レオーベンへの道 47:サローでの反乱の鎮圧とジュベール師団のシュピタルへの到着
Road to Leoben 47

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

ラウドン旅団のさらなる進撃

 1797年4月9日、セルヴィエズ将軍は旅団の残存兵1,800人とともにロヴェレトへ急行した。

 ラウドン旅団の騎兵隊はセルヴィエズ旅団をマッタレロまで追跡した。

 ラウドン将軍は旅団の主要部分をノイマルクトに集結させ、今度はナイペルグ大尉をロヴェレトに、アナッカー大尉をサルカ川を下らせてアルコ(Arco)に派遣した。

 セルヴィエズ旅団はカッリアーノの塹壕でもロヴェレトでも抵抗せず後退を続けた。

 4月11日、ラウドン旅団の哨戒部隊はフランス軍がレーヴィコとアラから退避したと報告した。

セルヴィエズ旅団は急いでガルダ湖畔にあるトルボレやリーヴァへ向かい、その後セルヴィエズ将軍と一部はヴェネツィア共和国の本土で広がっていた反乱を鎮圧するためにロンバルディアから接近してきていたキルメイン将軍指揮下の部隊に向かって(ブレシア方向へ)退却し、残りはアディジェ渓谷を守るバランド将軍の部隊の元(ヴェローナ方向)に退却した。

ランドリュー将軍によるサローの占領

※1950年代の絵葉書、ガルダ湖鳥観図

 4月10日、フリゲート艦艦長ラルマンはランドリュー将軍の要請に応じてペスキエーラ沖に姿を現し、サロー市に降伏を要求した。

 サローの降伏はフランス軍がチロルから進軍してきたラウドン旅団の進軍に抵抗するために必要だったが、降伏は拒否され、砲撃が開始された。

 翌11日、ラルマンは知事と会談し、住民が武器を放棄することに同意すればブレシア共和国軍は撤退するだろうと伝えた。

 ジコーニャ知事はあらゆる取り決めを拒否したため、武力で解決せざるを得なくなった。

 夜の間にラホーズが援軍を率いて到着し、サローを2ヵ所から攻撃することが決定した。

◎サローの街

※1694年 下リヴィエラの地図

※18世紀のサロー

◎サローへの攻撃

 街にはほとんど人影がなかった。

 ヴェネツィア軍の散兵がブレシア共和国軍の接近に抵抗したが、短い戦闘の後、フィオラヴァンティ将軍は街を略奪させて時間を稼ぎ、部隊をサローから撤退させた。

 ランドリューはサローに港に停泊している船からマスケット銃600丁と薬莢15万発を発見し、その後、サローの街は徹底的に略奪された。

 4月11日以降、ランドリューは「ヴェネツィア共和国が上院の名において国民にフランス人の殲滅を呼びかけた」という文書を作成し、その後、この文書に基づいてヴェネツィア人による中立違反をあらゆる方向に公表し、各町に公示した(公示した日は町によって異なる)。

 実際のところ、ヴェネツィア共和国はフランスとの協定により自国の反乱を鎮圧し秩序を確立するために軍を出動させただけなのだが、フランスが協定を締結した目的はオーストリアとの戦いの間だけヴェネツィア軍との対立を避けることだったため、フランスは自らの行為を正当化するためにヴェネツィアを陥れ、汚名を着せたのである。

 フランスがヴェネツィアを欺いた期間は僅か10日で終焉を迎えたが、ボナパルトはその間に6日間と言えどオーストリア軍と停戦したのである。

ジュベール師団のシュピタルへの行進とケルペン師団による追跡

 4月8日以降の数日間、ジュベールは上ケルンテン州シュピタルへの行進を続けていた。

 その後、師団の主要部分がシュピタルに展開し、強力な分遣隊がグミュントを保持し、後衛がザクセンブルクを保持した。

 ケルペンの前衛部隊がオーバードラウブルク(Oberdrauburg)とグライフェンブルク(Greifenburg)を経由してジュベール師団を監視しながら後に続いた。

 この前衛部隊はまた、ザルツブルクに駐留するスポーク師団と連絡を取り、プステリア渓谷に師団を前進させたことをスポーク中将に連絡しようと試みた。

 ティリアッハに駐留していた部隊は、マウテン(Mauthen)を経由してトルメッツォ(Tolmezzo)まで前進した。

 次の数日で、ケルペン中将は傍受した手紙から、予想通りジュベール軍の大部分がポンテッバ(Pontebba)経由でヴェネツィアの反乱軍に対して行進していることを知った。

 ケルペンはこの状況を利用したいと考えた。

 同時にラウドン将軍がアディジェ渓谷で勝利を収め、前進しているという報告をいくつか受け取った。

 ケルペン中将は、ザルツブルクに駐留するスポーク師団との合流点に近づくため、プステリア渓谷のジリアンからさらに前進しようとしていた矢先、4月12日にフランス軍との6日間の停戦協定締結の連絡を受けた。

 ジュベールとケルペンの2人の司令官は、当分の間、当時の位置に留まることに同意した。

ピットーニ旅団を引き継いだカシミール中佐の活躍

 4月12日、カール大公は停戦期間を利用して新たに編成された部隊を組み入れ、総指揮を執るためにウィーンへ向かった。

 カール大公の意図は、もし停戦の延長が成されなかった場合、ザルツブルクのスポーク師団、ウィーンの兵力、そして自軍を用いてフランス軍に対抗することだった。

 一方、クロアチア方面ではピットーニ将軍は体調不良で馬にも乗れなくなったっため、4月7日に約4,000人の指揮権をカシミール(Casimir)中佐に引き継いでいた。

 この時点で、ピットーニ将軍は、目の前にいるフランス軍はベルナドット師団の全軍であり、到底敵う兵力ではないと考えていたため無期限の休戦をベルナドット将軍と交わしていた。

 実のところピットー二旅団の前にいるフランス軍はベルナドット師団の全軍ではなく、その一部であるダゴベルト大佐率いる約3,000人のみだった。

 ピットーニ将軍はフランスの大軍の影に怯えていたのである。

 しかし、後を引き継いだカシミール中佐にはその様な怯えは無かった。

 カシミール中佐は元々ピットーニ旅団の所属ではなく、外から派遣されてきたため、ベルナドット師団の動向を知っていた可能性はある。

◎カシミール中佐の進撃と停戦命令による後退

 4月10日、カシミール中佐はこの休戦協定を破棄する通告を出し、同日、リエカに進軍した。

 フランス軍はすぐに街から追い出され、士官3人と兵士83人が捕らえられ、残りはサン・マッティア峠(Passo di San Mattia)を越えて追跡された。

 4月12日、カシミール中佐はリーパに進軍したが、そこへダゴベルト大佐が使者として現れフランスとオーストリアの間で停戦協定が締結されたことを口頭で伝えた。

 しかしカシミール中佐はこれを信じず、さらに書面での通知も無視して進軍を続け、13日に再びフランス軍に攻撃を仕掛け、13人を殺害し、捕虜30人を捕らえ、弾薬運搬車2台を鹵獲した。

 そして4月14日夜、トリエステに入り、そこでフランス軍の大砲2門を押収し、イドリヤで奪われた水銀を奪い返した。

※水銀500万を奪い返したとあるだけで、単位は不明なため重量なのか通貨なのか、全量なのか一部なのかすら不明である。恐らく単位は通貨であり、その一部を奪い返したのだろうと思われる。

 しかし、カシミール中佐の元にも正式に停戦命令が届き、協議の末、12日の位置に戻ることとなった。

 そのためカシミール中佐は未だ残る多くのフランスの戦利品を残したままトリエステから撤退し、17日夜には再びフランス軍がトリエステを占領した。

 その後、トリエステ周辺の住民達が武器を手に取り、勇気を示したカシミール中佐の元に集まり、カシミール旅団は8,000人に膨れ上がった。