マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月) 05 
Siege of Mantua ( July 1796 ) 05

マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約14,500人 不明
オーストリア 約14,000人 約500人以上

スフォルツェスコ城攻囲戦の始まりThe beginning of the siege of Milan

 マッセナが5月13日にミラノを占領して以来、スフォルツェスコ城の攻略は進んでいなかった。それはボーリュー率いるオーストリア軍と対峙しており攻囲に必要な大砲や物資が不足していたため「攻囲」では無く「封鎖」を行っていたからであった。しかしボルゲットの戦いでフランス軍が勝利したことによりオーストリア軍の脅威は減少し、さらにトルトナ方面の反乱地域を平定したことによりジェノヴァからの補給路が通過可能となった。そのため大砲や物資をミラノに送ることができるようになり、積極的な攻囲を行うことができるようになったのである。

 1796年6月15日、ミラノにトルトナからの砲兵と物資が到着し、本格的なスフォルツェスコ城の攻略が始まった。

 ミラノの城塞であるスフォルツェスコ城は星形要塞であり、ラミー大佐率いる約2,000人の守備隊によって守られ、食料、装備、物資も豊富に城内に残されていた。

 マッセナ師団がミラノに到着した5月13日から約1ヵ月の間、持ちこたえていたのである。

◎ミラノ都市計画図(1790年)

◎スフォルツェスコ城の見取り図(1707年)

◎ミラノ見取り図(現代地図)

 デスピノイは届いた大砲を配置するために、シャセループ工兵司令官に命じ、ミラノの城塞であるスフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)から約2,600m、最前線の柵から約200mの地点で防衛線を構築させた。

 約4,500人の兵士でヴェルチェッリーナ門(1860年にマゼンタ門と改名)から郊外にあるオルトラーニまで要塞と平行になるように塹壕を掘り、17日~18日未明、砲兵隊はヴェラスコ砦からドン・ピエトロ砦の間に配備されていた2つの砲台の正確な位置を割り出した。

 そして砲台の位置を元に18日からスフォルツェスコ城を攻略すべく砲台の建設を開始した。

 オーストリア守備隊はフランス軍が砲台を建設しているのを発見して砲台から攻撃した。しかしその砲撃は効果が無かった。

 フランス軍が砲台を建設し終えたらスフォルツェスコ城の防衛にとって脅威となる。オーストリア守備隊は砲台の建設を阻止するべく砲撃を続けた。

教皇領への侵攻Invade the Papal States

 ボナパルトは教皇領への遠征計画を実行するべくレニャーゴ要塞にいるオージュロー師団及び5月にアルプス方面軍から増援として送られてきたヴォーボワ少将の旅団に命じボローニャへ向かわせた。

 オージュローはロベルト少将をレニャーゴ要塞に残しボルゴフォルテ(Borgoforte)でポー河を渡ってボローニャへ向かい、ヴォーボワはピアチェンツァからパルマを経由してレッジョ・ネレミリアへ向かった。

 1796年6月18日、オージュロー師団はクレバルコーレ(Crevalcore)からボローニャに迫り、その日の夜、国境を越えた。

 19日、オージュロー師団はボローニャの街の北西に位置するサン・フェリーチェ門(Porta San Felice)を押し通りボローニャを占領した。

 このボローニャでの戦闘で約400名を捕虜とした。

 オージュロー師団はマッジョーレ広場(Piazza Maggiore)を通り、マッジョーレ門の外側で宿営した。

 同日、ボナパルトはモデナを占領した。モデナ公エルコレ3世・デステは5月7日グアルダミーリオでフランス軍とオーストリア軍が戦っていた時、公国を放り出し目立った個人資産を荷馬車に乗せモデナからヴェネツィアへ逃亡していた。

 ボナパルトはさらに進軍し、モデナの東に位置するカステルフランコ・エミリアにあるウルバノ要塞を抵抗無く占領した。ウルバノ要塞には約800人の駐屯軍と50門の十分に補給された大砲があった。

◎ウルバノ要塞(Forte Urbano)

 ウルバノ要塞は星型で、内壁は大きな堀に囲まれ4つの堡塁と砲塔があった。最大外幅は約900mで3つの跳ね橋がある大きな門があった。もしウルバノ要塞で抵抗にあったとしたら、ある程度の損害は覚悟しなければならなかっただろう。しかし主人であるモデナ公が逃亡したためか、ウルバノ要塞駐屯軍に戦意は無かった。

 20日未明、ボナパルトはボローニャに到着しオージュロー師団と合流した。ナポレオンはペポリ・ヌオーヴォ宮殿(palazzo Pepoli Nuovo)にスタッフとともに宿泊し、サリセッティはグヌーディ宮殿(palazzo Gnudi)に宿泊したと言われている。

 同日、ボローニャの兵器廠を占領し、30門の大砲と多くの砲弾を接収した。そして、枢機卿イッポリト・ヴィンチェンツィ(Ippolito Vincenzi)をボローニャから追放し、ボローニャが教皇領では無くなったことを宣言した。

 21日、オージュロー師団の前衛をフェラーラに進軍させた。フェラーラは抵抗することなく市門を開いた。そこで114門の大砲を接収した。

 トスカーナ大公フェルディナンド3世はフランスと1795年2月に平和条約を締結していたためフランス軍の通行を拒否した。しかし軍事的圧力にさらされてトスカーナ大公国の通過を認めざるを得ず、ローマへ向かう道の1つであるシエナ(Siena)を通過するルートを確立することに同意せざるを得なかった。

 22日、オージュローはイモラ(Imola)を占領した。

 フランス軍が間近まで迫る恐怖により教皇ピウス6世は及び腰になり、休戦を求める使者を送った。ボナパルトは教皇ピウス6世との休戦協定を結ぶつもりでいた。

 ボナパルトにとってはこの休戦協定は一時的なもので、フランス軍がオーストリア軍と対峙している間、後方を脅かされる可能性を無くすためのものだったのである。

 6月23日、教皇ピウス6世はスペイン王国の大使である騎士アザラの仲介を通じてボローニャで休戦協定(ボローニャの休戦)に署名した。(当時、スペイン王国は対仏大同盟側では無く1795年7月以降フランス側となっていた。)

 休戦の条件は①ボローニャ、フェラーラ、フォルリ、ラヴェンナ、アンコーナ、ロレートをフランス軍の支配下に置くこと。②賠償金として16,000,000スクード、5,000,000スクード分の食料、約600点にも及ぶ芸術作品をフランス軍に支払うこと。③フランス軍の教皇領の自由通行権の付与だった。

 これらを代償に教皇ピウス6世はほんの一時の平穏を手に入れたのである。

 同日、ボナパルトはボローニャ共和国政府を樹立し、ボローニャの旧上院(貴族院)によって統治させた。

 ボナパルトはボローニャやフェラーラ、ウルバノ要塞で手に入れた大砲や物資をミラノのスフォルツェスコ城攻略のためにミラノに送った。

 ヴォーボワはトスカーナ大公国に入りローマへ向けて進軍した。

 24日、オージュローは約800人の部隊でファエンツァ(Faenza)に入り金銭を徴収した。

 フランス軍は教皇との休戦条件で割譲された都市を急速に支配下に置いた。

 25日、オージュローはアンコナ方面へ向かい、主要都市を占領した。

 26日、ボナパルトはヴォーボワとともにピストイアに到着した。

◎教皇領、トスカーナ大公国での旅程

 27日、ボナパルトはトスカーナ大公国のフィレンツェに到着した。フィレンツェは抵抗することなく市門を開き、ボナパルトはフィレンツェに入った。この時ナポレオンはヴィーナスを見たのだが「メディチのヴィーナス」ではないかと考えられる。

 同日、ミュラはヴォーボワ麾下の前衛部隊を率いアルノ川を越えてフチェッキオに向かい、ヴォーボワは師団の大半を率いシエナへ向かった。

 29日、ミュラ率いる前衛部隊はトスカーナ大公国にある免税港を持つ貿易都市リヴォルノを占領しイギリス海軍の地中海での重要な活動拠点を奪った。そしてイギリス、オーストリア、ロシアの資産を凍結した。