レオーベンへの道 08:ヴェネツィア共和国の策動とナポレオンの対抗措置
Road to Leoben 08

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

ヴェネツィア共和国の策動

 オーストリア軍はタリアメント川東側でより良い宿舎と休息地を見つけた。

 しかし、タリアメント川はピアーヴェ川ほど防御に適しているわけではなかった。

 乾燥している気候の時は多くの地点が浅瀬となり、川底はたいらだった。

 周辺の地形に起伏はあまり無く、多くの小道が交差しているため、より大規模な軍が容易に移動できるだけでなく、自由に広がって行動することもできるため、あらゆる作戦を迅速に行動に移すことが可能だった。

 両翼には2つのヴェネツィア共和国の要塞があり、左翼側には直系約2㎞の星形要塞であるパルマノヴァ(Palmanova)、右翼側にはオソッポの町の北の丘にオソッポ要塞があった。

◎オソッポ要塞とパルマノヴァ要塞の位置

◎18世紀頃のオソッポ要塞見取り図

◎16~17世紀頃のパルマノヴァ要塞

 オーストリア軍がタリアメント川を防衛するためには強力な軍事拠点として絶対に必要だったが、これらの場所は中立であると宣言され、ヴェネチア共和国が所有していた。

 フランス軍は各地での横暴な政治と略奪によりヴェネツィア共和国の政府や大部分の住民達から嫌われていた。

 ヴェネツィア共和国領の一部でトランスパダーナ共和国やチスパダーナ共和国を拡大する意図を表し、ベルガモ、ブレシアを始めその他の町においてもフランス士官達がヴェネツィア共和国の支配体制を打倒すると脅迫し、ヴェネツィア共和国に不満を抱いている革命家の秘密同盟を設立した。

 そのため、ヴェネツィア共和国はオーストリア軍が前進を成功させた場合にのみ、その独立を維持することを望むことができた。

 ヴェネツィア政府は陸上と海上、首都において12,000人におよぶ武装したスラヴォニア人を展開し、ヴェネツィアの住民達を武装させる準備を行った。

 ヴェネツィア政府の意図は、好機を窺い、ヴェネツィア共和国のすべての軍隊をオーストリア人と団結させ、フランス軍に対抗することだった。

 そのため、オーストリア軍のためにオソッポとパルマノヴァの2要塞を使用させることはヴェネツィア政府の方針と一致していた。

 しかし、この時点でヴェネツィア政府は2要塞を自発的にオーストリア軍に引き渡すことはできなかった。

 それはフランス軍への完全な敵対行為であったため、要塞の引き渡しを行うにはあまりにも時期尚早だった。

 ヴェネツィア政府は、オーストリア軍がさらなる敗北によって撤退を継続せざるを得なくなり、オーストリアが和平を余儀なくされた場合、フランス政府とその最高司令官はヴェネツィア共和国に対する敵対的な意図を自由に制御するだろうと確信していた。

 そしてフランス軍の都合の良い時期を見計らってヴェネツィア共和国の破壊は容易に実行されるだろうことが予想された。

ヴェネツィア共和国への対抗措置と再編成

 ボナパルトはサルディーニャ王国と同様にヴェネツィア共和国にも攻撃的及び防御的同盟を締結することを提案した。

 見返りはヴェネツィア共和国の領土をゴリツィアとトリエステにまで拡大することだった。

 しかし、ヴェネツィア共和国との交渉はサルディーニャ王国との同盟が批准されなかったことも相まって締結には至らなかった。

 ボナパルトはヴェネツィア共和国の策動を防ぐためにヴェネツィア共和国の各地域を分断し勢力下に置くことを決意した。

 ベルガモとブレシアの城を占領しており、ペスキエーラ、ヴェローナ、レニャーゴに部隊を配置していたボナパルトにとって、それは容易なことだった。

 副官ランドリューは、不満を抱く人々と連絡を取り、彼らと協力して蜂起の準備をするように指示された。