モンテノッテ戦役 08 Montenotte campaign 08

デゴの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 14th:約11,600人
15th:約12,000人~14,000人
14th:不明だが軽微
15th:約600人
捕虜:約200人
オーストリア
サルディーニャ王国
14th:約2,700人
15th:約2,500人~4,500人
14th:不明だが軽微
捕虜:多数
15th:約600人
捕虜:約1,500人
※14thに関してはアルジャントーが戦場に到着した頃にすでに勝敗は決していたのでアルジャントーの部隊の兵力は除外

デゴの戦い(1日目)battle of Dego ( First Day )

 4月12日、デゴ占領の命令を受け取ったマッセナはラハープ師団、メニエル師団でデゴ攻略をすることとなった。マッセナはメニエル師団を率い、先にデゴ方面へ行軍した。

 4月13日、朝早くモンテノッテを出発したラハープは前日にマッセナ師団が通過した道を通り、カイロ・モンテノッテの平野に11時頃に到着した。カイロ・モンテノッテはカルカレとデゴの間にある町である。そこで食事をし、デゴへの攻撃に備えた。

 朝の間にマッセナとボナパルトは2度打ち合わせを行った。マッセナはボナパルトに、脱走兵からの情報だがと前置きし、デゴには強力な部隊が配置されていると伝えた。この情報はマッセナが騙った嘘であるが信憑性はあった。というのは、ボーリューはアルジャントーにデゴが攻撃された場合、ボーリューが駆け付けるまで死守することを命令されていた。そしてモンテノッテの戦いが始まる前、アルジャントーはデゴにルカヴィナ率いる4個大隊を配置していたのである。

 ピエモンテ・オーストリア軍はデゴの重要性を理解しており、大部隊がデゴに配置されている可能性は高かった。ボナパルトはマッセナを信じ、オージュロー師団から部隊を分離しデゴ攻略の部隊を増強するよう手配した。

 マッセナはデゴに赴き一連の小さな丘の頂上に沿って師団を並べた。偵察を派遣し、左のピエモンテ・オーストリア軍の力を計った。そして小競り合いを行いつつ、適度に後退した。つまり威力偵察である。

 アルジャントーはこのマッセナの行動を目撃していた。アルジャントーは急いで自らパレットに赴き麾下の部隊を集めた。そして14日に到着するように自ら率い、ボーリューに伝令を送った。

 ボーリューは連絡を受けるとすぐさまサッセッロにいるビカソヴィッチ大佐の部隊にデゴに向かうよう命令した。その際、ボーリューは「翌日にデゴに移動するように」と命令していた。ボーリューの意図は14日にデゴに移動しアルジャントーの部隊を補強することだったが、ビカソヴィッチがその命令書を受け取ったのは14日になってからだった。14日の「翌日」は15日である。ビカソヴィッチはこのボーリューからの命令を厳格に受け取った。

 ビカソヴィッチは5個大隊(約2,500人~4,500人)を集め、15日にデゴに到着するようにサッセッロからポンティンヴレーアへ移動した。

 マッセナはあらゆる方向から攻撃を始めた。15個の大砲で村の周辺にあるすべての家に火を放った。そしてこの家々には人があまりいないことを確認すると丘の上のオーストリア軍のキャンプを遠くから眺め、翌日の攻撃計画を立てた。

 マッセナは偵察を呼び戻し、ロケッタ・カイロとカイロ・モンテノッテの間の自陣に戻った。そこで大砲の音で走ってきたラハープと合流し、マッセナは2つの師団と最初の陣地で野営した。

 4月14日早朝、マッセナ麾下のメニエル師団とラハープ師団はロケッタ・カイロから前日の高台に行き、そこで部隊を活気づけるために部隊長の前でその日の命令が読まれ、コッセリアの古城でプロベラが降伏したことを発表した。そして師団を午前の内に配置した。

 マッセナはメニエル師団を2つに分離し、1つをラ・サルセッテ少将に命じ約1,300人で右の高台を歩き、ピエモンテ・オーストリア軍の退路の遮断と増援の足止めをするように機動する。もう1つはモニエ少将がマッセナの元で約3,700人を指揮をし、デゴの家々の向かいの主要道路を通ってデゴ村に直行。コスタ村を占領し山の上の砦を攻撃する。

 左翼のラハープ師団は2つの部隊を形成した。1つはカウス少将麾下約3,200人がボルミダ川を渡る。丘の端に向かって前進し丘の周りの川により形成された曲がり角にあるピアーノを占領する。もう1つはセルヴォニ麾下約3,400人がボルミダの左岸を掃討し、左の山の頂上でカウスと合流し、ともに攻撃する。

 ボナパルトは到着時、すべてが手配されているのを見て、マッセナの計画を承認した。そして、右翼が弱いと感じたボナパルトは2つの部隊を右翼に組み込み増強した。

 対するピエモンテ・オーストリア軍はコスタ村周辺に一部が配置され、さらにコスタ村の上にある山の尾根に沿っていくつかの石造りの小さな砦で守られており、計約2,700人で防衛線を構築していた。そして、アルジャントーが連れてくるパレットからの増援約2,500人は午後以降に到着する予定であり、ボーリューが派遣したビカソヴィッチも何時かは不明だが14日に到着するはずであった。

 アルジャントーはデゴの守備隊とパレットの増援のみでは時間稼ぎすらも難しいと感じていたが、ビカソヴィッチの部隊に希望を見出していた。

 4月14日正午頃、マッセナの命令とともに作戦は動き出した。ラハープ師団は左でボルミダ川を渡りピアーノを占領しつつ左端のピエモンテ・オーストリア軍の防衛する山の頂上を目指した。

 マッセナは中央でコスタ村を占領し、ピエモンテ・オーストリア軍の防衛する山の頂上を目指した。

 ラ・サルセッテ少将はコスタルパラの丘陵沿いからジリニ付近を経由しソダン方面へ向かった。このソダンはピエモンテ軍が撤退する経路であり、パレットからの増援を足止めする経路上にある。

 ラハープ師団が順調にピアーノを占領し、山へ向かうために右に転進した時、メニエル師団は頂上に集まっているピエモンテ・オーストリアの部隊に発砲することなく突進した。ピエモンテ・オーストリアの部隊は防衛しきれず塹壕と村を放棄して退却した。4倍以上のフランス軍に攻撃され、デゴを防衛していた守備隊約2,700人は散り散りになり指揮系統も統合できず混乱に陥った。

 そこへパレットの部隊とともにアルジャントーが戦場に到着した。逃げ惑うピエモンテ・オーストリアの兵士達を集め、事態を収拾しようと努力したが、そのほとんどが無駄に終わった。

 ソダン付近の山の頂上に位置するラ・サルセッテの部隊の目の前を後退するピエモンテ・オーストリアの部隊が横切った。ラ・サルセッテはその部隊に対し大砲を放った。長時間の小競り合いがあり、ピエモンテ・オーストリア軍は退路が断たれていると分かると、武器やバッグを放り投げ、逃亡していった。

 マッセナは勝敗が決定的になると1個大隊に逃亡者の追跡を命令した。

 そしてアルジャントーは追跡者を振り切り、オーストリア軍の支配地域まで撤退した。

 この戦いは単なる混乱によるフランス軍の勝利であり、双方被害はそれほど多くは無かった。