モンテノッテ戦役 04:ヴォルトリの戦い Montenotte campaign 04

ヴォルトリの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約3,000人~4,000人 約200人
オーストリア 約6,200人~7,200人 約50人

ヴォルトリの戦いBattle of Voltri

 1796年3月31日、ボーリューはピジョン旅団排除のために南下命令をピットーニ少将、セボッテンドルフ少将に下した。

 ピットーニ少将麾下約3,000~4,000人はジェノヴァ共和国に侵入しボケッタ峠を保持し、セボッテンドルフ少将麾下約3,200人は総司令官ボーリューとともにマゾーネを保持した。

 4月9日、ボーリューはオーストリア軍右翼を預るアルジャントー少将に翌日にモンテノッテを経由しサヴォナを攻撃せよという内容の書簡を送った。

 そして、ピットーニにジェノヴァを経由しヴォルトリに向かうように指示し、セボッテンドルフにはボーリューとともにマゾーネから出発し、山中に散らばっているフランスの前哨基地を攻略しながらヴォルトリに向かうように指示を出した。

 セボッテンドルフの行動計画はマゾーネから部隊を3つ形成し、右はブリック・デル・デンテを攻撃し南下しながらヴォルトリに向かう。中央はフランス部隊を撃破しながらメレを攻撃しヴォルトリへ向かう。左はアクアサンタを攻撃し中央とメレで合流しヴォルトリへ向かうというものだった。

 ピジョン少将はオーストリア軍が迫る中、病に臥せ、セルヴォニ少将に指揮権を渡した。

 4月10日朝、ピットーニの部隊はボケッタ峠からジェノヴァ方面へ進軍。セボッテンドルフの部隊は計画通りマゾーネから3つに分かれ、中央はセルヴォニの部隊を撃破しながらメレを目指し、左はアクアサンタを攻撃し、右はブリック・デル・デンテを攻撃した。

 この攻撃の時間はイギリス地中海艦隊へ伝えた時間よりも12時間早かった。

 そのためヴォルトリからサヴォナまでの海岸沿いの街道が見渡せる位置で待機していたイギリス地中海艦隊の隻眼ホレーショ・ネルソン戦隊司令官はヴォルトリの戦いには参加することができなかった。

 防衛をしていたセルヴォニは奮闘したが、数的劣勢により見切りを付けメレに後退した。

 セボッテンドルフがメレに迫り、メレの東にあるアクアサンタからもオーストリア部隊が迫っていると知ったセルヴォニはメレを放棄しヴォルトリに後退した。

 ピットーニの部隊はジェノヴァの西にあるコルネリアーノを強力に攻撃した。

 途中、約250人の部隊を分離しプラ方面に南下させた。この約250人の部隊はピットーニ本隊の右を警戒させるため、そしてコルネリアーノにいるフランス部隊の後方を突くために分離された。

 コルネリアーノにいたセルヴォニ少将麾下の一部隊はピットーニからの激しい攻撃の中、ペグリまで後退した。

 ピットーニはコルネリアーノを手中に収めると退却していったフランス部隊を追い、海岸沿いを通りヴォルトリに向かった。

 ペグリのフランス部隊もピットーニの部隊の攻撃を受けるとヴォルトリに撤退した。

 セルヴォニ率いるフランス軍の退却は規律を保ち、抵抗しつつ全部隊ヴォルトリまで退却した。

 そして、日が落ちたことによりオーストリア軍の攻撃は止まった。

 4月10日夜、ピットーニがヴォルトリに攻撃を仕掛け、セルヴォニは夜闇に紛れて撤退した。オーストリア軍はヴォルトリを手中に収め、ピットーニとセボッテンドルフの部隊は合流した。

 オーストリア軍中央及び左翼の戦略目標は達成され、ヴォルトリの戦いはオーストリア軍の勝利で幕を閉じた。

 ヴォルトリはナポレオンが引き上げるかどうかを一考するほど重要な地点では無く、セルヴォニもそのことをよく理解していたこと、オーストリア軍との兵力差が開きすぎていたことにより退却の判断も早くでき、撤退もスムーズだったのではないかと考えられる。

 しかし、いくら撤退がスムーズだったとしても、もしボーリューがイギリス地中海艦隊に伝えた時間に攻撃していたらセルヴォニ旅団はネルソンに海岸線の退路を断たれ降伏していただろう。