バッサーノの戦役 06:第一次バッサーノの戦い
Battle of Bassano 06

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロヴェレトの戦い:約32,000人
第一次バッサーノの戦い:約22,000人
ロヴェレトの戦い:数百人
第一次バッサーノの戦い:約400人
オーストリア ロヴェレトの戦い:約14,000人
第一次バッサーノの戦い:約8,100人
ロヴェレトの戦い:7,000人以上(死傷者と捕虜)、大砲28門、軍旗7旗
第一次バッサーノの戦い:死傷者約600人、捕虜約3,000人、大砲35門、軍旗5旗

第一次バッサーノの戦いの前日

 1796年9月7日の午前中、ガヴァシーニ大佐率いる後衛旅団がプリモラーノでフランス軍と戦っている頃、カスダノウィッチは1個騎兵大隊と5個騎兵中隊とともにバッサーノに到着した。

 カスダノウィッチ師団はレーヴィコとプリモラーノに師団の大部分を残していたため、ひどく弱体化していた。

 そのためヴルムサーは再編成を行いカスダノウィッチ師団を補強した。

 日中、多くの逃亡者がブレンタ渓谷を下ってバッサーノに到着し、午後4時にヴルムサーはプリモラーノの喪失とフランス軍の接近について知らされた。

 ヴルムサーは続けて、ボナパルトがプリモラーノから大軍を率いてフェルトレ(Feltre)に向かったことの報告を受けた。

 もしフランス軍がフェルトレから南下しモンテベッルーナ(Montebelluna)に向かっているとしたら、オーストリア軍は退路を完全に遮断され、包囲されてしまう。

 そのためヴルムサーは、急ぎフェルトレ方面に偵察部隊を派遣した。

 ヴルムサーはさらにブレンタ渓谷へ向けて照準を定めていた大砲の列をバッサーノの後方に位置するチッタデッラ(Cittadella)とカステルフランコ(Castelfranco)の防衛のために移動させた。

 そして日が暮れる2,3時間前に、ロベルテラ(Rovertera)大佐率いる旅団約2,000人をカンポロンゴ(Campolongo)に配置し、バヤリックス旅団約2,000人をソラーニャ(Solagna)に配置した。

 そしてカスダノウィッチは約1,800人とともにバヤリックス旅団の後方に位置し、バッサーノのセボッテンドルフ師団の野営地に残された兵力は約700人の騎兵含む約2,300人だった。

 バッサーノ北のブレンタ渓谷の出口付近でフランス軍を待ち受ける計画だった。

◎第一次バッサーノの戦いにおけるヴルムサーの計画

Battle of Bassano

 この時、約10,000人の兵力を有するメサロス師団は本部をモンテベッロに置き、メサロス師団の前衛部隊はヴェローナのフランス守備隊へ向けて発砲していた。

 オット旅団はそれを支援するためにヴィラノヴァ(Villanova)にいた。

 メサロスはこの日、ロヴェレトとカッリアーノでの出来事を知らされた。

 翌8日、メサロスはいくつかの懸念を抱きながら右脇腹を分遣隊で覆った。

第一次バッサーノの戦い

 9月8日午前7時頃、フランス軍はロベルテラ旅団とバヤリックス旅団の前に到着した。

 ボナパルトとしてはメサロス師団が到着する前に戦いを終わらせる必要があり、短期決戦を望んでいた。

 フランス軍はブレンタ川の両岸から軍を南下させた。

 オージュロー師団は、マッセナ師団との連携のために右岸側を進ませた第4半旅団を除いたすべての部隊でカンポロンゴの左岸側を攻撃した。

 ロベルテラ旅団のクロアチア人部隊はカンポロンゴで激しい抵抗をしたが、オージュロー師団4番半旅団はロベルテラ旅団の左翼の山側に移動することに成功し、マッセナ師団はカンポロンゴを右岸側から攻撃した。

 その後、オージュロー師団本体は突撃を行いロベルテラ旅団を四散させた。

 逃亡するロベルテラ旅団の追跡命令がミュラに下り、ミュラは騎兵隊を率いてロベルテラ大佐を含む多くの捕虜を捕らえた。

 同様の運命がソラーニャを防衛していたバヤリックス旅団を待っていた。

 オージュロー師団がソラーニャに攻め入り、バヤリックスはバッサーノへの退却中にフランスの1個大隊に退路を遮断されて捕虜となった。

◎バッサーノの戦いの序盤

 バヤリックス旅団の後方にいたカスダノウィッチはバヤリックス旅団の残存兵とともにバッサーノ方向に退却し、セボッテンドルフがブレンタ渓谷の出口に配置していた歩兵部隊に保護された。

 町に警鐘が鳴り響き、カスダノウィッチはバッサーノの野営地に入った。

 ヴルムサーはセボッテンドルフに歩兵とともに橋を渡りマッセナを捕らえるよう命じ、セボッテンドルフはマッセナ師団の元に向かった。

 しかし秩序を失ったロベルテラ旅団が右岸側からバッサーノに向かって殺到し、逃亡者たちはセボッテンドルフ師団を混乱させた。

◎セボッテンドルフ師団の混乱とバッサーノからの撤退

 その結果、セボッテンドルフは対岸へ渡れず、町と橋の防衛すら困難となった。

 1個歩兵大隊、1個騎兵大隊のみでブレンタ渓谷を抜けたオージュローはヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)の手前まで行軍し、オーストリア軍に対し大砲の砲撃とマスケット銃での射撃を行った。

※最初にブレンタ渓谷を抜けた1個歩兵大隊はランヌ大佐が率いていたと考えられ、ランヌ大佐はこの戦いで負傷しながらも奮戦した。

 セボッテンドルフ師団はバッサーノの町を通りチッタデッラへ後退した。

 その後、マッセナとオージュローはヴェッキオ橋を守る大砲を鹵獲して占領し、オージュローはセボッテンドルフを追跡するために町を通り抜けた。

 セボッテンドルフ師団は自分たちが分断されようとしているのを見て、ヴルムサーの撤退を支援するためにオージュローの追撃部隊に対抗した。

しかしその抵抗も長く続かず、オージュロー師団の本体が近づいているのを見てチッタデッラへの道を手に入れるために戦った後に後退した。

◎セボッテンドルフ師団とカスダノウィッチ師団の後退

 カスダノウィッチ師団はセボッテンドルフを追いかけて退却していた。

 荷馬車は進むのが遅いため最短ルートを通ろうとし、その結果進むことも戻ることもできなくなり通りを封鎖していた。

 そのためカスダノウィッチ師団がセボッテンドルフ師団と合流することは困難を極めた。

 マッセナはカスダノウィッチ師団を追跡し、バッサーノから少し離れたところで先回りをして攻撃した。

 カスダノウィッチ師団は敗走し、ごく一部はチッタデッラに逃れ、多くはカステルフランコに逃れた。

 ヴルムサーはようやくチッタデッラに逃れて本部を移し、チッタデッラへ向かっている逃亡者を結集させ秩序を回復させた。

 しかしより多くの兵士はチッタデッラとカステルフランコの南に位置するパドヴァ(Padova)へ逃亡していた。

 荷馬車はカステルフランコへ向かい、部隊はチッタデッラに向かい、多くのオーストリア兵がフランス騎兵隊の手に落ちた。

 第一次バッサーノの戦いにおいてフランス軍は死傷者・捕虜などを合わせて約400人を失い、オーストリア軍は死傷者約600人、捕虜約3,000人、大砲35門、いくつかの弾薬ケース、32隻のボートと2人の船員、軍の手荷物の一部と軍旗5旗を積んだ約200台の荷馬車を失った。