マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月) 10:マントヴァ要塞への本格的な攻撃の開始とマントヴァ要塞の解囲 
Siege of Mantua ( July 1796 ) 10

マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約14,500人 不明
オーストリア 約14,000人 約500人以上

マントヴァ要塞への本格的な攻撃計画の立案と準備

 ボナパルトは1796年7月18日から続けられている攻撃にも関わらず戦う姿勢を崩さないマントヴァ要塞駐屯軍を見て、より強力な攻撃が必要と感じ、全方向からの同時攻撃を行うために準備を始めた。

 砲兵はミンチョ川近くの右の塹壕と迫撃砲の砲台に対抗するために砲台を建設した。

 20日、マントヴァ要塞内の病院に黒旗(喪旗と考えられる)が掲げられた。

 恐らく病院がもう対応しきれないほど兵士や市民に死傷者が出ていたと考えられる。

 21日、塹壕を防衛する前線指揮官は、前日に病院で掲げられた黒旗についてミリアレットの塹壕の前哨基地でルカヴィナに尋ねた。

 ルカヴィナは市民と兵士への治療を惜しまない事を約束した。

 病院が対応しきれない状態だったとしてもルカヴィナとしては士気を維持させるためにそのように言うしかなかったのだろう。

 フランスの工兵は塹壕を平行に左に伸ばし、砲兵は夜中に角堡に対する砲台を設置した。

 今まで前線の平行線とはパイオロ湖の堤防で連絡を取っていた。

 しかしマントヴァ要塞からの砲撃によりそれがところどころ寸断されていた。

 それを改善するために塹壕を掘り平行線と繋げることにより直接前線との連絡を開通させようと計画した。

 22日夜から23日未明に塹壕掘削作業を開始した。

 しかし季節は夏であり、灼熱の太陽光とマントヴァ要塞からの砲弾が降り注ぐ中で掘り進まなければならなかったため思うように作業は進まなかった。

 マントヴァ要塞からの砲撃に対しサン・ジョルジョ砲台等の健在な砲台は応戦し毎日約400個の赤玉焼夷弾と約300個の榴弾で砲撃を行った。

 カサ・ザネッティ砲台は損傷しており修復を行っていたが、修復が終わった後も、あとで同時攻撃を行うためにマントヴァ要塞の防衛施設に照準を合わせつつ沈黙を守った。

 ミルズのダム橋に向けられた8個の大砲を要する砲台は期待された効果を得られなかったため、300m後方に後退することを余儀なくされた。

 マントヴァ駐留軍は28日までの8日間で2,767個の砲弾と325個の榴弾をフランス軍の塹壕や砲台に発砲し、フランス軍の多数の大砲を破壊し、いくつかの砲台を損傷させた。

 カント・ディールはその8日間の間で、夜間の砲撃をより困難にするために、大砲の破壊を夕方以降に行うように命令した。これによりフランス軍は夜間に大砲の修理をせざるを得ず、夜明けまで砲撃を再開することができなかった。

 フランス軍の砲撃が昼夜間断なく続いたため兵を休めることができず、その対策として行ったものと考えられる。

マントヴァ要塞への本格的な攻撃の開始

 7月29日、フランス軍のすべての砲台の発砲準備が整った。

 セリュリエは砲撃開始の命令を下した。

 一瞬にしてマントヴァ要塞全体が炎上し、教会も全焼した。

 8時間以内に600個の砲弾と500個の榴弾が市内に落下し、3日間燃え続けた。

 沈黙を保っていたカサ・ザネッティ砲台も砲撃を行い、湖近くの塔からチェレセ門まで伸びる長い城壁を攻撃し大きな成果をあげた。

 29日夕方、カント・ディールは銃撃を続けるための狙撃兵を数個残し、ミリアレット塹壕で覆われたポンパナッツァ砦を放棄した。

 フランス軍の榴弾と砲弾はマントヴァ要塞の防衛施設に大きな損傷を与え、跳弾と火災により周囲にも被害を及ぼした。

ガルダ湖畔の戦いの始まりとセリュリエ師団への撤退準備命令

 しかし、30日、セリュリエ将軍の元に総司令官から撤退準備をするよう命じる書簡が届いた。

 それはポー河をサン・ベネディットで渡るというものであり、これは全軍をもってポー河で防衛線を構築するつもりであることを意味していた。

 マントヴァ要塞陥落まで後一歩だったが、北ではヴルムサー率いるオーストリア軍が大軍を率いて南下していた。

 コロナ、リヴォリ、サローで防衛線を構築していたマッセナ師団を29日にコロナ(Corona)、ブレンティーノ(Brentino)、リヴォリ(Rivoli)、サロー(Salo)で破り、ヴァレッジョやビラフランカまで迫って来ていたのである。

撤退先の変更とマントヴァ要塞の解囲

 7月30日夜、ボナパルトはロヴェルベッラでオーストリア軍を打ち砕く可能性を留保する決断を行った。

 カスダノウィッチ師団に奪われたブレシアを奪還する決断である。

 ブレシアを奪還すればアッダ川で防衛ラインを構築すること、カスダノウィッチ師団を打ち砕くことのどちらかを選択できるようになるのである。

 30日深夜、セリュリエはマントヴァ要塞の攻囲の手を緩めずにサン・ベネディットではなくマルカリアへの撤退準備を行うよう、そしてダルマーニュ旅団とペルティエ旅団をマッセナとオージュローの元へ送るようボナパルトから命令を受けた。

 31日、セリュリエはボナパルトの命令通り、砲兵にはそのまま攻囲を続けさせ、その他の部隊の撤退準備に取り掛かった。

 ダルマーニュ旅団をマッセナの元に、ペルティエ旅団をオージュローの元に送り、ダルマーニュ旅団とペルティエ旅団の移動を隠すためのベルフィオーレ砲台の砲撃は夕方5時に始まり約6時間要塞を砲撃し続けた。

 暗くなり、ダルマーニュ旅団とペルティエ旅団がマントヴァを離れると、セリュリエ師団はマントヴァ要塞を囲んでいた139門の大砲を徐々にボルゴフォルテの広場やその道沿いにある村の広場に運んで破棄し、ベルフィオーレ(Belfiore)砲台のみ残した。

 夜10時、ベルフィオーレ砲台が一斉に火を噴き、榴弾と赤玉焼夷弾によりマントヴァ要塞は燃え上がった。

 ベルフィオーレ砲台の砲撃は11時に停止し、その後、鋭い射撃が始まった。射撃の最中、セリュリエはベルフィオーレ砲台で使用していた大砲や資材をを塹壕に放り投げ、すぐには使用できないようにした。

 そして射撃は日付が変わるまでに徐々に弱まっていき、セリュリエはマントヴァ要塞周辺からの撤退を完了した。

 撤退直前までのマントヴァ要塞への砲撃はヴルムサーを引き付けるための陽動であり、その後、素早く行動するには、移動に時間を要する大砲は置いていかざるを得なかったのである。

 これにより1796年7月のマントヴァ要塞攻囲戦は終わった。翌朝、マントヴァ駐留軍は包囲していたフランス軍が忽然と消えたことを知ることとなる。