レオーベンへの道 07:カール大公による後方支援の強化とバヤリッヒ旅団の後退
Road to Leoben 07

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

カール大公の手配とアドリア海沿岸の防衛状況

 3月1日、カール大公はピアーヴェ川及びタリアメント川のイタリア陸軍とチロル軍を合計して約40,000人にまで増強し、再編成や兵站の整備、備品の分配などを行った。

 20隻の舟橋がプラハからクラーゲンフルトに運ばれ、別の28隻がエイサック(Eisack)川からアディジェ川に向けられた。

 さらに66隻の舟橋がサン・ロレンツォの造船所に設置された。

 臨時病院が再編成され、後方の兵站が強化されて食糧がより安定的に供給されるようになった。

 そしてコロラット(Johann Kollowrat)将軍とデヴォー(Devaux)将軍が砲兵と工兵隊を指揮するよう命じられた。

 一方、フランス軍はピアーヴェ川を越えようとしており、ピアーヴェ川を越えると正面にはタリアメント川が流れ、右側にはアドリア海、左側にはアルプス山脈が広がっている地形に出る。

 アドリア海にはオーストリア海軍の拠点であるトリエステ港があり、制海権を握っていた。

 しかし、ボナパルトがイタリア半島のアドリア海に面するアンコーナ港を占領したことにより、トリエステ周辺とクロアチアの沿岸警備を強化せざるを得なくなった。

◎ピットーニ将軍によるアドリア海の防衛状況と各勢力の範囲

 オーストリア海軍は、コルベット艦1隻、軽艦3隻、砲艦16隻のみで構成されており、100門の砲と400人の船員が配置されていた。

 この小艦隊は3つに分割され、その内の1つがリエカ(Rijeka)の前に配置され、残りの2つがピットーニ将軍が指揮するトリエステに配置された。

※リエカはクロアチア語の呼び名であり、イタリア語ではフューメ(Fiume)と呼ぶ。共に「川」を意味している。

 クロアチア方面の、カルロヴァツ(Karlovac)、カルロバグ(Karlobag)、セニ(Senj)、クラリエヴィチャ(Kraljevica)、バーカル(Bakar)にも部隊が配置され、海岸のもっとも重要なポイントは可能な限り強化された。

 イギリス軍が費用を負担し、3個大隊をトリエステで、2個中隊をリエカで守備隊を形成させた。

 さらに、4,000人の新兵が沿岸警備に割り当てられ、 オーストリア領内に通じるすべての道は遮断されたか、逆茂木や塹壕で覆われていた。

ルシニャン旅団の強化とバヤリッヒ旅団の後退

 3月1日、ゼッケンドルフ旅団によって派遣された6個中隊と4個騎兵中隊がコネリアーノに到着し、その後ピアーヴェ川上流の前哨基地に向かい、翌2日に到着した。

 2個中隊、4個騎兵中隊がサン・ヴィート(San Vito)とビゴリーノ(Bigolino)に向かう右側の前哨基地を強化し、スゼガーナ(Susegana)に2個中隊を支援のために配置し、ボッカ・ディ・ストラーダ(Bocca di Strada)に2個中隊を残した。

 ボスコ・ディ・モンテッロとピアーヴェ川を観察するために、1個騎兵中隊がフォンティゴ(Fontigo)とコルフォスコ(Colfosco)に割り当てられた。

 2個騎兵中隊もサンタ・ルチア(Santa Lucia)に到着し、オルテ(Orte)とコネリアーノ(Conegliano)にはまだ2個軽騎兵中隊と2個大隊が残されていた。

 ピアーヴェ川下流域では、ポンテ・ディ・ピアーヴェに2個中隊、オデルツォとモッタに1個大隊、4個中隊が配置されており、ネグリシア(Negrisia)に1個騎兵中隊が向かっていた。

 これらはピアーヴェ川の下流域から海へと続く川の浅瀬を観察した。

 バヤリッヒ旅団の内、クロアチア人1個大隊がファルツェ・ディ・ピアーヴェ(Falzé di Piave)の後方にあるバルビザーノ(Barbisano)に留まり、コネリアーノ、チェネダ(Ceneda)、セッラヴァッレ(Seravalle)に向かう道を監視し、クロアチア人2個中隊がルシニャン旅団に割り当てられた。

 バヤリッヒ将軍は旅団の残りである1個大隊、3個騎兵中隊と共に3月3日に出発し、その日の内にタリアメント川の後ろに向かって後退した。

 フランス軍はこれらのオーストリア軍の動きを察知し、ロヴァディナを占領した。

 しかし、橋頭保には近づかず3日と4日は何の動きも見せなかった。