レオーベンへの道 42:進軍を急ぐナポレオンとユーデンブルクでの戦闘
Road to Leoben 42
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
ユーデンブルクからの後退計画
カール大公はフランス軍との決定的な戦いを避ける必要があった。
手元の兵力は数的劣勢であり、スポーク師団とソマリヴァ旅団がザルツブルクに集結し、連絡線が確立されたのである。
そのためカール大公はメルカンディン師団に4月4日午前8時にユーデンブルクへの後退を開始させ、その他の部隊は午前9時にクニッテルフェルト(Knittelfeld)への後退を開始するよう命じた。
◎ユーデンブルクからの後退計画
ロイス将軍とオクスカイ旅団、ラターマン旅団、リンデナウ旅団はパウゼンドルフ(Pausendorf)、マスヴェーク(Maßweg)、ヴァイエルン(Weyern)、ザッヘンドルフ(Sachendorf)に向かうムール川左岸側の主要道路上にあり、カイム将軍率いる歩兵師団はロープミング(Lobming)とラントシャッハ(Landschach)に向かう右岸にあった。
メルカンディン師団はユーデンブルクに到着後、師団を展開して後衛の後退を支援し、後衛であるブラディ旅団は主力軍の後退に歩調を合わせてムール川両岸を後退しなければならなかった。
もしフランス軍の攻撃があった場合、メルカンディン師団はユーデンブルクからムール川の両岸を通ってシュタードルホフ(Stadlhof)とタン(Thann)へ、ブラディ旅団はアイヒドルフ(Aichdorf)とアウタール(Authal)へ後退を続ける。
そして本部はクニッテルフェルトへ移されることとなった。
軍の荷物、オーブン、弾薬はフォルダーンベルク(Vordernberg)に、すべての倉庫内物資はマリアツェル(Mariazell)に送られ、ケルペン将軍は訓練中の旅団とともにクラウバス(Kraubath)に移動を命じられた。
ナポレオンが進軍を急ぐ理由
4月4日までにボナパルトはマッセナ、シャボー、ギウの3個師団をシャイフリングで統合した。
ボナパルトは明らかに進軍を早めており、その主な理由は側面のオーストリア師団(スポーク師団)の行進の報告を受け取ったからだった。
ボナパルトとしては側面のオーストリア師団とカール大公軍との合流を早急に防ぐ必要があった。
◎側面のオーストリア師団を発見した場所からレオーベンまでの距離
ムール渓谷からシャイフリングやノイマルクトへの側面攻撃を計画していないとしても、エンス渓谷からレオーベンに向かっていると想定した場合、通常行軍で4月7日~8日にはレオーベンに到着している計算となる。
そのため進軍を早めてカール大公本体を押し戻し、早急に合流点であるレオーベンを占領する必要があった。
ブレシアでの戦いとヴェネツィア軍の急速な進軍
4月3日~5日の間に、キルメインはボナパルトにブレシアにおける敵対行為の勃発を報告する書簡を送った。
4月4日、ラホーズ将軍はブレシアに到着すると攻撃を開始し、ブレシアを占領しているサローの民衆達に襲いかかり、ガルダ湖(ロナート方向)に向かって急いで撤退することを余儀なくさせた。
ランドリューとラホーズは今や軍を団結させ、歩兵2,500人、騎兵400騎となり、当初はブレシア周辺地域を完全に掃討することに専念していた。
4月5日、ランドリューはいくつかの孤立している部隊を掃討するためにオルツィヌオーヴィ(Orzinuovi)へ向かい、そこでいくつかの大砲を奪い取った。
そして、放射状に退却するさまざまな移動縦隊が武装解除を開始した。
ランドリューとラホーズがブレシア周辺地域の掃討を行なっている間、ヴェネツィア軍を指揮するマッフェイ将軍とフィリベルティ将軍はミンチョ川を抵抗無く渡ってカルチナートとモンテキアーリ近くのキエーゼ川で野営し、そこで防御を固めた。
ユーデンブルクでの戦闘
◎ユーデンブルクでの戦闘
4月4日、カール大公は本体とともにクニッテルフェルトに向けて撤退し、マッセナはユーデンブルクに向けて出発した。
ブラディ将軍は、この町の前のローテントゥルム(Rothenthurn)近くの森で防衛態勢を整えた。
午後、マッセナ師団はローテントゥルム付近の後衛を攻撃した。
第10猟騎兵隊が道路に沿って前進し、一方歩兵隊はムール川両岸に広がる森の中をユーデンブルクに向かって突進し、後衛を包囲しようとした。
ブラディ将軍は大砲を数発発射したが、第75半旅団所属の偵察部隊が左に迂回したため退却し、第10猟騎兵隊はすぐ追撃した。
フランス軍がユーデンブルクに侵入した時、ブラディ旅団の主要部分は郊外にまで後退していた。
しかしユーデンブルクの広場とリヒテンシュタイン近くの森の端ではブラディ旅団の後衛がメルカンディン師団の支援を受けながら戦っていた。
広場では騎兵隊がフランス軍をユーデンブルクの街から追い出して陣地を保ち、リヒテンシュタイン近くの森の端ではあらゆる方向からのフランス騎兵の攻撃を日暮れまで持ち堪えた。
ブラディ旅団の後衛はしっかりと役割を果たし、確実に後退を続けた。
クロアチア方面の動向
◎1797年4月4日時点の全体図
3月23日からリエカにいるピットーニ将軍は、ここ数日の間、リーパ(Lipa)近郊の前哨部隊がドゥガ騎兵隊からの小さな攻撃があったのみだった。
しかし4月4日、噂によるとフランスの歩兵4000人、騎兵600騎の縦隊がリーパからピットー二旅団の後衛を追い出した後、リエカに向けて前進したとのことだった。
※この頃にはリュブリャナのベルナドット師団及びトリエステのドゥガ騎兵隊にはナポレオン本体との合流命令が下っており、合計4,600人もの兵力をリエカ方面に向けることはできないため、恐らくドゥガ騎兵隊が撤退前に噂よりも少数の兵力でリーパのオーストリア軍前哨部隊を襲ったのだろうと考えられる。
4月5日、ピットーニ将軍はリエツィーナ(Rjecina)川の背後に後退し、そこでカロライナー通りをできるだけ長くカバーし、カルロヴァッツとの連絡線を維持したいと考えた。
ピットーニ旅団はヘッセン・ダルムシュタットの3個大隊、国境警備隊7個中隊、ライフル兵200人、1個軽騎兵中隊、合計4,000人で構成されていた。
ドラヴァ(Drava)川とサヴァ川の間に集中していたクロアチア防衛の第1軍である12,000人の内、2,000人がすでにピットーニの背後にあるメトリカ(Metlika)におり、5日にはハンガリーのバンデリエン(Banderien)14個中隊と騎兵600騎がザグレブ(Zagreb)に集結していた。
そしてクロアチア防衛の第2軍がクロアチアのチャコベツ(Čakovec)とハンガリーのケルメンド(Körmend)の間で編成されることになっていた。
クロアチア防衛第1軍はクロアチアの司令官であるエルディディ(Erdödy)将軍が総司令官を務め、右翼をイエラチッチ中将が、左翼をカスダノウィッチ中将が指揮していた。
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