レオーベンへの道 16:ベルナドット師団によるパルマノヴァ要塞の占領とマッセナ師団のアルプスへの侵入
Road to Leoben 16

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

ベルナドット師団によるパルマノヴァ要塞の占領

 3月18日夜明け前、ベルナドット師団を先頭として3個師団がコルモール川からトッレ川に向かって前進した。

 フランス軍が接近していることを知ったホーエンツォレルン将軍はパルマノヴァ要塞を放棄してトッレ川を渡り、その背後でフランス軍の前進を少しでも遅延させるために防衛線を構築した。

◎ホーエンツォレルン旅団によるトッレ川への後退とフランス軍によるパルマノヴァ要塞の占領

 ベルナドットは障害なくパルマノヴァに入り、約30,000個のパンと100トン(1,000 quintal)の小麦粉を発見した。

 パルマノヴァ要塞の占領はフランス軍に優れた拠点を与えた。

 道を備えた9つの半月形の堡塁に覆われ、堀はトッレ運河を通じて自由に水で満たすことができるのである。

 砲兵司令官レスビナス将軍と工兵司令官シャセループ将軍は要塞を防衛状態にする命令を受け、認可官は2,000人の守備隊に40日間分の物資を供給するよう命じられた。

 そして活発な老将軍ギョーム少将はペスキエーラを離れてパルマノヴァで指揮を執り、第6半旅団が駐屯した。

 各前線への後方連絡線が日々拡大するにつれて、昨年オーストリア軍からフランス軍に転身したラオーズ(Lahoz)率いるロンバルド軍とドンブロフスキ(Jean-Henri Dombrowski)によって組織されたポーランド軍がアディジェ川とピアーヴェ川の間に広がり、ヴィクトール将軍はトレヴィーゾで自師団約6,500人とロンバルド軍及びポーランド軍を統合するために、密かに教皇領から大隊ごと撤退するよう命じられた。

トッレ川での対峙とマッセナ師団のアルプスへの侵入

 ベルナドットは前進を続け、騎兵隊がトッレ川に到達すると、両岸で小さな戦闘が行われた。

 その間にベルナドット師団はヴィスコ(Visco)に布陣した。

 右翼のセリュリエはクラウリオ(Crauglio)の近くに野営し、左翼のギウはノガレードに駐留し、フランス軍の列はトッレ川を遡りフリウーリの平野に接する山々まで広がった。

 これらの内の第24猟騎兵連隊ラサール隊長は、ジェモナのマッセナとの連絡を確立するためにウディネに向かった。

 この時期トッレ川の川床は乾いており、騎兵隊が自由に動けないほどの茂みが生い茂っていた。

 ホーエンツォレルン将軍率いるオーストリア軍の後衛は、その不利な地形と兵力差によりトッレ川での戦いを受け入れることはできない状況だった。

 しかしフランス軍は周辺の制圧、マッセナ師団との連絡線の確立、後方警備や兵站の手配、パルマノヴァ要塞での侵攻準備や再編成などのため、この日は本格的な前進をすることは無かった。

 その間ホーエンツォレルン将軍もトッレ川の防御地点から動くことは無かった。

 3月18日夕方5時、ボーモント将軍が3個大隊を率いてサン・ヴィートを出発し、ヴェルサに向かって前進した。

 しかしオーストリアの軽騎兵隊によって撃退され、ボーモントはサン・ヴィートへ戻った。

 この時の戦闘で捕らえた捕虜から、フランスの総司令官がパルマノヴァに到着しており、翌日に攻勢が開始されることを知った。

 ホーエンツォレルン将軍は急いでカール大公にこのことを報告した。

 その結果、18日の夜、前日に伝えた計画に従って、イゾンツォ川の後ろへの後退を開始するように各部隊に命令が出された。

◎マッセナ師団のアルプスへの侵入

 一方、マッセナは、タリアメント渓谷の出口にあるオソッポとジェモナまで前進し、そこからタリアメント渓谷に前衛を進めた。

 山を越えたこの行進は、オーストリア軍の右側面を獲得することを目的としており、これらの2つの地点の占領により、マッセナ師団はフェラ(Fella)渓谷に入ることができ、そこから3、4日でフィラハに到達することができるのである。

ブレシア共和国の樹立

 1797年3月17日、ブレシアにおけるヴェネツィア共和国の反乱組織からの要請によりトランスパダーナ共和国から部隊が派遣された。

 この反乱組織は元オーストリア軍大尉であり革命思想に感化されたジュゼッペ・レキ(Giuseppe Lechi)によって組織されたものだった。

 トランスパダーナ共和国からの部隊は18日の朝にサン・ジョバンニ門前に到着し、大砲を並べてブレシアを威圧した。

 そして反乱組織はトランスパダーナ共和国軍の武力を背景として議会に乗り込み暫定政府を樹立した。

 しかし武力が背景にあるとは言え反乱組織は約40人と少なかったため、この時点では暫定政府の立場は不安定なものだった。

 ベルガモに続きブレシアが反乱勢力に占領されるのを見たヴェネツィア軍はサローを武装し防御を固めた。

 特権長官フランチェスコ・バッタジアは秩序を回復するために、公共の秩序を乱すあらゆる行為に対して大赦を与えていたが、自分の住んでいるブレシアでの事件に直面し、ヴェローナへ逃れ、事態をヴェネツィア政府に報告した。