レオーベンへの道 37:スポーク師団とゼッケンドルフ旅団の動向
Road to Leoben 37

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

スポーク師団の動向

◎先行して出発したスポーク師団輜重隊の道程

 スポーク師団は3月27日にはリーエンツに集結しつつあり、この日、輜重隊が先行してリーエンツを出発した。

 輜重隊はカイザーグルーバー(Kaisergruber)大尉に率いられ、大砲36門、74台の弾薬運搬車、300人の砲兵、そして馬車とともに移動した。

 いくつかの大隊の工兵が橋と道路の建設のために割り当てられ、ヴェセルカ(Vesselka)騎兵隊長は騎兵分遣隊を率いて輜重隊をカバーした。

 夜の強行軍でカイザーグルーバー大尉率いる輜重隊はザクセンブルク(Sachsenburg)とシュピタルからリザーホーフェン(Liserhofen)までのフランス軍に近い危険なルートを通り、その後ザンクト・ミヒャエル・イム・ルンガウ(Sankt Michael im Lungau)に到着し、4月2日にウンツマルクトに到着し、そこからブルック・アン・デア・ムールに送られた。

 スポーク将軍は師団主力を分割した。

 ディートリッヒ将軍は3月28日の夜にデラッハ(Döllach)のメール(Möll)川に到着し、激しい嵐と吹雪の中、非常に困難な行軍を経て、通行不能な高山を越えて4月2日にエンス(Enns)川のラートシュタット(Radstadt)に到着した。

 スポーク将軍はオーバーフェラッハ(Obervellach)で、雪と氷のためこれまでも通行できなかったタウエルン(Tauern)渓谷とガスタイン(Gastein)渓谷の通過を試みたが、通過するのは不可能だと悟った。

 その頃、シェアーズ大佐は師団の残りの3個大隊を率いてプステリア渓谷からリーザー(Lieser)川とマルタ川の合流点にあるグミュント(Gmünd)に到着したところだった。

 スポーク将軍はシェアーズ大佐にグミュントで待機するよう命じ、コルブニッツ(Kolbnitz)、ザクセンブルク(Sachsenburg)、シュピタル、グミュント、レンヴェーク(Rennweg)、ザンクト・ミヒャエルを経てラートシュタットに向かって縦隊を率いた。

 このスポーク将軍の縦隊はフランス部隊の偵察中に遭遇して発見され、ボナパルトに報告されることとなった。

◎4月2日時点でのスポーク師団の配置

 スポーク中将は当分の間ザンクト・ミヒャエル・イン・ルンガウに部隊を残し、シェアーズ大佐をレンヴェーク(Rennweg)に、フォルトラッツ(Vortratz)大佐をグミュントに、ディートリッヒ(Dietrich)将軍をラートシュタットに配置した。

 そしてザンクト・ミヒャエルにおいて3月27日付のカール大公の書簡を受け取り、ザルツブルク大司教区に師団とともに向かい、ソマリヴァ旅団をスポーク将軍の指揮下に置くことを望んでいることを知った。

 そのためスポーク将軍は師団の進路をザルツブルクに定め行軍を開始した。

スロベニア方面にいるゼッケンドルフ旅団の動向

◎1797年4月2日時点でのゼッケンドルフ旅団の状況

 4月1日、ゼッケンドルフ将軍はホーエンツォレルン将軍とともにマリボルへ急いでいた。

 フランスの哨戒部隊がフェルカーマルクト(Völkermarkt)近くのザンクト・オズワルド(Sankt Oswald)から現れた。

 そこでゼッケンドルフ将軍はホーエンツォレルン旅団を後衛としてツェリエ(Celje)に残し、4月2日にスロヴェンスカ・ビストリツァ(Slovenska Bistrica)、4月3日にマリボルへ進んだ。

 ベルナドット師団がリュブリャナ近くのサヴァ川に橋を架けており、「おそらく3日にルコヴィツァ(Lukovica)へ進軍するだろう」という報告を受け取ったとき、ゼッケンドルフ将軍はベルナドット師団の動向を観察するために少数の分遣隊のみをツェリエに残し、後衛をマリボルに呼び、スロヴェンスカ・ビストリツァに引き戻した。

 ベルナドット師団の哨戒はノーヴォ・メスト(Novo mesto)まで行なわれ、クロアチア方面をも脅かそうとしているように見えた。