アルコレ戦役 22:ナポレオン最初の敗北「カルディエーロの戦い(1796年)」
Battle of Arcole 22

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約24,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

カルディエーロの戦い①:両軍の強度と戦略

 1796年11月12日未明、カルディエーロ周辺は大雨だった。

 大雨の中、ボナパルトは夜明けとともにマッセナ師団をオーストリア軍右翼に向かって前進させ、オージュロー師団を中央と左翼に向かって前進するよう命じた。

◎カルディエーロの戦いの始まり

 その合計約13,000人を数えた。

 アルヴィンチは約8,000人とともにカルディエーロで持ち堪えて時間を稼ぎ、ヴィッラノーヴァのプロベラ師団が戦場に到着して数的優位な立場となってから反撃に転じることを考えていた。

 フランス軍はほとんど大砲を持たなかったが圧倒的に数的優位であり、オーストリア軍も未使用の火薬が少なく攻撃はほとんど銃剣に頼らなければならなかったため、防衛に徹しプロベラ師団を待つことは兵力面でも攻撃を控え火薬の使用量を減らすという面でも非常に重要な戦略だった。

 大雨は視界を遮り、より接近して戦闘することを両軍に強いるため未使用の火薬が少ないオーストリア軍にとって都合がよかったと言えるだろう。

 朝の時点でプロベラ師団はヴィラノーヴァから3列に分かれ、ブラベック旅団はカルディエーロに向かい、シュビルツ旅団はソアーヴェ(Soave)を経由しコロニョーラ(Colognola)へ向かった。プロベラ本体はヴェローナへの主要道路とアディジェ川の間の道を進んだ。

 最前列はカルディエーロから2~3kmほどのところに位置していたが、低地の洪水と至る所で地面が完全に浸水していたためその中心が戦場に到着するのは午後の3~4時になると予想された。

 ボナパルトとしては数的優位を利用し、ヴィッラノーヴァのプロベラ師団が戦場に到着する前にカルディエーロを固く守っているアルヴィンチを打ち破る必要があった。

 降り続く大雨でロンコにある12門の大砲を動かすことができず少ない大砲で戦わなければならなかったが、この大雨はプロベラ師団の足を遅くし戦場への到着を遅らせることが予想されるためフランス軍に有利に働くように見えた。

 フランス軍の勝機はプロベラ師団到着前にカルディエーロのアルヴィンチを打ち砕くことであり、オーストリア軍の勝機は大雨で戦場への到着が大幅に遅れると予想されるプロベラ師団13個大隊の到着までカルディエーロで持ち堪えることだった。

カルディエーロの戦い②:戦いの始まり

 オージュロー師団がストラにいるオーストリア軍中央に攻撃を行い、これがカルディエーロの戦いの開始の合図となった。

 オーストリア軍は数時間に渡りマッセナ師団とオージュロー師団に交互に攻撃された。

 アルヴィンチが戦闘に参加していない予備の一部を投入しストラを補強すると、正午になってオージュローはストラを突破することを諦め、カルディエーロに兵力を振り向けた。

 オージュローはオーストリア軍左翼の正面を攻撃し、さらに側面を攻撃するために強力な分遣隊を派遣した。

 オージュローは一時的にカルディエーロを所有した。

 しかしアルヴィンチがストラで戦っている6個騎兵中隊を向かわせてオージュローの分遣隊の目論見を阻止し、銃剣突撃で圧倒したためカルディエーロは再びオーストリア軍が所有することとなった。

 その後もカルディエーロで一進一退の攻防が繰り広げられた。

◎カルディエーロの戦いにおける午後4時頃の両軍の状況

 一方マッセナ師団は、午前8時にオーストリア軍の前哨部隊を撤退させ、サン・ゼーノ(San Zeno)を占領し、デュプイ将軍は正午まで戦いコローニャ村に入った。

 ラウネイ将軍はコローニャから後退するオーストリアの3個大隊をモンテ・ゾーヴォの裏側を通って追跡した。

 午後4時頃、マッセナはモンテ・ゾーヴォを占領し斜めに前線を形成した。

 左翼が戦っている間、オージュロー師団も前進してストラを占領し、オーストリア軍をモンテ・ロッカとモンテ・マティアの前まで追い詰めようとしていた。



カルディエーロの戦い③:プロベラ師団の到着

 アルヴィンチは包囲の危機に晒され数的にも戦形としても圧倒的に不利な状況にあり、勝利の女神はフランス軍に微笑みかけるかに見えた。

 しかしその瞬間、ブラベック旅団4個大隊が戦場に到着した。

◎プロベラ師団の到着と形勢逆転

 ブラベックはすぐにカルディエーロ周辺を強化した。

 ストラの後方の位置まで後退を余儀なくされ、コローニャから後退してきていた3個大隊はコローニャに対して前進を開始した。

 その時プロベラ麾下のシュビルツ旅団5個大隊が戦場に現れマッセナ師団の左側面に向かって行動を開始した。

 激しく降り続く雨と雪の突風がみぞれに変わりカルディエーロの戦場を覆った。

 みぞれが打ちつける中、ドローネ(Delaunay)将軍はストラ村を奪還するために攻撃を続けたが、オーストリア軍の数が多かったためすべて撃退された。

 ドローネ旅団はモンテ・ゾーヴォに無秩序に戻され、戦いで負傷したドローネ将軍は捕らえられた。

 正面では押し返されシュビルツ旅団に左側面を衝かれたマッセナ師団は無秩序に後退を始め、危険を察知したマッセナは予備であるロベルト旅団3個大隊を前進させ師団の後退を守らせた。

 オージュロー師団側ではヴェルヌ(Verne)将軍が2個軽歩兵大隊を右端に移動させ、ドマルタンは2門の大砲を主要道路の砲台に配備した。

 ヴェルヌはモンテ・ロッカとモンテ・マティアの麓で態勢を崩されつつあったホーエンツォレルン旅団を攻撃した。

 たまらずホーエンツォレルンが後退し、モンテ・ロッカに登り始めた。

 そこへプロベラ将軍率いる4個大隊と1個騎兵中隊(約100騎)が遂に戦場に到着した。

 プロベラ本体はゴンビオン(Gombion)の近くに現れ、オージュロー師団を折り曲げた。

 プロベラ本体の到着が最も遅かったのはアディジェ川に最も近い湿地を進軍していたためだと考えられる。

 プロベラはガヴァッシーニ大佐に4門の大砲を配備した2個大隊を率いさせロッタに向かわせた。

カルディエーロの戦い④:ナポレオン最初の敗北

 オーストリア軍はフランス軍の両翼を包み込もうとし、午後5時頃、マッセナの退却を知らされたオージュローは日が落ちるとともにサン・ミケーレへの後退を始めた。

 ロベルトは確固たる決意で殿軍の任務を果たし、マッセナ師団はサン・マルティーノへの後退に成功した。

 マッセナの後退は、大雨と雪によってぬかるみ水没した地面の性質のおかげでオーストリア騎兵隊に妨害されることは無かった。

 最も余力のあるプロベラは矢面に立ちヴァーゴまで進んだが、オーストリア軍は疲労により追撃を行うことができず、オージュロー師団、マッセナ師団の順で無事ヴェローナに撤退し、サン・ミケーレとヴェスコヴォ門を守った。

 退却後、マッセナ師団にヴェローナのヴェスコヴォ門前を守らせ、マッセナ師団の後衛を務めたロベルト旅団をサン・ジョルジュ門前に配置しサン・ミケーレまでを守らせた。

 そしてオージュロー師団の四分の一はヴェローナの街にあり、残りはアディジェ川右岸の斜堤の尾(恐らくヌォーヴァ門前周辺)に営した。

 オーストリア軍はヴァーゴの前で野営し、前衛をサン・マルティーノまで進めた。

 カルディエーロの戦いにおいてフランス軍の損失は、死傷者約900人、将官1人、士官53人、兵士775人が捕らえられ2門の大砲と軍旗1旗を失った。

※実際にカルディエーロで戦い自ら損害の集計を確認したマッセナの回想録には、マッセナ師団のみで約900人が死傷し、約800人が捕虜となり、2門の大砲を失ったと記述してある。これが誤りでなかった場合、オージュロー師団の損害(不明)を含めるとより多くの兵を失ったと考えられる。

 対するオーストリア軍の損失は、士官20人、兵士911人が死傷し、士官1人、兵士312人が捕らえられたと言われている。

 ボナパルトは軍がヴェローナに入り終えるとフランス政府宛に報告書を送った。

 報告書には、11日に行われたヴィッラノーヴァでの戦闘と12日に行われたカルディエーロの戦いの簡単な説明と、ジュベール、ランヌ、ラニュス、ヴィクトール、ミュラ、シャボ、デュプイ、ランポン、ピジョン、シャブラン、サン・ティレールが負傷し、上級士官のほとんどが戦うことができず、イタリア方面軍は壊滅寸前の状況にあることが書かれており、これから最後の努力を試みると締めくくられていた。

 そしてジョゼフィーヌにも手紙を送っており、ジョゼフィーヌがナポレオンに手紙を送って来ず、浮気ばかりしていることにあきれているような内容だった。

 ナポレオンの目には夫の窮地に励ますことすらしない妻と映っただろう。

 この「カルディエーロの戦い(1796年)」はナポレオンが直接指揮した戦いにおける最初の戦術的敗北として記録されている。