【詳細解説】バッサーノ戦役【第一次イタリア遠征】

ロヴェレトの戦い、第一次バッサーノの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロヴェレトの戦い:約32,000人
第一次バッサーノの戦い:約22,000人
ロヴェレトの戦い:数百人
第一次バッサーノの戦い:約400人
オーストリア ロヴェレトの戦い:約14,000人
第一次バッサーノの戦い:約8,100人
ロヴェレトの戦い:7,000人以上(死傷者と捕虜)、大砲28門、軍旗7旗
第一次バッサーノの戦い:死傷者約600人、捕虜約3,000人、大砲35門、軍旗5旗

ガルダ湖畔の戦いの後の戦役である「バッサーノ戦役」について詳細に知りたい方向けの記事です。

本記事では第一次イタリア遠征におけるマントヴァ要塞を巡る2回目の戦役である「バッサーノ戦役」について時系列に沿って経過をまとめまています。

フランス軍側だけではなく、オーストリア軍側の戦略も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたのでバッサーノ戦役について詳しく知りたい人や戦術好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。

バッサーノ戦役 01 戦役開始前の両軍の状況

1796年8月、ナポレオンは「ガルダ湖畔の戦い」に勝利し、オーストリア軍をロヴェレトとトレント周辺にまで押し込みましたがフランス軍の状況は悲惨なものでした。

失った兵力の回復は遅く、重要な補給路の1つは山賊により遮断されていました。

そのためフランス軍は食糧難に喘いでおり、特にマッセナ師団の兵士たちはカビの生えたパンも口にしていたほどでした。

対するオーストリア軍もフランス軍同様ボロボロでした。

補給のために多くの輜重隊が行き来しているにも関わらず、自給自足を強いられ、特に服や靴を欲していました。

両軍とも、とても侵攻できる状況にないように見えました。

そんな時、オーストリア皇帝からの使者が「再侵攻計画を立案せよ」という内容の書簡を携えてきました。

オーストリア皇帝は早急にマントヴァ要塞を救出することを望んでいました。

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バッサーノ戦役 02 フランス本国からの侵攻計画

ナポレオンが食糧難の対応に奔走している頃、ナポリ王国軍が動き出しました。

マリー・アントワネットの姉でありナポリ王国摂政であるマリア・カロリーナは教皇領との国境付近に約24,000人のナポリ王国軍を移動させました。

ナポレオンにとってナポリ王国軍の動きは目的が不明なものであり、その対応としていくつかの半旅団を派遣せざるを得ませんでした。

そして1796年8月下旬頃、フランス本国からの侵攻計画がナポレオンの元に届きました。

数日後にミュンヘンを占領できるはずであるモロー将軍とナポレオンの共同でチロルに根を張るヴルムサー元帥を打ち破り、ジュールダン将軍率いるサンブレ・エ・ムーズ軍、モロー将軍率いるライン・モーゼル方面軍、ボナパルト将軍率いるイタリア方面軍の3軍を合わせてドイツ方面からウィーンに攻め上る計画でした。

ナポレオンはすぐに侵攻準備に取り掛かりました。

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バッサーノ戦役 03 オーストリア軍の侵攻計画とフランス本国の戦略の崩壊

オーストリア軍は軍を2つに分割しました。

1つはアディジェ渓谷の狭隘な地形を利用してチロル方面を防衛するダヴィドウィッチ師団約14,000人。

2つ目はヴァルスガーナとブレンタ渓谷を通過させてバッサーノに向かいメサロス師団約11,000人と合流するセボッテンドルフ師団とカスダノウィッチ師団計約9,000人です。

その後、メサロス師団はヴェローナでフランス師団と相対しつつ、セボッテンドルフ師団とカスダノウィッチ師団でマントヴァ要塞を救出し、ミンチョ川を北上してダヴィドウィッチ師団と相対しているフランス軍を挟撃するという計画でした。

この計画が決定された時、8月24日に行われたフリードベルクの戦いの敗戦が伝えられたため計画は審議に戻されましたが、同日に行われたアンベルクの戦いにカール大公軍が勝利したことでこの計画は承認されました。

詳細記事ではオーストリアの英雄カール大公が活躍したアンベルクの戦いについても記載していますので、知りたい方は参照してみてください。

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バッサーノ戦役 04 ロヴェレトの戦い

1796年9月1日、ナポレオンはチロルへの侵攻計画を立案し、準備を行いました。

ヴォーボワ師団はイドロ湖周辺からガルダ湖北岸を通りアディジェ渓谷にあるセッラヴァッレでマッセナ師団と合流する命令を受け、マッセナ師団はアディジェ渓谷を左岸側から北上するよう命令を受けました。

オージュロー師団はヴェローナかラ北上し、マッセナ師団の右で支援を行うよう命令を受けました。

そして9月2日正午頃、侵攻作戦が開始されました。

マッセナ師団はボルゲットのオーストリア軍前哨基地を占領し、アラ、セッラヴァッレでビカソヴィッチ旅団を後退させ、最初の難攻不落の地点であるマルコをヴォーボワ師団との挟撃により占領しました。

その後ロヴェレトを占領して北上しましたが、そこにピエトラ城が立ちはだかりました。

スポーク旅団の前衛部隊を指揮するヴァイデンフェルト大佐は、アディジェ川とピエトラ城の建つ急な山々の間で狭くなっていきカッリアーノへ繋がっている幅約80mほどの渓谷の底で待ち受けていました。

谷底ではオーストリア軍の戦列が防衛体制を整えており、すべての大砲が戦闘地点となるピエトラ城のふもとの隘路に向けられていました。

難攻不落の様相を見て取ったナポレオンは自ら指揮を執りました。

フランス軍の大砲と大胆な一斉射撃に怯んだオーストリア軍の一部が後退すると、それが呼び水となりオーストリア軍は徐々に後退していきました。

カッリアーノまで攻め込まれたオーストリア軍はトレントまで敗走しましたが、そのトレントもフランス軍の接近により9月5日に放棄し、チロル方面に後退しました。

このロヴェレトの戦いにおいて、フランス軍の損害は数百人程度でしたが、オーストリア軍の損害は死傷者と捕虜合わせて7,000人以上、大砲28門、軍旗7旗を失ったと言われています。

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バッサーノ戦役 05 ダヴィドウィッチ師団の脱落とバッサーノへの追跡

1796年9月5日正午過ぎ頃、ヴルムサーがバッサーノへ向かったことを知ったナポレオンはすぐにヴルムサーの動向を探るために偵察部隊を放ちました。

そしてヴルムサーの位置を知ると、トレントのすぐ北に位置しアヴィーシオ川の向こうにあるラヴィースで待ち構えているダヴィドウィッチ師団を追い払う時間があると判断しました。

ラヴィースにいるダヴィドウィッチ師団をそのままにしておくことは後方を脅かされる危険に常にさらされることを意味します。

そのためヴルムサーと相対する前にダヴィドウィッチ師団を追い払い、後方を脅かされる危険を取り除く必要がありました。

ナポレオンはオージュロー師団にヴルムサーを追跡させ、自身はマッセナとともにラヴィースに向かいました。

1796年9月5日午後6時頃、ナポレオンとマッセナはラヴィースのダヴィドウィッチの前に到着し攻撃を開始しますが、最初の攻撃は撃退されました。

その後ヴォーボワ師団が到着し、再度攻撃を行いダヴィドウィッチ師団を敗退させました。

ヴルムサーの計画は大きく狂い始めていました。

フランス軍の後方を脅かすはずが、逆に自身の後方を脅かされることになったのです。

ヴルムサーはチロルに戻ることもできず、バッサーノに向かうしかありませんでした。

ナポレオンはすぐさまマッセナ師団にヴルムサーの跡を追わせました。

対するオーストリア軍はカスダノウィッチ師団の3分の2で後衛旅団を形成し、バッサーノから北に20㎞ほどの渓谷に位置するプリモラーノで防衛体制を整えていました。

オージュロー師団の前衛がオーストリア軍の後衛旅団を発見し、幾度もの近接戦の後、オーストリア軍後衛旅団はコヴォロ砦への後退を余儀なくされました。

オージュローは山岳地で視界が見通せない中でコヴォロ砦を取り囲み、ブレンタ川の対岸からコヴォロ砦への出入口を発見し、そこへ部隊を向かわせ門を無理矢理こじ開けました。

オーストリア軍の後衛部隊は反対側の門から逃亡し、三度目の抵抗を試みようとしましたが、ミヨー将軍の突撃により降伏しました。

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バッサーノ戦役 06 第一次バッサーノの戦い

1796年9月8日午前7時頃、フランス軍はバッサーノ北のブレンタ渓谷で待ち受けているオーストリア軍の前に到着しました。

ナポレオンとしてはヴェローナ方面にいるメサロス師団約11,000人が到着する前に戦いを終わらせる必要があり、短期決戦を望んでいました。

ナポレオンはブレンタ川の両岸から軍を南下させ、狭隘なブレンタ渓谷を防衛する3個旅団を粉砕し、その内2人の旅団司令官を捕らえました。

カスダノウィッチはバッサーノの野営地に入り、バッサーノの町に警鐘が鳴り響きました。

ヴルムサーは野営地にいるセボッテンドルフに歩兵を率いてブレンタ川の右岸側から南下してくるマッセナを捕らえるよう命じバッサーノの町を通りヴェッキオ橋を渡ろうとしました。

しかしそこへマッセナ師団に粉砕されて秩序を失ったロベルテラ旅団の逃亡者がバッサーノに向かって殺到したことにより、セボッテンドルフは橋を渡ることも町を防衛することも困難な状況に陥りました。

そこへ1個歩兵大隊、1個騎兵大隊のみでブレンタ渓谷を抜けたオージュローがヴェッキオ橋の手前まで進軍し、オーストリア軍に対し大砲での砲撃とマスケット銃での射撃を行いました。

混乱によりセボッテンドルフは対応できず、南のチッタデッラ方向への後退を余儀なくされました。

セボッテンドルフはヴルムサーの撤退を支援しながら後退し、カスダノウィッチはセボッテンドルフ師団に合流しようとしました。

しかし荷馬車の渋滞に遭遇し、しかもヴェッキオ橋を渡ったマッセナ師団の部隊に先回りされたことにより合流は実現することは無く、カスダノウィッチ師団はカステルフランコに逃れました。

第一次バッサーノの戦いにおいてフランス軍は死傷者・捕虜などを合わせて約400人を失い、オーストリア軍は死傷者約600人、捕虜約3,000人、大砲35門、いくつかの弾薬ケース、32隻のボートと2人の船員、軍の手荷物の一部と軍旗5旗を積んだ約200台の荷馬車を失ったと言われています。

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バッサーノ戦役 07 マントヴァ要塞への退却行

1796年9月8日夜、ダヴィドウィッチ師団、カスダノウィッチ師団と切り離されたヴルムサーの元には無傷のメサロス師団とバッサーノで打ち倒されたセボッテンドルフ師団の残骸しか残されていませんでした。

現有戦力ではナポレオンに対抗することはできない状況でした。

ヴルムサーはメサロス師団をマントヴァ要塞に向かわせ自身はフリウーリ方面に逃れることもできましたが、マントヴァ要塞に向かうことを決断しました。

ヴルムサーは最優先に占領しなければならないレニャーゴまでは順調に行軍できましたが、その先にあるチェレーアをマッセナ師団に先回りされて奪われてしまいました。

しかしオット旅団の活躍によりチェレーアとそこに架かる橋を奪い返すことに成功しました。

ヴルムサーはこれに危機を感じ9月11日にレニャーゴを出発しました。

ですが、ヴルムサーの進軍方向ではマントヴァ要塞を封鎖しているソーゲ師団がヴルムサーの進路上に架かるカステル・ダーリオ付近にあるソルガ橋を壊している最中であり、ヴルムサーはそれを察知しました。

前方にはソーゲ師団、右後背からはマッセナ師団、後方からはオージュロー師団が迫ってきており、完全に包囲されてしまったように思えました。

しかし、ヴルムサーに幸運が訪れます。

村人がソーゲがまだ落としていない橋のあるヴィッリンペンタへ案内してくれたのです。

ヴルムサーはヴィッリンペンタに行き橋を渡ることができただけでなく、ソーゲ師団と正面から対決することを避けることができました。

そして9月12日、ヴルムサー本体はマントヴァ要塞北に位置するチッタデッラ要塞の斜堤まで行き、オット旅団とファンク旅団にカステル・ダーリオのソーゲ師団を排除するよう命じました。

カステル・ダーリオにるソーゲ師団の部隊は約10,000人と思われていましたが、実際には1,000人と少しでありソーゲはカステル・ダーリオを放棄してゴーイトに撤退しました。

かくしてヴルムサーはいくつもの困難を乗り越えマントヴァ要塞への退却行を成功させたのでした。

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バッサーノ戦役 08 ヴルムサーの封じ込め

1796年9月13日、ヴルムサーはチッタデッラ要塞周辺に列を形成していました。

ヴルムサー率いる救援軍がマントヴァ要塞周辺にいることで要塞駐屯軍の活動範囲が広がり飼料の入手が容易になっていました。

そのためナポレオンとしてはヴルムサー率いる救援軍をマントヴァ要塞内に封じ込め、早急に飼料を手に入れる手段を奪う必要がありました。

飼料不足によって馬を殺し、マントヴァ要塞内のオーストリア軍の活動範囲を狭めることが目的でした。

ナポレオンは各師団に行軍を早めるよう命令しました。

マッセナ師団はカステル・ダーリオに向かい、ソーゲ師団はオーストリア軍の前哨基地のあるラ・ファヴォリータに向かって進軍しました。

オージュローは過労により病気になり、師団の指揮をボン将軍が代行し、ゴヴェルノロに向かって進軍しました。

ソーゲはラ・ファヴォリータに到着するとすぐに攻撃を開始し、戦闘開始当初優勢に戦局を進めていましたが、オーストリア軍の増援部隊がソーゲの後方を脅かしたため、包囲される危険を察知したソーゲは後退しました。

9月14日夜明け頃、マッセナはカステル・ダーリオからマントヴァまでカステルベルフォルテを経由して進軍しました。

カステルベルフォルテにはヴルムサーの前衛部隊がおり、戦闘になりました。

一進一退の攻防が繰り広げられ、戦闘は翌日の夜明けまで続きました。

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バッサーノ戦役 09 サン・ジョルジュの戦い

1796年9月15日夜明け頃、マントヴァ要塞駐屯軍はフランス軍に完全に包囲される前に飼料を手に入れるために全体的に出撃しました。

ほぼ同時にカステルベルフォルテの前衛旅団と騎兵隊は撤退しました。

ヴルムサー率いる救援軍は要塞駐屯軍による採餌活動を保護しました。

マントヴァ要塞から出撃してくるオーストリア軍を見たソーゲ将軍は、ラ・ファヴォリータを攻撃してマントヴァ要塞から出撃してきたオーストリア軍を封じ込めるよう命令しました。

ソーゲはドラッソ村でオット旅団と一進一退の戦闘を繰り広げましたが、ソーゲの元に砲兵隊が到着したことにより形勢はソーゲに傾き、オットはラ・ファヴォリータに退却しました。

オットはラ・ファヴォリータで旅団を結集させ、ヴルムサー本体からの増援を受けて持ちこたえました。

午後2時頃、ボン将軍率いるオージュロー師団がボルゴ・カステレットにあるオーストリア軍の前哨基地を攻撃しました。

ヴルムサーはオージュロー師団に対抗するためにコルテ・テンカ方面に右翼と中央の一部を向かわせました。

これを見たナポレオンはマッセナに師団の大部分でサン・ジョルジュを攻撃するよう命じました。

この時、ヴルムサーは中央から左右両翼に多くの増援部隊を派遣していたため、中央の兵力が減少していました。

しかし、サン・ジョルジュが奪われようとしているのを見たヴルムサーは中央から部隊を派遣してこれを救おうとしました。

同時にランポン旅団はヴルムサーが派遣した部隊を止めようとメッツォ湖方向に向かいました。

オージュロー師団と戦っていたオーストリア軍右翼は、サン・ジョルジュの方向から大砲の音を聞くと退路を遮断されることを恐れて後退しました。

しかし、ヴルムサーが派遣した部隊が到着する前にサン・ジョルジュはフランス軍の手に落ち、そのため右翼はサン・ジョルジュの前を通りチッタデッラ要塞方向に退却しました。

オーストリア軍右翼はオージュロー師団と交互に銃弾を交わしながら後退し、ヴルムサーがサン・ジョルジュに派遣した部隊はランポン旅団によって足止めされていました。

そこへマッセナ師団本体が加わり、オーストリア軍右翼とサン・ジョルジュの救援に向かった部隊を完全に包囲しました。

3時間の戦いの末、一部は武器を置いて降伏し、その他の者は湖に押し込まれ、チッタデッラ要塞に向かって無秩序に泳いで逃亡しました。

この戦闘でオーストリア軍右翼と中央の一部は約300人~400人が溺死し、多くが捕虜となり、8門の大砲を失ったと言われています。

マッセナ師団とオージュロー師団がオーストリア軍右翼と中央からの増援部隊と戦いっているとき、マッセナ師団右翼のピジョン旅団とベルティン旅団はラ・ファヴォリータで戦っていました。

この時ソーゲ師団は兵を引いており、2個旅団のみで戦闘を行っていました。

チッタデッラ要塞から放たれた砲弾が降り注ぐ中、ピジョンとベルティンは奮戦し、オット旅団をラ・ファヴォリータから追い出し占領しました。


サン・ジョルジュ戦いでオーストリア軍は2,500人の兵士と25門の大砲を失い、マッセナ師団は1,500人が死傷、または捕虜になり、ヴィクトール将軍、ベルティン将軍、サン・ティレール将軍、メイヤー将軍が重傷を負ったと言われています。

サン・ジョルジュの戦いの後、ヴルムサーはマントヴァ要塞内に避難しプスターラ門前のティーと呼ばれる防衛施設とチェレセ門前のミリアレットの塹壕の間に宿営しました。

ダヴィドウィッチはチロルに13,600人、カスダノウィッチはイゾンツォ(Isonzo)川に2,000人、シュビルツはポンテッバ(Pontebba)と(タルヴィス)Tarvisに1,600人、3,600人は伯爵領のフォアアールベルク(Vorarlberg)にいました。

オーストリア軍による2回目のマントヴァ要塞救出作戦は失敗に終わり、バッサーノ戦役は幕を閉じました。

しかし、オーストリア軍は未だマントヴァ要塞を諦めておらず、チロルとフリウーリに兵力を集結させていました。

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参考文献References

André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第二巻」
アンドレ・マルロー編、小宮正弘訳 「ナポレオン自伝」
その他