ガルダ湖畔の戦い 21:カスティリオーネの戦い<前夜> 
Battle on the shores of Lake Garda 21

ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロナート:約20,000人
カスティリオーネ:約30,000人
ロナート:約2,000人
カスティリオーネ:約1,300人
オーストリア ロナート:約15,000人
カスティリオーネ:約25,000人
ロナート:約5,000人
カスティリオーネ:約3,000人

カスダノウィッチ師団の撤退

 ロナートの戦い及びカスティリオーネの戦いの前哨戦が終わった1796年8月3日の夜、オーストリア軍カスダノウィッチ師団と対峙しているマッセナ師団のほとんどはロナートとモンテキアーリの間に集中していた。

 ソーレ師団はカスダノウィッチ師団と相対するためにサローで宿営し、デスピノイ師団の中心はブレシアに駐留し、ダルマーニュ旅団の前衛はレッツァート、デスピノイの副官であるエルビンの分遣隊はネーヴェ(Nave)で宿営した。

 ボナパルトはカスダノウィッチを再侵攻できない位置にまで撤退させる必要性があると考え、3日夜の間にブレシアのデスピノイに、翌朝に再攻勢をかけるよう命令した。

 マッセナは病で倒れたソーレの後を引き継いだギウを支援するために師団からサン・ティレール准将に部隊を与えサローに向かわせた。

 そしてギウとデスピノイには、4日にマッセナがベディッツォーレ(Beddizole)へ前進するのと同時にカスダノウィッチ師団がいるであろうガヴァルドへ攻勢をかけるよう命令した。

◎マッセナの計画

 このマッセナの計画はガヴァルドのカスダノウィッチ師団を包囲殲滅することが目的だった。

 しかしロナートでのオクスカイ旅団の敗北とフランス軍の攻撃的な機動によりカスダノウィッチは早い段階でイドロ湖周辺まで撤退する決定を下していた。

 マッセナが命令を下した頃には既に撤退準備を始めていた。

 そのためカスダノウィッチ師団の多くがマッセナの包囲計画から逃れることができた。

◎カスダノウィッチ師団の退却行

 4日午前2時頃にはオット旅団とロイス旅団はサローとガヴァルドの間に位置しており、キエーゼ川を渡りノッツァへ向かっていた。サッビオ(Sabbio)、バルゲ(Barghe)、ノッツァ(Nozza)を占領し連絡線を確保するために2個大隊に先行させていた。

 そしてスポークは後衛を担当した。



後衛スポーク旅団の分断と最後衛の形成(ヴォバルノでの戦闘)

 スポーク旅団は6個大隊で後衛部隊を形成し、その内3個大隊は歩兵だった。

 スポークは3個歩兵大隊でヴォバルノ周辺のキエーゼ川の流れている隘路を防衛させ、サローとガヴァルドの間に位置していた2個大隊に対し最後尾の部隊であるサン・テウゼービオへの道の前哨基地にいる1個大隊を集結させるよう命令した。

 しかしサローとガヴァルドの間に位置している2個大隊がスポークの命令を受け取ることは無かった。

 8月4日午前5時頃、サン・ティレールと合流し補強されたギウは、サローからガヴァルドへの道に配置されていたオーストリアの部隊を正面から攻撃し、サン・ティレールは山を登り右側を迂回しヴォバルノを脅かしてオーストリア軍の退路を遮断する動きを見せたのである。

◎ギウによるオーストリア後衛部隊の分断

 この動きによりスポークは最後尾の大隊を待つ時間を失い、サローとガヴァルドの間に位置している2個大隊とも分断され撤退を余儀なくされた。

 この分断が後にボナパルトを窮地に陥れることになる。

 スポーク将軍がヴォバルノに到着したとき、橋の防衛を担当する2つの部隊が道路を支配する位置をすでに占領していたフランス軍の軽歩兵と不利な戦闘を行っていた。

 スポーク旅団の歩兵大隊はおそらく孤立しており、かなりの損失を伴ってキエーゼ川を一部は泳いで、一部は浅瀬で渡って逃亡した。

 そしてサローからガヴァルドへの道でギウ旅団と戦闘を行っていた2個大隊はノッツァへの後退を諦め、ガヴァルドへ後退した。2個大隊はそこで最後尾の大隊と分遣隊と合流し約2,000人の3個騎兵大隊、60騎の分遣隊、そして4門の大砲からなる最後衛を形成した。

ボナパルトの計略(兵法三十六計 第二十九計:樹上開花)

 最後衛はクノール(Knorr)大佐が指揮を執り、今後の方針を決めるためにある種の会議を開いた。

 最後衛がカスダノウィッチ師団本体と合流するための北方への道はすべてフランス軍によって遮断されており、残る選択肢は南方しか無かった。フランス軍の防衛状況は不明だがポンテ・サン・マルコを突破しロナートとカスティリオーネを通過しヴルムサー本体と合流するのである。

◎最後衛指揮官クノール大佐の計画



 クノールはヴルムサーと合流することを決定し、ポンテ・サン・マルコへ行進した。

 途中、ポンテ・サン・マルコを防衛していたフランス分遣隊を取り除き、ロナートを視界に収めた。

 前衛騎兵はロナートが約300人のフランス兵により占領されていることをクノールに報告した。

 8月4日早朝、ボナパルトはロナートにちょうど到着したところだった。

 実際のところ、ロナートに到着したばかりのボナパルトの本部を守るものはこの300人しかいなかった。

 ヴィクトール旅団はブレシアへの途上であり、ロナートの300人の他は隣の位置に歩兵が、その後ろに砲兵と騎兵がおり、すべてを合計しても1,500人ほどしかいなかった。

 クノール大佐はそこにフランス軍総司令官がいるとは知らずロナートの指揮官に使者を送り降伏勧告を行った。

 ここで降伏してしまった場合、すべてが水泡となり消えてなくなってしまう。しかし、ボナパルトの元には300人の兵力しか無く、ロナートを防衛したとしても僅かな時間で降伏に追い込まれてしまうことは目に見えていた。

 ボナパルトはベルティエと相談し、とある計略を用いることにした。

 この時がボナパルトにとってガルダ湖畔の戦いにおける最大の窮地であり、自らの運命がかかった最大の賭けを行った時だった。

 ボナパルトは使者を受け入れ、クノール大佐へ降伏勧告を行うためにその使者を送り返した。

 ボナパルトはクノールに、「ここにフランス軍の全軍がおり、8分以内に降伏勧告を受け入れ武装放棄しなければ殲滅する」旨を伝えた。

 クノールはフランス総司令官の元に寡兵しかいないはずがないと思い、ボナパルトに降伏した。

 そして降伏し武装放棄してからフランス軍の数が少ないことに気付くことになる。

 ボナパルトは自らクノールの元に赴き武装解除させたと言われている。

 ボナパルトが最大の窮地を脱した瞬間だった。

 同時に8月3日のロナートの戦いで捕虜となったピジョン将軍が解放された。

 ここでボナパルトは「兵法三十六計」の第二十九計である「樹上開花」を使用している。

 自分を実際以上に強く見せかける計略である。

 樹上に咲いている花は、実際以上に大きく見えることが多いことから「樹上開花」と名付けられている。



カスダノウィッチ師団完全撤退

 8月4日に行われたヴォバルノでの戦闘の後、ギウとサン・ティレールはキエーゼ川を越えてオーストリア軍を追撃することは無かった。

 カスダノウィッチ師団は8月6日までにサッビア渓谷を抜け、ストロ(Storo)村を通過しコンディーノ(Condino)へ撤退し、ロイス旅団以外の師団を集結させた。

 ロイス旅団約3,000人はロッカ・ダンフォ(Rocca D'Anfo)とロドロネ(Lodrone)の間にあるイドロ湖の谷でイドロ湖の出入口の防衛を任されていた。

◎イドロ湖周辺に撤退したカスダノウィッチ師団の位置

 オーストリア軍が駐留中に暴行を受け略奪されたサロー近郊の住民はフランス軍を歓迎したと言われている。

 カスダノウィッチがしばらくの間再侵攻してくることは無いことを確信したボナパルトは、午後にカスティリオーネに赴き、オージュローに熱烈にハグとキスをした。

 「君は正しかった。昨日、私は本当の友を認識した」とボナパルトは言った。

 よく持ち堪えてくれたという意思表示であるとともに、並み居る将軍達が撤退を叫ぶ中で交戦論を貫いたオージュローの勇敢さに敬意を表したのである。

 それからオージュローに同行を求めて前日(8月3日)の戦場を訪れた。リプタイ旅団から受けた損害とイタリア方面軍全体の位置関係を確認し、オーストリア軍がソルフェリーノとカヴリアーナの山を占領しているのを見た。

 「我々は今日休まなければならない。そして明日(8月5日)、我々は敵を粉砕し終える。私は退却する軍に降格を命じるだろう」

 そう言ってボナパルトは全軍に休息を命じた。



決戦への準備(フランス軍側)

 1796年8月4日夕方、マントヴァの熱病によって師団長不在となったセリュリエ師団は2個旅団でクレモナとピアチェンツァとの連絡を確保するためにマルカリア周辺に駐留していた。

 マラリア熱により戦線離脱したセリュリエ中将に代わり暫定的に師団を指揮していたガルダンヌはブレシアからマントヴァへの道を封鎖しつつグイディッツォーロに移動し、ボナパルトが正面から攻撃している間にさらに前進するよう命じられた。

◎セリュリエ師団への命令

 実際のところボナパルトにとってこのセリュリエ師団が命令通りに実行できるかどうか確信が持てなかった。

 そのためボナパルトはオージュロー師団をカスティリオーネの前に2列に配置し、カスティリオーネの前哨戦の後に病に伏したキルメインに代わってボーモント将軍に右翼の予備部隊の指揮を取らせた。

 もしセリュリエ師団が命令通りに実行できなかった場合、ボーモント騎兵隊がその役割(ヴルムサーを背後から襲撃する役割)を担うのである。

◎ナポレオンの作戦①:セリュリエ師団が到着できた場合

◎ナポレオンの作戦②:セリュリエ師団が到着できなかった場合

 デスピノイはブレシアからいくつかの大隊をカスティリオーネの戦場へ移動するよう命じられ、マッセナ師団は左翼を形成し一部は列に並べ、一部はカステル・ヴェンツァゴ(Castel Venzago)で極端な左翼を形成した。

 戦場から離れた後方に位置するカステル・ヴェンツァゴに兵力を配置したのは、ペスキエーラ要塞がオーストリア軍の勢力下に置かれたことによりオーストリア軍が後背から進軍して来た時に食い止める目的と正面のオーストリア軍に対して予備部隊がいることを見せて警戒させ、誘導することが目的であると推測できる。

 かくしてフランス軍は8月4日夜から8月5日未明にかけてカスティリオーネにオージュロー師団とマッセナ師団合わせて約22,500人を集結させ布陣を整えた。



決戦への準備(オーストリア軍側)

 カスダノウィッチ師団の撤退によりマントヴァ駐屯軍を除いたオーストリア全軍は約33,000人に減少していた。内訳は、ヴルムサー本体約23,000人、ペスキエーラ要塞封鎖の任務に当たっているバヤリックス旅団約5,000人、左翼メサロス師団約5,000人である。

 総司令官ヴルムサーはマルカリア周辺にセリュリエ師団がいることを把握しており、メサロス師団にリヴァルタに配備した部隊を加わえてマントヴァ守備隊と協同でカステッルッキオ(Castellucchio)のフィオレラ旅団の前衛部隊を追い出すよう命じた。

 しかしマントヴァ守備隊はフランス軍の攻囲により弱体化しておりメサロスを支援することができず、オリオ川の端に位置しているセリュリエ師団本体によって押し戻された。

◎セリュリエ師団 VS メサロス師団



 これによりメサロスはヴルムサーとの合流の道を断たれ、本来の目的と考えられているセリュリエ師団の動きを封じることさえできなくなった。

 ヴルムサーはさらにペスキエーラをミンチョ川左岸側で封鎖しているバヤリックス旅団に対しペスキエーラ要塞への再攻撃を命じた。

 そしてペスキエーラを勢力下に置いた後、麾下のヴァイデンフェルト(Weidenfeld)将軍に4個大隊でゴーイトのミンチョ川右岸側を封鎖するようヴルムサーから命令を受けた。

 バヤリックスは5日の夜明けまでの間にペスキエーラ要塞の一部を勢力下に置いて右岸側を封鎖し、ヴァイデンフェルトをミンチョ川右岸側からゴーイト経由でソルフェリーノに向かわせた。

※ペスキエーラ要塞はオーストリア軍の勢力下に置かれておらず、ヴァイデンフェルトはミンチョ川左岸側をゴーイトに向かって行軍したという説もある。

 その頃、マントヴァ周囲の掃討命令でゴーイトを占領しマントヴァに戻ったビカソヴィッチ旅団はカスティリオーネのヴルムサー本体と合流するよう命令を受けカスティリオーネに向かった。

 この日、ヴルムサーは自軍をソルフェリーノを見下ろす要塞であるロッカ・ディ・ソルフェリーノ(Rocca di Solferino)周辺に集結させた。

 こうしてヴルムサーはを集結させた19個歩兵大隊と10個騎兵大隊を2列に編成し、左翼を標高約90mほどの小丘であるモンテ・メドラノ(Monte Medolano)に、右翼をソルフェリーノ周辺の山に配置し、中央の後方に本部を置いた。

 その兵力はマントヴァからの増援であるビカソヴィッチ旅団も合流し約25,000人となった。

 ヴルムサーの作戦は、バヤリックス麾下のヴァイデンフェルトをゴーイト経由でソルフェリーノに向かわせたことからフランス軍の後背を突くという考えは無く、ヴルムサー本体をヴァイデンフェルト、マントヴァ駐屯軍、メサロス師団などで強化していくことにより数的優位を築き上げ、フランス軍を圧倒していくというものだったと考えられる。

 そしてモンテ・メドラノに堡塁を築き上げ左翼を保護したことから、オーストリア軍左翼側は防衛、中央と右翼でフランス軍を圧倒していく計画だったのだろう。

 そしてその夜、ヴルムサーはカスダノウィッチ師団がイドロ湖方面へ完全に撤退したことを知らされることになる。