ガルダ湖畔の戦い 22:カスティリオーネの戦い<本戦> 
Battle on the shores of Lake Garda 22

ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロナート:約20,000人
カスティリオーネ:約30,000人
ロナート:約2,000人
カスティリオーネ:約1,300人
オーストリア ロナート:約15,000人
カスティリオーネ:約25,000人
ロナート:約5,000人
カスティリオーネ:約3,000人

カスティリオーネの戦い①:マッセナ師団の陽動とモンテ・メドラノへの主攻

 1796年8月5日早朝、両軍睨み合う中、先にフランス軍が動き出した。ボナパルトはフランス軍の主攻である右翼側(モンテ・メドラノ側)からの攻撃を直前までオーストリア軍に悟られないようにオージュロー師団を中央寄りに配置していたが、当初の計画通りオージュロー師団をオーストリア軍の左翼側に移動させたのである。

 この時、フランス軍中央のオージュロー師団がオーストリア軍左翼側に移動するために小さな後退を行ったのだが、フランス軍の真意を誤解したオーストリア軍はフランス軍が完全に後退していると考え、フランス軍が後退してできた空白を埋めるように前進した。

※ナポレオンが偽りの後退を命令し、オーストリア軍がその罠にかかったというのが一般的だが、このカスティリオーネの戦いにおいてオージュロー師団右翼を指揮するヴェルディエ将軍の直近の報告書には、「戦列を敵左翼側に移動させるために僅かな後退を行ったこと」、「敵はフランス軍の真意を誤解して前進してきたこと」が書かれている。

 午前7時頃、オージュロー師団の移動が終わりフランス軍全軍が当初予定していた位置についた。そしてセリュリエ師団の先頭がグイディッツォーロから出撃してくるのを確認した時、ボナパルトは第一段階の攻撃命令を下した。

 攻撃は2つのポイントから始まった。

 12門の軽砲を有しモンテ・メドラノに対して斜めに砲撃を加えるために配置されたマルモン砲兵隊の砲火が火を噴き、左翼マッセナ師団とオージュロー師団左翼はフランス軍の主攻(モンテ・メドラノへの攻撃)からヴルムサーの注意を逸らすために軽歩兵を前進させオーストリア軍右翼を脅かしたのである。

◎モンテ・メドラノへの攻撃とマッセナ師団の陽動

 オーストリア軍は全体としてモンテ・メドラノを支点としてフランス軍左翼側(マッセナ師団側)を片翼包囲する機動を行った。

 ヴルムサーの計画も正面のフランス軍に対して兵力差を活かして包囲する計画だったのだろうと考えられる。

 攻撃開始から約30分後、オーストリア軍右翼はマッセナが前進させた軽歩兵を容易に撃退し、戦列を前進させてフランス軍の戦列に迫りつつカステル・ヴェンツァゴのマッセナ師団左翼を包囲するために右翼を伸ばした。

 同時にマルモン率いる砲兵隊の砲火はモンテ・メドラノに築かれた堡塁に大きな損害を与え、そこにフランス軍右翼であるボーモント騎兵隊の突撃が加わりオーストリア軍左翼に大きな損失をもたらした。

 そしてモンテ・メドラノの正面に位置していたオージュロー師団右翼のヴェルディエ将軍の攻撃によってモンテ・メドラノは占領された。

 この時、病気からの回復中であるジュベールは猟騎兵連隊によって支援された3個歩兵大隊の指揮を執っていた。



カスティリオーネの戦い②:セリュリエ師団による後背からの一撃

 モンテ・メドラノを占領するとボーモント騎兵隊はオーストリア軍の戦列の後方にあるサン・カッシアーノ(San Cassiano)方面に前進し、セリュリエ師団との合流点を確保した。

 この時、グイディッツォーロから出撃してきていたフィオレラは第12軽騎兵隊と第19軽騎兵隊で約500騎の選抜軽騎兵を形成し、それを率いてオーストリア軍の背後を突くよう機動してヴルムサーの本部を急襲した。

 ヴルムサーはこの背後からの急襲を予期することはできなかった。

 フィオレラ率いる選抜軽騎兵隊はヴルムサーのいるオーストリア軍の本部を荒らし、物資を奪い取った。

 この時、ヴルムサーは馬に乗って逃げる時間しか無かったと言われている。

 遅れてガルダンヌ率いるセリュリエ師団の残りが続いた。

◎セリュリエ師団による後背からの一撃

 フィオレラとボーモントはガルダンヌ率いるセリュリエ師団の残りに支援されカヴリアーナに向けて進軍した。



カスティリオーネの戦い③:フランス軍による本格的な攻勢

 旅団による列で師団を形成していたオージュロー師団とマッセナ師団は、オーストリア軍に向けて本格的に攻撃をする準備が整っていた。

 ボナパルトはセリュリエ師団の一撃を見ると、この瞬間を選んでオージュロー師団とマッセナ師団の2列の戦列を本格的に始動させた。

 オージュロー師団はオーストリア軍を中央に押し込み、マッセナ師団はオーストリア軍右翼への誘導によりできたオーストリア軍中央と右翼の間の隙間を滑るように移動してオーストリア軍右翼を隔離するよう機動した。

◎フランス軍による全面攻撃の開始

 ヴルムサーは逃げた先ですぐさま本部を再構築し、2列に並べた戦列の前進を停止するよう命じた。

 そして第1列は前進を再開し、第2列は後方から急襲してきたセリュリエ師団に対抗するために前線を後方に変更し、騎兵隊をボーモントに対抗するためにカヴリアーナに向かわせた。



カスティリオーネの戦い④:ヴルムサーによる撤退の決断とルクレールの一撃

 フランス軍によるこれらの連携攻撃はオーストリア軍に悲惨な結果をもたらすことだった。

 オーストリア軍のすべての将軍はヴルムサーに対し撤退命令を要求した。

 ルクレール将軍はブレシアから2個半旅団を率いて戦場の近くまで来ていた。そして右翼側への増援予定だった行軍を左翼側に変更し、それをボナパルトに伝えた。

 右翼側はすでに右翼とセリュリエ師団によって半包囲しておりルクレールの部隊の入る空間は無かった。そのためルクレールは左翼側に回り込むように行軍した。

 オーストリア軍は態勢を崩され、セリュリエ師団をサン・カッシアーノでボーモントとフィオレラの騎兵隊をカヴリアーナで食い止めていたが、もしカヴリアーナがフランス軍の勢力下に置かれてしまった場合、ヴォルタ(Volta)村方面への退路を失い、さらにソルフェリーノからボルゲット橋への道は脅かされることになる。

 そればかりか、このまま戦いが推移していくとオーストリア軍はペスキエーラ方面に押し戻されミンチョ川に架かるボルゲット橋から完全に切り離されてしまうことになる。

 もしボルゲット橋への退路を失った場合、ボルゲットとヴァレッジョはフランス軍の手に落ち、オーストリア軍はペスキエーラ要塞経由で撤退しなければならなくなってしまう。そして撤退が遅れればボルゲット橋を渡ったフランス軍がミンチョ川左岸側からペスキエーラに到達しオーストリア軍は分断され、ペスキエーラを通過したオーストリア軍は追撃を受けながらトレント方面に逃れなければならず、ミンチョ川右岸側に取り残されたオーストリア軍は包囲殲滅されてしまうのである。

◎ボルゲットを失った場合のオーストリア軍の行く末

 それにも関わらずヴルムサーは麾下の将軍達の要請に抵抗し、長い間撤退の要請を退けていた。

 しかしその場にいた英国のコミッショナーであるグラハム大佐が僅かな遅れの危険性をヴルムサーに示すとヴルムサーはグラハムの言葉を受け入れ全軍に撤退命令を下した。

 オーストリア軍が十分な秩序をもってソルフェリーノの要塞であるロッカ・ディ・ソルフェリーノに集結しつつ撤退し始めた時、ルクレール麾下の2個半旅団が戦場に到着し、ソルフェリーノとその周辺の高地を奪取した。

◎ルクレールによる一撃

 ルクレールによる攻撃はオーストリア軍右翼を大いに混乱させ、秩序ある後退は一瞬で敗走しているかのように見えた。



カスティリオーネの戦い⑤:追撃戦とミンチョ川の渡河をめぐる攻防

 オーストリア軍が敗走していくのを見て、ボナパルトはオーストリア軍を撃滅すべく退路を遮断するよう各師団に命令を出した。

 左翼マッセナ師団は師団の一部でボルゲット橋を目指し、オージュロー師団右翼ヴェルディエはオーストリア軍のボルゲットへの退路の1つであるヴォルタ(Volta)村へ先回りしオーストリア軍を待ち受け、マッセナ師団の残りとオージュロー師団の左翼及び中央はオーストリア軍を押し込み追撃をするのである。

 マッセナはオーストリア軍右翼のボルゲット橋への後退を遮断するために、すぐに師団の一部とともに出発した。

 その途中ミトロフスキー旅団とシュビルツ騎兵隊がマッセナの行軍を食い止めるために立ちはだかったがマッセナによって撃退された。

 この時、ペスキエーラからゴーイト経由でソルフェリーノへ向かっていたヴァイデンフェルト将軍はボルゲット橋を視界に収めていた。

 そして大砲の音を聞くと行軍速度を速め、4個大隊と100騎の騎兵とともにオーストリア軍の後退を支援するためにボルゲット橋での戦闘に間に合うように到着した。

 マッセナの包囲機動はあと一歩のところでヴァイデンフェルトによって妨害され、オーストリア軍右翼の退路を断つことはできなかった。

◎フランス軍による包囲機動とヴァイデンフェルトによるマッセナ師団の撃退

 オージュロー師団右翼のヴェルディエはヴォルタ村方向の退路を遮断するために、迂回してオーストリア軍の先回りをしなければならなかった。

 しかしヴォルタ村に到達するためには大きく迂回する道しかなく、さらにオーストリア軍も後退速度を上げたためヴェルディエはオーストリア軍の最後尾に追いつくことしかできなかった。

 オーストリア軍の左翼と中央は執拗に追跡されつつもミンチョ川に架かるボルゲット橋を渡りヴァレッジョに到達した。

 シュビルツ将軍はボルゲット橋の前に3個騎兵大隊を残し、すべての部隊が渡河を終えるとそれらを解散させた。

 リヴァルタに到着したメサロスはゴーイトに行き、ロヴェルベッラでマントヴァとヴルムサーとの連絡を確保するよう命令を受けた。

 夕方、メサロスは命令を実行すべくミンチョ川の後ろに後退した。

 夕方5時頃、ランポン旅団からの伝令がペスキエーラのギョームの元に到着し、救援部隊があと少しで到着することを伝えた。

 オーストリア軍の敗北とフランス軍の前進の報を受けるとビカソヴィッチはミンチョ川右岸側の自分の位置を放棄し、ボルゲットとポンティ(Ponti)を経由してペスキエーラに向かっていた。

 バヤリックスがペスキエーラ要塞を占領し右岸側で封鎖を行っていたため、ビカソヴィッチはそこから撤退を完了することができたのである。

※8月4日のバヤリックス旅団によるペスキエーラ要塞の再攻撃時、ペスキエーラ要塞がオーストリア軍の勢力下に置かれたという説の根拠は、「Mémoires de Masséna 第二巻」において、バヤリックス旅団が右岸側で封鎖を行っていたこと、ビカソヴィッチ旅団がミンチョ河右岸側に位置するポンティ(Ponti)を経由しペスキエーラに向かったという記述があるためである。
そして、もしペスキエーラ要塞をフランス軍が保持し続けていた場合、ヴァイデンフェルトはミンチョ川左岸側から南下し、カスティリオーネの戦いで敗北したヴルムサー本体がボルゲット橋に殺到する中、ボルゲット橋を渡り右岸側でマッセナ師団を撃退しなければならなくなる。

しかし、①「バヤリックス旅団が右岸側で封鎖を行っていた」という記述が誤記であり、実際は左岸側だった場合。
②ミンチョ川の流れる経路が現在とは違っており、1796年当時ポンティは左岸側にあった場合。
③ビカソヴィッチ旅団がペスキエーラ以外の場所を通過してトレント方面に逃れた場合。(ビカソヴィッチはトレント方面に逃れたのは確定している。9月にあるロヴェレトの戦いに参戦していることが理由である。)
これら①~③だった場合、ペスキエーラはフランス軍が保持し続け、ヴァイデンフェルトはミンチョ川左岸側から南下したと言えるだろう。

 このカスティリオーネの戦いにおいてオーストリア軍の損失は、死傷者2,000人未満、捕虜約1,000人、大砲18門~20門だったと言われている。

 オーストリア軍の態勢を大きく崩しての大勝利だったが、評価できる戦果は得られなかった。

 かくしてガルダ湖畔の戦いにおける最大の決戦であるカスティリオーネの戦いはフランス軍の勝利によって幕を閉じ、両軍はミンチョ川を挟んで対峙した。