レオーベンへの道 25:タルヴィスの戦い
Road to Leoben 25 : Battle of Tarvis ( 1797 )

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

タルヴィスの戦い(タルヴィジオの戦い)の始まり

◎タルヴィスの戦いの始まり

 1797年3月23日夜明け、ブルーン将軍は第75半旅団で前衛を形成し、ゴントルイユの斥候部隊を追い返し、最前線で追跡した。

 しかし、オーストリア軍の砲兵隊が小さな橋の出口を砲火で覆い、それに続いた騎兵隊の行動を地面を覆う氷が妨害したため、ブルーン将軍はモッテ(Motte)将軍が率いる第18半旅団の所まで後退することを余儀なくされた。

 ブルーン旅団の後退により、ゴントルイユ旅団の散兵は瞬く間に失った右の高地を奪還した。

 そしてその後、ブルーン将軍は態勢を立て直し、最前線に立った。

 ブルーン将軍は第75半旅団の再編成を行った後、午後2時にゴントルイユの散兵を一掃し、高地でゴントルイユの右側面を覆っていた5個中隊を追い出した。

カール大公の到着と前線への増援の派遣

 オクスカイ将軍は旅団とともに行進し、ある程度の距離を保って後方から支援することを考えていたため、この時点でゴントルイユ旅団の元にすぐには駆け付けることは無かった。

 午後4時、カール大公は戦場に到着すると同時に、失地回復のために自らの護衛から騎兵隊をゴントルイユ将軍に率いさせて派遣し、後方にいるオクスカイ旅団を呼び寄せた。

 しかし、ゴントルイユ将軍率いる騎兵隊は敗退し、ゴントルイユ将軍自身も負傷した。

オーストリア軍の混乱とフェダック中佐の勇戦

◎タルヴィスの戦いにおける勝敗の決定

Battle of Tarvis ( 1797 )

 マッセナはオーストリア軍の退路を遮断するために1個半旅団をタルヴィジオに向かわせた。

 妨害するものを打倒し、押しのけつつ真っ直ぐタルヴィジオに向かって前進する1個半旅団を見たゴントルイユ旅団の歩兵は危険を察知して散り散りに逃走を始め、峡谷で態勢を立て直そうとしていたカール大公の護衛の騎兵隊と前線に到着したオクスカイ旅団を巻き込み、秩序を失わせた。

 カール大公は最前線で秩序を回復しようとしたが、同時に最大の危機に直面していた。

 危機を回避するためにフェダック中佐が2個騎兵中隊でフランス軍が迫ってきている隘路に立ち向かった。

 そして重傷を負い、捕虜となるまでその隘路を塞いだ。

マッセナ師団によるタルヴィジオの占領とバヤリッヒ師団の孤立

 オーストリア軍はコッカウ(Coccau)まで後退し、そこでフランス軍の前進を止めた。

 オクスカイ将軍は、旅団の6個中隊とともにポドコーレン(Podkoren)への道を進むことができ、そこから砲兵隊はイェセニツェ(Jesenice)に移動した。

 この戦いでのオーストリア軍の損失は深刻なものだったが、散らばった多くの部隊の一部はフィラハやクラーニに集結した。

 カンポロッソとタルヴィジオでの戦いの結果、バヤリッヒ師団はプレディルの峠に取り残された。

◎マッセナ師団によるタルヴィジオの占領とバヤリッヒ師団の孤立

 そのため、カール大公は山を登りトレンタ(Trenta)やボービン湖を経由するルートでクラーニに逃れることができるという内容の書簡をバヤリッヒ将軍に送った。

 しかし、この時点で既にクルジェ砦はフランス軍の手中にあり、カール大公のアドバイスは遅すぎた。

クルジェ砦の陥落とバヤリッヒ師団の降伏

◎1610年頃のクルジェ砦見取り図

1610年頃のクルジェ砦見取り図

 1797年3月23日朝、ギウ師団がクルジェ砦の前に到着した。

 コボロス将軍は歩兵500人で強い抵抗を示し、ボン将軍とヴェルディエ将軍は砦を迂回し、砦を見下ろせる高地(現在のヘルマン砦(Fort Hermann)がある場所)に砲兵隊を確立した。

 午後1時、攻撃が命じられ、クルジェ砦は陥落した。

 クルジェ砦を通過したヴェルディエは、バヤリッヒの後衛を攻撃した。

 バヤリッヒ師団は狭い峡谷で前後を圧迫され、抵抗も空しく師団とともに降伏を余儀なくされた。

 それにも関わらず、バヤリッヒ師団の内の約800人はその士官達とともにポドコーレンのオクスカイ旅団の元に逃亡し、3個歩兵中隊の多くが山を越えてクラーゲンフルトに到着した。

 22日~23日の一連の戦いにおけるオーストリア軍の損失は、兵士2,500人、大砲25門、荷車400台であり、クルジェ砦での戦闘でギウ師団は歩兵500人とコボロス将軍を捕虜としたと言われている。

 この損失にロンガローネ、グラディスカ、カサソーラ、ポンテッバなどでの損失を加えると、3月10日以降、フリウリ軍は17個大隊、3個中隊、34個中隊が減少した。

 死亡、負傷、捕虜などを含めてオーストリア軍の損害は騎兵約500騎を含む約14,000人が失われたと言われている。

 その内の散り散りになった兵達は約数千人がそれぞれの道を通って各軍に合流を果たした。