオージュロー師団がボルゲット・ロディジャーノからカザルプステルレンゴ周辺の偵察をした上でマッセナ師団と連携してロディに向かったという件だが、これは別の資料では、ロディの戦いが始まったことをオージュローが知り、ボルゲットからロディへ向かったとのことである。マッセナの回想録には別の資料と同じことが記載してある。

 オージュローがカザルプステルレンゴへ戻って周囲の偵察をしつつロディへ向かうのは効率が悪すぎる。むしろ、ボルゲット周辺で略奪を行っていたため近くにいたビカソヴィッチ旅団にも気づかず、ロディへ駆け付けた時間も遅くなったという方がしっくりくる。略奪を行っていたという証拠は無いが・・・。

 ロディ橋での戦闘についてだが、ボーリューを粉砕しようとするフランス軍は浅瀬が広いことに助けられた。もし、浅瀬が広く無かったら、セボッテンドルフの想定通りになったかもしれない。そして、セボッテンドルフが浅瀬が広いことを知っていた場合、セボッテンドルフは後退したか、もしくは何らかの対応を行っただろうと考えている。

 ここで目を見張るべきはセボッテンドルフの統率力と撤退時の殿(しんがり)部隊である。

 オーデナー率いる騎兵隊約300人がオーストリア軍右翼に突撃をして右翼が秩序を失った時、そしてルスカ率いる軽騎兵がオーストリア軍左翼に突撃をして左翼が分断され秩序を失った時、両方とも秩序を確立した上で殿(しんがり)の部隊を形成しつつ撤退していることからセボッテンドルフの統率力の高さが伺える。そして形成された殿の部隊は整然とダルマーニュとマッセナの追跡を追い払い撤退を成功させていることから、ナポリ軽騎兵隊の強さがわかる。

 フランス軍については、明らかに十字砲火を受けるであろうロディ橋を通過する突撃において、上級将校が先頭に立ち兵士を導いたということから、士気が高いことが分かる。参謀長であるベルティエも先頭に立って突撃したというのだから驚きである。

 ちなみにナポレオンはこの突撃に参加していない。これはナポレオン自身が突撃に参加したことを否定している。

 ナポレオンが「小伍長」と呼ばれるようになったという逸話については、真偽不明である。資料が無いからと言って呼ばれていないということにはならないからである。

 ロディの戦い後、ナポレオンが天啓を受けて野心を抱いた件についてだが、フランス政府に愚かな作戦を提示され、ナポレオンの発言力を弱めようとしたこと、そしてその間ロンバルディア最大都市ミラノ占領間近もしくは占領したことが野心を抱いた大きな要因ではないだろうかと考えている。マッセナの回想録では、ナポレオンはこの時、総司令官を辞任しようとしているように見えたそうである。しかし、辞任という言葉は使わず、任務は果たすが成果は期待するなという内容の書簡をフランス政府に送っていることから、ここで愚かな指令(目の前のオーストリア軍が健在にもかかわらず兵力を二分する指令)を出そうとするフランス政府の言いなりにならな決心をした(野心を抱いた)のではないだろうか。

 1796年5月10日の事件として、フランス総裁政府転覆計画を5月11日に実行に移そうとしていた急進派であり社会主義思想家であるフランソワ・ノエル・バブーフが逮捕されている。俗にいう「バブーフの陰謀」である。

 最後に、ロディには1770年3月、モーツァルトが14歳の時に父親と訪れていたりする。ロディのGatta地区の旅館に泊まったとのことである。Gatta地区は城壁の外、クレモナ門の先にあり、当時から城壁の外に町が広がっていたことが分かる。

 このロディの地で「弦楽四重奏曲第1番 ト長調 ローディ K.80(73f)」を完成させたと言われている。

 「弦楽四重奏曲第1番 ト長調 ローディ K.80(73f)」の俗称は「ロディ(ローディ)」である。

参考文献References

André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第二巻」
デイヴィッド・ジェフリー・チャンドラー著 「ナポレオン戦争 第一巻」
Jean Landrieux著 「Memoires de l'Adjudant-General Jean Landrieux 第一巻」
Félix Bouvier著 「Bonaparte en Italie, 1796」
L.W. Seidel著 「Streffleurs militärische Zeitschrift, 第4~6号」
その他