レオーベンへの道 41:スポーク師団とソマリヴァ旅団のザルツブルクでの合流とグラーツ及びウィーンの状況
Road to Leoben 41
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
スポーク師団のザルツブルクへの到着とソマリヴァ旅団との合流
4月3日から4日にかけてスポーク師団所属の3つの縦隊がザルツブルクに到着した後、ソマリヴァ旅団と合流したスポーク師団の兵力は、いくつかの輜重隊を含み、多くの兵士が非武装となって従軍不能となり、その後に落伍兵が合流したことも考慮すると、193個大隊、約12,000人となっていた。
◎スポーク師団のザルツブルク周辺での配置
スポーク将軍は、ルーエクとアプテナウ、そしてヴェルフェンの堅固な城をジュラ自由軍の12個中隊に占領させ、シェアーズ大佐を3個大隊とともに後衛としてラートシュタットの前に残した。
そして師団の残りをザルツブルクとその周辺に集中させた。
グラーツ方面の状況
4月4日、ゼッケンドルフ将軍はブルック・アン・デア・ムールでカール大公本体と合流するよう命令する書簡を受け取り、5日にはマリボルを出発してグラーツ経由での行進を開始した。
シュタイアーマルク州の総司令官であるヴェンツェル・コロレド伯爵は、カール大公の命令通り、元マントヴァ駐屯軍所属の部隊とすべての連隊、輜重隊を率いてすでにグラーツを出発していた。
軍事誌や博物誌なども持ち運ばれ、4個中隊を率いるミンクウィッツ(Minkwitz)将軍のみを残した。
ミンクウィッツ将軍はフランス軍がグラーツの街に接近した段階でレオーベン方面への道へと続くウィーン通りまで退却するよう命じられた。
そして街からすべての武器を没収し、道を破壊し、森を荒らし、フランス軍の前進を少しでも阻むために障害物を設置した。
さらに、コーヒー豆、資料館の重要資料、教会の銀器を適時に安全な場所に移動し、フランス軍が接近した場合には武器を携行できる若者を動員するよう命じられ、その内の一部は予備師団である内オーストリア連隊に配属され、一部は塹壕作業を行うこととなった。
※当時、コーヒー豆や銀器は高価であったためフランス軍に略奪されるのは目に見えており、資金源とされないために安全な場所に移動されている。
すべての馬と牛の群れは、フリードベルク(Friedberg)、ハルトベルク(Hartberg)、マリアツェル(Mariazell)などの近くのニーダーエスターライヒ州境の森に連れて行かれ、シュタイアーマルク州から避難する農民を部分的に先導し、部分的に支援するために使用された。
ナポレオン軍接近にともなうウィーンの防衛体制とプラハへの逃亡計画
4月4日時点で、フランス軍の先頭師団(マッセナ師団)はウンツマルクトを占領しており、ウィーンまでおよそ210㎞(約8日)の距離だった。
そのためウィーン政府は慌ただしくあらゆる防衛準備に取り掛かった。
◎1797年のウィーン都市計画図
工兵総監のラウアー(Lauer)中将は、要塞化に適したすべての地点を訪れ塹壕の建設を命じた。
ウィーン政府は首都、そして州全体の他のすべての都市の健常者を動員して武装させた。
そしてヴュルテンベルク(Würtemberg)公フェルディナント(Ferdinand)が総司令官となった。
※ヴェルテンベルク公フェルディナントは中将であり、1796年6月4日に行なわれたライン方面の「アルテンキルヒェン(Altenkirchen)の戦い」でクレベール率いるサンブレ・エ・ムーズ軍に敗北しカール大公に更迭された人物である。「アルテンキルヒェンの戦い」には、将来のナポレオンの元帥となるルフェーブル、スールト、ネイの3将軍が参戦しており重要な役割を果たしていた。
多くの大隊がさまざまな階級から編成され、そして退役士官が武器の使用と野外訓練を指導した。
首都ウィーンの建造物はできるだけ早く修復され、防御状態に置かれた。
ウィーンベルク(Wienerberge)の高地とレオポルトシュタット(Leopoldstädter)島には、少なくともしばらくの間フランス軍の前進を阻止するために塹壕線が敷かれた。
ウィーンには必要な大砲と弾薬が供給され、歩兵20,000人、騎兵4,000騎が配置された。
レオポルトシュタットには歩兵4,000人、騎兵2,000騎が配置された。
これら兵士の約半数は武装民兵によって構成されていた。
残ってウィーンとニーダーエスターライヒ州の防衛を行う住民の生活を確保するために、戦いとは関係の無い者にはウィーンからの退去が命じられた。
そして必要な物資を調達して安全に運ぶために適切な予防措置が講じられ、実施された。
ウィーン政府は首都ウィーンが陥落した場合に備えて首都機能をプラハに移すための準備を行なった。
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