【詳細解説】ロディ戦役【第一次イタリア遠征】Lodi Campaign

ロディの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約17,500人 約500人
オーストリア 9,627人 約335人
捕虜:約1,701人

本記事ではナポレオンに野心を抱かせた「ロディ戦役」について時系列に沿って経過をまとめまています。

ロディ戦役とは、第一次イタリア遠征におけるモンテノッテ戦役に続く戦役であり、「ロディの戦い」を含むその前後の連続した戦いのことです。

フランス軍側だけでなく、オーストリア軍側も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたのでナポレオンやロディ戦役について詳しく知りたい人や戦術好き、歴史好きな人は是非ご覧ください。

ロディ戦役 01 ポー河渡河計画

1796年4月28日、サルディーニャ王国はケラスコの休戦協定により領土の多くを失い、同盟から脱落し中立国となりました。

これによりナポレオンはアルプス方面軍をイタリアに引き寄せ、オーストリア軍と対等に渡り合える状況を作り出しました。

ピエモンテ軍の支援を失ったボーリュー大将率いるオーストリア軍は防備を固めるべくアレクサンドリアを放棄し、ヴァレンツァでポー河を渡河し、セージア川以東へ急速に後退しました。

セージア川とイタリア半島東のアドリア海に流れ込むポー河で防衛線を構築しフランス軍を迎え撃つ計画でした。

一方、フランス軍は川幅も広く水深も深いポー河を渡らなければオーストリア軍に勝つことはできませんでした。

ポー河の渡河地点はヴァレンツァ、パヴィア南、ピアチェンツァの3つの候補がありました。

ナポレオンはその中のピアチェンツァを渡河地点と定め、渡河計画を立案しました。

ヴァレンツァでの渡河の許可をピエモンテ(サルディーニャ王国)との休戦協定の条件に盛り込んだのは、ボーリューに渡河地点はヴァレンツァ周辺であると思い込ませるためのナポレオンの罠でした。

より具体的な計画が知りたい方は詳細記事を参照してください。

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ロディ戦役 02 グアルダミーリオの戦い

1796年5月6日、セリュリエ師団とマッセナ師団はヴァレンツァで渡河すると見せかけ、ラハープ師団はトルトナからヴォゲーラへ、オージュロー師団はジェローラからヴォゲーラへ移動していました。

そしてフランス軍の先頭であるダルマーニュ旅団はピアチェンツァまで約30㎞の地点に位置するストラデッラにまで進出していました。

ナポレオンは、予定通り5月7日の作戦開始を命令しました。

作戦は7日未明に開始され、ダルマーニュ旅団とラハープ師団はピアチェンツァへ向かい、オージュロー師団はピアチェンツァまでの道中で荷船を接収して途中でポー河を渡河しようとしました。

夜明け頃、ダルマーニュ旅団がピアチェンツァに到着し、すぐにランヌ大佐の部隊が用意してあるボートで対岸に渡りました。

ランヌ大佐はリプタイの偵察部隊の攻撃を撃退し、橋頭保を確立すべく渡河地点の防衛を行いました。

午後、ラハープ将軍が渡河した時、リプタイ旅団が現れフランス軍を対岸に押し戻すべく攻撃を開始しました。

リプタイ旅団は一時的にフランス軍を河岸に押し戻すことに成功しましたが、次々とフランス軍が上陸してきたためフォンビオに後退することを決断しました。

リプタイがフォンビオへ後退した後、夜を通してダルマーニュ旅団とラハープ師団はポー河渡河を成功させ、フランス軍はついにポー河北岸に橋頭保を確立しました。

ボーリューがナポレオンの罠にかかることはありませんでしたが、明確に目標を持っているフランス軍とフランス軍の動向を推察しつつ行動するオーストリア軍の行軍速度の差とによってピアチェンツァでの渡河を許してしまったのでした。

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ロディ戦役 03 フォンビオの戦い

1796年5月8日午前1時頃、ナポレオンは約4,000~5,000人の歩兵と約1,200人の騎兵でフォンビオに駐屯しているリプタイに接近するように命令しました。

リプタイ将軍は軽騎兵を駆使して勇敢にフォンビオを防衛しましたが、包囲されつつある事を知ると軽騎兵隊を殿にしてコドーニョへ撤退して行きました。

ダルマーニュ将軍はコドーニョへ撤退するリプタイ旅団を追跡し、コドーニョで再びリプタイを攻撃しました。

リプタイはコドーニョを放棄し、フランス軍の追撃を振り切りつつアッダ川を渡りピッツィゲットーネへ退却しました。

ピッツィゲットーネはアッダ川の要地であり、オーストリア軍としてはピッツィゲットーネをフランス軍に奪われるわけにはいきませんでした。

グアルダミーリオ、フォンビオの戦いでオーストリア軍は約500人~600人の死傷者を出し、特にナポリ軽騎兵隊の損害が酷かったと言われており、対してフランス軍は約150人が死亡、約300人が負傷したと言われています。

その後、ラハープはコドーニョを占領しました。

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ロディ戦役 04 コドーニョの戦いとラハープ将軍の死

1796年5月8日夕方4時頃、リプタイが攻撃されている現状を知ったボーリューはリプタイを支援するために先遣隊のいるカザルプステルレンゴへ向かいましたが、リプタイ旅団はすでにピッツィゲットーネまで完全に退却していました。

カザルプステルレンゴにいたナポリ騎兵隊指揮官であるファルデッラ中佐は、約5㎞離れたコドーニョへの夜襲をシュビルツ将軍に提案し、採用されました。

シュビルツ将軍は前衛部隊約1,600人(歩兵約1,000人、軽騎兵約600人)を率いて月が無い星明りの中コドーニョへ移動し、午後10時頃に攻撃を開始しました。

防御が不十分だったラハープ師団は大いに驚き、町中への侵入を許してしまいました。

しかし、デュプイ少将の対応は的確であり、2個中隊を狭い通りに追い詰め、広場で応戦しました。

その頃、夕食を終えた師団長ラハープ将軍は側近達とともにテーブルで眠りに落ちていました。

ですがデュプイ少将が応戦していることを知らされると現場に急行し、暗闇の中、味方からの銃撃により死亡してしまいました。

その後、参謀長ベルティエ将軍やリプタイ旅団を追ったダルマーニュ旅団もコドーニョに駆け付け、シュビルツ旅団はコドーニョから撤退していきました。

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ロディ戦役 05 オーストリア軍のロディ橋への撤退

1796年5月8日夜~9日未明、ボーリューはリプタイ旅団と連携してシュビルツ旅団が戦っているコドーニョを攻撃しようとしました。

しかしリプタイ旅団との連絡が遮断されていたため危険を冒さずロディでアッダ川を渡り後退することを決断し、ロディへ向かいました。

5月9日、コッリ将軍はミラノに到着し、総司令官ボーリューがロディでアッダ川を渡りクレモナ経由でマントヴァ方向へ向かうことを知ると、アッダ川を渡ってボーリューと合流するためにカッサーノ・ダッダを経由するルートでトレビリオへ向かいました。

一方、フランス軍はピアチェンツァでの渡河を進め、10日午前4時にメニエル師団最後の部隊がピアチェンツァを去り、渡河を完了させました。

 5月10日午前9時頃、ゾルレスコにいたナポレオンはロディに向かって後退しているオーストリア軍の列を発見しました。

 ナポレオンはオーストリア軍の本体がロディ橋の後ろにあると考え、川を逆上ってカッサーノ橋を渡るよりもボーリューがいるであろうロディ橋でオーストリア軍を撃破して渡る方を選択しました。

ゾルレスコで発見したオーストリア軍は、サンタンジェロ・ロディジャーノからロディへ向けて後退途中であるビカソヴィッチ少将率いる後衛部隊であり、ボーリュー率いる本体は味方の後退を支援するためにロディに約10,000人の部隊をセボッテンドルフ少将麾下に置いて分離し、クレマを行進していました。

セボッテンドルフ将軍の任務は、ロディを経由するオーストリアの部隊すべての後退を支援し、可能であればロディの物資の回収をすることだった。

 ナポレオンはダルマーニュ旅団にロディへ向かうオーストリア軍の列へ攻撃を命じました。

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ロディ戦役 06 オーストリア軍最後衛の道程とロディ橋の構造

1796年5月9日夜時点でのビカソヴィッチ旅団の位置はパヴィアからサンタンジェロ・ロディジャーノの間にありました。

行軍速度とセボッテンドルフ師団の位置から推測すると、おおよそコピアーノ、ヴィガルフォ辺りにいたのでしょう。

そして5月10日午前9時、ビカソヴィッチ麾下の最後の大隊がサンタンジェロ・ロディジャーノを出発し、ダルマーニュ旅団とともにゾルレスコいるナポレオンに発見されました。

ゾルレスコからロディまでは約16㎞、サンタンジェロ・ロディジャーノからロディまでは約12㎞であり、約4㎞ビカソヴィッチ旅団の方が近い状況でした。

ビカソヴィッチ旅団とフランス軍のロディでのアッダ川渡河を巡る競争が始まった瞬間でした。

詳細記事ではオージュロー師団の謎やロディの町の見取り図、ロディ橋の構造などに関しても記載し考察しています。

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ロディ戦役 07 ロディの戦い<前哨戦>

1796年5月10日午前9時頃、ナポレオンはサンタンジェロ・ロディジャーノからロディに後退している途中のビカソヴィッチ旅団を攻撃するようにゾルレスコにいるダルマーニュ将軍に命じ、追跡を開始しました。

ビカソヴィッチはダルマーニュ旅団前衛に後部を補足されましたが、何とか振り払って無事にロディへたどり着き、門を通過した。

午前11時~11時半頃、ロッセルミニ旅団はビカソヴィッチ旅団の後退支援の任務を終えると、ダルマーニュ旅団前衛がロディの町へ近づくにつれて町の中へ後退し、アッダ川左岸に配置された砲兵の支援の下で急いで橋を渡りました。

ダルマーニュ旅団前衛はオーストリアの支援砲火をかいくぐりながらロッセルミニ旅団を追ってロディ橋に到達すると、すぐにオーストリア軍のさらに強力な砲撃が左岸から始まりました。

セボッテンドルフ麾下の兵力8個大隊、6個騎兵中隊6,577人(ビカソヴィッチ旅団、ロディの町にいたロッセルミニの部隊含む)の内、フランス軍の渡河を妨害する部隊としてアッダ川左岸に3個大隊(約2,000~約2,500人)と14の大砲を配置し、後方に5個大隊と6個騎兵中隊(約4,100~約4,600人)で予備を形成しており、ナポレオンはダルマーニュの選抜部隊のみでは橋を渡ることは難しいと考え、建物の背後に避難して応戦しつつ後続のマッセナ師団、オージュロー師団を待つことにしました。

午後12時頃、フランス軍の大砲がロディに到着し、ナポレオンはサグニー少将に命じ、砲兵隊を川沿いに配置させ、砲弾の応酬が始まりました。

そしてボーモント少将とキルメイン中将をロディ北方に派遣しアッダ川の浅瀬を探索させました。

砲撃の応酬は数時間続き、この時にナポレオンは大砲の配置場所や照準に関して直接砲兵に指示し、その後兵士達がナポレオンを「le petit caporal(小伍長)」と呼び始めたという伝説が語り継がれています。

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ロディ戦役 08 ロディの戦い

1796年5月10日午後5時頃、メニエル師団の前衛部隊がロディに到着しました。

その頃にはマッセナはロディの城壁と門を盾としてすべての歩兵で密集縦隊を形成しており、ダルマーニュ麾下のデュパスが先頭を務めていました。

そしてダルマーニュ旅団の後ろにセルヴォニ旅団が続いていました。

ロディ橋は非常に長く、その長さの3分の1が左岸の陸地にあり、所々、砂の中州が顔をのぞかせていました。

ついに突撃の時が訪れ、マッセナの合図でロディの門が開き、各部隊が門をくぐりロディ橋に向かって移動しました。

午後6時頃、マッセナが形成したフランスの密集縦隊が橋に到着するとセボッテンドルフの配置した14の大砲からの砲撃はさらに苛烈になり、行進するフランス軍を躊躇させました。

この躊躇による空白の時間はすべてを台無しにする可能性がありました。

マッセナ、ダルマーニュ、ベルティエ、セルヴォニ、ランヌ等、上級将校達が先頭に躍り出て「共和国万歳!(Vive la République!)」の叫び声とともに躊躇していた兵士達を先導しました。

橋を3分の1ほど渡ったところで、兵士達は左岸が浅いことに気付きました。兵士達は左岸の砂の中州へと滑り降り、腰まで水中に浸しながら戦い左岸の際を獲得しました。

橋を通過する部隊の前進を容易にするために、砂の中州に広がったフランス兵はオーストリア軍に向かって発砲しました。

橋を通過する部隊はブドウ弾に勇敢に立ち向かい、砂地に降りた部隊に支援され、橋の残りの部分を走り抜け、抵抗するものをすべて倒し、オーストリア砲兵に向かって前進しました。

橋を通過した部隊は砂地に広がった部隊の支援を受けながら、オーストリア軍の前衛を蹴散らし塹壕に飛び込み砲兵を射殺しました。

しかしセボッテンドルフ将軍が予備を投入したことによりフランス軍はロディ橋まで押し戻され、戦線は拮抗しました。

午後4時、メニエル師団前衛がロディに到着したことにより戦況はフランス軍有利に傾き、マッセナは数的優位を活かして両翼を広げました。

しばらくしてオージュロー師団も到着し、その前衛を指揮するルスカ将軍は軽騎兵隊とともにアッダ川を渡りオーストリア軍の左側面へ突撃しました。

ロディの戦いにおけるフランス軍の勝利が決定付けられた瞬間でした。

その後、セボッテンドルフ中将は戦線維持は困難と考え、ルスカの騎兵突撃によって分断された部隊の秩序を再確立させ、両翼を伸ばしたフランス軍の包囲を避けるためにクレマへの撤退を命令し、殿を形成しました。

殿はフォンタナを通って追撃しようと追ってくるダルマーニュ、マッセナ麾下の部隊に対して攻撃を加え、順番に後退していきました。

そして、フランス軍の追撃を撃退するために頻繁に向きを変えました。

セボッテンドルフはクレマに到着しましたが、クレマは中立国であるヴェネツィア共和国の領土であり、セボッテンドルフに対して門を閉ざしました。

そのためセボッテンドルフはクレマに入らず横を通り過ぎ、ボーリューとの合流のためにクレモナを目指しました。

このロディの戦いで、オーストリア軍の損害は、死者153人、負傷者182人、捕虜1,701人であり、フランス軍の損害は死傷者およそ500人、負傷した士官はマッセナの副官であるラトゥールのみだったと言われています。

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ロディ戦役 09 ミラノの占領

1796年5月13日、マッセナ師団はジュベール旅団を先頭に「共和国万歳!」の叫び声とともにミラノの街に入り、「自由万歳!暴君を倒せ!」と大勢の人々が発しました。

そして5月15日、ナポレオンは歩兵を先行させ、騎兵隊に囲まれミラノに入城しました。

マッセナとジュベールはローマ門(Porta Romana)まで総司令官を迎えに出向き、ナポレオンがローマ門を通過するとミラノの都市警備隊は左右に列を形成し武器を掲げました。

ナポレオンを筆頭としてフランス軍はミラノにおいて盛大に迎え入れられました。

ナポレオンにとっていくつかの不安要素があったにせよ、フランス軍はついにロンバルディア平原最大の都市であるミラノを手中に収めたのでした。

そしてセントヘレナのナポレオンによると、このミラノ占領前後に、ナポレオンは天啓を受けて野心を抱き、愚かな政府を導こうと決心したと言われています。

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ロディ戦役 10 ロンバルディアの支配体制の確立とミンチョ川での防衛態勢の構築

1796年5月15日にミラノに入城したナポレオンは、今後の行動のためにロンバルディアの支配体制を確立する必要がありました。

軍事的にはマッセナに次の新たな作戦のための準備と未だ降伏していないミラノのスフォルツェスコ城の封鎖を命じ、ナポレオン自身はミラノで外交・政務を執り行いました。

モデナ公国に圧力をかけて休戦協定を締結し、ミラノ人に対して2,000万フランを課し、教会に対してはその他に銀器やお布施を徴収しました。

そしてナポレオンはオーストリア党派を排除することによりロンバルディアの管理を再編成し、政治的、行政的支配を進めていきました。

一方、ロディの戦いに敗北したオーストリア軍はフランス軍の追跡を振り切り何とかマントヴァ要塞に到着しました。

5月16日、ボーリューはマントヴァ要塞に約12,000人の兵士を配置し、ロヴェルベッラで部隊を分離してゴーイトへ向かわせ、自身はヴァレッジョに向かいました。

ボーリューはミンチョ川で防衛線を構築するつもりであり、ミンチョ川の両端はペスキエーラ要塞とマントヴァ要塞に支配されていました。

ペスキエーラ要塞はヴェネツィア共和国の所有であり、この時点では使用許可を受け取っておらず、ペスキエーラ要塞へ兵力を配置することはできませんでした。

そしてミンチョ川右岸の地域に騎兵隊を分散配置し、どの地点をフランス軍が通過したかを把握しようとしました。

 ミンチョ川で防衛線を構築しているオーストリア軍にとっては未来の行動(どの地点に兵力を集結させるべきか)を決定する非常に重要な情報でした。

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ロディ戦役 11 新たな作戦

1796年5月19日、フランス軍の新たな作戦が始動しました。

ナポレオンは軍の編成に一部変更を加え、抵抗を続けているミラノのスフォルツェスコ城のためにデスピノイ少将麾下5,278人でミラノを封鎖させ、前衛をキルメイン師団(6,262人)、中央をマッセナ師団(メナード旅団含む9,481人)、左翼をオージュロー師団(6,089人)、右翼をセリュリエ師団(9,075人)とし、ブレシア周辺に軍を集結させることを計画しました。

オージュロー師団はペスキエーラ要塞方面に、セリュリエ師団はゴーイトやマントヴァ要塞方面にオーストリア軍の兵力を引き付けて分散させつつボルゲット周辺に集結することが主な目的であり、キルメイン師団は前衛としてミンチョ川右岸側に分散配置されているオーストリア騎兵を排除しつつボルゲットに向かうことにより後続のマッセナ師団の存在を隠すことが目的でした。

ナポレオンの目標は、ボルゲットでミンチョ川を通過することによりオーストリア軍の防衛線をアディジェ川の背後にまで後退させ、マントヴァ要塞を孤立させ包囲することでした。

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ロディ戦役 12 ロンバルディアの反乱

1796年5月19日~22日の間、キルメイン、マッセナ、セリュリエ、オージュローの各師団はブレシア方向へ向かいミラノから離れました。

5月25日、ナポレオンがミラノから離れてロディへ到着した時、ミラノを封鎖しているデスピノイからミラノの異常を知らせる書簡が届きました。

ミラノ及びパヴィアにおいて教会の小教区で鐘が鳴り響き、それと同時に人々はトリコロール(フランスの三色旗)を踏みにじり、共に植えた自由の木を伐採し、パヴィアでは城門の守備隊を捕らえ占領しました。

ミラノではデスピノイが封鎖していたため大きな暴動になる前に鎮圧できましたが、パヴィアは深刻に見えました。

ナポレオンは反乱を鎮静化させるために、約300人の騎兵隊と歩兵大隊を率いミラノに急行し、オリオ川方面へ向かわせたキルメイン麾下のランヌ率いる3個大隊、2個騎兵中隊、そして砲兵隊を引き返させました。

そしてミラノの反乱を鎮圧し、ランヌ大佐をパヴィアに先行させました。

パヴィアに向かう途中、ランヌは約500人~600人の農民が道を封鎖しているのを見て約100人を殺害し、残りを逃走させ、ビナスコに行進して村を焼き払いました。

ナポレオンはビナスコ村を焼き払ったことを例に挙げ、24時間以内に武器を棄てない者たちを反徒と見做し、反徒の村や反攻する村をすべて焼き払うと布告を出しました。

5月26日、パヴィアに到着し、反乱を鎮圧して指導者を捕らえました。

その後、指導者を見せしめとして処刑したことによりロンバルディアでの反乱は鎮静化に向かい、オーストリア軍の撃滅という本来の目的を再開することができるようになりました。

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ロディ戦役 13 偽りの機動

ロンバルディアの反乱によりナポレオンと連絡が取れなくなっていた各師団は、ブレシアの背後15㎞~16㎞に集中していました。

5月26日夕方、ナポレオンがソンチーノの本部に到着するとようやく各師団に命令が下されました。

27日、本部をブレシアに移し、キルメイン師団はロナートに到着し、マッセナ師団はモンテキアーリに、オージュロー師団はサローに向かい、セリュリエ師団はゲーディに移動しました。

27日夜、ナポレオンはマッセナにミンチョ川通過に関する計画を伝えました。

ペスキエーラ要塞方面に兵力を集約し部隊をチロル方面へ向けようとする動きにより、ボーリューはフランス軍がペスキエーラ要塞を占領し、チロル方面への退路を遮断するつもりであると考えました。

そしてこの時点までにヴェネツィア共和国からペスキエーラ要塞の使用許可が届いていました。

ボーリューはペスキエーラ要塞方面を厚くするためにヴァレッジョから兵力を派遣しました。

ペスキエーラ要塞周辺でフランス軍の進軍を食い止め、予備軍は状況に合わせて対応し、フランス軍右翼はセボッテンドルフ将軍がボルゲット橋で撃退することを想定していました。

ボーリューは、フランス軍と比較して兵力は少ないながら自身が考え得る万全の態勢を整えてフランス軍を待ち受けていたのです。

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ロディ戦役 14 ボルゲットの戦い開始前の状況

1796年5月28日、ロディから先は中立国であるヴェネツィア共和国の領土であったため、フランス軍はヴェネツィア共和国に配慮しつつ軍を進めました。

マッセナ師団はモンテキアーリに到着し、セリュリエ師団はメッツァーネ・ディ・カルヴィザーノを経由してカステルヌォーヴォに向かい、オージュロー師団はデセンツァーノに向かいました。

5月29日、ナポレオンはキルメインにカスティリオーネ・デッレ・スティヴィエーレを出発しソルフェリーノを経由してボルゲットに向かうよう命令し、オージュロー師団はロナートへ移動しました。

キルメイン師団を先行させてボルゲットを攻撃し、他の3師団はその後にボルゲットに到着する計画でした。

このフランス軍の機動に最も驚いたのはボーリューでした。

フランス軍はペスキエーラ要塞で渡河するつもりであると判断し、ペスキエーラ要塞方面に軍の重心を置く命令をしたばかりだったにもかかわらず、その後カステルヌオーヴォに配置していた騎兵隊からフランス軍発見の連絡が入ったのです。

フランス軍の狙いが判明せずオーストリア軍司令部は慌てふためき、指示が二転三転しオーストリア軍は混乱をきたしました。

詳細記事ではボルゲットの戦い前のオーストリア軍の配置についても記載しています。

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ロディ戦役 15 ボルゲットの戦い

ボルゲットの戦いの始まりとボーリューによる予備軍への緊急命令

1796年5月30日午前2時頃、マッセナ師団は渡河目標地点であるボルゲットに向けて移動を開始しました。

オージュロー師団、セリュリエ師団もボルゲットへ向けて移動を開始し、夜明け、キルメインは狙撃兵の傍にいる騎兵隊の先頭でボルゲットを視界に収めました。

キルメインはミンチョ川右岸にあるオーストリア軍の前哨基地を攻撃し、橋の先端に押し戻しました。

この攻撃を騎兵と砲兵の支援により強化し、午前9時頃、橋の前で防衛しているオーストリアの部隊に向けて突撃しました。

橋の先頭の部隊に支援されていたものの、激しい突撃によりオーストリア軍は武器を奪われ、ミンチョ川左岸に向かって敗走しました。

ダルマーニュ将軍とガルダンヌ将軍は工兵による橋の破壊を妨げ、修復のために破壊された地点の防御を強化しました。

ボルゲット橋を防衛していたオーストリア部隊は後退し、スカリジェロ城で防衛している4つの部隊に保護されて合流し、抵抗を続けました。

この時、フランス軍から攻撃を受けたのを見たボーリューは、オリオジからほぼすべての予備軍をヴァレッジョに向かうよう命じており、予備軍の到着を待っていました。

ボルゲット橋の突破とボーリューの後退

5月30日正午頃、ガルダンヌ将軍がスカリジェロ城を包囲する機動を見せると、スカリジェロ城で抵抗している6つのオーストリア部隊は退路を遮断されることを恐れ、ヴァレッジョの街に後退しました。

予備軍の到着は間に合わないと見たボーリューは、ヴァレッジョに向かっていたメラス麾下ガマー予備軍と砲兵隊に対しカステルヌオーヴォに後退するよう命令を出しました。

そして自身もピットーニとともにカステルヌオーヴォ・デル・ガルダへ向かって後退し、他の部隊との合流を計画しました。

ボルゲット橋の通過を許し、メラス麾下ガマー予備軍及び砲兵隊、そしてピットーニ旅団が退却した時点でボルゲットの戦いの勝敗は決しました。

オーストリア軍の分断の危機とキルメイン師団に夜ボーリュー本体の追撃

セボッテンドルフ将軍は偵察を行いヴァレッジョを失ったことを確認すると、分断を回避するためにニコレッティ旅団をゲルラへ移動するよう命じました。

この時オーストリア軍は分断の危機にありました。

オーストリア軍右翼との間にフランス軍の進軍を阻むものは何も無かったのです。

フランス軍がビラフランカへ向けて進軍した場合、分断されるだけでは無くニコレッティ旅団と左翼はチロル方面への退路を失うことになります。

オーストリア軍分断の危機に数人の士官が2、3個の騎兵隊を集結させてフランス軍に突撃し、これによりボーリューは後退を続ける能力と時間を得ました。

しかしキルメイン将軍は素早く態勢を立て直したことにより、ボーリューの後衛がフランス騎兵隊に追いつかれて攻撃を受けました。

これによりボーリュー本体は混乱に陥りましたが、ホーエンツォレルン将軍の冷静な対応により態勢を立て直し、フランス騎兵隊を追い散らしました。

この出来事に危機感を持ったナポレオンは自身を警護する部隊を組織し、これが将来の親衛隊の前身となったと言われています。

セボッテンドルフ将軍とコッリ将軍の動き

ボーリューがキルメイン師団に追撃されている頃、セボッテンドルフ将軍はゲーティで後衛を形成し、ヴァレッジョにいるフランス軍を正面から攻撃しました。

セボッテンドルフ将軍の攻撃はナポレオンを捕縛の直前まで追い詰めましたが、ビラフランカへの撤退を余儀なくされました。

その頃、コッリ将軍はセリュリエ師団を攻撃するためにミンチョ川を北上しており、ヴァレッジョ周辺に到着した時、セボッテンドルフ将軍は完全に撤退していました。

そのためコッリはルカヴィナに部隊を与えてマントヴァ要塞を強化し、自身は騎兵隊を率いてビラフランカに向かいました。

リプタイ旅団のペスキエーラ要塞からの撤退

5月30日午後4時前頃、リプタイはボーリューから撤退命令を受け、すぐに撤退準備に取り掛かりました。

午後5時頃、オージュロー師団の前衛部隊はリプタイが防衛しているペスキエーラ要塞に到着しました。

リプタイはオージュロー師団の到着前にペスキエーラ要塞を出発することができず、戦いは避けられない状況となってしまいました。

撤退を成功させるためにはオージュロー師団の本体が到着する前に主導権を握りオージュロー師団を停止させる必要があると考えたリプタイは、オージュロー師団の前衛部隊を打ち砕くべく歩兵約600人と騎兵隊を率いてペスキエーラ要塞から出撃しました。

リプタイはオージュロー師団の前衛を後退させ、旅団を4つに分割して撤退していきました。

午後7時頃、キルメインの追撃から逃れたホーエンツォレルンの部隊はリプタイ旅団と合流を果たし、混乱から立ち直ったオージュロー師団はナポレオンからリプタイを追跡するよう命令を受け、カステルヌオーヴォまで追跡しました。

このボルゲットの戦いで、フランス軍は約500人の死傷者を出し、オーストリア軍は583人が死傷または捕虜となったと言われています。

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ロディ戦役 16 ヴェローナの占領とマントヴァ要塞の包囲

ビラフランカへ撤退したはずであるセボッテンドルフ及びコッリの部隊はさらにヴェローナへ撤退するとナポレオンは考えていました。

そのためマッセナにヴェローナへの撤退を阻止するよう命令を下しました。

しかしオーストリア軍はヴェローナを経由せずにチロル方面へ撤退しており、ナポレオンの命令は情報不足による的外れなものでした。

キルメイン師団はオーストリア軍の追跡を行い、オージュロー師団はマントヴァ要塞方面へ向かいました。

5月31日、コッリ将軍がドルチェに到着し、追撃を受けている多くの部隊の合流を指揮し、ボーリューはロヴェレトへ後退し部隊を結集させました。

フランス軍がオーストリア軍を完全にバルド山以北へと追いやった後の6月3日、フランス軍はマントヴァ要塞の再包囲を進めました。

1796年6月4日、オーストリア軍約14,000人の立て籠もるマントヴァ要塞はフランス軍によって完全に包囲され、これ以降、マントヴァ要塞を巡る戦いが始まることになります。

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コラム①:同じ日の出来事

1796年5月10日の事件として、フランス総裁政府転覆計画を5月11日に実行に移そうとしていた急進派であり社会主義思想家であるフランソワ・ノエル・バブーフが逮捕されています。

俗にいう「バブーフの陰謀」です。

コラム②:ロディに関連する事柄

ロディには1770年3月、モーツァルトが14歳の時に父親と訪れています。

モーツァルトとモーツァルトの父親はロディのガッタ(Gatta)地区の旅館に泊まりました。

ガッタ地区は城壁の外、クレモナ門の先にあり、当時から城壁の外に町が広がっていたことが分かります。

このロディの地で「弦楽四重奏曲第1番 ト長調 ローディ K.80(73f)」を完成させたと言われています。

「弦楽四重奏曲第1番 ト長調 ローディ K.80(73f)」は俗に「ロディ(ローディ)」と呼ばれています。

コラム③:ナポレオンに関連する事柄

ボルゲットの戦いの後、マントヴァ要塞を巡る戦いが繰り広げられることとなるのですが、ロヴェルベッラにナポレオンが滞在したとき、ヴィラ・ゴビオ(Villa Gobio)という名の別荘に宿泊したと言われています。

このロヴェルベッラはボルゲットの戦い前、ボーリューが本営を置いて兵力の振り分けを行った場所です。

ヴィラ・ゴビオに滞在した日は、ボルゲットの戦い後のマントヴァ要塞攻略中にマントヴァからヴェローナへ移動している7月9日前後か、もしくはロヴェルベッラに滞在したと確認できる7月30日あたりだと考えられます。

参考文献References

・André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第二巻」
・デイヴィッド・ジェフリー・チャンドラー著 「ナポレオン戦争 第一巻」
・Jean Landrieux著 「Memoires de l'Adjudant-General Jean Landrieux 第一巻」
・Félix Bouvier著 「Bonaparte en Italie, 1796」
・L.W. Seidel著 「Streffleurs militärische Zeitschrift, 第4~6号」
・その他