ロディ戦役 08:ロディの戦い Lodi Campaign 08

ロディの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約17,500人 約500人
オーストリア 9,627人 約335人
捕虜:約1,701人

開門

 午後5時頃、メニエル師団の前衛部隊がロディに到着した。

 マッセナはロディの城壁と門を盾としてすべての歩兵で密集縦隊を形成し、ダルマーニュ麾下のデュパスが先頭を務めた。ダルマーニュの選抜部隊の後ろにセルヴォニの部隊が続いていた。(その数おおよそ7,500人~8,000人と思われる。)

 橋は非常に長く、その長さの3分の1(約80m)が左岸の陸地にあった。所々、砂の中州が顔をのぞかせている浅瀬は約60m、川の深い部分は約60mほどと推察される。

 マッセナの合図でロディの門が開き、各部隊が門をくぐり橋に向かって移動した。

 資料には門を開ける記述は1回しかないので、この門は「アッダ門」だと考えられる。

 ロディの町はオーストリア軍の大砲の射程内であるが、狙われなかった理由は城壁とアッダ門のカーテンがあって発見されなかったからだと考えられる。

 そのように考えると、大砲の列はアッダ門からアッダ川の間に展開していたと推測できる。

ロディ橋への突撃

 午後6時頃、マッセナが形成したフランスの密集縦隊が橋に到着するとセボッテンドルフの配置した14の大砲からの砲撃はさらに苛烈になり、行進するフランス軍を躊躇させた。

 この躊躇による空白の時間はすべてを台無しにする可能性があった。

 マッセナ、ダルマーニュ、ベルティエ、セルヴォニ、ランヌ等、上級将校達が先頭に躍り出て「共和国万歳!(Vive la République!)」の叫び声とともに躊躇していた兵士達を先導した。

 橋を3分の1ほど渡ったところで、兵士達は左岸が浅いことに気付いた。兵士達は左岸の砂の中州へと滑り降り、腰まで水中に浸しながら戦い左岸の際を獲得した。

 橋を通過する部隊の前進を容易にするために、砂の中州に広がったフランスの部隊はオーストリア軍に向かって発砲した。

 橋を通過する部隊はブドウ弾(キャニスター弾の可能性有り)に勇敢に立ち向かい、砂地に降りた部隊に支援され、橋の残りの部分を走り抜け、抵抗するものをすべて倒し、オーストリア砲兵に向かって前進した。

 橋を通過した部隊は砂地に広がった部隊の支援を受けながら、オーストリア軍の前衛を蹴散らし、塹壕に飛び込み、砲兵を射殺した。

 同時に騎兵隊長のオーデナー中佐の部隊は300頭の馬とともにアッダ川を泳ぎ始めた。

セボッテンドルフによる予備軍の投入と戦線の拮抗

 セボッテンドルフは予備を投入した。

 フランス軍はこの予備の投入によって前進を阻まれ、側面からも攻撃を受けた。オーストリアの騎兵隊はその突撃によってフランス軍を大きく後退させ、ロディ橋まで押し込んだ。

 橋の入り口付近にはフランス軍が最初にロディ橋を渡って突撃したときの負傷者が横たわっており、オーストリア軍は負傷者を殺害した。

 新たな部隊の攻撃により態勢が崩れ、フランス軍にとって苦しい時間が続いた。

 フランス軍は何とか持ちこたえ、戦線は拮抗したかのように見えた。

ジュベール旅団の到着と前線の押し上げ

 午前4時にピアチェンツァを去ったマッセナ麾下メニエル師団所属のジュベール旅団(約1,500~2,000人と思われる)がロディに到着した。

 ジュベールの部隊はピアチェンツァからロディまでの約33㎞を歩き疲れ果てていたので、ロディの町で休憩する必要があった。

 ジュベールは少し休憩した後、橋を渡り戦列に加わった。

 これによりフランス軍は射撃・砲撃戦において優勢となり、前線を押し上げた。

マッセナ将軍による両翼の伸長

 マッセナはダルマーニュの選抜部隊に中央を任せ、セルヴォニの部隊をオーストリア軍の左側面を突くようにカディラナへ向かわせ、到着したばかりのジュベールの部隊をオーストリア軍の右側面を突くようにマルギローネを経由しリオロへ向かわせるよう命令した。

 マッセナはジュベールの到着によって優勢となったため、両翼を伸ばし退路を脅かすと同時にコッリ、ボーリューとの連絡線を遮断するように機動させたのである。

 この瞬間、川を泳ぎ切ったオーデナー騎兵隊がカッサーノへの道の近くに現れた。

 オーデナーはオーストリア軍の右側面に突撃し、砲手をサーベルで切りつけ、2つの大砲を取り除いた。オーデナーの突撃によってオーストリア軍の右翼は規律を失い、フランス軍は前進した。

 もしキルメインやボーモントが浅瀬を探しに行かずオーデナーのように左岸に渡っていたら、もしくは浅瀬を渡りモッツァーニカに到達し、オーストリア軍の右側面を攻撃できていたとしたら、その時点で勝敗は決していただろう。

 しかし、ボーモントもキルメインもこの戦場に現れることは無かった。

オージュロー師団の到着

 セボッテンドルフはこのオーデナー騎兵隊の突撃によって一時右翼が崩れかけたが押されながらも立て直し、戦線を維持した。

 しばらくしてオージュロー師団約6,000人が到着し、その前衛部隊を率いるルスカは軽騎兵隊でオーデナーのようにアッダ川を泳いだ。

 ルスカ麾下の軽騎兵隊はオーデナーとは反対側のピッツィゲットーネ方面を渡り、オーストリア軍の左側面へ突撃した。

 この時、拮抗していた戦線はバランスを崩した。

 フランス軍の勝利が決定した瞬間だった。

セボッテンドルフ師団の撤退

 セボッテンドルフは戦線維持は困難と考え、ルスカの騎兵突撃によって分断された部隊の秩序を再確立させた。

 そして、両翼を伸ばしたフランス軍の包囲を避けるためにクレマへの撤退を命令した。

 コルテ・パラージオに配置したニコレッティ麾下3個大隊、2個騎兵中隊約1,958人がフォンタナで合流し、フォンタナに配置していたナポリ軽騎兵隊を含む8個騎兵中隊約1,092人に3個大隊と6個の大砲を加えて殿(しんがり)を形成した。

 殿の部隊はフォンタナを通って追撃しようと追ってくるダルマーニュ、マッセナ麾下の部隊に対して攻撃を加え、順番に後退していった。そして、フランス軍の追撃を撃退するために頻繁に向きを変えた。

 ダルマーニュ、マッセナ麾下の部隊はクレスピアティカまで追跡したが疲れ果てており、それ以上の追跡を断念した。健在な部隊は戦闘に参加できなかったボーモント騎兵隊のみだった。

 ボーモント騎兵隊は結局のところオーデナーを模倣してアッダ川を泳ぎ左岸に到着した。そしてオーストリア軍の追跡に入った。ダルマーニュ、マッセナ麾下の部隊を追い越し、クレスピアティカに向かった。

 ボーモントは疲れ果てて脱落したオーストリア軍の兵達を捕らえ、オーストリアとナポリの騎兵隊とせめぎ合いながら大砲や物資を奪った。

 セボッテンドルフはベンゾナへ後退しクレマへ後退した。

 ボーモントは午後9時頃までセボッテンドルフを追跡した。

 クレマは中立国であるヴェネツィア共和国の領土であり、クレマはセボッテンドルフに対して門を閉ざした。

 セボッテンドルフはクレマに入らず横を通り過ぎ、ボーリューとの合流のためにクレモナを目指した。

 キルメインについては夜が明けるまで浅瀬の探索から戻らなかったため、ついに追跡にも参加することは無かった。

 このロディの戦いで、オーストリア軍の死者153人、負傷者182人、捕虜1,701人。フランス軍は死傷者およそ500人。負傷した士官はマッセナの副官であるラトゥールのみだった。

 そして、フランス軍は勇名を馳せていたオーストリア軍将校ビカソヴィッチ准将を討ち取ったと歓喜に沸いたが、それはデマだったということが発覚した。

 このロディの戦いの数日後、ナポレオンは自身の運命について天啓を受け、野心を抱いたと言われている。