レオーベンへの道 13:オーストリア軍のタリアメント川への集結とルシニャン旅団の強化
Road to Leoben 13

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

オーストリア軍のタリアメント川への集結とルシニャン旅団への支援命令

◎オーストリア軍のタリアメント川への集結

 前衛がピアーヴェ川を去らなければならないという報告をウディネで受け取ったカール大公は、主力をタリアメントにより集中させるように命じた。

 ポンテッバのオクスカイ将軍も3月13日に、ヴェンゾーネ(Venzone)とジェモナ(Gemona)に移動するように指示された。

 そして3月14日、カール大公は州境を強化し、フリウーリ軍の再編成を行った。

 オクスカイ旅団はオソッポのバヤリッヒ将軍指揮下に置かれ、そこからコボロス旅団はタリアメント川沿いにボルゴ(Borgo)まで伸び、そこでグラフェン将軍はサン・ダニエーレ(San Daniele)とカルパッコ(Carpacco)の方向に戦線を続けた。

 これらは右翼を形成し、9個大隊、1騎兵中隊、総勢4720人を数えた。

 もし撤退せざるを得ない状況となった場合、オソッポを放棄してオクスカイ旅団はポンテッバに行き、ツェットヴィッツ(Zettwitz)少佐は2個大隊を持ってトルメッツォ(Tolmezzo)に向かいルシニャン旅団を支援し、残りの師団はウディネに行かなければならなかった。

 コドロイポに本部を置くロイス将軍は、9個大隊約6,200人を有するゴントルイユ旅団をメレート(Mereto)周辺の右側に配置した。

 ゼッケンドルフ将軍もコドロイポに本部を置いており、8個大隊約2,900人を有するケルペン旅団を州境にあるトゥッリダ(Turrida)とラティザナ(Latisana)の間に配置していた。

 スポーク将軍は、ミトロフスキー旅団とアウグスティネッツ旅団の合計10個大隊4,650人と共に州境の後方に位置するベルティオーロ(Bertiolo)の前に野営した。

 ホーエンツォレルン将軍は、15日にサン・ヴィートとヴァルヴァゾーネ(Valvasone)でタリアメント川を再び横断し、ビアウッツォ(Biauzzo)とトゥッリダ(Turrida)に後退するよう命じられた。

 騎兵隊を率いるバルバッツィ(Barbaczy)中佐は、前哨基地を引き継ぐよう命じられた。

 シュルツ(Schulz)将軍は、これら2つの旅団(ホーエンツォレルン旅団、バルバッツィ旅団)の指揮を執った。

 シュルツ師団は、合計すると2個大隊、7個中隊、16個騎兵中隊、歩兵3,570人と騎兵2,170騎を擁した。

 これらの動きはすべて15日中に完了するよう命じられ、カール大公は本部をウディネからより前線に近いパッサリアーノ(Passariano)に移した。

 カール大公はさらに、ルシニャン旅団に十分な支援を与えることを決定し、ベッルーノとカドーレでフランス軍の前進に積極的に阻み、フリウーリとチロルの間の連絡を維持できるよう手配した。

 メルカンディン中将は、ライン軍によってイタリアに向かうよう命じられた部隊の第1列と共に、プステリア渓谷を通って接近しており14日にはブルニコ(Brunico)に到着していた。

 カール大公は、メルカンディン師団の第1列であるディートリッヒ(Dietrich)旅団の最後の2個大隊に3月17日にカドーレ(Cadore)に向かうよう命じ、この2個大隊はルシニャン将軍が自由に使えるよう手配した。

 しかし、この時既にルシニャン旅団は敗北しており、そのことをカール大公は知らなかった。

 メルカンディン将軍は第1列の残りとソマリヴァ(Sommariva)大佐の第2列は、タルヴィジオ(Tarvisio)、ボヴェツ(Bovec)、カナル(Kanal)を経由してゴリツィアに行進を続けることになっていた。

ホーエンツォレルン旅団のさらなる後退とフランス軍の前進

 3月14日、マッセナはジェモナ(Gemona)への道を辿るためにスピリンベルゴ(Spilimbergo)に向かって進軍した。

 セリュリエはポルトブッフォーレ(Portobuffolè)を占領し、翌15日パジアーノ(Pasiano)の南に位置するベルヴェデーレ(Belvedere)に入った。

 ギウはホーエンツォレルン旅団右翼を追ってポルデノーネを占領した。

 ベルナドットはコネリアーノに到着し、この日の内にサン・フィオーレ(San Fior)村とサチレの間に前衛を前進させるよう命じられた。

 夕方、ホーエンツォレルン将軍はギウ師団の先頭が近づいてきたとき旅団右翼をコルデノンス(Cordenons)から後退させてヴァルヴァゾーネに向かわせ、そして旅団左翼をサン・ヴィートに向かわせた。

 これらのフランス軍の機動はタリアメント川を渡るためのものであり、カール大公はそのことを十分に承知していた。

 タリアメント川は増水時にのみ自然の障害として機能し、この時はほとんど地点で通行可能だった。

 それにも関わらず、カール大公はタリアメント川左岸側へ部隊を集結させ、騎兵隊の一部を前哨部隊として右岸に配置させていた。

ケルペン中将による防衛準備

 チロル軍(約14,000人)はジュベール師団(約18,000人)よりも僅かに数的劣勢であり、有利な地形とチロル州兵(武装民兵)の力(約10,000人)に期待せざるを得なかった。

 チロル軍の防衛線はよく考えられて構築されていたが、プレダッツォからマーレ(Male)まで伸びており、慎重を期してすべての地点を防衛しようとしたため、最も重要な地点に兵力を集中できずにいた。

 そしてアディジェ川によって互いに分離されていた。

◎1797年3月14日時点でのチロル軍の配置

 3月14日、チロルでの戦いが勃発しようとしていた時、ラウドン将軍は右翼の主要部分をマーレとスポルマッジョーレの間より狭い地域に集中させ、ポンテ・ディ・レーニョとモルヴェーノには監視所のみを置いていた。

 ファーイとザンバーナのデゲルマン中佐の前哨基地が続き、その後ろのメッツォコロナではデゲルマン旅団の主要部分が前線を支援する準備を整えていた。

 そして左翼側ではプレッサーノ、パルー、ヴェルラと前哨基地が続き、エリン大佐率いる旅団の主要部分はチェンブラとファヴェル(Faver)にいた。

 その他に最左翼としてカヴァレーゼとプレダッツォに1個大隊づつが配置されていた。

 同日、ケルペン中将はロンガローネでルシニャン旅団が受けた損害を知った。

 そのため、ジュベール師団が近く攻勢をかけてくることを予測し、総力を挙げてそれに対応する準備を整えた。

ナポレオンによる住民反乱の予防措置

 3月15日、ボナパルトはサチレの本部からジュベール将軍にチロルの土地と人々の政治的扱いについて指示を与えた。

 「布告によって住民をなだめ、聖職者と国民の傾向を称え、既存の行政形態を支持し、財産権や民衆の慣習への干渉を避け、反抗的な町を武装解除し、同じ惨劇で彼らをむち打たせ、放火することで罰するべきである。」

 これからジュベール師団の攻勢が始まるため、後方で住民反乱を起こされたら計画が台無しになる可能性があった。

 そのためボナパルトは飴と鞭を使い分け、反乱が起こらないように指示したのである。

 しかしフランス軍は住民達に憎まれており、住民達はオーストリア軍が勝利することを願っていた。

 ジュベール将軍はこのことをよく知っており、この作戦には常に後方の不安が付きまとうだろうと考えられた。

サルディーニャ国王の困惑

 3月中旬頃、フランス政府にサルディーニャ王国との再交渉を命じられたクラーク将軍はサルディーニャ国王に、以前取り決めたものとまったく異なる条件で新しい文書を提案した。

 サルディーニャ王国政府はフランス政府によるこの突然の心変わりに当惑し、ボナパルトに不服を申し立てる書簡を送った。

 3月16日以降、新たな交渉が開始され、およそ3週間後の4月5日、サルディーニャ王国との攻撃的および防御的同盟が、フランス政府が以前に承認を拒否したのとほぼ同じ条件で署名された。

 恐らくこのフランス政府の行動は、以前に署名された条約はフランス政府としての正式なものではなくボナパルト将軍が独断で行ったものであるため、正式に交渉して同盟を結ぼうとしたのだろうと考えられる。

 しかしその結果は、大砲20門が配備されたピエモンテ軍10,000人は第一次イタリア遠征最後の戦役に間に合うことは無く、フランス軍のみでオーストリア軍と戦うことを余儀なくさせただけだった。

ルシニャン旅団の補強とタリアメント川の前哨基地の強化

 3月15日、カール大公はロンガローネでの戦闘の敗北について知らされ、スポーク将軍にコルティナとポンテ・ディ・ガルドーナ(Ponte di Gardona)の近くにあるルシニャン旅団の残党を指揮するよう命じた。

 そして2個ではなく4個大隊約4,200人を、補強のためにメルカンディン師団からルシニャン旅団の残党の元に向かわせるよう命じた。

 ゼッケンドルフ少将がスポーク師団の指揮を執り、ケルペン旅団はロイス将軍の師団に配属された。

 コドロイポのロイス将軍は、前哨基地を支援するために4個大隊を向かわせるよう命じられた。

 チロルからの最新の報告によると、ジュベール師団の動きは攻勢が近いことを示していた。

 3月10日以降、ピアーヴェ川の前衛部隊がタリアメント川に後退したことにより、2つの軍の距離が拡大していた。

 アディジェ川方面からの連絡が本部に届けられるまで5日か6日ほどかかるようになっていた。

 そのためカール大公はチロル方面でもフランス軍の攻勢が開始されている可能性があると考えたかもしれない。