海将ネルソンが右腕を失った「サンタ・クルスの戦い(1797)」
Battle of Santa Cruz de Tenerife (1797)
※「サンタ・クルスの戦い」。フランシスコ・デ・アギラール(Francisco de Aguilar)画(1848年)
イギリス海軍の状況
1797年当時、イギリス海軍は水兵の反乱に悩まされていた。
ポーツマス近くの停泊地スピットヘッドとテムズ河口にある停泊地ノアでの反乱である。
1797年4月16日から発生したスピットヘッドでの反乱は組織的に統率されたものであったが、交渉の末、5月15日にようやく収束した。
5月12日、スピットヘッドの反乱の影響を受けてノアでも反乱が勃発していた。
ノアに停泊していた艦船の水兵はすべてが反乱に参加したわけではなく、お互いに連絡を取り合っておらず、最初はバラバラに抗議活動を行うに留まっていた。
しかし、反乱の代表者が選出されるとその要求は賃金と労務環境の改善から戦争政策の見直し、議会の解散、フランスとの講和など政治色を帯びていった。
それに加えて食糧の供給を断たれたことにより、反乱に参加していた艦船は反乱の代表者等の政治的主張に嫌気が差し、食糧を求めて1艦、また1艦と脱落し、6月に反乱は収束した。
これらの反乱の間、イギリス海軍は積極的な活動ができなかった。
イギリス地中海艦隊の動向
地中海艦隊でも水兵の不満が高まっており、艦隊司令官ジャービス提督は反乱を未然に防ぐために厳罰を課した。
水兵に対してはその度合いによって鞭打ちや絞首刑、士官に対しては他の者の面前での叱責を行なったと言われている。
叱責に不満を持った士官から決闘を申し込まれる出来事もあったが、優秀な士官を取り立てることにより最終的に地中海艦隊の規律は向上した。
しかしそれでも水兵たちの不満は水面下で燻っており、彼らの注意を反乱から遠ざけるためにスペインのカディス港への攻撃を計画した。
ジャービス提督は7月3日にスペインのカディス港を攻撃したが失敗に終わり、7月5日に増援を受けてカディス港への攻撃を再び開始した。
砲撃はカディスの町と船舶にかなりの影響を与え、スペイン艦はカディス湾内で砲撃の範囲外に退避することを余儀なくされた。
この戦いはスペイン艦隊をカディス港内に封じ込め、地中海艦隊の規律を保持することが目的であった。
海軍少将に昇進していたホレーショ・ネルソンはこの戦いで戦隊を指揮していた。
ホレーショ・ネルソン少将によるカナリア諸島テネリフェ島への出撃と島の地形
※ジャービス提督によるネルソン戦隊のカナリア諸島への派遣
ジャービス提督は、この攻撃によりスペイン艦隊がカディス港に引き籠っていることを利用して、スペインが支配するカナリア諸島の一つであるテネリフェ(Tenerife)島に対して小規模な遠征隊を派遣した。
遠征隊の指揮はネルソン少将に委ねられた。
この戦隊は7月15日にカディス沖で艦隊と別れ、19日頃にテネリフェ島に到着した。
※サンタ・クルス港
テネリフェ島は難攻不落であり、これ以上防御が容易な場所はないと考えられていた。
テネリフェ島は、近隣のほとんどの島と同様に、山、峡谷、岩、断崖からなる火山島であり、唯一の港であるサンタ・クルス(Santa Cruz)港には輸送船の避難場所がなかった。
島の海岸線を右に行くと、岸があっても非常に急勾配であるため停泊地は見当たらず、水深も45 fathom(1 fathom ≒ 1.8 m)と深かった。
海岸は、北から南まで、波の衝撃や摩擦によってそうなったのか、壊れた岩の塊と丸い滑らかな岩が連続して続いており、岩の表面には海草が生えて滑りやすくなっていた。
そして絶え間なく波が押し寄せ、石製のモール(海と港を分ける外郭施設)や桟橋を除いて上陸は非常に困難をともなうこととなる。
さらに、突然のスコールや渓谷から吹き下ろす激しい突風が何の前触れもなく船のトップマストを横倒しにすることがよくあった。
ネルソンによるサンタ・クルス占領計画
ネルソン少将は約1,000人の兵を率いて上陸作戦を決行しようとしていた。
◎ネルソン少将による最初のサンタ・クルス攻略作戦
テネリフェ島の地形や気候のため船はほとんど役に立たなかったが、テネリフェ島を守るスペイン兵はイギリス兵を前にすぐに降伏するだろうと考えられた。
ネルソンはパソ・アルト城に夜襲をかけてこれを占領し、テネリフェ島総督に対して降伏勧告を行うことを計画していた。
そしてもし降伏が拒否された場合、サンタ・クルスに進軍するのである。
「サンタ・クルスの戦い」前哨戦
7月21日夜~22日未明にかけてネルソンは計画を実行に移した。
しかしフリゲート艦が沖合で強風に遭遇し、岸ではボートが穏やかだが強い逆流に遭遇し、目的を達成する前に夜明けとなって守備隊に発見されてしまった。
対するテネリフェ島総督グティエレス(Gutiérrez)中将はこの間近に迫った攻撃に対して急いで防衛命令を出し、守備隊全員を配置につかせた。
テネリフェ島守備隊の大部分は島の住民で構成されている民兵組織であり、少数ではあるがフランス軍の分遣隊も配備されていた。
これによりネルソンのパソ・アルト城夜襲作戦は失敗に終わった。
さらなる攻撃
◎ネルソン少将による2回目のサンタ・クルス攻略作戦
22日午後9時頃、ネルソンは再度攻撃を行なおうと、今度はサンタ・クルスの北に位置するヴァレセコ(Valleseco)の海岸から上陸して南下してアルトゥーラ(Altura)峠を通り、サンタ・クルスの町に銃声が届く範囲内にあるパソ・アルト城(Castillo de Paso Alto)を占領し、それからテネリフェ島総督に降伏勧告を行うことを計画した。
もし降伏が受け入れられない場合、最初の計画と同様にサンタ・クルスに進軍するのである。
作戦は実行され、パソ・アルト城からの砲撃にも関わらず約1,000人のイギリス兵はヴァレセコの海岸に上陸し、戦列艦はパソ・アルト城を攻撃するために動き出した。
真夜中の上陸であり、士官達は地理に明るくなかったためボートはバラバラに分かれ、一部のボートは浜にも到着できない状況だった。
そして動物が不足し大砲を運ぶことができなかった。
上陸したイギリス軍はそれでも兵を集結させ、アルトゥーラ峠を通るルートでパソ・アルト城へ前進した。
翌23日になって、スペイン兵と接触し、銃撃戦が開始された。
この時グティエレスはすでにサンタ・クルスにあるサン・クリストバル城(Castle of San Cristóbal)からパソ・アルト城へ兵力を移動させ、さらにそこからアルトゥーラ峠を占領するために援軍を派遣して防衛体制を整えていた。
この頃、パソ・アルト城を攻撃するはずの戦列艦は凪(風がやみ、波がなくなり、海面が静まる現象)のため海岸から3マイル(約4.8㎞)より近くに接近することができないでいた。
険しい地形、大砲の欠如、戦列艦による支援の喪失、スペイン軍の効果的な防御によりイギリス軍はアルトゥーラ峠を巡る戦いで苦戦し、思うように前進できなかった。
ネルソンは旗艦「テセウス」から命令を出し、上陸した部隊を呼び戻した。
ネルソンは兵たちの再乗船を支援するためにサンタ・クルス沖に停泊させていた3隻のフリゲート艦をテネリフェ島のカンデラリア(Candelaria)とバランカ・ホンド(Barranco Hondo)の間の沖合に移動させ、崖に向けて砲撃を行なわせた。
一方、イギリス上陸部隊の排除に成功したグティエレスは次はサンタ・クルスが襲われるだろうと予測し、パソ・アルト城には30人の民兵のみを残し、残りをサンタ・クルスの防衛のために移動させた。
この移動はイギリス側からは確認できなかった。
ネルソンが右腕を失うことを余儀なくされた戦い「サンタ・クルスの戦い」の始まり
7月24日、ネルソンは別の作戦を実行に移した。
◎ネルソン少将による最後のサンタ・クルス攻略作戦
ネルソンはまるでその地点で上陸するつもりであるかのように、サンタ・クルスの町の約2マイル(約3.2㎞)北に艦船を停泊させたが、これは陽動だった。
全軍がフリゲート艦「シーホース(The Seahouse)」の横に集結し、ネルソンはそこで最終調整を行った。
そして夜10時半頃、ゼラス号(The Zealous)の周囲から上陸部隊を乗せたボートが出発した。
約700人の船員と海兵隊員が戦隊のボートに乗船し、さらに180人がシングルマストのボート(Cutter)「フォックス号(The Fox)」に乗り、約75人が拿捕したばかりの大型補給船に乗った。
王立砲兵の小規模な分遣隊を合わせた兵力は約1,100人だった。
それぞれの艦長の直属の指揮下にあった海員の各分遣隊、オールドフィールド大佐の指揮する海兵隊、ベインズ中尉の指揮する砲兵、そしてネルソンが直接指揮する全部隊が戦隊から出発した。
フリーマントルとボーエンの部隊はネルソン指揮下にあった。
イギリス軍は6つに分かれてモールに上陸し、町の大広場に集結する計画だった。
ボートを漕ぐ音を極力減らすためにオールが船体と接触する箇所には布が詰められていた。
しかし、荒れた天候と夜の極度の暗闇により、各部隊同士の緊密な連携はほぼ不可能になるだろうと考えられた。
ネルソン少将の指揮するボート、トンプソン船長指揮するボート、ボーエン船長の指揮するボートは暗闇の中ようやくモールを発見して上陸しようとした。
ネルソンの右腕の喪失
※「テネリフェ島で負傷したホレーショ・ネルソン卿」リチャード・ウェストール(Richard Westall)画。1806年
この時点でその他の舟のほとんどは暗闇と荒れた海によってモールを発見できず、上陸できるところに上陸しようとしていた。
25日午前1時30分頃、フォックス号にはネルソンのボートの他に3、4隻が同行し、フリーマントル船長とボーウェン船長が乗船する2隻を含め、スペイン側に発見されることなくモールの先端に到達した。
その地点は大砲の射程内だった。
イギリス兵はモールに上陸し始めたが、桟橋から500メートル離れた場所に停泊していたスペインのフリゲート艦「サンホセ号」に発見され、フォックス号は砲撃された。
スペイン側に気付かれたことを察したネルソンは各ボートにそれぞれの攻撃地点に分離するよう指示し、歓声をあげて上陸場所に向かって進軍した。
この時点でイギリス軍の攻勢に気付いたグティエレス将軍は警鐘を鳴らし、サン・クリストバル城に加えて、ピラ広場(Pila square)、サントス川(Santos stream)、カルニセリアス海岸(Carnicerías beach)、サント・ドミンゴ修道院(Santo Domingo monastery)という4つの戦略的地点に部隊を分割して向かわせ、30~40門の大砲と海岸沿いを防衛していた部隊にイギリス軍の上陸を阻止するために応戦するよう命令を下した。
ネルソンが剣を抜いてボートから降りようとしたその時、別方向(恐らく陸方向)からの砲撃が石の階段に命中し、砲弾そのものかもしくは階段の破片がネルソンの肘に当たった。
完全に無力となったネルソンは義理の息子であるジョサイア・ニスベット(Josiah Nisbet)少尉に支えられ、船員によりボートに引き戻された。
ジョサイアはすぐに止血帯の代わりにスカーフでネルソンの右腕から流れ出る大量の血を止めようと必死に処置をおこなった。
もしジョサイアがネルソンを支えてボートに乗せ、スカーフで止血しなければ、ネルソンの命はサンタ・クルスの戦いで失われていただろう。
モールに上陸した部隊の全滅
そんな中、スペインのフリゲート艦が3発目の砲弾を発射し、風と水に大きく揺られているフォックス号の脇腹に命中し、フォックス号は間もなく沈没した。
ネルソンが介抱されていたボートはフォックス号の乗員を助けるために移動して多くの兵を拾い上げたが、フォックス号の指揮官であるギブソン中尉を含むイギリス兵97人が溺死した。
ボーエン艦長が乗っていたボートも砲弾が貫通して沈没し、船員が7、8人死亡した。
このようなスペイン側の激しい反撃にもかかわらず、イギリス軍は上陸を果たした。
モールに続く地点は300人か400人の兵士と24ポンド砲6門によって守られていた。
これらの防御地点を突破しようとイギリス兵は前進しようとしたが、城塞とモールの先頭の近くの防衛施設からのマスケット銃とブドウ銃の激しい砲火が彼らを数十人なぎ倒した。
高い壁と柵が上陸した一部のイギリス兵の前進と攻撃を妨げ、一方、重厚な壁からは大砲、ブドウ弾、マスケット銃でイギリス兵に反撃しのである。
モールに上陸したイギリス兵はほぼすべてが死傷し、ボーエン艦長もこの時の攻撃により戦死した。
島へ上陸した部隊の行方
一方、トロウブリッジ(Troubridge)艦長のボートはモールを発見できず風下に流され、サン・クリストバル城に近い南側の砲台の下の岸に流れ着いた。
ウォーラー艦長と他の数隻のボートも同時に上陸していた。
しかし波が非常に高かったため、多くのボートは岩にぶつかって破損しているか沖に流され、引き揚げたボートの多くはすべて一瞬で水でいっぱいになり、兵士のポーチに入っていた弾薬そのものが濡れて使い物にならなくなってしまっていた。
トロウブリッジ艦長は上陸兵を集めるとすぐに、ウォーラー艦長とともに海岸での待ち合わせ場所である町の大広場に進み、そこでネルソン少将やトンプソン艦長、フリーマントル艦長、ボーエン艦長、そして彼らの部下に会えることを期待していた。
トロウブリッジ艦長は軍曹をサン・クリストバル城に降伏を呼び掛けるために町の紳士二人とともに派遣した。
しかし軍曹は戻らず、返答も無かった。
このことは降伏に否定的であることを暗示していたが、サン・クリストバル城に向かう途中で撃たれた可能性もあった。
トロウブリッジ艦長は上陸の際に梯子が波にさらわれており、サン・クリストバル城を攻撃して占領する手段を失っていた。
どのような措置をとるべきか確信が持てなかったトロウブリッジは、1時間待った後、より南に流れ着いていると考えられるフッド艦長とミラー艦長との合流点を探すために生存者たちとともに出発した。
フッド艦長とミラー艦長の部隊は少数だったが、上陸地点の南西に順調に上陸していた。
夜明けまでにトラブリッジ艦長の一行の生存者は約340人となり、約80人の海兵隊員、80人の銃剣兵、そして小火器を持った180人の水兵で構成されていた。
スペイン兵を捕虜として僅かながら弾薬を調達したこの小さな部隊は、梯子のないにもかかわらず城塞に対して進軍した。
しかしすぐに、街路全体が野戦部隊によって防衛されており、「8000人以上のスペイン人」が武器を手に100人のフランス人とともにあらゆる街路から迫っているのを発見した。
乗ってきたボートはすべて薪として使われたため退却することも増援を受け取ることもできない状況だった。
食糧はボートとともに沖に流されるか沈没し、弾薬も捕虜から取り上げた少量を除いて濡れていた。
このような状況でトロウブリッジ艦長は、フッド艦長に休戦旗を持たせて総督の元に送ることが最善であると考えた。
トロウブリッジはスペイン軍があと一歩でも近づいたら、残念ながら町を焼き払う決意があることを伝え、イギリス軍にボートを提供して武器を持って乗船することを要求した。
そして、もしこの要求が受け入れられた場合、サンタ・クルスの町の前にいる船がこれ以上町を荒らしたり、カナリア諸島のいずれかを攻撃したりしないことを約束した。
テネリフェ島総督グティエレスは、上陸したイギリス部隊にはそのようなことは実行する力は無いと理解していたにも関わらず、トロウブリッジ艦長の要求を受け入れ、モールの先端にボートを用意した。
トロウブリッジ艦長はモールの先頭に向かって行進し、部下たちとともにスペイン人が用意したボートに乗り、瀕死のネルソンの元へ帰還した。
サンタ・クルスの戦いの後
グティエレス総督は戦いを終わらせるために撤退する侵略者たちにビスケットとワインの配給を与え、そして負傷したイギリス兵を病院に収容するよう指示した。
この時、包帯が足りず、グティエレス総督は包帯を作るために着ていたシャツをイギリス兵のために提供したと言われている。
さらにネルソン少将に、戦隊が島外に滞在している間に必要な軽食を、船を自由に陸地に送って購入できると密かに伝えた。
その後、ネルソンはフリゲート艦「シーホース」でイギリス本国に戻り、11月には傷は完全に治ったが右腕を消失しており、隻眼、隻腕となった。
「サンタ・クルスの戦い」におけるイギリス軍の損失
イギリス軍の損失の合計は、141人が死亡および溺死し、105人が負傷し、5人が行方不明となったと言われている。
死者
艦長1人・・・リチャード・ボーエン
中尉4人・・・ジョン・ウェザーヘッド(テセウス)、ジョージ・ソープ(テルプシコア)ウィリアム・アーンショー(リアンダー)ジョン・ギブソン(フォックス)
海軍中尉2人・・・レイビー・ロビンソン(リアンダー)、ウィリアム・バシャム(エメラルド)
その他、船員23人、海兵隊員14人。
負傷者
将官・・・ホレーショ・ネルソン(右腕切断)
艦長2人・・・トーマス・フランシス・フリーマントル、トーマス・ボールデン・トンプソン
中尉1人・・・ジョン・ダグラス
海軍士官候補生1人・・・ロバート・ワッツ
その他、船員85人、海兵隊員15人。
行方不明など
溺死・・・船員と海兵隊員97人
行方不明・・・5人
参考文献References
・Edward Pelham Brenton著「The Naval History of Great Britain: From the Year MDCCLXXXIII to MDCCCXXII.」(1823)
・William James著「The Naval History of Great Britain: From The Declaration of War by France in 1793, to the accession of George IV.,第2巻」(1837)