ボルゲットの戦い 07 Battle of Borghetto 07

ボルゲットの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約30,907人 約500人
オーストリア 約17,790人 583人(捕虜含む)

マントヴァ要塞包囲Siege of Mantua

 オーストリア軍の死傷者・捕虜合わせて583人という報告を受けたが、ボナパルトはオーストリア軍が被った被害の程度を判断することができなかった。

 騎兵隊に有利な平地で高台の麓にあるミンチョ川とアディジェ川の間でオーストリア軍ともう一戦交えなければならないと考えていた。

 ビラフランカ・ディ・ベローナへ撤退したはずであるボーリュー本体とセボッテンドルフ及びコッリの騎兵隊は、さらにベローナへ撤退するはずであり、ボナパルトはベローナへのオーストリア軍の撤退を阻止するための命令を下した。

 しかしこの命令は情報不足による的外れなものだった。

 オーストリア軍の右翼と中央は夜の間にガルダ湖の東で合流を果たしていたのである。

 恐らくナポレオンはオーストリア軍右翼(リプタイ旅団、メラス予備軍)、中央(ピットーニ旅団、ニコレッティ旅団)、左翼(コッリ、マントヴァ駐留軍)をそれぞれ分断し、右翼はチロル方面へ撤退しオージュロー師団がチロル方面へのの退路を遮断したはずであると考えており、そのためビラフランカ・ディ・ベローナにいるはずであるオーストリア軍中央はベローナへ後退すると考えていたと思われる。

 オーストリア軍がベローナへ後退するとナポレオンが考えた理由は、セボッテンドルフがゲルラから殿部隊で攻撃をしたときにビラフランカ・ディ・ベローナへと後退して行ったこと、そしてアディジェ川のライン上にあるベローナ、レニャーゴはヴェネツィア共和国が所有しているとはいえ強固な要塞であり、ペスキエーラ要塞と同じようにオーストリア軍が使用すると考えたのだろう。

 もしかしたらソンマカンパーニャ及びビラフランカ・ディ・ベローナとベローナの間にいるオーストリアの部隊をボーリュー本体の一部と勘違いしたのかもしれない。

 しかしオーストリア軍にとってはペスキエーラ要塞の使用許可を取るにも時間がかかったため、ベローナ要塞、レニャーゴ要塞のの使用許可を取るにも時間がかかると思われ、どう転ぶか分からない他国内で孤立する恐れがある。尚且つベローナ要塞、レニャーゴ要塞方面へ後退した場合、首都ウィーンへと続くチロル方面へのフランス軍の進軍を阻むものがなくなってしまう。そのためボーリューは左翼を切り離してでもチロル方面へ後退したのである。

 この時オージュローはペスキエーラ要塞の掌握に手間取っており(略奪していた可能性有り)、カステルヌオーヴォ・デル・ガルダまでしか追撃せず、ビラフランカ・ディ・ベローナからソンマカンパーニャを経由しチロルへと至る道は遮断されていなかった。恐らくセボッテンドルフはこの道を通ってボーリューと合流を果たそうとしたのだろう。

 ボナパルトはオージュロー師団の一部にペスキエーラからカステルヌオーヴォ・デル・ガルダへ移動するよう命じた。目的はベローナへのオーストリア軍の撤退を阻むためだった。

◎ナポレオンが考えていたであろうオーストリア軍の動向

◎実際のオーストリア軍の動向

 ボーリューは騎兵隊を差し向けオージュロー師団の動向を探らせた。ボーリューは部隊を集結させつつアディジェ川を奪還する計画を立てており、そのための準備をしていた。

 5月31日、コッリはカステルヌオーヴォ・デル・ガルダを出発し、ドルチェで多くの部隊の合流を指揮した。

 ボーリューはドルチェを経由しロベレトへ後退し、部隊を結集させた。後衛を任されたリプタイとセボッテンドルフはロベレトへの後退の最中、キルメイン師団から妨害を受けた。

 同日、オージュローが未だペスキエーラ要塞の掌握に手間取っている頃、マッセナは午前中にビラフランカ・ディ・ベローナへ入った。マッセナ師団は30日にビラフランカ・ディ・ベローナに後退したオーストリアの部隊と遭遇(セボッテンドルフ麾下の部隊の最後衛または脱落兵と思われる)。ほんの数回銃撃の応酬をし、その多くを捕虜とした。

 マッセナ師団は2時間ほど停止し、カステルヌオーヴォ・デル・ガルダへ向かった。チャブラン大佐が150人の騎兵隊で先行し、本営から新たな命令を受ける時間を確保するためにゆっくりと前進した。

 オージュローはペスキエーラ要塞を掌握するとボナパルトの命令でカスティリオーネ・マントヴァーノへ向かいマントヴァ要塞の偵察を行った。

 恐らくこの時点でナポレオンはベローナ方面にはオーストリア軍はいないことを把握し、当初の予定通りマントヴァ要塞の包囲作戦に入ったのだろうと考えられる。

 マッセナは夕方、オーストリア軍から攻撃を受けた部隊へチャブラン大佐を間に合うように差し向けた。チャブランはカステルヌオーヴォ・デル・ガルダへ入った。

 夜11時頃、マッセナ師団はベローナへ行進するよう命令を受けた。

◎5月31日の動き

 6月1日、ベローナはヴェネツィア共和国の領土であったが、マッセナは前衛部隊でヴェネツィア共和国の抗議を無視して占領した。3つの橋に部隊を配置し、城に軍を駐屯させ、ヴェネチア人が反乱を起こした時に備えて部隊を配備した。

 師団の残りはアディジェ川とペスキエーラ要塞の間に野営した。

◎1724年時のヴェローナ

 城壁に囲まれ、堡塁が築かれていることから要塞であることが分かる。

◎現代地図での橋、城、兵舎の位置

 さらにボナパルトはマッセナに行政官との関係に重きを置き、厳しい規律を守ることにより住民を安心させるよう勧めた。

 ベローナの占領はフランス軍にとって非常に重要だった。

 軍に良い宿舎を与え、ベローナに駐屯することによりヴェネツィア共和国への牽制となることに加え、アディジェ川の両岸に街が広がっており防衛しやすいからである。

 さらに言えば、ベローナの3つの橋(Ponte Navi、Ponte Nuovo、Ponte Pietra)はアディジェ川全域をある意味で制御できる川の中間にあり、連絡における重要な地点である。そして城塞は反乱からフランス軍を守ることができる。

 マッセナのベローナ占領を知ったヴェネツィア共和国行政責任者であるフォスカレッリはペスキエーラ要塞にいるボナパルトの元へ向かい、中立国であるヴェネツィア共和国の都市であるベローナの占領を解除するよう懇願した。

 ボナパルトは、オーストリア軍のペスキエーラ要塞での長期滞在許可をリール伯爵が出した件について指摘し、フォスカレッリを痛烈に非難した。

 フォスカレッリは数日前、オーストリア軍にペスキエーラ要塞から去るように命じられたと主張するとボナパルトは幾分態度を和らげたが、ボナパルトの口調はフォスカレッリに対して非常に強いものであったためベローナ占領の解除を諦めた。

 2日、オージュローは前衛部隊をバンコレへ移動させた。

 マッセナ師団によりベローナの街が1,000人を超える兵士たちによって略奪されるのに長くはかからなかった。

 6月3日、ボナパルトはフォスカレッリの後任であるバターリア、そしてヴェネツィア政府の最高責任者であるニコラス・エリッツォと会談を行った。

 ヴェネツィア政府はフランス軍を歓迎することを伝え、友好のあかしとしてベローナ占領軍に食料を供給することを提示した。

 ニコラスはフランス軍がベローナに長期滞在するかどうか予期できるかをボナパルトに尋ねた。

 ボナパルトはアディジェ川でオーストリア軍の通過をヴェネツィア共和国が容認する限り状況に応じてベローナに留まると答えた。

 ボナパルトはペスキエーラ要塞でオーストリア軍を歓迎したことを激しく指摘し、ニコラスにこれ以上の主張を許さなかった。そして現時点でヴェネツィア共和国がフランスとオーストリアどちらの側に付くつもりなのか予測できないと付け加えた。

 その後バターリアとニコラスに対してヴェネツィア共和国の将来の確信を持たせないまま会談を終わらせた。

 同日、ダルマーニュは4個歩兵大隊と狙撃部隊、4門の大砲でサン・ジョルジョの前線基地へ向かった。オージュロー本体はチェレセへ向かった。セリュリエは半旅団と2個大隊でラ・ファヴォリート砦を占領し、キルメインは4個騎兵中隊でゴーイトに野営した。

 ボーリューがベローナ方面ではなくチロル方面へ撤退して行ったことは想定外だったが、マッセナ師団はオーストリア軍を警戒し、オージュロー師団はマントヴァ要塞の西を、セリュリエ師団とダルマーニュの部隊はマントヴァ要塞の東を封鎖、そしてキルメイン騎兵隊はゴーイトで各師団の連絡の確保と橋の防衛を行う計画である。

 マントヴァ要塞を手中に収めることはフランス軍にとって重要だった。フランス軍が先へ進出するにしても常に後方を脅かされることになる。

 ボナパルトは後方の安全の確保のためセリュリエ中将にマントヴァ要塞包囲作戦を一任した。そして翌4日、包囲陣を完成させたのである。

 1796年6月4日、オーストリア軍約14,000人の立て籠もるマントヴァ要塞はフランス軍によって完全に包囲され、これ以降、マントヴァ要塞を巡る戦いが始まることになる。