【詳細解説】リヴォリ戦役【第一次イタリア遠征】


リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

伝説ではない「リヴォリ戦役」について詳細に知りたい方向けの記事です。

本記事では第一次イタリア遠征における勝利を決定づけた「リヴォリ戦役」について時系列に沿って経過をまとめまています。

リヴォリ戦役とは「リヴォリの戦い」を含む前後の連続した戦い全体のことです。

フランス軍側だけではなく、オーストリア軍側の戦略も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたのでリヴォリ戦役やリヴォリの戦いについて詳しく知りたい人や戦術好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。

リヴォリ戦役 01 フランス軍の状況と次の戦役に向けての準備

1796年11月まで行われたアルコレ戦役における疲弊と大きな損失によりフランス軍とオーストリア軍は休息に入り、次の戦いに向けての準備を行いました。

ナポレオンはアルコレ戦役での各人の働きを調査し、働きとイタリア方面軍の状況に応じて昇進を行いました。

そしてリヴォルノで療養していたセリュリエ将軍をヴォーボワ将軍と交替して呼び戻してマントヴァ要塞包囲軍を指揮させ、、一時的に前線に来たマッカード将軍を後方に戻し、前線及び後方の再構築を行いました。

その間、モデナ、ベルガモなどで起こった住民反乱を鎮圧し、さらなる反乱を未然に防ぐためにロンバルディアの司令官に平和を維持するための体制を整えさせました。

12月25日以降、ナポレオンは捕虜の尋問内容を記したデュマ将軍からの書簡を受け取り、翌年1月初旬から中旬頃までオーストリア軍の侵攻は無い可能性が高いこと、アルヴィンチは12月13日時点でトレントで指揮を執っており次の侵攻はチロル方面からオーストリア軍主力が進軍してくる可能性が高いこと、マントヴァ駐屯軍はボローニャやフェラーラ方面に脱出しようとしていることなどを知りました。

そのためナポレオンにはおよそ3週間~1ヵ月の時間があることが判明し、その間に増援を要請し武器を調達して再編成を行い、様々な問題を解決して北イタリアにおける支配体制を確立するよう動き、ヴルムサーのマントヴァ要塞からの脱出を防ぐよう命じました。

詳細記事では1796年12月末時点でのフランス軍の強度と配置なども掲載しています。

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リヴォリ戦役 02 オーストリア軍の状況と次の戦いに向けての準備

1796年11月末時点でのオーストリア軍の強度と配置は、フリウーリ軍側ではパドヴァ近くのブレンタ川の背後に左翼プロベラ師団約6,000人、バッサーノに中央カスダノウィッチ師団約8,000人、ヴァルスガーナに右翼ミトロフスキー旅団約2,000人が配置されていました。

チロル軍側では全軍の本部をロヴェレトに置き、右翼オクスカイ旅団3,978人、アラ周辺に前衛ビカソヴィッチ旅団4,264人、その後方にロイス旅団1,483人、ロヴェレトに後衛ヴァイデンフェルト旅団2,263人、左翼スポーク旅団2,373人、その他トレントの西側一帯にラウドン旅団2,340人、トレントに544人、遥か後方のフォアアークベルクにグラッフェン旅団1,848人が配置されていました。

その総数、約35,000人でした。

12月、オーストリア政府は本国から兵士をかき集めて増援を送り、12月13日まででカスダノウィッチ将軍率いるフリウーリ軍は26個半大隊、13個半騎兵中隊で構成され、歩兵18,870人、騎兵1,454騎、計20,641人を有し、ダヴィドウィッチ将軍率いるチロル軍は26個半大隊、10個半騎兵中隊で構成され、歩兵18,145人、騎兵1,103騎、計19,248人を有し、フリウーリ軍と合計するとその総数39,889人となりました。

およそ半月で約4,500人の増援が到着し、特にフリウーリ軍は大幅にその戦力を回復させていました。

詳細記事ではオーストリア軍がどのように後方支援なども強化し次の戦いに備えたかなども掲載しています。

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リヴォリ戦役 03 4度目のマントヴァ要塞救出計画

参謀長ヴァイロサー中佐はフリウーリ軍を陽動とし、チロル軍を主力とする攻撃計画を立案していました。

チロル軍に兵力を集中させることによって単純な兵力差による勝利を目指し、フランス軍をリヴォリから追い出し、ペスキエーラとヴェローナの間の平原を進み、マントヴァを救出する計画でした。

フリウーリ軍側の計画は、バッサーノのロイス旅団はチロル方面に向かい、同じくバッサーノからバヤリッヒ旅団がヴェローナに、パドヴァからはプロベラ師団がレニャーゴを通りマントヴァ要塞に向かい、状況によってはそれぞれヴェローナを占領し、マントヴァ要塞を救出するというものでした。

この計画はアルコレ戦役における失敗(連絡線が長い軍同士の共同作戦の難しさ)を改善したものであり、もしフリウーリ軍が敗北したとしても主力の活動を妨げることはありません。

アルヴィンチは11月末に派遣された増援のほとんどを受け取るとヴァイロサー中佐の立案した計画を実行するために急ピッチに次の戦いに向けての準備を進めました。

詳細記事では、ラサール騎兵大尉の恋人とのエピソードやオーストリアの使者がデュマ将軍に捕らえられた経緯やデュマ将軍の尋問についてなども掲載しています。

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リヴォリ戦役 04 マントヴァ要塞の惨状

1796年12月24日時点のマントヴァ要塞の状況は深刻でした。

要塞の外ではフランス軍が圧力を強めており、要塞内では食料や物資が不足していました。

軍にはもう弾薬は無く、抵抗する力をほとんど失っていたのです。

衣類や木材さえも無く、利用可能なすべての木材は、住民の竈、兵士の調理、および病院職員にのみ使用されました。

古い教会や廃屋も解体して木材を確保しようとしたが、食事用と病院に必要なもの以外は確保できず暖房用の木材はありませんでした。

この時期のマントヴァは寒く湿気が多い気候であり、衣類や木材の不足はより状況を深刻にしていました。

そのためヴルムサーはセボッテンドルフ将軍に対策委員会を設置させました。

セボッテンドルフは食料や医薬品の不足を可能な限り改善するために様々な施策を行いました。

そして軍の活動は日を追うごとに削減され、最低限の活動のみが残されました。

詳細記事ではセボッテンドルフ将軍による具体的な施策内容やヴルムサー元帥による食糧や物資調達のための出撃計画なども掲載しています。

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リヴォリ戦役 05 プロベラ師団、バヤリッヒ旅団、ミトロフスキー旅団の強度と計画

プロベラ師団の計画

パドヴァ近郊のプロベラ師団は10個大隊、6個半騎兵中隊で構成され、歩兵8,379人、騎兵718騎、計9,097人を有し、大砲10門、ボート25隻とその付属品が配備されていました。

プロベラ師団は1月初旬にパドヴァから前進し、レニャーゴを占領するかもしくは別の方法でアディジェ川を渡河し、1月12日にマントヴァ要塞へ向かい、マントヴァ要塞駐屯軍と連絡を取り合いカステルヴェルフォルテで合流するという計画でした。

バヤリッヒ旅団の計画

バッサーノには2つの旅団が配置されていました。

1つはバヤリッヒ旅団、もう1つはロイス旅団です。

バヤリッヒ将軍指揮下にあるバッサーノ軍は6個大隊、1個騎兵中隊で構成され、歩兵6,081人、騎兵160騎、計6,241人を有し、大砲1門とその付属品が配備されていました。

バヤリッヒ旅団はロイス旅団がチロルの主力軍と合流するためにバッサーノを出発した後、1月12日にヴェローナを攻撃する計画でした。

その後、ヴェローナ北の山岳地帯に入り主力軍と連絡線を繋ぎつつヴェローナ占領の機会を窺います。

ミトロフスキー旅団の計画

ヴァルスガーナのミトロフスキー旅団は4個大隊、半個騎兵中隊で構成され、歩兵3,497人、騎兵73騎、計3,570人を有していました。

ミトロフスキー旅団の任務は、フランス軍が大軍を持ってバヤリッヒ旅団を打ち破りバッサーノが占領されてしまった場合、フェルトレとベッルーノの山に向かう予定のバヤリッヒ旅団の分遣隊と協力してフランス軍の前進を阻むことでした。

 もし退却しなければならない場合、トレント方向に撤退し、段階的に防衛して時間を稼ぎ、最終的にトレント付近に到着した時すべての弾薬や食料をボルツァーノ(Bolzano)に移動するまでフランス軍をトレントから遠ざけることが求められました。

 この頑強な防御に多くの時間が浪費されると見込まれるため、主力軍はすでにマントヴァの奪還と駐屯軍との合流を果たしており、ヴァルスガーナに侵入したフランス軍は退路を断ち切られているだろうと予想されました。


詳細記事ではより詳細な計画を掲載しています。

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リヴォリ戦役 06 ラウドン旅団及びオーストリア主力軍の強度と計画

ラウドン旅団の計画

ガルダ湖北岸に位置するリーヴァとトルボレには、ヴィアンキ(Vianchi)大佐の指揮下1,244人のトスカーナ大隊が駐留し、これら2つの場所と隣接する湖岸をフランス軍の上陸から守っており、ティオーネに部隊を集結させるラウドン将軍は小さな旅団を指揮し、10個歩兵中隊、半個騎兵中隊で構成され、歩兵799人、騎兵76騎、計875人を有していました。

ラウドン旅団の任務は、主力軍の前進中、イドロ湖側を監視し特にレドロ湖の防衛を重視しつつブレシアやサローへの陽動を行うことでした。

もしフランス軍が優勢な部隊で進軍してきた場合の防衛計画も立案されました。

主力軍第1列ルシニャン旅団の強度と計画

主力軍は29個大隊、29個軽歩兵中隊、14個半騎兵中隊、合計28,000人で構成され、6つの列に分割されました。

最右翼である第1列ルシニャン大佐が指揮する旅団は4個大隊、12個中隊で構成され、4,556人を有していました。

1月10日にブレントーニコ周辺に集結し、雪で覆われたバルド山を通って1月12日にカプリーノまで南下する。そして翌13日にペッツェナ、コステルマーノを経由して包囲機動を行い第2列と連携してフランス軍左翼へ攻撃を仕掛ける計画でした。

主力軍第2列リプタイ旅団の強度と計画

第2列は初め(恐らく集結まで)はウォルフ(Wolf)大佐が指揮し、その後にリプタイ将軍が指揮することになっており、4個大隊、6個中隊で構成され、5,065人を有していました。

第2列はアーヴィオ(Avio)に1月10日に集結し、1月12日にマドンナ・デッラ・コロナの左側面を占領する。そして翌13日、第1列がリヴォリでフランス軍左翼を包囲した瞬間、第2列はフランス軍の防衛線を攻撃する計画でした。

主力軍第3列コボロス旅団の強度と計画

第3列コボロス大佐が指揮する旅団は、5個大隊、6個中隊で構成され、4,138人を有していました。

第3列は1月11日にベッルーノ(Belluno)に集結し、12日に峡谷を通ってバルド山を登ってフランス軍が占領しているフェラーラ村を襲撃し、マドンナ・デッラ・コロナを正面から攻撃する。そして翌13日、リヴォリで瀕死の状態となっているはずのフランス軍を攻撃して第1列と第2列が左翼を迂回する時間を稼ぎ、その後、可能な限り最大の力でフランス軍中央を攻撃し、この時までに第4列と共同戦線を構築する計画でした。

主力軍第4列オクスカイ旅団の強度と計画

 第4列オクスカイ将軍が指揮する旅団は、4個大隊、8個騎兵中隊で構成され、歩兵2,692人、騎兵829騎、計3,521人を有していました。

第4列は1月12日にベッルーノに入り、翌13日にアディジェ川右岸沿いをリヴォリに向かって進みフランス軍を攻撃する。

その後、リヴォリで第3列と合流し第5列の到着を待つ計画でした。

主力軍第5列ロイス旅団の強度と計画

第5列ロイス将軍が指揮する旅団は、9個大隊、5個半騎兵中隊で構成され、歩兵6,986人、騎兵885騎、計7,871人を有していました。

第5列は1月7日にバッサーノでバヤリッヒ旅団と別れ、ブレンタ渓谷を通って1月13日にベッルーノに到着する。翌14日時点でリヴォリは第1列~第4列に占領されている予定であり、第5列は何の障害もなくリヴォリへ向けて進軍する計画でした。

主力軍第6列ビカソヴィッチ旅団の強度と計画

第6列ビカソヴィッチ将軍が指揮する旅団は、3個大隊、5個歩兵中隊、半個騎兵中隊で構成され、歩兵2,795人、騎兵76騎、計2,871人を有していました。

第6列は1月11日朝、アラを出発してペーリで11個中隊の分遣隊を分離し、分遣隊はレッシーニ山脈を通じてバヤリッヒ旅団との連絡線を確立する。

1月12日、本体は右岸の戦況が許す限りペーリを経由してドルチェまで南下し、1月13日に第4列オクスカイ旅団の攻撃を砲撃によって支援。そして翌14日、主力軍と合流する計画だった。


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リヴォリ戦役 07 オーストリア軍全軍の強度と計画

オーストリア軍はボーデン湖東端に位置するブレゲンツから行進中の分遣隊を除いたすべての兵士は1月10日までにチロル軍とフリウーリ軍への再編成が完了し両軍の数はほぼ均等となりました。

その結果、オーストリア軍は50個大隊、39個中隊、22個半騎兵中隊で構成され、歩兵46,232人、騎兵2,817騎、合計49,049人となり、動員可能なマントヴァ要塞駐屯軍を含めるとその総数約59,000人となりました。

フランス軍の前線に配置された軍の合計は44,610人(ボーローニャのランヌ旅団約4,000人を除く)であり、全体としてはわずかながらオーストリア軍が数的優位な立場となりました。

オーストリア軍は全体として、バヤリッヒ旅団が1月12日にヴェローナを攻撃し、13日にラウドン旅団がブレシアへの陽動を行いつつ主力軍はリヴォリで、プロベラ師団はマントヴァ周辺で戦い勝利するという計画でした。

参謀長ヴァイロサー中佐の計画通りに進行した場合、フランス軍はヴェローナやレニャーゴで惑わされ、リヴォリとマントヴァで敗れ、その後、ヴェローナは包囲される運命にあるでしょう

しかし、マントヴァ要塞が1月中旬に陥落するだろうことを知ったオーストリア軍の急ピッチな準備とタイトな計画にはどこかに重大なほころびがあるのではないかと感じさせるものがありました。

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リヴォリ戦役 08 侵攻作戦の始まりとレニャーゴ要塞奇襲計画

1797年1月4日、アルヴィンチはバッサーノにすべての将軍と各列の指揮官を集め、侵攻計画の全容を見せ、各列または独立旅団のすべての指揮官に書面による行動命令と口頭での説明を行いました。

 そして侵攻計画について秘密を厳守するよう課し、主力軍のすべての列の指揮官は、時間厳守の侵攻計画の実行のために準備を開始しました。

1797年1月5日、長い距離を移動しなければならない列が計画より早く出発しました。

パドヴァのプロベラ師団はレニャーゴへ、バッサーノのバヤリッヒ旅団はヴィチェンツァへ、同じくバッサーノのロイス旅団はヴァルスガーナを経由してトレント方面に向いました。

プロベラ将軍はマントヴァ要塞へ使者を派遣しましたが、フランス軍の警戒は厳しくヴルムサー元帥と連絡を取り合うことはできず、これによりマントヴァ要塞駐屯軍との共同作戦は困難となり、カステルベルフォルテで合流するという当初の計画も見通しが立たなくなってしまいました。

プロベラ将軍は堅固なレニャーゴ要塞を占領するための計画を用意周到に準備し、レニャーゴ内部でフランス軍に不満を持つ住民達を蜂起させ、内外からレニャーゴを襲撃し占領しようとしました。

しかし裏切り者の密告によって計画は頓挫しました。

一方、1月7日時点でこれらのことはナポレオンに知らされておらず、ファエンツァに集結させている教皇軍への対応と、デュマ将軍が得たマントヴァ要塞駐屯軍がボローニャ方面に脱出する可能性が高いと考えられたためボローニャに兵力を集結させていました。

より詳細な事柄が知りたい方は詳細記事を参照してください。

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リヴォリ戦役 09 べヴィラックアでの戦闘

1797年1月8日、バヤリッヒ旅団はモンテベッロに向かい、ロイス旅団はヴァルスガーナを通り、プロベラ師団はサレットへ行き、その前衛はフランス軍の前哨部隊を追い払いつつモンタニャーナへの前進を続けました。

プロベラ師団の進出に伴い、オージュロー師団の前哨部隊はベヴィラックア(Bevilacqua)に後退しました。

オージュロー師団はべヴィラックア城のみを強固に防衛していたためべヴィラックアでは激しい戦闘が行われましたが、カザーレ、サン・サルヴァロ、メルラーラなどの師団右翼が防衛を担当する地域では大した抵抗もできずホーエンツォレルン旅団によって占領されました。

オージュローは増援をべヴィラックアに送りましたが、プロベラ師団本体が前進したという報告を受け取ると前衛を退却させました。

べヴィラックアでの戦闘におけるフランス軍の損失は、死傷者数は不明、士官3人と兵士50人が捕虜となり、対するオーストリア軍の損失は死傷者58人、捕虜13人、計79人であり、その他に馬20頭が死傷したと言われています。

その後、プロベラ師団は退却するフランス軍を追跡しましたが、アディジェ川を自然の障壁として防衛態勢を構築しているオージュロー師団によって阻まれました。

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リヴォリ戦役 10 オーストリア主力軍の集結完了とナポレオンの始動

1797年1月8日、バヤリッヒ将軍はヴィチェンツァ~ヴェローナの間の主要道路を前進し、旅団を2つに分割して1つを自身が指揮し、もう1つをアウグスティネッツ大佐に指揮させました。

バヤリッヒ将軍は9日にヴィッラノーヴァに到着し、10日にカルディエーロとヴァーゴを経由してサン・ジャコモに前哨部隊を押し進め、左翼をアルコレに向かわせました。

アウグスティネッツ大佐の部隊はレッシーニ山脈に入り、ヴェローナの北に位置するサンタ・アナに向かい、チロルの主力軍と連絡を繋ぐことに成功していました。

一方、主力軍は第1列はブレントーニコ、第2列はアーヴィオ、第3列はベッルーノ近郊、第6列はアラとボルゲットの近くにすでに集結しており、第5列は予定通りヴァルスガーナを通ってトレントに向かっていました。

しかし第4列は未だロヴェレトとアラの間を移動していました。

1月10日、ナポレオンはボローニャにおり、プロベラ師団によるオージュロー師団への攻撃に関する報告とオージュローの見解を受け取りました。

ナポレオンはすぐにランヌ将軍を2,000人の部隊とともにオージュローの元に派遣し、自身はオーストリア軍の本格的な侵攻が始まる危険を察知し、事態の把握を行い総指揮を執るためにヴェローナに向けて出発しました。

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リヴォリ戦役 11 オーストリア主力軍の始動

1797年1月11日、オーストリア主力軍の各縦隊は集結地点を離れ各々の目的地に向かいました。

しかし行軍するバルド山は悪天候の冬の山であり、行軍計画の一部はすでに破綻していました。

主力軍第1列~第3列は深い雪の中、道のない険しい岩山を登る困難を極めた行進により力を使い果たしており、携帯した食料は重荷となり、休みのない行軍により食事の回数が増えたため、最初の数日で正確に計算された食料のほとんどを使い果たしてしまいました。

バルド山を進むオーストリア主力軍は人口がまばらで食料のない地域での行進を続けなければならず、飢えと疲労に襲われながらフランス軍を攻撃するために前進しました。

第1列~第3列の兵士達は、最初の計画では翌12日にフェラーラとマドンナ・デッラ・コロナのフランス陣地への奇襲攻撃を行う予定でしたが第1列と第2列において遅れが生じていました。

特に第1列ルシニャン旅団に遅れが生じており、12日のルシニャン旅団の任務はフェラーラにあるフランス軍駐屯地を取り囲み、第2列と第3列がそれを占領するのを支援することであり、その後、カプリーノもしくは少なくともペジナ(Pesina)の後ろまで進まなければなりませんでした。

しかし第1列は12日午後7時頃にルミニに到着し、午後10時になってようやくコスタベッラ山頂に到達したばかりであり、12日中にフェラーラにあるフランス軍駐屯地を取り囲み、第2列と第3列がそれを占領するのを支援することはできませんでした。

この時点で第1列は丸1日遅れが生じていたことになります。

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リヴォリ戦役 12 バルド山での衝突

第3列を指揮するコボロス将軍は1797年1月12日午前7時に先頭に立ってベッルーノを出発し、フランス軍前哨部隊を追い払い、午前9時にはアルバーレ山に登っていました。

そして午前10時、第1列と第2列の到着の兆候すら無い時、第3列を3つに分割してフェラーラの村を占領しようとしました。

攻防は5時間にも及びましたが、コボロス旅団は劣勢でした。

そこへ第2列リプタイ旅団がコロナの左側面に位置する山の頂上に到着しました。

リプタイ将軍は第1列が現れるまで攻撃しないよう厳命されていましたが、リプタイの出現によって動揺したフランス軍から攻撃を受けたことにより戦うことを余儀なくされました。

第2列と第3列は夜になっても戦いを継続しましたがフランス軍を打ち負かすことはできず、第2列と第3列にも丸1日の遅れが生じることになりました。

そのころベッルーノとブレンティーノにいた第4列オクスカイ旅団は第3列に追いつくようバルド山へ登っており、第5列ロイス旅団は第4列の役割を引き継ぐためにベッルーノに急ぎ、この日アーヴィオとペーリに到着していました。

第6列ビカソヴィッチ旅団はキウーサ砦東側を覆う山岳地帯にあるカヴァロとアディジェ川左岸沿いのドルチェに進出しており、ラウドン旅団はメッラ川まで進出していました。

一方、ナポレオンは12日にロヴェルベッラに到着していました。

この時のナポレオンはプロベラ師団がレニャーゴに迫ってきていることのみを知らされており、ヴェローナ方面とリヴォリ方面での戦闘報告は届いていませんでした。

そのためプロベラ師団に対応するためにドゥガ騎兵隊をレニャーゴに、ヴィクトール旅団をカステル・ダーリオへ向かうよう命じ、マッセナにもヴェローナに少数の守備隊のみを残してレニャーゴ方面に進軍する準備を整えるよう命じました。

これらの命令を出し終えるとナポレオンはロヴェルベッラを出発しました。

ナポレオンはこの時点でヴァイロサー中佐の計画通りに動いており、ドゥガ騎兵隊とヴィクトール旅団はオーストリア軍が想定する主戦場であるリヴォリから遠ざけられました。

しかしオーストリア軍の行軍計画は丸1日の遅れが生じていました。

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リヴォリ戦役 13 サン・ミケーレでの戦闘

1797年1月12日、バヤリッヒ旅団はヴェローナ東に位置するサン・ミケーレへの攻撃を行いました。

しかしマッセナ師団の増援が到着し、バヤリッヒ旅団は包囲され損害を出しながらもカルディエーロへ撤退しました。

サン・ミケーレでの戦闘後、ブルーン将軍の服には7発の銃弾の穴が空いていたが身体には1発の銃弾も受けておらず元気にしていたと言われており、戦いの激しさを物語っています。

この戦いの最中、ナポレオンはヴェローナに到着しました。

攻撃を目の当たりにしたナポレオンは当惑し、兵力をどこに集中させるべきか決断できずにいました。

そのため夜9時、レニャーゴ、ヴェローナのどちらが主攻でも対応できるようレイ師団をヴァレッジョに向かうよう命じ、、セリュリエ将軍にレイ将軍を麾下に加えロヴェルベッラに移動するよう命じました。

ヴェローナへの攻撃はその後も散発的に続き、マッセナ師団はレニャーゴ方面に向かわずヴェローナに留まり防御を強化しました。

13日未明、第1列ルシニャン旅団がフェラーラに到着し包囲機動をとったためジュベール師団前衛はバルド山からの撤退を余儀なくされ、リヴォリへと後退しました。

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リヴォリ戦役 14 増えた選択肢とプロベラの策動

ジュベール将軍からの報告がナポレオンの元に届き、ジュベール師団がバルド山から撤退し救援を求めていることを知りました。

しかしナポレオンはどこに兵力を集中させるべきかを決めかねていた。

一方ではアディジェ川下流域でのプロベラ師団による攻撃とヴェローナでのバヤリッヒ旅団による散発的な攻撃があり、他方ではオーストリア軍がチロル方面に現れバルド山の拠点を失っていたため主力をどこに振り向けるかの選択肢が増えたのです。

しかもオージュロー師団の前衛指揮官であるデュポー将軍からの報告がナポレオンの決断を惑わせていました。

そのためナポレオンはヴェローナとリヴォリのオーストリア軍に対応できるようマッセナ師団をアディジェ川右岸に渡らせ、ヴェローナの街中を通って状況に応じて対応できる位置に移動させました。

そしてどこにオーストリア軍の主力があるのかを探るためにジュベール将軍にオーストリア軍の兵力を尋ねる書簡を送り、ルクレール将軍にカルディエーロへの威力偵察を命じました。

しかしルクレール旅団がかなりの損害を出して敗退したため、ヴェローナ方面のオーストリア軍が主力なのかどうかは判明しませんでした。

一方、その頃プロベラ将軍はアンジャーリで渡河を行うことを決定し、それをフランス軍に悟られないよう別の地点で渡河するかのように振る舞いました。

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リヴォリ戦役 15 ナポレオンの決断

1797年1月13日、第1列はカプリーノを経由してルミニに、第2列はカプリーノに、第3列はサン・マルコ礼拝堂の前まで到着しました。

サン・マルコ礼拝堂の位置はアディジェ川右岸側から南下してくるオーストリア軍第4列と第5列と、バルド山から南下してくる第2列と第3列との間を分断しているため特に重要な地点でした。

そのためリヴォリの戦いにおける勝利はこの重要な地点と周囲の高地の占領にかかっていると言っても過言ではありませんでした。

第4列はインカナーレに到着した第5列と役割を交替してベッルーノに戻ってバルド山を登り、第6列ビカソヴィッチ旅団はキウーサ砦の前に位置するチェライーノに到着し、ドルチェに舟橋を架けました。

13日午後2時頃、オーストリア軍に包囲されようとしていることを察知したジュベール将軍は撤退を決断し、「これまでの状況報告」に「もし別の命令を受けることが無ければ夜に完全に撤退せざるを得ないこと」を付け加えた書簡をナポレオンに送りました。

13日午後3時、ナポレオンはジュベールからの状況報告を受け取ると、アルヴィンチは主力でリヴォリを突破するつもりであることを確信し、リヴォリに兵力を集中させることを決断しました。

ナポレオンはすぐさまジュベール将軍にリヴォリで防衛態勢を整えるよう命じ、ヴィクトール将軍、マッセナ将軍、レイ将軍にリヴォリへ向かわせ、セリュリエ将軍に騎兵を送るよう命じました。

夜8時、あらゆる手配を終えたナポレオンは副官を先触れとしてジュベールの元に派遣し、その後すぐにヴェローナを発ちました。

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リヴォリ戦役 16 リヴォリの戦い前夜

1797年1月13日夜、オーストリア主力軍第1列~第4列を構成する17個大隊、24個騎兵中隊、合計約16,000人はカプリーノとサン・マルコの間のバルド山に並んでおり、第5列は8個大隊、13個半騎兵中隊(合計約8,000人と推定)で構成され、インカナーレ近郊のアディジェ川右岸側にいました。

第6列(約1,800人と推定)はアディジェ川左岸でリヴォリに向かって砲台を設置し、キウーサ砦の前と側面を占領していました。

その総数26,000人を有するアルヴィンチは、リヴォリを防衛するジュベール師団を翌日に包囲殲滅する計画を実行しようとしていました。

一方、夜10時頃、ナポレオンの決断に確信が持てなかったジュベール将軍はリヴォリからの撤退を開始しました。

しかし師団が退却を開始するやいなやナポレオンの副官がジュベールの元に到着し、総司令官の到着が近づいていることを告げ、サン・マルコの位置にしっかり留まることを求める命令を伝えました。

ジュベールは師団の退却を停止し、増援の到着を待っている間、オーストリア軍をリヴォリで迎え撃つべく防衛態勢を整えましたが、このわずかな退却の間に、トロンバローラとロヴィネの山、勝利の鍵であるサン・マルコ礼拝堂をオーストリア軍に奪われてしまっていました。

1月14日午前2時、遂にフランス軍の総司令官がリヴォリに到着しました。

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リヴォリ戦役 17 リヴォリの戦い(1797)<1st Day>

最初の激突

リヴォリに到着したナポレオンはトロンバローラやサン・マルコ礼拝堂がオーストリア軍の手中にあることを知りました。

このままではフランス軍は3方向から攻撃され、撤退を余儀なくされるだろうことは目に見えていました。

そのためナポレオンはマッセナ師団とレイ師団の到着を待たず、数的に劣勢ですがジュベール師団のみでオーストリア主力軍を攻撃することを決断しました。

ナポレオンはサン・マルコ礼拝堂を奪還し、サン・マルコ礼拝堂から斜面を降りた位置にあるサン・ジョバンニからルビアラ周辺のオーストリア部隊を追い出し、トロンバローラとロヴィネ(Rovine)の山をオーストリア軍から奪い返すようジュベールに命じました。

リヴォリの戦いにおける最初の激突はフランス軍が勝利を収め、トロンバローラ、ロヴィネ、サン・マルコ礼拝堂は再びフランス軍の手に渡りました。

攻勢の失敗とフランス軍左翼の崩壊

ナポレオンは撃退したコボロス旅団とオクスカイ旅団が態勢を立て直す前にカプリーノにいるリプタイ旅団を攻撃し、それを打ち倒すことを決意しました。

フランス軍は前進しましたが兵力差は覆せず、ジュベール師団右翼はサン・マルコ礼拝堂に追い返された上にサン・マルコ礼拝堂を放棄して後退しようとしており、師団左翼は包囲されようとしたため敗走を始めました。

オーストリア軍の攻撃に耐えていたのは師団中央を指揮するベルティエ将軍のみでした。

この時点で交戦状態にある兵数は、フランス軍約10,000人に対しオーストリア軍約15,000人であり数的に1.5倍ほどオーストリア軍が優勢でした。

ジュベール師団左翼は崩壊しつつあり、ナポレオンは危機的状況に陥っていました。

マッセナ師団の到着

午前11時頃、オーストリア軍の勝利が決定しようとしたまさにその時、第32半旅団の先頭に立ちヴェローナから一晩中行進を続けたマッセナが戦場に到着しました。

マッセナ師団中央はジュベール師団左翼を支援し、崩壊しつつあった左翼はマッセナ師団中央の後ろで態勢を立て直してリプタイ旅団に反撃を行いました。

そしてマッセナ師団中央はジュベール師団左翼と協力してリプタイ旅団を後退に追い込みました。

ルシニャン旅団のフランス軍後方への機動

正午頃、アッフィに到着していたルシニャンはリヴォリ方向への前進を開始し、リプタイ旅団と連絡線を繋ごうとしました。

ナポレオンはこれに対応するために、リヴォリに到着したばかりのマッセナ師団右翼ブルーン旅団をルシニャンの前進を阻むために派遣しましたがブルーン旅団は退却を余儀なくされました。

そこへマッセナ師団左翼モニエ旅団がガルダ湖方面からリヴォリ方向に向かっており、ルシニャン旅団とリプタイ旅団の連絡線を遮断し、ルシニャン旅団に蹴散らされたブルーン旅団と合流しました。

その後ルシニャン旅団は妨害されることなくリヴォリの南に位置するピポロ山周辺一帯を占領ました。

カスダノウィッチの後退

カスダノウィッチ将軍率いるロイス旅団はオステリアの渓谷から出現し、その出口の隆起した場所にある塹壕地帯にフランスの砲台が配置されていました。

カスダノウィッチはバルド山の尾根とアディジェ川が最も接近する隘路に部隊を突入させて隆起した場所に足を踏み入れ、残りは戦闘態勢に無いか、狭い隘路を通りリヴォリ平原に出るために列に並んでいました。

そこへベルティエ将軍率いる部隊が現れ、隆起した場所に足を踏み入れたオーストリア部隊を蹴散らして大砲を奪い返し、隘路へ向けて砲撃を行いました。

ジュベール将軍は自らマスケット銃を手にし、ベルティエによって前進を阻まれたカスダノウィッチの先頭に3個歩兵大隊を導きました。

ジュベール将軍の圧迫によって隘路に詰め込まれた状態のカスダノウィッチ率いるロイス旅団はベルティエ将軍による大砲の砲撃によって大混乱に陥り、第2列~第4列をリヴォリの戦場に残して後退して行きました。

決着

ベルティエとルクレール、そしてジュベールがカスダノウィッチに対抗している頃、マッセナはジュベール師団左翼とともにトロンバローラの高所からリプタイ旅団を完全に撃退し、ジュベール師団左翼にリプタイ旅団の追撃を任せ、自身はサン・マルコ礼拝堂方面に向かっていました。

ジュベール師団右翼をサン・マルコ礼拝堂の向こう側に押しやったオクスカイ旅団は、前哨部隊で逃亡するヴィアル旅団に対して銃撃で混乱を増大させながら追撃し、起伏が多い地形のためその隊列は崩れていましたが、そのままリヴォリ平原に足を踏み入れました。

この瞬間、ラサール中隊長は騎兵50騎を率いてヴィアル旅団の集結を保護するために前進し、オクスカイ旅団の前哨部隊約600人の前に現れました。

ラサール騎兵隊の出現はオクスカイ旅団の前哨部隊に壊滅的な影響を与え、後退はすぐに敗走に変わり、オクスカイとコボロスの敗北を見たリプタイはカプリーノを経由してパッツォンに撤退しました。

これによりこの日のリヴォリ高原におけるフランス軍の勝利が確定し、その後、リヴォリ南の高地に布陣していたルシニャン旅団もブルーン旅団、モニエ旅団、レイ師団に包囲され、完全に崩壊しました。

リヴォリの戦い<1日目>の詳細、ルシニャン旅団がどのように崩壊していったか、弟ルイ・ボナパルトの活躍などが知りたい方は詳細記事を参照してください。

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リヴォリ戦役 18 ジュベール将軍による追撃とナポレオンのマントヴァへの急行

ナポレオンはジュベール将軍にレイ師団を指揮下に加え、オーストリア軍を精力的に追撃するよう命じました。

アルヴィンチがリヴォリで打ちのめされている間、ナポレオンはアディジェ川下流域から大砲の音が轟いてきたことを知りました。

前日の13日夜11時にプロベラが遂に動き出し、アディジェ川を通過しオージュロー師団と戦闘状態に入っていました。

ナポレオンはマントヴァ方面に向かいたかったのですが、オーストリア軍が再び動き出したためその対応に追われました。

14日夕方にルシニャン旅団がリヴォリ南の高地に到着したことを知ったアルヴィンチが攻勢をかけたのです。

フランス軍は押し戻され、サン・マルコ礼拝堂やサン・マルティーノを失いました。

しかしオーストリア軍が眠りにつこうとしているところを攻撃しサン・マルコ礼拝堂の奪還に成功しました。

ナポレオンはオージュローからの連絡を待っていましたが、日付が変わっても本部に連絡が無かったためオージュロー師団との連絡が遮断されたと考えました。

同時にバヤリッヒがヴェローナを脅かしているとの報告があったため、ナポレオンはマッセナにバヤリッヒの動きを監視するために3個騎兵連隊とともにすぐにリヴォリを去るよう命じ、残りのマッセナ師団とヴィクトール旅団に翌朝にリヴォリを出発しカステルヌォーヴォに向かうよう命じました。

そして夜明け前、ナポレオンはこれらの部隊の出発とともにリヴォリを発ちました。

詳細記事ではリヴォリの戦い後のラサール騎兵中隊長とナポレオンのエピソードやラウドン旅団の状況、ルシニャン旅団の退却行、バヤリッヒ旅団の動向などのより詳しい内容を掲載しています。

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リヴォリ戦役 19 プロベラ師団によるアディジェ川渡河作戦

渡河の開始と最初の攻防

1797年1月13日夜11時、渡河準備が整うと、プロベラはアンジャーリの前を流れるアディジェ川左岸の木の生い茂った砂州に口径の異なる6門の大砲を運び込み、10隻のボートに200人の兵を乗せて渡河作戦を開始しました。

 アンジャーリ守備隊は何度か大砲を発射したが3人の兵を失った後、数で勝るオーストリア軍を前に逃げることを余儀なくされました。

 プロベラ師団によるアディジェ川渡河についての連絡を受け取ったギウ中将は、ロヴェルキアーラのボン将軍を先行させてアンジャーリに向かいました。

何も決定的なものが無いまま戦闘は正午まで続きましたが、オーストリア軍は徐々に渡河を完了させて増加していきました。

数的劣勢となったギウ将軍は、これ以上この不利な戦闘を行うことはできないと考えて退却を命じ、最高の秩序でゆっくりとロンコへ向かいました。

その後ギウ将軍は態勢を立て直し、再度プロベラ師団への攻撃を行いました。

アンジャーリでの戦闘

渡河が完了したプロベラはアンジャーリに2個大隊と騎兵の分遣隊を後衛として残し、チェレーアとサングイネットを経由するルートでノガラへ向かいました。

後衛は本体と適切な距離を保って前進する予定でした。

後衛と後衛とともにアンジャーリに残した大砲14門、アディジェ川左岸側に残しバヤリッヒ旅団の元に向かった部隊、そして今までの戦闘での損失により、プロベラ師団本体は約7,500人、大砲22門にまで減少していました。

プロベラ師団がアンジャーリでアディジェ川を渡河したことににより、オージュロー師団は完全に2つに分断されていました。

1月14日午後以降、オージュローは冷静にプロベラ師団の退路を断つことを狙っていました。

そしてアディジェ川に平行な道をたどってアンジャーリにいるプロベラ師団の後衛を攻撃しようと前進を開始しました。

プロベラ師団の後衛はオージュロー師団に包囲され、歩兵約1,500人が捕虜となりました。

そしてオージュローはこの日の内にギウ師団との連絡を再確立し、翌15日の午前中までにボナパルトとの連絡を回復しました。

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リヴォリ戦役 20 リヴォリの戦い<2日目>における両軍の事前計画

オーストリア軍の計画

アルヴィンチは1月15日朝にサン・マルコ礼拝堂とタッソ川の対岸に位置するサン・ジョバンニ村を攻撃し、これら2つの地点を占領した直後にリヴォリ盆地に向かい、アディジェ渓谷側ではロイス旅団がリヴォリ平原への道を切り開くことを計画していました。

コボロス将軍はサン・マルコ礼拝堂へ向かい、オクスカイ将軍はサン・ジョバンニを通りフランス軍右翼を攻撃する。

リプタイ旅団はオクスカイ旅団と高さを合わせて前進し、目の前のフランス軍を攻撃する。

ロイス将軍は物資が不足している第2列~第4列に供給するための食糧と弾薬を持ってアディジェ渓谷からオステリアを経由してリヴォリ平原に向かい、リヴォリ平原でコボロス旅団と合流することを命じられました。

第1列ルシニャン旅団は散り散りとなっていましたが、フランス軍はマントヴァとヴェローナに軍を分割したためオーストリア主力軍は依然として数的優位な立場を保持していました。

フランス軍の計画

総司令官に後を任されたジュベール将軍は、命令に従って師団に数時間の休息を与えた後、タッソ川を越える準備を整えました。

そして15日夜明け前にオーストリア主力軍を攻撃するために師団を4つに分割しました。

ヴィアル将軍はコボロス旅団を包囲するよう機動し、バラグアイ・ディリエール旅団はサン・マルティーノのオクスカイ旅団を正面から攻撃し、ヴォー旅団はリプタイ旅団を打ち倒して山沿いを進み、コロナへの退路を遮断し、4つ目の旅団はヴォー旅団のさらに西側を進みオーストリア軍後方の重要地点であるフェラーラへ向かうという計画でした。

この時、フランス軍は数的劣勢でしたが<1日目>の戦いで勝利しており、精神的にオーストリア軍を上回っていました。


より詳しい計画が知りたい方は詳細記事を参照してください。

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リヴォリ戦役 21 リヴォリの戦い(1797)<2nd Day>

戦いの始まり

1797年1月15日未明、アルヴィンチはまだ暗い中、軍の前進を開始させました。

コボロス将軍はサン・マルコ礼拝堂を占領し、他の列もコボロス旅団の進捗に合わせて進軍しました。

しかし午前4時、ヴィアル旅団はサン・マルコ礼拝堂を取り戻すために反撃し、4時間の戦闘の末、ついにサン・マルコ礼拝堂を保持することに成功しました。

ヴィアル旅団はこの戦闘で大きな損害を被っており、さらにヴィアル旅団の左側を担当するレイ師団の到着が遅れていたため迂回する空間が空いていました。

そこへレイ師団がようやく到着してその空間を埋め、ヴィアル旅団を支援しました。

フランス軍の攻勢

レイ師団の到着によりフランス軍の配置が完了し、攻勢を開始しました。

フランス軍の攻勢は地形が許す限り同時に実行され、オーストリア軍はどの地点においても劣勢でした。

アルヴィンチは自ら戦場の最も危険な位置に急行して指揮を執りましたが、兵士達の士気を回復させることはできませんでした。

昨日の戦いでの勝利間近での事故が兵士達の自信を、寒さと飢えが兵士達の気力と体力を奪い去っていたのです。

戦いは2時間続き、ヴィアル将軍はコボロス旅団を後退に追い込み、バラグアイ・ディリエール将軍はオクスカイ旅団をサン・ミケーレに押し戻し、ヴォー将軍はリプタイ旅団をコロナに向けて撤退させました。

コボロス旅団やオクスカイ旅団の兵士が岩壁を乗り越えてアディジェ渓谷に出現するのを見たロイス将軍は退路を心配して自身を殿としてベッルーノへの後退を開始しました。

オーストリア主力軍の無秩序な後退

フランス軍中央のバラグアイ・ディリエール将軍率いる旅団は、中央のオーストリア軍の列を追跡しましたが、サン・マルティーノに到着すると進軍速度を落とし、両翼に同心円を描く機動を完了する時間を与えました。

ジュベール師団が徐々に前進して側面攻撃を行うと、同時にオーストリア軍の3つの列はコロナとフェラーラに続く小道と峡谷に向かって無秩序に後退を始めました。

リヴォリの戦いの決着

オーストリア軍はフェラーラへの退路を断たれ、完全に包囲されました。

ジュベール将軍は降伏を呼び掛け、包囲されたオーストリア軍はそれに応じました。

これによりコロナとフェラーラの間で包囲されていた約6,000人の兵士が武器を置いて降伏しました。

しかしアルヴィンチは数人の将軍とともに、通行不能と考えられる峡谷を通って脱出していました。

アルヴィンチは秩序を保って後衛任務を果たしたロイス旅団の助けにより落ち着きを取り戻し、アーヴィオに本部を設置して再集結を命じました。

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リヴォリ戦役 22 マントヴァへ向かう道中のナポレオンの采配

ナポレオンは1月15日早朝にカステルヌォーヴォに到着し、ビラフランカを経由してロヴェルベッラへ向かいました。

その間、ジュベール将軍にリヴォリの保持を、シャボー将軍にヴェローナの保持を厳命し、プロベラ師団を追跡しているドゥガ騎兵隊にロヴェルベッラ近くのトルミネに、ギウ将軍にイーゾラ・デッラ・スカラに、連絡が途切れているオージュロー師団にプロベラ師団を追跡してマントヴァ方向に向かうよう命じました。

そして自身はマッセナ師団とともにロヴェルベッラに向かい、ヴィクトール旅団がその後に続きました。

この采配はプロベラ師団を完全に包み込む機動であり、ナポレオンはこの時点ですでに勝利を確信していました。

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リヴォリ戦役 23 プロベラ師団のマントヴァ要塞到着

1797年1月15日午前3時、プロベラ師団はノガラを出発しました。

前衛のホーエンツォレルン将軍はなにくわぬ顔でサン・ジョルジュに近づき侵入しようとしましたが、ベテランの兵士に気付かれ、阻止されてしまいました。

そこへプロベラ将軍が師団本体とともに到着しました。

プロベラはマントヴァ要塞に立て籠もるヴルムサー元帥の元に使者を派遣し、要塞を包囲しているセリュリエ師団を圧倒して合流するための計画を立案しました。

その計画は、マントヴァ要塞駐屯軍がチッタデッラ要塞から出撃するのに応じてプロベラ師団もラ・ファヴォリータ周辺とサン・ジョルジュを占領するというものでした。

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リヴォリ戦役 24 ラ・ファヴォリータの戦い<前夜>

1797年1月15日夜、ナポレオンはデュマ将軍にラ・ファヴォリータ周辺に精鋭を配置するよう命じ、連絡の繋がったオージュロー将軍にマントヴァに向かって行進するよう命じました。

そしてプロベラ師団とマントヴァ要塞駐屯軍を分断し、プロベラ師団を包囲殲滅する計画を翌朝に実行するよう各部隊に命じました。

この包囲殲滅計画が完全な形で成功すれば、マントヴァ要塞駐屯軍は要塞内に封じ込められ、ラ・ファヴォリータを攻撃すると予測されるプロベラ師団はすべての方向を遮断され殲滅されることになるでしょう。

詳細記事ではオージュロー師団の行動なども掲載しています。

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リヴォリ戦役 25 ラ・ファヴォリータの戦い

1797年1月16日午前4時半、プロベラ将軍は暗闇の中でフランス軍に見つかることなくラ・ファヴォリータの前に右翼とともに到着し、マントヴァ要塞駐屯軍が出撃してくるのを待っていました。

マントヴァ要塞駐屯軍が出撃し、プロベラ師団本体がラ・ファヴォリータに近づくと、フランス軍による一斉射撃に遭い、その後、ヴィクトール旅団が現れ、プロベラ師団とマントヴァ要塞駐屯軍の合流は阻まれました。

マッセナ師団やギウ師団、オージュロー師団などが次々と戦場に到着して取り囲み、圧倒的な兵力差によりプロベラ師団はチッタデッラ要塞とサン・ジョルジュの間に完全に包囲されました。

抵抗する手段を失ったプロベラ将軍は部下たちと協議を行い、降伏することが決定されました。

オーストリア軍は午後2時に武器を放棄し、ロヴェルベッラの本部に連行され、将軍と士官は翌17日に仮釈放され、アルヴィンチの元に向かいました。

プロベラ師団の内、バヤリッヒ旅団と合流した分遣隊含む約1,000人がアディジェ川左岸に残っており、200人の兵士がマントヴァ要塞内に入り、約800人の兵が脱出に成功し、地元住民の支援を受けてアディジェ川を越えてバラバラに分散して逃げ道を見つけたと言われています。

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リヴォリ戦役 26 マッセナ師団の行軍速度と「勝利の申し子」の異名

ラ・ファヴォリータの戦いにおいて完全に勝利した後、ナポレオンはマッセナやオージュローなどの将軍達や第4、第18、第32、第57半旅団の兵士達に向かって叫びました。

「ローマ軍は1日に24マイル(約38.6㎞)を移動した。我々の旅団は30マイル(約48.3㎞)を移動し、その間にも戦った!」

そしてこの瞬間にマッセナに「勝利の申し子(l'enfant cheri de la victoire)、直訳:勝利に最も愛された子」の異名を与えました。

ナポレオンにとってもはやオーストリア軍は脅威ではなくなっていました。

そのため後顧の憂いを断つために休戦協定を守らず策動し続けている教皇領に対する遠征を計画し、同時に各師団にオーストリア軍の残党を追い込むための休息を与えました。

詳細記事では「リヴォリの戦い」と「ラ・ファヴォリータの戦い」におけるマッセナ師団の行軍に加え、箱根駅伝に置き換えた場合や日本において最も有名だと考えられる行軍事例である「秀吉の中国大返し」なども紹介し、フランス軍の勢力下で潜伏しているルシニャン大佐の脱出についても記載しています。

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リヴォリ戦役 27 アルヴィンチの再始動とフランス軍の前進の開始

1797年1月16日、アルヴィンチはアーヴィオの本部でプロベラが14日未明にアンジャーリでアディジェ川を通過し、午前中にサングイネットに進んだという報告を受け取りました。

そのため要塞自体はともかくプロベラ師団及びマントヴァ要塞駐屯軍を救うための試みをもう一度行うことを決定しました。

翌17日に命じたアルヴィンチの計画は、2日間先行しているフランス軍に追いつかなければならないにも関わらずアーヴィオから出発してバッサーノでバヤリッヒ旅団と合流し(約90㎞の山道)、その後バッサーノからヴェローナに向かう(約80㎞の平地)という時間がかかるものであり、明らかに間に合わないと考えられるものでした。

そしてアルヴィンチはリヴォリの戦いでの敗戦の重圧により体調を崩し、本国に総司令官職を辞することを願い出ました。

一方、フランス側では、ナポレオンはマッセナ師団をヴェローナを経由してヴィチェンツァへ向かわせ、オージュロー師団をレニャーゴを経由してパドヴァへ向かわせていました。

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リヴォリ戦役 28 救出作戦の中止とバッサーノ方面への兵力の集中

1797年1月18日朝、コボロス旅団がバッサーノに出発する前の段階でプロベラ師団が降伏したという知らせが本部に届きました

アルヴィンチはヴェローナへの攻撃は断念しましたが、コボロス旅団とバヤリッヒ旅団のバッサーノでの合流は続行させました。

バッサーノはフリウーリ方面だけではなくチロル方面にも続く重要地点であり、この場所をフランス軍に占領された場合、トレント以北への後退を余儀なくされてしまいます。

そしてバッサーノ方面に兵力を配置しなければフリウーリ方面はがら空きとなり、フランス軍は何の抵抗もなくその先のケルンテン方面にまで進軍してくることは目に見えていました。

フランス軍は22日までにヴィチェンツァとパドヴァを占領し、バッサーノに近づこうとしていました。

アルヴィンチはこのフランス軍の動きに対応するためにフリウーリ方面の防衛強化を行うことを余儀なくされました。

そして、この時点でアルヴィンチにはもはやマントヴァ要塞を救出する力は無く、マントヴァ要塞は見捨てられました。

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リヴォリ戦役 29 オーストリア軍のバッサーノ集結計画とフランス軍のバッサーノへの接近

アルヴィンチは右翼としてラウドン旅団を再編成し約7,500人でチロルの防衛を一任し、ロイス旅団をバッサーノへ先行させ、自身はオクスカイ旅団、ゼッケンドルフ旅団をトレントに集結させてバッサーノに向かう準備を行いました。

そしてミトロフスキー将軍に旅団とともにバッサーノに移動するよう命じました。

一方、フランス軍側では、マッセナ師団はヴィチェンツァでバッサーノへの進軍命令が下るのを待っており、その前衛はバッサーノの近くにまで進出させていました。

オージュロー師団はカンポ・サン・ピエーロを経由してバッサーノに向かう予定であり、パドヴァを出発しました。

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リヴォリ戦役 30 コボロス将軍の憂鬱

1797年1月23日、ボナパルトは遂にオージュローとマッセナに翌24日にチッタデッラとバッサーノを攻撃するよう命令を下しました。

両師団は準備を行い、それぞれの前衛をバッサーノとチッタデッラに向けて進軍させました。

同日、バッサーノにはバヤリッヒ旅団しかおらず、2個大隊約1,500人、3個騎兵中隊、大砲5門で防衛任務を行っていました。

騎兵隊は散らばっており、コボロス旅団とミトロフスキー旅団はバッサーノへの途上にありました。

そのためバヤリッヒ将軍は、約20,000人と見られるフランスの大軍を前に後退することを決断し、夕方に後退を開始しました。

1月24日、コボロス旅団の先頭がセッテ・コムニの山々から出現した時、マッセナ師団の前衛は恐怖に陥って少し後退し、マロースティカからバッサーノへの道を開けました。

コボロス旅団はマッセナ師団の動きを警戒しつつバッサーノへ向かい、マッセナ師団の前衛は到着の遅れているオージュロ―師団の支援が無いままバッサーノへ攻撃を仕掛けることは無謀であるためヴィチェンツァに撤退しました。

このようにコボロス将軍が統率すべき3旅団は様々な状況が重なって完全に統合できませんでした。

コボロス旅団とミトロフスキー旅団はバッサーノで合流したものの、その兵種はほぼ歩兵のみであり、騎兵は半個騎兵中隊しかおらず、砲兵もほんのわずかでした。

しかも、フランス軍はすぐそこにまで迫っている状況でした。

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リヴォリ戦役 31 フランス軍によるバッサーノへの攻撃計画とアルヴィンチの出発

1797年1月25日、マッセナ師団は再びバッサーノに向かって前進しました。

オージュロー師団の進軍は大幅に遅れていましたが、なんとかチッタデッラに到着し、これを占領しました。

マッセナはオージュローにオーストリア軍の後方地域(カステルフランコとトレヴィーゾ周辺地域)を獲得することを提案しました。

オージュローはこれを受け入れ、翌26日正午に迂回を完了させ、マッセナ師団の大砲を合図としてすぐに行動に移すことを約束した。

一方、アルヴィンチは25日夜にようやくトレントからバッサーノへの進軍を開始しました。

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リヴォリ戦役 32 ブレンタ渓谷での争いとジュベール師団の前進

1797年1月26日朝、コボロス将軍は4個大隊、半個騎兵中隊を有するミトロフスキー旅団をカルパネに戻らせてヴァルスガーナをカバーし、自身はフェルトレ方面の連絡線を保護するために6個大隊でクレスパーノへ後退しました。

コボロスの撤退を知ったマッセナはバッサーノを占領し、さらにメナード旅団をカルパネに向かわせました。

一方、オージュロー師団はマッセナ師団がバッサーノに入りカルパネで戦闘を行っている間、カステルフランコを占領しトレヴィーゾに進出していました。

同じく26日、リヴォリ周辺のジュベール将軍は総司令官の命を受け、前進を開始しました。

しかしアディジェ川左岸にあるセッラヴァッレで撃退されたため、右岸側を強化しバルド山を進むヴィアル将軍との連絡を繋ぎました。

詳細記事ではオージュロー師団やヴィクトール師団、ベルナドット師団の動向なども記載しています。

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リヴォリ戦役 33 アルヴィンチのトレントへの帰還とチロル軍の危機

1797年1月26日朝、トレントからヴァル・スガーナを通るバッサーノへの道中で、アルヴィンチは、1月26日未明のコボロス将軍の報告を受け取りました。

アルヴィンチはすぐにコボロス将軍に自旅団とミトロフスキー旅団でバッサーノに戻るよう返信しました。

しかしこの命令はミトロフスキー旅団がマッセナ師団に追われていたためか実行されることはありませんでした。

アルヴィンチには戦ってコボロス旅団と合流するという選択もありましたが、マッセナ師団との戦いを避けコボロス旅団と合流できるロイス旅団のみをピアーヴェ川方面に向かわせ、残りはチロルに引き返し大回りでピアーヴェ川で合流する選択をしました。

アルヴィンチとしてはその後、ミトロフスキー旅団にヴァルスガーナを防衛させつつ、オクスカイ旅団、ホーエンツォレルン旅団、ゼッケンドルフ旅団でボルツァーノを経由し、プステリア渓谷を通り、北カリンシアのフィラハを経由して、強行軍でフリウーリの国境を勝ち取ることを計画していました。

1月27日、ラウドン将軍率いるチロル軍は後退を開始し、カッリアーノへの後退を検討していることをアルヴィンチに報告しました。

アルヴィンチはトレントへの帰還中にその報告を受け取ると危機に対応すうために翌28日にカッリアーノへ向かいました。

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リヴォリ戦役 34 チロル軍のカッリアーノへの後退とジュベール師団のロヴェレトの占領

1797年1月28日、コボロス将軍はコネリアーノに進軍し、ピアーヴェ川周辺にいるオーストリア軍全て(コボロス旅団とバヤリッヒ旅団)の指揮を執り、防衛態勢を構築しました。

同日、ジュベール将軍は再度セッラヴァッレへの攻撃を行いましたが撃退されました。

しかしアディジェ川右岸側ではオーストリア軍は後退を続けており、セッラヴァッレで善戦しているビカソヴィッチ旅団は孤立しようとしていました。

午後、アルヴィンチがロヴェレトに到着し、カッリアーノへの後退が決定され、夕方に向かって後退が開始されました。

1月29日、ジュベール将軍はさらに前進してロヴェレトを占領し、カッリアーノ周辺にまで迫りました。

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リヴォリ戦役 35 フランス軍によるトレントの占領とブレンタ渓谷の占領

1797年1月29日、ラウドン将軍は現状を確認し、カッリアーノを放棄しラヴィースとチェンブラで防衛線を構築することを決定しました。

そして1月30日の朝までには既に後退の大部分が完了していました。

同30日、ジュベール師団の前衛がトレントに入りました。

同日夜、ラウドン将軍はアルヴィンチに報告書を送りカッリアーノの放棄とラヴィースで防衛線を構築していることを知らせました。

報告書を受け取ったアルヴィンチはボルツァーノからラウドン将軍に返信し、カッリアーノからの退却とトレントの放棄を非難しました。

カッリアーノは守りやすく攻めにくい地形であり、数日は防御が可能だと考えていたのでしょう。

アルヴィンチはラウドン将軍に代わりリプタイ将軍にチロル軍の指揮権を渡して強化のために部隊を派遣し、防衛線を構築させました。

そしてトレントを占領されたことによりシェアーズ大佐率いるミトロフスキー旅団を孤立を避けるためにフェルトレへ移動させ、自身はフリウーリへの行軍を続けました。

1月31日、シェアーズ大佐率いるミトロフスキー旅団がヴァルスガーナから撤退したことを知ったマッセナは、オーストリア軍が放棄したプリモラーノとコヴォロ砦を抵抗なく征服してボルゴ・ヴァルスガーナを占領し大きな小麦粉の倉庫を手に入れ、前衛をフェルトレ方向に進軍させました。

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リヴォリ戦役 36 マントヴァ要塞の降伏とファエンツァの戦い

ラ・ファヴォリータの戦い以降、およそ28,500人を擁するヴルムサーも生き延びるための資源をほとんど使い果たそうとしていました。

個別に家庭を訪問し、教会の力を借りて富裕層が隠している食料を供出させることにより2月3日までの食糧を調達することができました。

しかしこれ以上の食糧の調達はできず、2月3日の期限まであと5日と迫っていました。

極限状態に追い込まれた元帥は、最終的に和平交渉に入ることを決意しました。

1797年1月30日、ヴルムサー元帥は会議を開き、和平交渉を行うことが決定されました。

数日の交渉の後、2月2日にサン・アントニオで降伏が行われ、マントヴァ要塞駐屯軍はマッジョーレ門を通り、端に武器と弾薬を置きました。

一方、ナポレオンは2月2日にヴィクトール師団とランヌ旅団合計約9,000人とともに教皇領へ侵攻するためにボローニャから移動を開始しました。

約4,000人と見られる教皇軍はボローニャから近いイモラ(Imola)を見捨て、セニオ(Senio)川右岸の塹壕でフランス軍を待ち受けていました。

しかし後背を衝かれた教皇軍は足並みを乱して敗北し、アンコーナ方向に後退して行きました。

詳細記事ではマントヴァ降伏までの詳細や教皇軍を指揮するはずだったコッリ中将についても記載しています。

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リヴォリ戦役 37 カール大公の出発とリヴォリ戦役の終わり

1797年2月2日、ジュベール将軍はオーストリア軍への圧力を強め、ヴァルスガーナへ進出してきたマッセナ師団と連絡線を確立しました。

そしてオージュローはナポレオンの命令通り、トレヴィーゾに前衛を残してパドヴァへ後退しました。

2月3日午前9時、マントヴァ要塞はフランス軍に引き渡され、ヴルムサー元帥とともに解放された700人の兵士は降伏してから3ヶ月間フランス軍に敵対しないことを約束してマントヴァを去りました。

要塞内ではカスティリオーネの戦い前に放棄された179門の大砲と包囲のための装備に加え、325門の大砲の材料や船上装備、60旈の旗が発見されました。

旗60旈は後日オージュロー将軍がフランス本国に届けるよう命じられました。

マントヴァ要塞が引き渡されたことにより、フランス軍は包囲のための兵力を前線に投入することができるようになり、シャボー師団をマッセナ師団の元へ派遣し、ダルマーニュ師団をレニャーゴへ派遣しました。

しかし、オーストリア軍への攻撃を開始するためには、さらなる増援を受け取り、教皇領を平定し、北イタリアのトランスパダーナ共和国とチスパダーナ共和国の内政に取り組まなければならなかったため、ボナパルトは6週間はオーストリア軍の監視を続けなければならないだろうと考えました。

ナポレオンはオーストリア軍に対しロディ、カスティリオーネ、バッサーノ、アルコレ、リヴォリの5つの戦役に勝利してその軍を破壊し、ボーリュー大将、ヴルムサー元帥、アルヴィンチ大将の3人の総司令官とその側近達の自信を失わせました。

しかし一方でフランスは主戦場と想定していたライン方面でカール大公軍に敗北を続けており、フランス国境まで追い込まれていました。

オーストリアの希望はもはや主戦場のライン方面で戦勝を続けるカール大公より他にありませんでした。

カール大公の後任は決まっていませんでしたが、オーストリア政府はイタリア方面におけるこの差し迫った危機に即時に対応しなければならなかったため長く議論することはできず、すぐにカール大公に対しライン方面を発ちイタリア方面に向かうよう命じました。

本国からの命を受けたカール大公はラトゥール将軍に指揮権を引き継ぎ、2月3日にライン方面を離れユナングから約300㎞東に位置するチロル州の州都インスブルックへ旅立ちました。

この時、カール大公25歳、ナポレオン27歳であり、オーストリア帝国とフランス共和国はともに20代の若者にこの戦争の行く末を委ねたのです。

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参考文献References

・André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第二巻」
・Geschichte der Kriege in Europa seit dem Jahre 1792, als Folgen der ..., Teil 4(1830)
・Streffleurs österreichische militärische Zeitschrift, Band 4(1833)
・Streffleurs österreichische militärische Zeitschrift, Band 1(1835)
・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III. ・その他