レオーベンへの道 21:チロル遠征の始まり
Road to Leoben 21
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
ジュベール師団の攻勢計画
◎チロル遠征におけるジュベール師団の最初の攻勢計画
ボナパルト本体がタリアメント川を渡った後にチロルに展開しているジュベール師団はアヴィーシオ川を渡り攻勢を開始する計画であり、ジュベール将軍はトレントで総司令官からの命令を待っていた。
1797年3月19日、ボナパルトはジュベール将軍にチロルへの遠征を開始するよう命じた。
それにともなってジュベール将軍は19日中までに攻勢計画を立案して再編成を行い、翌20日に実行するために麾下の各師団に命令を下した。
ジュベール師団は前衛となりデルマス師団とデュマ師団の中間で支援を行い、デルマス師団はコロナ山とサン・ミケーレ方面、デュマ師団はチェンブラ方面を担当した。
デルマス将軍は第4軽半旅団を途中にある塹壕を一掃した後コロナ山に向かうよう命じられ、3月10日に中将に昇進したバラグアイ・ディリエール将軍麾下の第17軽半旅団と第29軽半旅団はコロナ山へ向かう途中、進路を山のふもとに向け、ファエードの塹壕に向かうよう命じられた。
モニエ将軍は第11軽半旅団と第33軽半旅団からの分遣隊を指揮して第4軽半旅団を支援し、その後、ヴィッレ(Ville)、パルー(Palu)、ヴァルテルニゴ(Valternigo)を攻撃し、ヴィアル将軍とヴォー将軍は、デルマス将軍麾下のバランド将軍の動きを容易にするために、チェンブラに向きを変え、協力してすべてのオーストリア兵を追い出すよう命じられた。
バランド将軍は、メアノ(Meano)の難攻不落の陣地に400人の兵士を残した後、アヴィーシオ川を渡りナーヴェ・サン・フェリーチェ(Nave San Felice)のそばのサン・ミケーレに直行し、ラウドン旅団とビカソヴィッチ旅団を分断するためにアディジェ川の2つの橋を占領するか燃やすという任務を与えられていた。
デュマ師団はベリヤード旅団でチェンブラの背後を取り、チェンブラのオーストリア守備隊の退路を遮断し、その後サロルノへ向かうよう命じられた。
17日の偵察ではモルヴェーノ側から攻撃を仕掛けていたが、この攻勢計画ではチェンブラ側から攻撃を仕掛ける計画となった。
恐らく威力偵察の結果、ジュベール師団左翼の正面にいるラウドン旅団へ攻勢をかけてケルペン師団全体を相手にするより、アディジェ川を利用してラウドン旅団を中央と左翼から分断しつつケルペン師団中央と左翼のみを相手にする方が有利に戦局を進められると考えたのだろう。
尚且つ、モルヴェーノからケルペン師団本部のあるサロルノまでは約23㎞だが、チェンブラからサロルノまでは約7㎞であり距離が近い。
そのため、奇襲を行うにはチェンブラ側から行うことが最適であり、この攻勢計画の成功はバランド旅団が早急にサン・ミケーレを占領しアディジェ川に架かる2つの橋を放火もしくは占領できるかどうかにかかっていた。
チロル遠征の始まりとコロナ山とファエードでの戦闘
◎チロル遠征の始まりとコロナ山、ファエード、チェンブラでの戦闘
1797年3月20日、ジュベール将軍による攻勢計画は時間をきっちりと決められ、計画通りに開始された。
未明、夜闇の中ベリヤード少将はヴァルダとファヴェルの間を通ってさらに高地に移動し、最大の沈黙の中で気付かれること無くチェンブラの上の山を登った。
夜明け、フランス軍はロナ(Lona)からチェンブラに向かって砲撃を開始した。
この砲撃はフランス軍がアヴィーシオ川を渡って侵攻を開始する合図も兼ねていた。
デルマス将軍はコロナ山へ進んだが、オーストリアの塹壕陣地に足止めされた。
そこへモニエ旅団が現れてデルマス師団が足止めされていた塹壕陣地を次々と退却させ、コロナ山の主塹壕へ到着した。
同時にモニエ将軍は分遣隊を派遣してヴェルラ、ヴィッレ、パルーにあるオーストリア軍前哨基地を攻撃した。
これらの前哨基地も短期間の無益な抵抗の後に圧倒され、そこに駐留していた部隊は捕虜となった。
コロナ山のオーストリア守備隊は両側から同時に攻撃され、長い抵抗をすることができずにコロナ山の頂上を奪われ、その背後のすべての峰も同様に奪われ、オーストリア守備隊はファエードの塹壕に後退した。
ファエードへの攻撃を主導していたジュベールはバラグアイ・ディリエール将軍麾下の第29軽半旅団とモニエ旅団が塹壕に立て籠もるオーストリア軍のファエード守備隊と激しく交戦しているのを見て、支援のために2個大隊を派遣した。
その後、ファエードの塹壕はフランス軍が占領した。
オーストリア軍は峡谷の後ろに集結し、その端ではモニエ将軍が戦闘を行っていた。
そしてバラグアイ・ディリエール師団の一部はファエードに進出し、オーストリア軍が集結している渓谷で1個大隊を攻撃して捕虜とした。
チェンブラでの戦闘
ジュベールがヴォー将軍率いる強力な縦隊でチェンブラに迫ったとき、背後にベリヤード旅団が現れた。
この時、レクツェニー中佐率いる1個大隊がチェンブラの防衛に当たっていた。
突然の包囲に驚き、退却が不可能だと気付くと降伏し、捕虜となった。
これらの出来事は、前哨基地の警備の不備を突いたものであり、フランス軍は目標地点の後方へ迂回し、攻撃が始まると完全に包囲したのである。
この朝の短い小規模な戦闘はすでに1日の運命を決定付けていた。
サロルノやサン・ミケーレにこれらの敗北の情報をもたらしたのはほんの数人の敗残兵だけだった。
フランス軍は戦闘も妨害も無く、山を越えてサロルノへ行進した。
ケルペン将軍による反撃命令
20日午前、チェンブラで発生した敗北の情報がサロルノに届いたとき、ケルペン中将はラウドン将軍にデゲルマン中佐の部隊とともにカルダーロ(Caldaro)に撤退するよう命令を送った。
フランス軍の縦隊がちょうどサロルノに入ろうとしていたとき、ラウドン将軍とデゲルマン中佐が先のケルペン中将の命令を実行しサロルノから見てアディジェ川の対岸に位置するロヴェレ・デッラ・ルーナ(Roveré della Luna)に到着した。
◎ケルペン中将による反撃命令
ケルペン中将はフランス軍に対抗してサロルノを守るための力があると考え、ラウドン旅団とビカソヴィッチ旅団に前進してフランス軍を撃退するよう命じた。
ラウドン将軍はデゲルマン中佐とともにメッツォコロナを経由するルートでスポルマッジョーレに向かって前進し、ビカソヴィッチ将軍は、イェラチッチ(Jellachich)少将率いる9個中隊とラターマン少将率いる1個大隊でフランス軍に対して前進した。
しかし、ラウドン旅団は前進できたが、ビカソヴィッチ旅団は圧倒的な兵力差により撃退された。
ビカソヴィッチは分散させていた分遣隊と切り離され、統合を諦めて撤退しなければならなかった。
フランス軍はすぐにサロルノを見下ろすことのできる高地を占領し、そこから一斉射撃によって市場の隙間を一掃した。
そのためケルペン中将は、サロルノを明け渡すことを余儀なくされ、予備軍と左翼の残党を率いてノイマルクトに後退した。
これらの部隊は大きな損害を出していた。
左翼を指揮していたエリン大佐は戦死し、指揮下の大隊も壊滅しており、サロルノは一掃された。
この日のオーストリア軍の死者、負傷者、行方不明者の合計は3,584人であり、そのうち5人が参謀将校、78人が上級士官だった。そして軍旗2旈と大砲2門が奪われたと言われている。
チロル州兵も士官2人と数人の兵士が死亡した。
ベルガ大尉の夜間行
20日の戦いで散り散りとなり本体と切り離されたビカソヴィッチ旅団の士官9人を含む約50人兵士達は集結して2個小隊を形成し、それらをベルガ(Berga)大尉が率いた。
ガスヴェンダ(Gavenda)中尉が率いる20人の小隊が前衛となり、本体と合流するためにノイマルクトを目指した。
途中、200人が駐屯している3つのフランス部隊の野営地を発見した。
ベルガ中隊は順番に攻撃し、フランス部隊を敗走に追いやった。
フランス部隊は散り散りとなって逃亡した。
ジュベールはこのベルガ大尉の行動が大規模なものであると誤解し、この日に行うべき命令を保留したため、それ以上の前進を停止させた。
21日の朝、ベルガ中隊はノイマルクトの宿営地に到着し、大胆な勇敢さの証人として、ベルガ中隊の4倍、すなわち17人の士官と 180人の兵士を捕虜として連れてきたと言われている。
ジュベール将軍による分断とケルペン師団のブレッサノネへの後退準備
3月21日、ジュベールはサロルノで3個師団を統合し、カヴァレーゼからノイマルクトへの道に到達するためにカプリアーナ(Capriana)に旅団を送り、アヴィーシオ川上流に未だ駐屯しているカヴァレーゼとプレダッツォのオーストリア大隊をチロル軍本体から切り離した。
ケルペン中将は、カヴァレーゼとプレダッツォの2個大隊を呼び寄せ、ラウドン将軍はポンテ・ディ・レーニョとモルベーノに前進した歩哨を集結させ本体と合流させようとしていた。
ケルペン中将はカヴァレーゼとプレダッツォの2個大隊と合流するため、ノイマルクトからわずか1時間ほどしか離れていないオーラ(Ora)に後退した。
※カヴァレーゼからオーラには峡谷を通る直通道路がある。
しかしボルッツァーノまでは渓谷の幅が広く、すでに兵力が大幅に削がれた状態ではアディジェ渓谷を維持する力は無かった。
そのためケルペンは狭いエイサック渓谷に入りブレッサノネにできる限り早く後退することを計画した。
◎チロル軍のブレッサノネへの後退計画
この計画は、防御に関して大きな利点があるだけでなく、インスブルックへの道とフィラハへ続くプステリア渓谷への道の両方をカバーするものでもあった。
21日の夜、ラウドン将軍はメッツォコロナで自旅団とデゲルマン中佐の部隊を集結させ、カルダーロ経由でボルツァーノ(Bolzano)とブレッサノネに向かうよう命令を受けた。
そして、フィンスターミュンツ峠(Finstermünzpass)をカバーするために1個大隊だけを派遣することになっていた。
カヴァレーゼとプレダッツォの最左翼に配置されているいる2個大隊も、ボルッツァーノに向かっているケルペン師団本体との合流を急ぐように命じられた。
病院、弾薬、その他オーストリア軍の物資はブレッサノネに運ばれた。
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