レオーベンへの道 43:カール大公軍のレオーベン周辺への後退と北イタリアにおけるヴェネツィア軍との対立状況
Road to Leoben 43
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
ザンクト・ミヒャエルへの後退
ブラディ将軍は泥だらけで防御に適さないオータール(Authal)を通り、暗くなった後、旅団をタン(Thann)に集めた。
メルカンディン将軍とミトロフスキー旅団は左岸のシュタードルホフ(Stadlhof)近くで野営していた。
マッセナ師団は積極的に追撃し、翌5日朝に本格的に攻撃する意図を隠そうとしなかった。
1797年4月4日、そのためカール大公は翌朝までに退却するよう麾下の部隊に命じた。
◎ザンクト・ミヒャエルへの退却後の両軍の配置
カイム中将は歩兵師団とともにムール川右岸のロブミングから、ラントシャッハ(Landschach)に移動して前哨部隊を支援するための1個大隊を残し、クラウバッハ(Kraubath)を経由して主要道路上を進み、ザンクト・ミヒャエルに向かった。
ロイス中将はラターマン、オクスカイ、リンデナウの3個旅団とともに左岸のクニッテルフェルトを経由してザンクト・ローレンツェン(Sankt Lorenzen)まで行軍し、そこから右岸を行進し、その後プレーグ(Preg)とニーダードルフ(Niederdorf)を経由してザンクト・シュテファン(Sankt Stefan)に向かった。
メルカンディン中将は同じくプレーグへの道をたどり、後衛を支援する位置に移動した。
ブラディ将軍は、左岸のファイストリッツ(Feistritz)とザンクト・ローレンツェン近くの右岸の前哨基地に移動した。
そして本部をザンクト・ミヒャエルに移動させた。
訓練中の旅団を指揮するケルペン少将はクラウバッハからブルックまで行進を続けていた。
フォルダーンベルクへのさらなる後退
4月5日、マッセナはユーデンブルクで24時間の休息をとった後、4月6日夜明けにクニッテルフェルト(Knittelfeld)への行軍を再開したが、カール大公はムール(Mur)川に架かる橋を燃やし、前日の内に退却していた。
カール大公は疲弊していたブラディ旅団の後衛の任を解いてカイム将軍の指揮下に置き、リンデナウ旅団をザンクト・ローレンツェンに留まるよう命じて後衛任務を引き継がせた。
リンデナウ将軍はフランス軍から攻撃を受けた場合、ライジング(Leising)とプレーグに後退するよう命じられていた。
フランス軍は前進したが、戦いとなるほど後衛を強く圧迫することは無かった。
4月6日も朝からオーストリア軍の後退は続いた。
◎フォルダーンベルクへの退却後の両軍の配置
カイム中将はブラディ旅団とオラ二エ旅団、オクスカイ旅団を率い、ラインザッハ(Lainsach)、マドシュタイン(Madstein)、トラボッホ(Traboch)を経由してトローファイアッハ(Trofaiach)へ向かった。
ミトロフスキー将軍と麾下の5個大隊、3個騎兵中隊はレオーベンに向かう主要道路上を進んでいた。
メルカンディン中将はサン・ジュリアン大佐の旅団4個大隊を率い、プレーグからニーダードルフ、ザンクト・ミヒャエルを経てカイム将軍の縦隊をトローフファイアッハまで追跡した。
ロイス中将率いる師団については、後衛であるリンデナウ旅団がクラウバース(Kraubath)、カイザースベルク(Kaisersberg)を経由してトラボッホまで行進し、そこで後衛が停止し、師団のその他の部隊はエドリング(Edling)へ向かった。
大公はフォルダーンベルク(Vordernberg)におり、本部はアイゼナルツに(Eisenärz)あった。
神聖ローマ皇帝フランツ2世からの和平の提案と恐怖にかられたゼッケンドルフ将軍のウィーンへの後退
4月6日、後退する中で、カール大公は皇帝から和平交渉を開始するよう命じられた将軍であるベルガルド(Bellegarde)伯爵とウィーンのメルヴェルト(Merveldt)伯爵の到着を知らされた。
そしてボナパルトの元に「皇帝陛下の意思により和平交渉のためにベルガルド中将とメルヴェルト少将が向かう」という内容の書簡を持った士官を派遣した。
同時に、リンデナウ将軍は、「この士官が帰還するまで、ザンクト・ロレンツェン(Sankt Lorenzen)を後衛部隊とともに維持するよう」命令を受け、メルカンディン将軍も同様にクラウバース(Kraubath)とザンクト・ミヒャエル(Sankt Michael)の間で支援を行い、その場を維持し続けるよう命令を受けた。
◎ゼッケンドルフ将軍の行軍予定
その頃、ゼッケンドルフ将軍からエーレンハウゼン(Ehrenhausen)とカルスドルフ(Kalsdorf)を経由して7日にグラーツに到着し、その後レーテルシュタイン(Röthelstein)を経由して9日にブルック(Bruck)に到着するとの報告を受け取った。
カール大公はゼッケンドルフ将軍に対し、「行軍を2日早め、7日にブルックに到着してケルペン旅団、ミトロフスキー旅団を統合し、ミュルツツーシュラーク(Mürzzuschlag)へできるだけ早く進軍する」よう命令を送った。
カール大公は4月6日夜明け時点でライプニッツ(Leibnitz)周辺にいると思われるゼッケンドルフ将軍に2日で約85㎞を行軍してブルックに到着するよう命じたのである。
一見したところ無茶な命令に思えるが、ゼッケンドルフ旅団は4月5日にマリボルを出発しており、マリボルからグラーツは約65㎞であるためゼッケンドルフ将軍の報告にある7日にグラーツ到着は遅すぎる。
強行軍でブルックに来るよう命じていたにも関わらずゼッケンドルフ旅団の行軍が通常行軍よりも遅いため、カール大公が「早く来い」という意味を込めて予定を修正し直したのだろうと考えられる。
統合後のゼッケンドルフ旅団はケルペン旅団約2,000人、ミトロフスキー旅団約3,000人、ゼッケンドルフ旅団約4,500人、合計約9,500人となる計画だった。
しかしゼッケンドルフ将軍はミュルツツーシュラーク(Mürzzuschlag)に到着後、フランス軍の山越えをさせないために防御に適したゼンメリング(Semmering)峠に向かうと主張したにも関わらずウィーンまで後退した。
4月6日、ミトロフスキー将軍は旅団とともにレオーベンに到着した。
ザンクト・ミヒャエルの前に前哨基地を設置し、その支援部隊はライテンドルフ(Leitendorf)にあった。
夕方にかけてミトロフスキーはブルックに向けて行進し、後衛をレオーベンの前とレオーベンに残し、そこでトラファイアッハのカール大公本体の前哨基地との連絡を維持した。
ヴェネツィア軍との衝突
ヴェネツィアを支持する民衆の蜂起の拡大とヴェネツィア軍の急速な進軍により、フランス軍はフランスの同胞(ヴェネツィアから見た反乱軍)を支援せざるを得ない状況となった。
4月6日、ラホーズはカルチナートのヴェネツィア軍と対峙し、ランドリューはヴェネツィア軍に対抗するためにカステネドーロ(Castenedolo)の占領に向かった。
その後、4月1日に締結した協定に違反してマッフェイとフィリベルティに敵対した。
◎フランス軍とヴェネツィア軍の衝突
※ランドリュー将軍とラホーズ将軍の率いている部隊は便宜上"旅団"と記載してあるが、フランス軍正規兵はほんの一部のみであり、そのほとんどはベルガモ共和国軍、ブレシア共和国軍、ロンバルディア軍、ポーランド軍などのフランスの同胞の軍で構成されている。
戦いはもはやブレシアの反乱軍とヴェネツィア政府に従う田舎者との間のものではなく、フランス軍とヴェネツィア軍との間で起こっていたが、この時点ではヴェネツィア軍は反乱軍がフランスの軍服を着て戦っていると思っていた。
4月8日ランドリューは塹壕で堅固に守られているモンテキアーリの陣地を攻撃し、ラホーズはフィリベルティが防衛するカルチナートを攻撃した。
オーグロイ(Augroy)少佐の突然の夜襲を受けて、マッフェイは2,500人の農民とともにヴェローナ方向に退却した。
そしてワステリノヴィッチ(Wastellinovich)大佐率いるオーストリア正規兵200人と8,000人の縦隊は高地に退却した。
ランドリューは彼を追跡し、サン・オゼットの渓谷で敗北した。
これらの様々な出来事により、ヴェネツィア軍と農民たちは2,000人以上、ベルガモ共和国軍とフランス軍は600人以上の犠牲を出した。
フィリベルティ率いる約3,000人はソルフェリーノとカヴリアーナの山々に向かって後退を余儀なくされ、そこからさらにヴォルタを経由してミンチョ川のボルゲットまで後退した。
ガヴァルドでの戦闘とサローの封鎖
ランドリューはフィリベルティをこれらヴァルタとボルゲットから追い出す前に、サローの農民たちの武装を解除することが優先であると考えた。
ヴェネツィア軍と対峙しているときに後方(サローやガヴァルド方面)から攻撃を仕掛けられた場合、不利な状況に陥る可能性があったのである。
そのため4月8日夜、ランドリューはブレシアに戻り、ベルガモ共和国軍とブレシア共和国軍の指揮をヴェデル(Vedel)大隊長に与えて前衛とした。
そして自身はブレシアからキエーゼ渓谷に行くために山に侵入し、カイーノを経由してガヴァルドへ向かった。
◎ガヴァルドでの戦闘
ヴェデルはヌヴォレーラ(Nuvolera)を経由してガヴァルドに向かったが、ブレシアからガヴァルドまで流れる舟が航行可能なガヴァルド運河(Naviglio di Gavardo)の水量を調節するための水門が破壊され、通行できなくなっていた。
4月9日時点で、ガヴァルドはおよそ6,000人の農民が占領していた。
反乱軍はヴェデル率いる前衛隊の遮断には成功したが、ランドリュー率いる部隊によって攻撃された。
ついにこの街をこれ以上守るのは不可能と判断した反乱軍はガヴァルドの街に火を放った。
ランドリューは退却する反乱軍を追ってサローの前に到着した。
そしてジコーニャ知事とフィオラヴァンティ将軍に降伏勧告を行なったが、降伏は拒否された。
ランドリューの有する兵力は攻囲するには不足していたため、封鎖に留め、ペスキエーラの指揮官にガルダ湖艦隊の支援を要請した。
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