レオーベンへの道 22:タルヴィスの戦い(タルヴィジオの戦い)前の両軍の動向
Road to Leoben 22

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

フランス軍によるゴリツィアの占領と追跡

 1797年3月20日、グラディスカに本部を置いていたボナパルトは、翌21日にセリュリエ師団とベルナドット師団とともにゴリツィアに進軍し、ギウ将軍にコルモンスからシヴィダーレに前進するよう命じた。

 21日、ゴリツィアを占領したボナパルトは本部も移動させた。

◎フランス軍によるゴリツィアの占領と追跡

 そして3方向に後退しているオーストリア軍を追跡するために、ベルナドット師団にリュブリャナへ後退している列を追跡させチェルニッツァ(Črniče)に、セリュリエ師団にバヤリッヒ師団を追跡させカナレ方面に、そしてドゥガ騎兵隊をトリエステへ向かわせた。

 しかしセリュリエ将軍はバヤリッヒ師団を追跡中、体調を崩してパルマノヴァに移送され、シャボー(Chabot)将軍に指揮権を移譲した。

 セリュリエはマラリアの再発で戦線離脱したと言われている。

 ベルナドット師団の前衛はアイドフシュチナ(Ajdovščina)の前方にいるホーエンツォレルン旅団の後衛を捕捉した。

 最初に騎兵戦が始まり、フランス軍は士官4人と兵士23人を失った。

 ホーエンツォレルン旅団の後衛は、リュブリャナに繋がる旧道を通って後退した。

 軍主力を率いるロイス将軍はポストイナ(Postojna)に到着し、ゼッケンドルフ将軍はセノゼチェ(Senožeče)に到着した。

バヤリッヒ師団の危機とカール大公のタルヴィジオへの出発

 3月21日未明、クラーニに到着したカール大公は、オクスカイ旅団とバヤリッヒ師団(ゴントルイユ旅団、コボロス旅団、グラッフェン旅団など)を合流させることを想定していたタルヴィジオをマッセナが占領したことを知った。

◎バヤリッヒ師団の危機

第一次イタリア遠征最後の戦役:バヤリッヒ師団の包囲の危機

※コバリドとボヴェツの間のザガ(Zaga)からタルチェントに向かう小さな道があり、その途中にレジウッタに向かう細い山道があるが、フランス軍の勢力範囲に向かうため省略している。

 タルヴィジオにはバヤリッヒ師団が向かっており、タルヴィジオがフランス軍に占領されたということは、バヤリッヒ師団の退路はフランス軍と雪に覆われたアルプスの山々によって完全に遮断されていることを意味していた。

 危険を察知したカール大公はオクスカイ将軍にタルヴィジオを占領するためのあらゆる努力をするよう命じた。

 そして同時にゴントルイユ将軍にタルヴィジオに向かい、必要に応じてオクスカイ旅団を支援し、バヤリッヒ将軍にゴントルイユ旅団の動きとできる限りの全体の状況を知らせるよう命じた。

 これらの命令が発せられた後には夜が明けており、その後、カール大公は自ら指揮を執るためにクラーニを出発した。

オーストリア軍によるタルヴィジオの再占領

 3月21日の朝、ゴントルイユとバヤリッヒは、総司令官の指示が届く前にコバリドに部隊を集結させ、コバリドの北の道を5㎞ほど行ったところにあるテルノヴォ(Trnovo)への進軍準備を行っている時、マッセナがタルヴィジオを占領したことを知った。

 ゴントルイユはすぐに4個大隊と2個騎兵中隊を向かわせ、予備の大砲をボヴェツに送り、北東にあるクルジェ砦に2門の大砲を残すように命じた。

 ザガ(Zaga)とその先の山を越えてレジウッタ(Resiutta)に通じる小道は、クロアチア3個中隊によって占領された。

 21日正午、ゴントルイユ将軍は4個大隊、2個騎兵中隊を率いタルヴィジオへの進軍を続け、夕方にはプレディルに駐留した。

 ゴントルイユはオクスカイ将軍と連絡を取り、翌22日朝にすでにマッセナ師団の前哨部隊が入っているカーヴェ・デル・プレディル(Cave del Predil)へ攻撃することを伝えるために書簡を送った。

 しかしこの書簡はオクスカイ将軍の元に届くことは無かった。

 22日朝、ゴントルイユはマッセナの前哨部隊からこの村を奪った。

 その後、ポドコーレン(Podkoren)への道をカバーし、バヤリッヒとの連絡を維持するためにカーヴェ・デル・プレディルに2個中隊、その他の防御に3個中隊を残し、残りの部隊でタルヴィジオを占領した。

 22日のタルヴィジオでの戦闘の結果、100人以上のフランス兵を捕虜とし25頭の馬を捕獲した。

ゴントルイユ将軍によるタルヴィジオの防衛体制の構築

 タルヴィジオ喪失の報を聞いた、マッセナは3個半旅団と第3竜騎兵を率いて前進した。

 ここでゴントルイユ将軍は、7,000人近くのフランス師団がポンテッバの近くに配置されていることを知った。

 カーヴェ・デル・プレディルとその他の防衛のための5個中隊を含めてもゴントルイユ旅団には2,500人しかいなかった。

 しかしゴントルイユ将軍は、輜重隊がカーヴェ・デル・プレディルとフジーネ・イン・ヴァルロマナ(Fusine In Valromana)を経由してポドコーレンに到達するまでタルヴィジオを守ることを決断した。

 この時点でポドコーレンにはオクスカイ旅団の2個大隊約1,200人とバヤリッヒ師団の分離である1個大隊、1個騎兵中隊が到着していた。

 そしてバヤリッヒはコボロス旅団をクルジェ砦に残し、1,700人の兵士とともにタルヴィジオに向かっていた。

◎オーストリア軍によるタルヴィジオの防衛体制

◎当時のタルヴィス(タルヴィジオ)周辺地図

 その後、ゴントルイユはタルヴィジオから4km離れたカンポロッソ(Camporosso)に2個大隊を配置し、フェッラ川の上のポンテッバへの道沿いに位置し5個中隊を駐留させた近づきがたい山に対して右翼で支援した。

※カンポロッソはドイツ語ではザイフニッツ(Saifnitz)と呼ばれている。

 そして氷に覆われた狭い道を通ってしかたどり着けない小さな橋にそれぞれ5門の大砲を備えた5つの砲台を配置した。

 5つの砲台に対抗する場合、小さな橋に近づく必要があり、防御に適した場所だった。

 その後、ゴントルイユは偵察からの報告によりウゴヴィッツァ(Ugovizza)にフランス軍の前哨部隊が配置されていることを知った。

プルフェロでの戦闘

 3月22日、ロイス将軍率いる軍主力はヴルフニカ(Vrhnika)へ、ゼッケンドルフ少将はポストイナへ、ホーエンツォレルン将軍はポドクレー(Podkraj)へ進んだ。

◎プルフェロでの戦闘

 同日、ギウ師団はシヴィダーレからコバリドに行進していた。

 しかしバヤリッヒ将軍はすでにプルフェロ(Pulfero)に前哨部隊を駐留させており、ギウ師団はそれを発見して戦闘となった

 短い戦闘の後、前哨部隊はバヤリッヒ師団後衛部隊のいるコバリドに後退して行った。

 この時の戦闘でバヤリッヒ師団後衛の前哨部隊は兵士100人が捕虜となり、大砲2門を失ったと言われている。

 そして前哨部隊との合流後、バヤリッヒ師団後衛はコボロス将軍のいるクルジェ砦方面へ後退した。

ウィーンへの道の選択

 一方、ボナパルトはコバリドへ向かっていたシャボー将軍に、翌23日にゴリツィアへ引き返し、チェルニッツァを越えてリュブリャナへの道を通りウィーンへ向かうよう命じ、コバリドに到着したであろうギウ将軍に翌23日にクルジェ砦へ向かうようシャボー将軍を経由して命じた。

 その際、シャボー将軍に、もしギウ師団が優勢なオーストリア軍に阻まれコバリドを占領できなかった場合、すぐに本部に連絡するよう命じた。

 恐らく、ナポレオン視点では22日時点でリュブリャナへ後退したオーストリア軍のその後の情報が無かったのだと考えられる。

 そのため、ナポレオンはカール大公率いるオーストリア軍はリュブリャナからマリボルへ向かったのだろうと予測してシャボー師団をベルナドット師団の支援に向かわせたのだろう。

ベルナドット将軍及びドゥガ将軍への命令

 ボナパルトは、さらにベルナドット将軍にヴィパーヴァへ向かいラズドルト(Razdrto)を偵察するよう命じ、ドゥガ将軍にピットーニ旅団が守るトリエステを占領するよう命じた。

 これらの命令は、ドゥガ騎兵隊に押されたピットーニ旅団がリエカではなくラズドルトへ逃れた場合、ベルナドット師団にそれを観察させるか、もしくは退路を遮断させるためのものだと推測できる。

ベルガモ共和国とブレシア共和国に関するヴェネツィア政府との最後の交渉

 フランシスコ・ペーザロはボナパルトとの最初の交渉を持ち帰り、当局と検討を重ねた。

 そして「ヴェネツィア政府は以前ほど同盟に消極的ではない」との結論に至った。

 そのためペーザロと洗礼者ヨハネ・コルネロを特使として、ボナパルトの元へ向かわせた。

 3月22日、フランス軍本部のあるゴリツィアに到着したペーザロとコルネロはボナパルトにこのことを伝え、ヴェネツィア当局が反乱を鎮圧できるようフランスの将軍にベルガモとブレシアの城の明け渡しを要求して欲しいことを伝えた。

 ボナパルトは、「ヴェネツィアが中立を維持したいのであればそうするかもしれない。」と答えた。

 しかし「フランス軍の作戦の安全のために、ベルガモとブレシアの城を保持しなければならない。残りの部分については、ヴェネツィア政府は、ヴェネツィアの存続を望むのであれば、自国の領土内でフランスに対して何もしないように注意すべきである。」と告げた。