【詳細解説】サオルジオの戦い【ナポレオン】Battle of Saorgio
サオルジオの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | 約20,000人 | 約1,500人 |
サルディーニャ王国 オーストリア |
約8,000人 | 約2,800人 |
※この数字には、セルヴォニの部隊、ムーレット師団、アルジャントー旅団、オネリア守備隊は含まれていない。あくまでサオルジォ近郊で戦った部隊の数字である。
ナポレオンが総司令官として脚光を浴び始めたモンテノッテ戦役に繋がる戦いの1つが「サオルジオの戦い」です。
本記事ではイタリア方面軍砲兵司令官としてナポレオンが随行した「サオルジオの戦い」について時系列に沿って経過をまとめまています。出来得る限り網羅的にまとめましたのでナポレオンやサオルジオの戦いについて詳しく知りたい人や戦術好き、歴史好きな人は是非ご覧ください。
サオルジオの戦い 01 戦いに至るまでの両軍の状況
1793年、オーストリアのイタリア陸軍司令官であるデ・ヴィンスはフランス共和国が南フランス諸都市の反乱によりフランス共和国のイタリア方面軍が弱体化している隙に進軍し、ピエモンテ軍と協力して地中海沿岸にあるオネリア周辺までを勢力下に置きました。
ナポレオン・ボナパルト大佐の活躍によりトゥーロンの反乱を鎮圧したフランス革命軍は、オーストリア・ピエモンテ軍への反撃の機会を窺っていました。
トゥーロンの反乱の鎮圧の功績により少将に昇進したナポレオンはトゥーロン攻囲戦で負った太腿の傷を癒しながらマルセイユとコート・ダジュール周辺の沿岸警備と要塞化の任務を行い、1794年3月にイタリア方面軍砲兵司令官としてニースに赴きました。
詳細記事では、その他、サオルジオの戦いに至るまでのフランスのイタリア方面軍の状況と、対するオーストリア軍、ピエモンテ軍の状況を詳細に解説しています。
サオルジオの戦い 02 フランス軍の作戦計画
サオルジオの戦いにおいてデュメルビオン将軍等は、2人の派遣議員にお伺いをたてながらフランス政府に作戦の実行許可を貰いました。
計画された侵攻作戦は、海岸沿いに進軍してオーストリア軍を排除しオネリアを占領することによりジェノヴァとの交易航路の安全を確保することにより食糧危機と軍需物資不足を緩和し、サオルジオを中心としたピエモンテ軍の強固な防衛線の中でも弱い部分を突破することにより背後を衝き撤退を強いるという作戦でした。
サオルジオの戦いにおけるフランス軍の作戦の詳細や、相対するオーストリア・ピエモンテ軍総司令官デ・ヴィンスが考えていたであろう作戦について解説していますので、ぜひ詳細記事をご覧ください。
サオルジオの戦い 03 侵攻作戦の始まり
1794年4月5日、デュメルビオン中将は作戦計画に従い約43,000人の野戦軍から精鋭20,000人を選別し、予備軍含む4つの軍に分け進軍を始めました。
侵攻作戦は初めの内は順調に進んでいましたが、徐々に狂い始めました。
ロイヤ川を渡る予定だったマッカード師団が雪で遮られ足止めされたことにより、マッセナ師団は孤立しました。変わりやすい山の天候、寒さ、絶壁での作戦行動の中、マッセナ師団は作戦目標であるマルタ山の近辺の山岳地帯を占領しました。しかし、徐々に疲弊していきこれ以上の進軍は不可能となり、他の師団と連絡を取り合うこともできない状況に陥りました。
ナポレオンが同行したムーレット師団はオネリア守備隊に勝利し、順調に4月9日にはロアノにまで到達していました。
マッセナがムーレット師団と連絡を取り合うために部隊を後退させたことにより、当初の作戦計画は不可能となりました。
そのため首脳陣は作戦を変更せざるを得ない状況となりました。
サオルジオの戦い 04 作戦計画の変更とピエモンテ軍の策動
首脳陣は新たな作戦計画を立案しました。
その作戦計画は、雪解けを待つ間オルメア方面に攻め上り、ピエモンテ軍左翼を打ち破り、雪解け後にピエモンテ軍の防衛線を突破し後背を突くというものでした。
対するピエモンテ軍はフランス革命軍の動向を察したコッリ将軍が霧の中反撃に出て、マルタ周辺の山々を占領しているマッセナ師団隷下の部隊への奇襲を成功させました。
ピエモンテ軍左翼を担当しているアルジャントー将軍は約6,000の兵力を保有していましたが、フランス革命軍の脅威にさらされているであろう周辺地域に部隊を分散配置し、ムーレット師団に対抗しようとしていました。
サオルジオの戦い 05 ポンティ・ディ・ナーヴァ攻略とオルメア、ガレッシオの占領
1794年4月17日、ムーレット及びマッセナ師団約8,500人は、ポンティ・ディ・ナーヴァで待ち構えていたアルジャントー将軍率いる6個大隊約2,000~3,000人のピエモンテ軍左翼と戦い勝利を収めました。
ムーレット及びマッセナ師団は未だ健在なアルジャントー将軍率いるピエモンテ軍左翼を撃破するため、ポンティ・ディ・ナーヴァから撤退していったピエモンテ軍を追跡しオルメア方面に進軍しました。
アルジャントー将軍は兵力差のためチェバ、モンドヴィまで完全に後退しました。
4月18日、マッセナはオルメアのすぐ北東に位置するガレッシオを占領し、略奪により食糧を調達しました。
その後、マッセナ師団はコッリを撃破するべくマルタ ~ サッカレロ間の山脈へ向かいました。
ここからが「サオルジオの戦い」の始まりです。
サオルジオの戦い 06 サオルジオの戦いの始まり、ブルスレの死
1794年4月27日、マッセナの合図によりフランス革命軍全体がピエモンテ軍への攻勢を強めました。
フランス革命軍中央では前線を押し上げ、主攻さながらの戦果を挙げていました。
マッセナ師団はマルタ山とアルデンテ山に攻撃を仕掛けました。
マルタ山を担当したハンメル旅団は激戦の末、マルタ山のピエモンテ軍の拠点を占領しました。
アルデンテ山を担当したブルスレ旅団は、アルデンテ山へ向かう途中にあるピエモンテ軍の砦に対し、決死の攻撃を行いましたがなすすべも無く撃退されました。
2回目の突撃ではブルスレが直接指揮を執り突撃を行いましたが、指揮官であるブルスレが砦に到達する手前の急な斜面の麓で射殺されたため、ブルスレ旅団は浮足立って後退を余儀なくされました。
ピエモンテ軍司令官コッリ将軍はマルタの拠点を失い後背を突かれた場合、戦線を維持することが不可能となり、撤退すらもままならなくなると考えました。
そのためコッリ将軍は戦線を維持しながら後退するように各部隊に命令を出しました。
サオルジオの戦い 07 サオルジオの戦い終盤
1794年4月27日午後、マッセナ将軍はマルタで抵抗を続けているピエモンテ軍が徐々に後退していることに気付くとすぐにピエモンテ軍を追跡しマルタ山を通過しピエモンテ軍の背後を取りました。
しかしピエモンテ軍の只中にあるマッセナのの部隊は少数だったため、部隊の集結を急ぎつつ身を潜めました。
4月28日未明、ピエモンテ軍はタンドへ後退を続けていました。
マッセナは手元の4個大隊でラ・ブリガの高地を攻撃しました。
ラ・ブリガを防衛していたピエモンテ軍ラディカティ少将は勇敢に戦ったが戦死しました。
指揮官の戦死によりラディカティの部隊は撤退したが、ラ・ブリガでの奮戦によりピエモンテ軍は退路を断たれる事なく、後退する時間を得ることができました。
コッリ将軍はさらにタンドからリモーネへ後退しました。サオルジオの戦いの勝敗が完全に決した瞬間でした。
戦いの後、ナポレオンは戦勝を利用してアルプス方面軍と共同で行う新たな作戦計画を立案し認められました。
しかし、ライン方面での反攻作戦のためにアルプス方面軍から多くの兵力を割くことが決定され、ナポレオンが立案した計画は無期限延期となりました。
コラム
マッセナはナポレオンから「勝利の申し子(l'enfant chéri de la victoire )」と呼ばれたことから、その名前は様々なところで使用されています。
有名なところではクリスタルの高級ブランドであるバカラのワイングラスとして1980年に「マッセナ シリーズ」が販売開始され世界的な大ヒットとなり、現在でも世界中のセレブを中心に人気を集めています。
マッセナが軍人だったことから、フランスの戦艦の名前としても使用されていました。
日本でも競走馬に名付けられ、2013年~2015年の間に活躍しています。
このようにマッセナの名前は世界に広がっていますが、サオルジオの戦いで活躍したアンドレ・マッセナは、ニースで貿易商の子として生まれました。
ニースは、サオルジオの戦いの出発地点です。
そしてサオルジオの戦いはマッセナが将軍になって初めての勝利でした。
マッセナの生誕の地を出発地点として初勝利を収める。
何か運命的なものを感じますね。
参考文献References
André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第一巻」
デイヴィッド・ジェフリー・チャンドラー著 「ナポレオン戦争 第一巻」
その他