マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月) 11 
Siege of Mantua ( July 1796 ) 11

マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約14,500人 不明
オーストリア 約14,000人 約500人以上

マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)の感想Impression

 このセクションでは「ブレシアの休戦」「トルトナの反乱」、「スフォルツェスコ城の攻略」、「教皇領への侵攻」、「ワームザー率いるオーストリア軍の脅威」、「マントヴァ要塞攻囲戦」を取り扱った。

 まずナポリと休戦を行ったことは意外と知られていない。「マッセナの回想録」ではミラノで締結したことになっているが「ブレシアの休戦」と言う。ミラノではなくブレシアで締結した可能性もある。

 この時ナポリ王国がオーストリア側に付いて徹底抗戦していれば、当時ナポリ王国は約30,000人の兵力を保有していたためこのマントヴァ要塞攻囲戦の後に行われれる「ガルダ湖畔の戦い」の時にナポレオンを打倒できたかもしれない。

 「トルトナの反乱」ではヴォーボワ旅団の前衛部隊を率いたミュラとランヌが反乱を鎮圧した。二人とも将来のナポレオンを支える元帥となる人物達である。

 この反乱はジェノヴァ共和国の策略によりナポレオンの足を引っ張ったわけであるが、ジェノヴァ共和国はナポレオンがイタリア方面軍総司令官に任命される前からフランス軍の配給を横領したりしていたので、昔からフランスの事をよく思っていなかった節がある。

 しかし陰謀が露見して以降、快進撃を続けるフランス軍に逆らうことはできなかった。

 「トルトナの反乱」を鎮圧してから補給路が回復し、ミラノのスフォルツェスコ城へ大砲、砲弾、砲兵を送ることができるようになった。

 ナポレオンはオージュロー師団とヴォーボワ旅団を麾下に「教皇領への侵攻」へと向かう。それとほぼ同時期にデスピノイ旅団が「スフォルツェスコ城の攻略戦」を繰り広げた。

 ナポレオンはデスピノイ少将がスフォルツェスコ城を陥落させると大いに喜び、中将への昇進をフランス政府に要請した。

 ナポレオン自身は休戦を行ったパルマ公国を通過し、主人が逃亡したモデナ公国を占領し、オージュロー師団に占領させたボローニャへ向かったのであるが、この時、実はオージュロー師団の動きが不明瞭なところがある。

 それはオージュローがマントヴァ要塞の攻囲をダルマーニュと交代したのは6月12日なのだが、「マッセナの回想録」では「ロマーニャ」へ向かったとある。「ロマーニャ」はボローニャのある州である。しかし、同じ「マッセナの回想録」にはオージュローはロベルト将軍をレニャーゴに残しボローニャへ向かい、教皇領での反乱を鎮圧した後にレニャーゴへ帰ったことになっている。他の資料を見てもオージュローはレニャーゴからボローニャへ向かい、レニャーゴに帰っている。そしてオージュロー師団がいつレニャーゴに移動したかは書かれていない。そのため本文では6月12日の移動目標をレニャーゴとした。

 可能性としては、マントヴァ要塞の南にあるボルゴフォルテでポー河を渡河していることから、レニャーゴにマントヴァ包囲の部隊の他にオージュロー麾下の部隊がおり、レニャーゴではロベルト少将を残し、マントヴァではダルマーニュと交代してボローニャへ向かった可能性もある。

 今後、新たな資料を発見できることに期待したい。

 その後、教皇と休戦してふんだくることができたことにより総裁政府のご機嫌取りもでき、後方の憂いな無くワームザー率いるオーストリア軍とカント・ディール率いるマントヴァ要塞駐留軍と向き合えるようになる。

 1796年7月のマントヴァ要塞攻囲戦は、マントヴァ要塞を包囲したことは有名だが、その中で激しい戦闘が繰り広げられていたことはあまり知られていない。

 確かに包囲初期(6月初旬)については大砲も砲弾も砲兵も足りず本格的な「攻囲」とならず、さらに6月12日にオージュロー師団がマントヴァ要塞の包囲から離れたことにより兵力も足りずに「封鎖」をせざるを得なくなった。しかしミラノのスフォルツェスコ城を6月29日に陥落させて以降、続々とマントヴァ要塞包囲軍に大砲、砲弾、砲兵が到着し7月中旬から本格的な「攻囲」が始まった。マントヴァ要塞を包囲するフランス軍の砲台も何度も破壊されては修復して応戦し、マントヴァ要塞側も食料を得るために出撃して白兵戦を繰り広げつつ、フランス軍の砲撃によりマントヴァ要塞が真っ赤に染まる激戦を繰り広げた。

 マントヴァ要塞の紹介のところで熱病について触れたが、夏には熱病が発生するため、マントヴァ要塞駐留軍、フランス軍ともに熱病(マラリア)に感染した兵士が多数出たのではないかと推測する。

 本文で「赤玉焼夷弾」という砲弾があったが、これは熱して赤くなった砲弾のことであり、赤玉焼夷弾に触れた可燃物をその熱によって燃やし火災を起こす代物である。これによりマントヴァの街は火災を起こし赤く染まった。現代では戦争犯罪であるが、当時はそのような概念は無い。

 マントヴァ要塞攻囲戦を調べていくに当たって、本文とデイヴィッド・ジェフリー・チャンドラー著 「ナポレオン戦争 第一巻」の相違点が存在する。

 相違点は、本文ではモデナ公国のウルバノ要塞は無血開城されているが、「ナポレオン戦争 第一巻」では戦って奪い取ったことになっている。そして、7月中旬の「ミリアレット塹壕再奪取作戦①」(mantua1796_7_08)で本文では「減水」により作戦が実行できなかったとなっているが、「ナポレオン戦争 第一巻」では「増水」となっている。

 もし気になるようなら調べてみてほしい。

 そして時は過ぎ去り、ナポレオンはワームザー率いるオーストリア軍が南下し始めるまでにマントヴァ要塞を陥落させることは遂にできなかった。

 あと一歩で陥落できたのではないかと思うが、ワームザーが早かった。

 この後ナポレオンとワームザーはガルダ湖畔(カスティリオーネの戦い)で相まみえることになる。

 最後に、将来の宿敵となるアーサー・ウェルズリー(将来のウェリントン公爵)は年功序列により5月3日に大佐に昇進し、6月にインド征服戦争の指揮官に任命され、カルカッタへ向けて出港した。ちなみに当時のイギリスには階級を購入することができる慣習があり、アーサー・ウェルズリーは1793年に少佐と中佐の階級を購入している。ナポレオン同様アーサー・ウェルズリーも戦勲により昇進したと思っていたが意外である。

参考文献References

André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第二巻」
デイヴィッド・ジェフリー・チャンドラー著 「ナポレオン戦争 第一巻」
アンドレ・マルロー編、小宮正弘訳 「ナポレオン自伝」
その他