レオーベンへの道 52:ヴェロネーゼのイースターの終結
Road to Leoben 52
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:死者と負傷者の合計約500人 タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
戦いを求める民衆達とフランス軍のヴェローナへの接近
1797年4月19日、これまで各地でフランス軍に対抗してきたヴェネツィア軍とテラ・フェルマの民衆達は劣勢に陥った。
レニャーゴでヴィクトール師団に敗北し、ガルダ湖東岸の町バルドリーノ(Bardolino)は封鎖され、ヴァレッジョを失ったマッフェイ将軍は歩兵900人と騎兵250騎を率いてソンマカンパーニャに後退した。
◎1797年4月19日時点でのヴェローナ周辺の情勢
マッフェイ将軍はソンマカンパーニャに部隊を残し、指示を仰ぐためにヴェローナへ向かった。
ソンマカンパーニャの部隊はフェッロ大佐が率いることとなった。
ヴェネツィア政府は民衆達を落ち着かせバランド将軍との交渉を再開するよう説得したが、民衆達は戦いを求めた。
そして戦いは激しさを増した。
午後、バランド将軍との停戦交渉を終えたナイペルク伯爵はヴェローナの民衆達に「もし停戦期間終了後も抵抗が継続されているなら、あなたたちを助けるために必ず戻ってくるだろう」と言い残してヴェローナを去った。
そしてこの頃、ヴィクトール師団とミオリス旅団もヴェローナに向かって行軍していた。
フランス軍前衛隊のヴェローナへの接近
4月20日未明、ついにシャブラン旅団の前衛であるラホーズ旅団とシュヴァリエ旅団がペスキエーラとの間の街道に現れた。
20日夜明け、旅団司令官ラホーズは600人を率いてペスカンティーナへ向かい、野営地との間の連絡を確立するために川に置かれたボートを奪取することを目的とした。
旅団長ルモワーヌ少将は軽歩兵を指揮し、1,000人の農民の砲火と銃撃の中、アディジェ川を泳いでボートを奪取することに成功し、それを使ってラホーズ旅団はアディジェ川を通過した。
その後、武器を持った民衆達はぺスカンティーナに撤退した。
しかしラホーズは民衆達をぺスカンティーナの街から追い出すことができなかったため、街を砲撃した。
民衆達はぺスカンティーナから避難し、ラホーズ旅団の兵士たちは捕虜となっていたキウーサ砦の守備隊の一部を解放した。
その間シュヴァリエ旅団はヴェローナへ向かい、翌21日、ラホーズ旅団はサン・ジョルジョ門の前に向かった。
ヴェローナへの集結
キルメイン将軍はオーストリア軍と期限付きの停戦協定を締結するだろうことを既にシュヴァリエ将軍からの連絡により把握しており、テラ・フェルマの反乱を鎮圧するのに全力を尽くした。
補給所から利用可能な兵力を引き出し、テラ・フェルマのフランス軍のほとんどをヴェローナへ向かわせた。
ラホーズ将軍とランドリュー将軍率いる歩兵3,000人、騎兵900騎、大砲16門はヴェローナに接近しつつあり、コウトー(Couthaud)将軍も1,200人を率いて同じ地点を行進した。
シャブラン将軍が率いる1,200人はデゼンツァーノを通過していた。
これら4つの縦隊がヴェローナへ向かう途中、キエーヴォ(Chievo)とサンタ・ルチア(Santa Lucia)でマッフェイ将軍指揮下の部隊と遭遇し、マッフェイ将軍の部隊の一部はヴェローナに撤退した。
キルメイン将軍によるヴェローナ攻略のための再編成と再配置
◎ヴェローナの半包囲
これら4つの縦隊(第1縦隊:ラホーズ旅団、第2縦隊:ランドリュー旅団、第3縦隊:コウトー旅団、第4縦隊:シャブラン旅団)は連続してヴェローナの前に到着し、少数の分遣隊によって強化され、キルメインによって次のように再編成と再配置が行なわれた。
第1縦隊はランドリュー少将が指揮し、歩兵555人、騎兵410騎を擁し、サン・ゼーノ門からアディジェ川の河岸に布陣した。
第2縦隊はラホーズ少将が指揮し、歩兵1,750人、騎兵250騎、大砲8門を擁し、ペスカンティーナからサン・ジョルジョ門までのアディジェ川上流域の川岸に布陣した。
第3縦隊はシャブラン少将が指揮し、歩兵1,900人、騎兵115騎、大砲8門を擁し、ヴェローナのパリオ門(Porta Palio)とヌォーヴァ門の間にあった。
第4縦隊はシュヴァリエ少将が指揮し、歩兵2,645人、騎兵225騎、大砲3門を擁し、ヌォーヴァ門から3キロ下までのアディジェ川の岸辺に布陣した。
こうしてキルメインはヴェローナを包囲するために1,000騎の騎兵を含む約7,800人の戦闘員を集めた。
しかし6,000人の兵力を有するヴィクトール師団にトレヴィーゾを支援するために後退するよう命じ、現有戦力でヴェローナでの反乱に対処しなければならなくなった。
ヴィクトール師団をトレヴィーゾへ後退させたのは、恐らくバラグアイ・ディリエール師団がジュベール将軍の元に留まることとなったからだろう。
これによりヴィクトール師団でヴェローナの東側を包囲し、ヴィチェンツァとの連絡線を遮断することはできなくなった。
シャブラン将軍による降伏勧告とヴェローナでの戦闘
シャブラン将軍は使者を派遣し、ヴェローナ市に降伏を求めた。
20日午前11時頃、使者はシャブランの元に戻ってきたが、はぐらかされた返答があるのみだった。
同じ頃、マッフェイ将軍が、孤立したフェッロ大佐の部隊をヴェローナに引き入れるためにサン・ゼーノ門の兵力とともに出撃した。
しかし、サン・ゼーノ門前に布陣するランドリュー旅団に撃退された。
その間、フェッロ大佐指揮下の8門の大砲を有する歩兵900人と騎兵250騎は自発的にソンマカンパーニャに集まった3,000人もの武装農民で補強することができた。
フェッロ大佐の部隊はソンマカンパーニャから出撃してサンタ・ルチアを攻撃してヌォーヴァ門前のフランス軍右翼を後方から圧迫した。
正午頃、フェッロ大佐の部隊は8門中5門の支援砲撃の下でサン・マッシモに北上し、ペスキエーラへと続くフランス軍の退路を遮断するためにクローチェ・ビアンカ(Croce Bianca)村を占領し、そこに布陣した。
シャブランは第64半旅団の第3大隊と猟騎兵200騎を率いてクローチェ・ビアンカに進軍した。
戦闘は長い間決着がつかなかった。
そのためクローチェ・ビアンカへの攻撃を支援するために2回目の出撃が行われた。
ランドリュー将軍は第58半旅団とロンバルディア軍分遣隊、そして馬砲兵25騎を率いクローチェ・ビアンカを攻撃し、フェッロ大佐の部隊をヴェローナ方向に押し戻した。
そこからランドリューは騎兵50騎をフェッロ大佐の部隊の右側に向かわせて主力から切り離し、その間に軽歩兵の分遣隊が正面攻撃を行なった。
それにも関わらず、ランドリューの側ではフェッロ大佐の部隊がある程度の前進を見せていた。
しかしそこへ第13半旅団の到着し、戦闘は再びフランス軍に有利となった。
ヴェネツィア兵は大砲の支援の下、塹壕にいた農民達を置き去りにして逃走した。
デヴォー(Devaux)将軍はポーランド軍所属の200人の先頭に立ってそこに急行し、大砲を奪取して即座に砲撃を行なった。
家から家へと追われたヴェネツィア兵たちは砦に逃げ込み、そこから一斉射撃を行った。
シャブランはこの堡塁に対して榴弾砲を向けると、堡塁は即座に爆発してひどい被害を引き起こした。
この爆発でヴェネツィア兵500人とフェッロ大佐が死亡した。
フランス軍はこのチャンスを逃さず、パリオ門とヌォーヴァ門側でも前進した。
デヴォー将軍は旗を奪い、シュヴァリエ将軍は逃亡者たちを追跡した。
しかしヴェローナ要塞からの砲撃によって追い返され、フランス軍は以前の陣地を占領して態勢を立て直すために後退した。
ヴェローナの包囲の継続と休戦交渉
4月21日、ヴェローナは包囲されており、ヴェローナの街の中ではカレール率いるフランス部隊の立て籠もるヴェッキオ城やバランド将軍の部隊の立て籠もるサン・ピエトロ城とサン・フェリーチェ城の周囲を民衆が包囲していた。
休戦交渉が行なわれたが、ヴィチェンツァから1,400人の援軍が到着したこともあり、結論が出るまでに至らなかった。
この日、ラホーズ旅団はようやくサン・ジョルジョ門前に到着した。
ヴェローナの降伏
4月22日朝、フランス軍はサン・ゼーノ門を破壊するために砲台の設置を開始した。
しかしヴェローナ要塞からの砲撃によりフランス軍は撤退を余儀なくされた。
この時、ラホーズ側はサン・ジョルジョ門で手をこまねいていたわけではなく、城塞内のバランド将軍と協力してヴェッキオ城に物資を供給していた。
22日、ラホーズは出発してカステルヴェッキオ橋から城に入ろうとし、一日中活動を続けていた。
大隊指揮官カレールが出撃し、ヴェネツィア側の銃を釘付けにし、15日分の食料を運び入れることに成功した。
同日、ヴェネツィア政府からヴェローナ市に降伏を求める書簡が届いた。
フランスとオーストリアの和平が成立したことを知ったヴェローナ首脳部は今後の方針を決めるために会合を開いた。
ヴェローナ首脳部は理性に従い降伏の準備をすることが決定された。
翌23日、軍指導者らは街頭を歩き、戦闘の停止を呼びかけた。
民衆は軍指導者等の呼びかけに従い戦闘を停止した。
午後2時、議員がサン・フェリーチェ砦に来訪し、ヴェローナの降伏について話し合うためバランド将軍との面会を求めた。
降伏は翌24日正午に決定し、その日の残りは両陣営とも敵意を抱くことなく過ぎ去った。
その後、ヴェローナに集まった民衆の武装が解除され、ヴェローナの熱狂は沈静化し、ヴェローナはフランス軍によって完全に占領された。
テラ・フェルマの反乱の鎮圧とヴェローナの略奪
その後、シュヴァリエ将軍は、最近蜂起してガヴァルドとガルドネのフランス軍陣地を攻撃したサッビア渓谷とトロンピア渓谷の住民を制圧し、武装を解除させた。
こうして反乱は打ち砕かれ、ヴェローナの住民は蜂起に参加したとしてヴェローナ市に180万フランの賠償金が課されたのに加え、教会、貴族の家、美術館や市民に対して組織的な略奪が行なわれた。
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