レオーベンへの道 33:ナポレオンからカール大公への休戦の提案と後方での危機
Road to Leoben 33
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
ナポレオンからカール大公への休戦の提案
◎ナポレオンの置かれている状況
1797年3月31日午後、ザンクト・ファイトとグルク川の中間で道の両側を進むフランス軍の列が停止した。
ボナパルトはザンクト・ファイトに本部を移さずクラーゲンフルトに留まっており、ポーランド軍からフランス軍に移籍してきたザイェンチェク(Józef Zajączek)少将率いる竜騎兵隊をシュピタルに送ってドラヴァ渓谷をリーエンツ方向に偵察し、ブレッサノネからすでに接近しているであろうジュベール将軍との連絡線を開こうとした。
そしてこの日、ボナパルトはフランス軍の置かれた状況と戦略的見地からカール大公に休戦に応じるよう書簡を送った。
この時、占領地や重要地点の防衛に兵力を割いているためクラーゲンフルトへ集結した部隊の兵力に不安があり、フランス軍の後方連絡線は伸びきり、チロルを進軍しているはずであるジュベール師団との距離も離れていた。
ザルツブルクには合計約15,000人(実際は約13,500人)とみられるライン方面からの増援の1つであるソマリヴァ旅団とスポーク師団が到着していると予想され、もしジュベール師団がフィラハ方面に向かっている場合、チロル州はがら空きとなり、ケルペン師団が攻勢を仕掛けてくる可能性があった。
そして、ボナパルト本体がオーストリア帝国内部に侵攻してヴェネツィアから距離が離れるとヴェネツィア共和国が策動を始めた。
そのためボナパルト本体がオーストリア帝国内部に侵入すればするほど危険は大きくなると予想された。
それに加えて、フランス軍は現地住民に憎まれていたため常に後方での住民反乱の恐れにさらされていた。
実際、ベルガモやサローの住民達が蜂起し、ガルダ湖周辺ではヴェネツィア軍とフランス軍の支配下にあるロンバルド軍やポーランド軍、ブレシア共和国軍などが対峙しており、後方の危険が高まっていた。(この時、ベルガモとサローでの反乱は知っていたが後方の部隊で対応可能と考えていたのだろう。)
しかもボナパルトがクラーゲンフルトから後退した場合、フランス軍の敗北と見た住民達が一斉に蜂起する可能性すらあった。
ライン方面から進軍するはずのサンブレ・エ・ムーズ軍とライン・モーゼル方面軍は未だわずかしか前進しておらず、ザルツブルクでジュベール師団と合流することも考えられなかった。
この時点でボナパルトは前進することも後退することも難しい状況にあった。
そのためカール大公に休戦に応じる書簡を送ったのである。
ナポレオンがカール大公に送った休戦を求める書簡の和訳
「オーストリア軍を指揮するカール皇太子へ。本部、クラーゲンフルト、初期V年11年 (1797年3月31日)。
総司令官(カール大公のこと)、勇敢な兵士たちは戦争を起こし、平和を望んでいます。
もう(戦争は)6年も続いたのではないでしょうか?
我々は十分な数の人を殺し、人類を悲しませるほどの悪を犯したのでしょうか!
(フランスは和平を)あらゆる方向から呼び掛けています。
フランス共和国に対して武器を取ったヨーロッパ(プロイセン王国、スペイン王国、サルディーニャ王国、ナポリ王国)は武器を放棄しました。
あなたの国は孤立したままですが、これまで以上に血が流れるでしょう。
この6回目の戦役(1回目:ロディ、2回目:カスティリオーネ、3回目:バッサーノ、4回目:アルコレ、5回目:リヴォリ)は不吉な前兆を告げています。
結果が何であれ、我々は敵と味方に分かれてさらに数千人を殺害することになるでしょう、そして憎しみに満ちた情熱であっても、すべてには終わりがあるので、我々は最終的に理解する必要に迫られるでしょう。
フランス共和国行政長官は、両国国民に壊滅的な影響を与えている戦争を終わらせたいという意向を皇帝陛下にお伝えしました。
イギリス政府がこれに介入し、(和平に)反対しました。
それではお互いを理解する希望はないのでしょうか?また戦争の悪とは無縁の国(イギリスのことを指していると考えられる)の利益や情熱のために、我々が互いの喉を切り裂き続ける必要があるのでしょうか?
総司令官、あなたは生まれながらに王位に非常に近く、何よりも閣僚や政府をしばしば動かすことのできる地位にいますが、全人類の恩人、そしてドイツの真の救世主の称号に値すると決意したのですか?
それを真に受けてはいけません。
総司令官、私がお伝えしたいのは、武力によってドイツを救うことは不可能だということです。
しかし、戦争の可能性があなたに有利になると仮定したとしても、ドイツは荒廃するでしょう。
総司令官、私としては、あなたに申し上げる光栄な申し入れ(休戦の提案)が一人の命を救うことができるのであれば、私は自分が受けるにふさわしい市民の栄冠をもっと誇りに思うでしょう。
軍事的成功から得られるのは悲しい栄光だけです。
どうか信じてください。
総司令官、私に対する尊敬の念と特別な配慮に敬意を表します。 ボナパルト」
カール大公の返答と新たな提案
3月31日夜~4月1日未明にかけて、スポーク将軍からの使者がカール大公の元に到着し、スポーク師団はカール大公の元に急速に近づいてきており、連絡線があと数時間で確立されることを報告した。
朝、カール大公はボナパルトからの休戦の提案に対する返答と新たな提案を副官に持たせボナパルトの元へ派遣した。
カール大公の返答は「自身に決定権は無く、決定権はオーストリア政府のみにある。」というものだった。
カール大公の副官である使者はそれに加えて4時間の休戦を提案した。
この時点でカール大公はフリーザッハでの防衛線を未だ構築できておらず、構築の開始すらほとんどできていなかった。
そのため、この4時間の休戦の提案は防衛態勢を整えるためか、もしくは何らかの策略のための時間稼ぎとしか考えられなかった。
ボナパルトはオーストリア軍への攻勢を再び開始するための準備を行なった。
サローでの衝突とブレシアの喪失
3月31日、サローにおいて両軍の全権が協定の起草に奔走していた時、突然多数の農民の縦隊が現れ、ファントゥッチの縦隊を攻撃した。
サローは中立的に振る舞っていたが、農民が攻撃したことにより今後は戦い抜く必要があり、その後、ポーランド軍ドンブロフスキー率いる100名を捕らえた。
フランス軍とファントゥッチ率いるロンバルド軍大隊はブレシアへ撤退した。
サローの山の民衆達はさらに「フランス人に死を、ジャコバン派に死を!」と叫び、フランスの勢力圏にも進出した。
キルメイン将軍はサローでの事件の知らせを受けるとすぐに、ミラノのラホーズ(Lahoz)将軍にフランス軍、チザルピーナ軍、ポーランド軍のすべての補給廠を回収するよう命じた。
その後、サローの民衆達はこの成功に勇気づけられてブレシアを砲撃し、ブレシアの約6㎞東に位置するサント・ユーフェミア(Sant'Eufemia)に野営した。
ナポレオンがカール大公に休戦を提案した時、後方では民衆達が蜂起しブレシアを攻撃していたのである。
ベルガモから始まった背後の危機は徐々に拡大していた。
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