リヴォリ戦役 36:マントヴァ要塞の降伏とファエンツァの戦い
Rivoli Campaign 36

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

マントヴァ要塞の降伏

◎マントヴァの降伏

※1812年、イポリット・ルコント(Hippolyte Lecomte)画。ベルサイユ宮殿所蔵。
 降伏したオーストリア兵が武器を手放し連行されている様子。

 マントヴァ要塞の兵士達はおよそ28,500人ほどとみられ、生き延びるための資源をほとんど使い果たそうとしていた。

 ヴルムサーも食糧を確保しようと試みたが、すべて失敗に終わっていた。

 食糧は平均して1月28日分まで確保されていたが、ヴルムサー元帥はより長く生き延びるために1日1頭の馬を殺して与えた。

 司教であるペルゲン伯爵はマントヴァの住民に宗教的勅令を発し、彼らの良心に訴え、すべての物資を明らかにすることを最も神聖な義務とし、コカステッリ伯爵は個別に家を訪問して隠している食料を供出させ、まだ売り出されている食糧を公正な価格で購入し使用した。

 これらの措置によりヴルムサーがアルヴィンチに最後に送った使者が伝えた期間を越えて2月3日までの食糧を調達することができた。

 しかしこれ以上の食糧の調達はできず、2月3日の期限まであと5日と迫っていた。

 極限状態に追い込まれた元帥は、最終的に和平交渉に入ることを決意した。

 1月29日、元帥はマントヴァの4人の中将と要塞と守備隊の状況について詳細に話し合い、将軍達に次の質問に対しての書面による意見を求めた。

 1、要塞の降伏を遅らせる手段を知っているかどうか。

 2、もし知らない場合、フランス軍に降伏を申し出るべきかどうか。

 3、もし降伏を申し出る場合、どのような方法で交渉を行うことができ、どのような根拠でどのような条件を提示することができるか。

 1月30日、ヴルムサーは様々な確認を行った後、将軍達を召集して会議を開いた。

 そして全会一致で和平交渉を行うことが決定された。

 夜、ヴルムサーは捕虜交換という口実で副官であるクレナウ大佐を特使としてロヴェルベッラのセリュリエ師団本部に派遣した。

 クレナウ大佐はセリュリエ将軍自身から要塞からの撤退の話題を持ち出すまで待つように指示されていた。

 セリュリエはクレナウにマントヴァの状況について尋ねた。

 クレナウはマントヴァ要塞陥落までの資源を想定より多く伝え、マントヴァ要塞駐屯軍は救出の希望を失っており、元帥のその後の行動は条件次第であることを付け加えた。

 セリュリエはマントヴァ要塞駐屯軍の身の安全を約束し、クレナウはそのことをヴルムサーに伝えた。

 1月31日、セリュリエ宛の書簡をクレナウに持たせて送り出し、その中でヴルムサーは単純にマントヴァ要塞から去ることを提案した。

 セリュリエはこの事をボナパルトに伝えた。

 2月1日、ボナパルトはローマに対する遠征準備で忙しく、ボローニャで様々な手配を行い、今後の方針についてフランス政府に提案していた。

 しかし、ボナパルトはセリュリエからの知らせを受け取るとすぐにロヴェルベッラに向かい、クレナウが3度目にセリュリエの元に訪れた時、セリュリエの書斎でマントに身を包んで正体を隠して待っていた。

 話し合いの中でボナパルトはヴルムサー元帥に与える条件を書き、それからクレナウにその正体を明かした。

 ボナパルトはクレナウに条件の書かれた書類を渡し、「元帥が降伏を半月、1ヶ月、2ヶ月と躊躇したとしても彼は同じ状態にあるだろう」と伝えるよう指示した。

 ヴルムサーはこれ以上の交渉を行わず、2月2日、サン・アントニオで遂に降伏が行われた。

 マントヴァ要塞駐屯軍はマッジョーレ門を通り、端に武器と弾薬を置いた。

 ヴルムサー元帥は、自身と元帥の側近、及び200人の騎兵隊を含む700人の兵士を除いて完全な捕虜交換まで捕虜の身分となることを選択したのである。

 降伏文書は、オーストリア側はオットとクレナウによって署名され、フランス側は砲兵指揮官レスピナス(Lespinasse)将軍と工兵司令官官シャセループ(Chasseloup)将軍、包囲軍の師団長シャボー将軍によって署名された。

 そしてヴルムサー元帥とセリュリエ将軍によって批准された。

 この時ボナパルトはすでにボローニャの本部に到着し、様々な手配を行っていた。

教皇領への侵攻の開始とファエンツァの戦い

 2月1日、ボナパルトは1796年6月23日に締結した教皇との休戦協定を解除し、2月2日早朝、ヴィクトール師団とランヌ将軍率いる歩兵予備軍、合計約9,000人はボローニャから移動を開始した。

◎ファエンツァの戦い(カステル・ボロネーゼの戦い)

第二次教皇領遠征:1797年2月3日、ファエンツァの戦い(カステル・ボロネーゼの戦い)

 教皇軍はボローニャから近いイモラ(Imola)を見捨て、セニオ(Senio)川右岸の塹壕でフランス軍を待ち受けていた。

 この時、教皇ピウス6世はオーストリアに将軍の派遣を要請し、その結果モンテノッテ戦役時にピエモンテ軍を率いナポレオンと戦ったコッリ中将が派遣され教皇軍の指揮を執るために前線に向かっていた。

 コッリはフランス軍がボローニャに兵力を集結させていることを知ると兵士と民兵で構成される教皇軍の総数約10,000の内の約7,000人を少しづつファエンツァに集結させ、2月2日時点でセニオ川右岸の塹壕に集結していたのは3,000~4,000人ほどとなった。

 夕方に差し掛かり、ランヌ将軍がカステル・ボロネーゼ(Castel Bolognese)に到着し、前衛とともにセニオ川に近づくと橋の近くに設置された大砲が火を噴き、何人かのフランス兵が死亡した。

 ランヌ将軍は旅団を2隊に分け、1隊目にセニオ川を遡らせて教皇軍への迂回攻撃を命じ、2隊目に前進してセニオ川を渡り教皇軍が待ち受ける塹壕を攻撃するよう命じた。

 この時、乾燥した天候が続いたためセニオ川は浅くなっており、2隊目はセニオ川に入り銃剣で塹壕を攻撃した。

 そして2隊目が交戦している途中、1隊目が教皇軍の後方に現れて教皇軍の民兵を動揺させた。

 2隊目は教皇軍が乱れたのを見ると14門の大砲を奪い、ファエンツァに向かって敗走させた。

 伝説によると「ファエンツァの戦い」で教皇軍は大砲に豆を装填してブドウ弾のように発砲し、フランス軍がセニオ川に足を踏み入れただけで恐怖が蔓延して逃亡したと言われている。

 恐らく、教皇軍のあまりの不甲斐なさのためこのような伝説が生まれたのだと考えられる。

 ヴィクトール師団はさらに前進しファエンツァの町の前まで進軍した。

 ファエンツァの門は閉じられ、警鐘が鳴り響いた。

 しかし教皇軍はファエンツァの民衆に何も指示することなくファエンツァから急いで撤退した。

 門は数発の大砲によって粉砕されフランス軍が内部に侵入すると、住民はそれ以上の抵抗をすることなくフランス軍に従った。

 ジュノー将軍は騎兵隊を率いてアンコーナ方向へ向かう教皇軍を2時間追跡したが、捕らえることができなかった。

 ヴィクトール師団とランヌ歩兵予備軍は教皇軍の後を追いさらに軍を進め、2月2日中にフォルリまで到達した。

 その後、コッリ将軍は敗走する教皇軍と合流し、敗残兵をまとめアンコーナへ退却した。

 ファエンツァの戦いにおけるフランス軍の損害は死傷者約100人であり、教皇軍の損害は400人~500人が戦死し、約1,000人が捕虜となり、大砲14門と軍旗8旈を失ったと言われている。

※この「ファエンツァの戦い」は「カステル・ボロネーゼの戦い」とも呼ばれている。